第2話

 誰にも誹謗中傷で訴えられたことは言っていなかったが、これでは隠しようがない。内海はネクタイを巻きながら家に帰った。

「あんた何それ、ふざけてんの」

 妻の由香子が棘のある声で言った。

「酔っぱらったんだ」

 由香子が眉間にしわを寄せながら近づいてきてネクタイを一気に解いた。

「あんた、いよいよ……、紗枝っ」

 紗枝は気だるそうに来たが内海の額を見た瞬間、目を見開いた。

「このくそ親父……、薄毛でデブだったらまだ無視するだけでよかったのに」

「親になんてこと言うんだ!」

 内海は紗枝の頬に平手打ちを食らわせた。

「人じゃなくなったお前なんか親でも何でもねえよ」

「紗枝の言う通りっ、あんたと結婚したことが私の人生の一番の汚点だよ、早く出ていけ」

「俺が家賃払ってんだぞ」

「半分は私でしょうがっ。紗枝、包丁取ってきな」

 紗枝は立ち上がってキッチンから包丁を取り出して、内海に向けている。

「人非人を殺しても何の罪もないんだから、わかってる? これが最後。ここから出ていけ」

 内海は歯ぎしりし、絶叫しながら玄関のドアを出ていった。内海の額を見た人々の目線を集めていく。その表情は次々に嘲笑う顔に代わっていった。内海はそんなこと気にもならず、由香子と付き合い始めた頃や新婚生活、紗枝の幼かった頃が次々に思い浮かんだ。

「くそ、くそくそくそくそっ。なんでこうなっちまったんだ」

 頭を掻きむしった勢いで額に爪を当てると熱い痛みが襲った。家族を大事にしてきたはずなのになぜ家族に疎まれなければいけないんだ。

 由香子と紗枝に少しでも豊かな生活をさせるために仕事に精を出した。おかげで同期の中で部長についたのは早い方だった。しかし、その頃には由香子も紗枝もまともに話してくれなくなった。あるとき由香子がこぼしたのは「紗枝が手がかかる頃もあんたは仕事ばっかりで全然家事も育児もしてくれなかった」と言うことだった。それが十年以上経っても恨みが継続していたとは思いもしなかった。

 公園のベンチに座り込み、両手で顔を追って俯いた。人権をはく奪された今、どうやって生きていけばいいんだ。金はないし、職もない。額に人非人と彫られた以上、新たな仕事につくことも絶望的だった。

「おっ、いたぞ、あいつだ。人非人っ」

 見上げると五、六人の若者がまとまってじりじりと近づいてきた。

「おっさん、人非人だろ、ちょうど誰か殺したくなったもんだから、お前で対処してやるよ」

 内海はすぐに立ち上がって駆け出した。しかし、もう体力が残っておらず平坦な道に転んでしまい、囲まれてしまった。立ち上がる間もなく四方八方から蹴りが飛んでくる。

「こらあっ、何してんだっ」

声の方に顔を向けるとパトカーから警察官が頭を覗かせていた。

「ああ、人非人か、ならいい」

そう呟いてすぐに窓を閉じた。男たちが怯んでいるうちに痛みをこらえて立ち上がり、再び駆けだした。建物と建物の間の狭い路地に置かれていたボミ箱の背後に隠れていると、若者たちはそのまま通り過ぎていった。

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