第5話

 

  前は、新聞も購読していたし、しょっちゅう週刊誌も買って読んでいましたが、ネットが進歩して、そういう”情報”は、だいたいロハ、フリーが当然という感覚になってきた。

 NHKでも、自局の宣伝とか、公共性の高いクオリティやら芸術性の高い広告を増やすことで、受信料を撤廃すれば、却って好感を持たれるような気もする。

 (社会的なところは弱点というか、未熟なので、あんまり生半可は言わんほうがいいですかな?)

 が、例えば、趣旨の曖昧な、物品税?とかがなしくずしに存続しているようなアンシャンレジームというのかは「君子豹変」ではないが、変化に即応して、アナクロな感じのするところはどんどんmodifyしていったほうがいいとも思う…


 時代の変化というのは、適応していかざるを得ないのは当然ですが、メディアに四六時中接触している現代人は、商業主義とかの偏向メディアに影響されて、往々にしていろんな錯誤、錯覚に陥って、かつ気が付かないという、(自分のことですが?)結局、なんだか愚の骨頂にひとりでおらされるというようなことになってしまう。

 邪悪なナニカが、悪意で大衆、社会を情報操作しようとするとあっけなくいいなりにされてしまうという、それが現代の赤裸々な現実だろうか…


 で、そういう情報のジャングルというか、を、メディアリテラシーを振り絞って?だまされずに探検できる智慧さえあれば、非常に豊饒な面白い状況と、そうも思えるのです。とにかくボクでも、子供のころみたいな半原始社会?にいては、そもそもなんのドラマも生じようがない。


 現状を肯定して、適応して、ダーウィニズムではないが、サバイバルしなくては…「強いものでなく、適応できた存在」こそが、文明や科学の恩恵を享受しうるのだ。


  で、自分の癖として、「今、ここ」に普通にフォーカスして発想するのが苦手で、ずっと状況に不適応になっているからそうなったかとも思うが、ついスタティックな、「どうせ頑張ってもオレなんか」と、ショージ君の漫画のような、クライ現実逃避をしがちです。


 もっと具体的に言うと、どこかにあらかじめ理想の雛型というのか、「ありうべきシナリオ」を措定して、それをなぞっていく作業が生きるということだとか錯覚している。自分は阿呆だから、自分では何も考えないほうがマシ、下手な考え休むに似たり、そう骨の髄までMCされてしまっている。いつのころからかに、もう終戦が来てしまっていて、白旗を掲げさせられてしまっていて、将棋でも日ごろのルーチンでもそうだが、今は「定跡」さえ知らない未分化な「煉獄さなぎ」状態で、世を忍ぶ仮の姿で…みたいにひたすら頬かむりしているのです。

 

 こういうことは、ひきこもっている、いた人にとっては共通の感覚、よくスキゾフレニアとかうつ病の人の主観の、なんだか味気ない、灰色の、荒廃した状態の単なるパラフレーズだとは思う。だから、今はヨガとかしているしかないのだ。


 大山名人が、高柳なんたらいう人に弟子入りした際に、将棋はマッタク教わらずに、ただ「心と体の姿勢を正せ」とだけ教わったという。


 非常に含蓄の深い逸話と思う…たかが将棋と侮るなかれ、されど将棋と刮目せよ、である。

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