第1話 赤い爪と蟹の匂い

「夏くんは湯葉ゆばって食べたことある?」


 青山が僕にたずねた。青山は赤いマニキュアを足の指に塗っていた。


「いいえ」

「わたしこないだ湯葉をね、3パック買ったんだよ。それからマックに並んでナゲットの大きい箱買って、他に何か期限限定のドリンクも買ったかな? それから自転車に乗って家へ帰った。家ではわたし一人なんだよ、スタジオではいろんな人がいるけど。で、湯葉とナゲットを一気に食べた。津田にあんまり食べ過ぎないようにいつも言われてるけど、わたし顔は太んないから」

「すごい組み合わせですね」

「ん? そうね」


 青山は手を止めると、僕を見てにっこりと微笑んだ。満足が顔に現れていると思った。


「そういうバカみたいな食べ合わせがすき。羽目はめを外してる感じがするから」


 青山はまたしゃべり始め、僕はマニキュアの刷毛はけがしなり、爪の上を滑っていくのをじっと見ていた。おもしろかった。


「わたしね、川でかにを採ったの。手が砂だらけになった。爪のあいだに砂が入り込んで、蟹の匂いも消えなくて嫌だった。夏くんは、蟹に触ったことある?」


「いいえ」と答え、何だか暗くなってきたと思って窓の外を見ると、巨大な入道雲がいくつも出現していた。


「そのあと自転車でマツキヨに行ってね、蟹の匂いのする手であれこれ見て回るの。ほら、仕事でメイクするのに使ってみたいやつが見つかるかもでしょ? 津田に見せて、いいって言われたら、それを使うの。ほら、このネイルもマツキヨで買ったの。夏くんにも塗ってあげる。ほら、手ぇ出してごらん」


 僕は言われるままに右手を出した。女は立てた自分の膝の上に俺の手をのせ、指をつまんだ。ブラシが濃い朱色の面積を増やしていくのを、またぼんやりと見ていた。アセトンの匂いは妙に安心する。蟹の匂いはしない。


 ばらばらと音を立てて雨が降ってきた。あたりは暗くなっていた。


「そっちの手もかしてごらん」


 僕は左手を青山に預けたまま、テーブルに乗っていたガラスコップに手を伸ばして麦茶を飲んだ。


「雨やね・・・・・・。ね、これ塗り終わったら、ご飯食べに行かへん?」


 と、青山は珍しく関西弁で、これは機嫌のいいしるしだった。いいことがあった後の青山はとても磊落らいらくで、僕をあちこち連れ歩く。もうずっと前からそうだ。そして僕はといえば、そんなそう状態の青山に振り回されることがわかっていながら、いつもついて行く。


とうとう、僕の両方の爪に、赤いマニキュアがきれいに塗られてしまった。


「手ぇ、ひらひらさせとったらいいわ。乾くまで」


青山は笑った。それから、そうだ、シンガポール風チリクラブってやつを食べよう、と言い出した。その日はきっと蟹の気分だったんだろう。


「蟹はこうやって食べるの」と青山はあれこれ僕の世話を焼き、僕は何とか自分で蟹の身をせせって食えるようになった。


「あたしら、爪も赤いし、ソースも赤いし、きれいやね!」


青山も手をベタベタにし、至極しごく、機嫌がよく、何杯もビールを飲んだ。


それにしても・・・・・・。僕はいつも人にひっぱりまわされてばかりだ。むしろ、自分からそう望んでいるのかもしれない。ずっと前からそうだった・・・・・・。時折との仲だってそうだった。

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