第6話 J
狂騒の夜が明けて、翌日。
元いた部屋に戻ったテオの元を、J氏が訪れた。
テオはベッドに、J氏は椅子に、以前の通りに腰掛けたまましばらくの時間が過ぎた。壁掛け時計の針の音と、窓の外の鳥の声だけが二人の間に流れていた。
「あの」
先に口を開いたのは、テオだった。
「どうして僕を、買ったんですか?」
J氏はすぐには答えなかった。右目に嵌め込んだ
「今ほど、オスカーの饒舌さを羨ましく思ったことはない」
不思議そうに首を傾げるテオに、J氏は改めて向き直った。
「テオ。お前のその歌声は、お前だけのものだ。商品じゃない、才能だ。そうあるべきだと思った」
テオは丸い目を更に丸く見開いた。これまで歌だけは褒めてもらえた。金になると言ってもらえた。生きるため、食べるために歌ってきた。
「僕だけの、もの……?」
「そうだ。お前の歌いたい歌を歌えばいい」
「わからない……僕、そんなのしたことが無いもの」
「これからわかる。お前は自由になったのだから」
J氏にそう言われて、テオの中には今まで感じたことのない喜びと不安が渦巻いた。知らずJ氏に縋り付こうとした手を、やんわりと拒まれる。
「お前は、こっちに来てはいけない」
ハッとして手を引っ込めたテオよりも、J氏のほうが苦しげな表情をしていた。
「さっき言ったことは本当だ。けれど昨夜の歌は、私の欲までも引きずり出してしまった」
「……言ってください、旦那様。僕は───」
「駄目だ。それを私が言うのはあまりに卑怯だ。折角明るい世界に出られるのだから、振り向いてはいけない」
「そんな、旦那様、勝手です!」
テオは思わず叫んでいた。今度はJ氏の方がその暗い目を見開いた。
「拾ってくださったのも、売り出してくださったのも、買ってくださったのも、旦那様です。僕、自由なんて知らない。知らないけど、僕が今歌いたい歌は、あなたのための歌なんです。だからお願いです。教えてください、旦那様のこと」
それはきっと、テオの初めての我儘だった。少なくともJ氏はそう思った。
「それならまず、薄っぺらな昔話をしなければならない」
だからJ氏は顔を歪めて、自らを語り始めた。
J氏は、明るい道を通ったことのない人生だった。
J氏は都会のスラムに生まれた。母親は彼が物心つく頃に病で死に、父親はわからなかった。同じような境遇の孤児たちと一緒に育ち、盗みを覚えるまではよくある話。とはいえ、彼はその頃から手先はあまり器用でなく、頭を使う方が得意だった。そこで彼は、逃げ道や盗品の捌き方を考える参謀として働くようになり、少年たちが盗賊団として名を馳せるまでそう時間はかからなかった。
逃げ足と根回し、それこそが彼の秘訣だった。盗賊団は次々と成果をあげた。金持ちの屋敷の立ち並ぶ町で標的には困らなかったし、彼の考えたルートは完璧だった。その頃から「J」のつく偽名を使っていたので、仲間内やその筋からはそのまま「J」と呼ばれた。何故「J」だったのかといえば、きっと元の名前にも「J」が付いていたのだろうと推測はできるが、定かではない。それはもはや、沢山の「J」に埋もれてしまっていた。
けれども終わりは突然だった。極めて些細な出来事だった。
なんの事はない、報酬の取り分で揉めていた。危険な役をやったんだから多くて然るべきだ、そんならこの間の自分の方がやばかった、などと、至極ありふれた喧嘩が起こり、酒の勢いや暇つぶしだとばかりにその輪が広がっていく。何度も繰り返されてきたこの乱痴気騒ぎに、彼は遂に嫌気が差したのだった。
逃げ足と根回し、それはここでも大いに役に立った。自らの取り分をしっかり頂戴してから、彼は盗賊団との縁をぷつりと切った。かつての仲間を売るようなことはしなかったが、自分が追われることの無いよう、然るべき相手に賄賂を渡しておいたし、足のつかない拠点を別に作ってあった。
一人きりになったJ氏は考えた。これから何をしていこうか。事業を立ち上げても良いが、表に出たくはない。そもそも真っ当であったことが無いので、普通に稼いでいける気もしない。“裏”や“下”で平和に暮らしたいものだ。
そんな時に、J氏はオスカーと出会った。
「類は友を呼ぶ、と言うが、他にも同類に出くわすことは多かったし、見ればすぐそれとわかった。厄介者が溢れて牢が足りないと言う警察にも、そういうワケアリに目を付ける物好きな貴族にも、心当たりがあった。そこで思い付いたのが、競売会だ。私にとっては盗品を捌くマーケットとさして変わりはなかった」
だが、とJ氏は窓の外に目をやった。
「そうすることで私自身のことも物として扱っていた。それが何も考えずにいられて楽だった。そういうところは少し、テオと似ているのかもしれない。けれどお前の歌は……特に昨夜の歌は、私に人としての欲を思い出させた」
J氏は頭を横に振りながら、両手で顔を覆った。
「お前が他の誰かの手に渡るのが耐えられなかった。私の手で解放したかった。それでも私のために歌ってほしい、自由になったお前に私を選んでほしい、そんなことまで考えて、入札せずにはいられなかった」
そこまで言って、J氏は自嘲するように低く笑った。
「ほら、私の立場からこんなことを言うのは卑怯だろう。だから今聞いたことは、忘れるんだ。その内ちゃんと病院か、寄宿学校に繋ぐから、それまでに───」
「旦那様、僕の目を見て」
俯いたJ氏の顔に、テオがそっと触れる。青空の色をした瞳が、J氏にはあまりにも眩しい。
「僕は、旦那様の元を離れたいと言いましたか?」
「……いや、しかし」
「旦那様は願いを聞かせてくださいました。どうか僕の願いも言わせてください」
答えないまま見つめ返すJ氏に、テオは柔らかく微笑んだ。
「僕の歌を聞いてくださる時の旦那様のお顔が好きです。僕を求めてくださっているのがわかるから。旦那様のために歌うのが、僕の幸せなんです。あなたに罪があっても構わない。どうかこれからも、旦那様のために歌わせてください」
「……きっといつか後悔する」
「僕の心を決めないで。僕は自由、なんでしょう?」
黙り込んだJ氏の頰に、テオはそっと口付けた。驚いたJ氏の表情を見ながら、テオはクスクスと楽しそうに笑う。
「旦那様、僕は案外、欲張りなのかもしれません」
そこへコンコンと、軽いノック音が響いた。扉が開くと、呆れたような顔のオスカーが立っていた。
「お食事の時間はとうに過ぎてますよ、お二人とも。料理が冷めます」
「だから、俺は、言ったじゃありませんか」
料理をつつきながら、オスカーは引き攣った笑顔でJ氏に言う。J氏はだんまりを決め込み、テオはその隣でおろおろと二人の顔を見比べるばかり。
「良かったですねぇ、仮面がドレスコードで。良かったですねぇ、正体が割れてなくて。良かったですねぇ、俺が
オスカーは爛れた方の顔が見えるのも構わず髪を掻きあげた。
「オスカー、あの、ごめんなさい」
「テオは良いんだよ、謝らなくて。あんまり旦那を甘やかしちゃいけない。これからは特にね」
「これから……」
その言葉の響きが、テオには新鮮だった。「これから」があるのだという実感が、まだあまり無い。
「そう、これから。大変だよ、旦那の世話は」
J氏は黙り込んだまま、ローストポテトを口に運んだ。仄かにローズマリーの香りがした。
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