第5話 落札
その競売会は、深夜のオペラハウスで催された。
いつも通り、J氏の選んだ人間だけが招かれ、客席にはいくつもの仮面が並んだ。オスカーが声を張り上げ、一人、また一人と“商品”が落札されていく。
そして遂に、テオの番がやってきた。
見せ物になるのは、慣れていた。
だから舞台に下着姿で出てくれと言われても、テオは何も感じなかった。自分の姿を見て息を呑む者、もっとよく見ようと立ち上がる者、仮面の下で笑う者、反応は様々だがサーカスで見た景色とそう変わりはない。
オスカーは打ち合わせ通りの口上を述べる。その華やかな声音で語られる自らの生い立ちは、改めて聞いてみると随分な目に合っているが、テオにはそれが自分のことだという実感が無かった。
用意していた尾ひれを、舞台上で履く。革の生地の内側には糊を塗っていて、それを肌に貼り付ける。その少しむず痒い感覚が、もはや懐かしかった。
一世一代の大舞台。
自分の商品価値がうんと高まりますように。そして、あの優しい旦那様に少しでもお返しができますように。きっと客席のどこかにいる旦那様にも、この声が届きますように。
テオは思い出の鱗に力を借りるように尾ひれをひと撫でして、深く息を吸い込んだ。
歌うのはテオの一番得意な曲だ。
『舞い落ちた渡り鳥の羽根 拾い集めて
青い空は 遠いあこがれ
二度とは来ないあなたの顔を
ひと目 見に行きたいだけ』
つい先程まで高まっていた会場の熱を、テオの歌声は一瞬にして収めてしまった。その声に耳を傾けずにはいられない。それは閉じた扉を、隠した心を、容赦なく暴き優しく撫でていく。どこまでも深くに染み入っていく。
皆、舞台の上のテオから目を離すことができない。この場を忘れ、仮面を外そうとする者すらいた。
テオの声が最後の余韻まで消えてもまだ、オペラハウスはしんと静まり返ったままだった。誰かの嗚咽が漏れだすのと、拍手が鳴り始めるのとはほとんど同時で、そこからは皆が立ち上がって、惜しみない拍手をテオに送った。
テオは安堵したようにほうっと息を吐き、丁寧にお辞儀をした。大千秋楽もさながらの拍手だったが、テオは舞台から去るわけにもいかない。
「彼の素晴らしさが、よくお分かりいただけたことと思います。お間違いのないように、皆様。ここは演奏会ではなく競売会。彼をどこで歌わせるかは、皆様にかかっております。それでは参りましょう、1000ポンドからスタートです!」
オスカーの滑らかなテノールが会場の空気を引き戻す。この常識から外れた競売会の中でも更に常識外れな値段からの入札だったが、次々に手が上がり吊り上がっていく。
“商品”の相場も知らないテオは、自らについた値段の大きさに呆然としていたが、ただどうか、J氏が満足する値に落ち着くようにと祈っていた。
その間も入札は続く。1500、1800……2000。最後に残ったのはふくよかな紳士と派手に着飾った婦人だった。2100。2150。2200。
仮面の奥の目は両者ともギラつき、息も荒い。
「2250ポンド、紳士が上げられました! もう
手元の懐中時計をちらりと見やり、オスカーは秒数をカウントしながらその場を待つ。ギャラリーの緊張も限界が見えた。頃合いだ。仮面の下でぺろりと唇を舐め、象牙のハンマーを構えたその時、手が上がった。
その手のサインは、3000ポンド。
「……3000、3000ポンドが出ました! そちら細身の紳士です、上がりました。お二方いかがでしょうか、上げられますか、よろしいでしょうか。それでは……3000ポンドで落札です!」
ひときわ大きくハンマーがカン、と響く。
客席がどよめき、再び拍手に包まれる。最後まで競っていたふくよかな紳士は頭を抱え、婦人は天を仰ぎながら首を横に振っていた。その横を痩せぎすの紳士が通り過ぎ、舞台までテオを迎えに行く。
オスカーは汗に濡れた手で小切手を受け取った。そこには3000ポンドが確かに記されている。
痩せぎすの紳士はテオに向かって腰を折り、踊りに誘うかのように手を差し出した。おずおずと、テオが自らの手を重ねる。大きくて硬い、少し冷たい手。ハッとテオは紳士の顔を見上げた。その顔には仮面がつけられているが、その時テオにははっきりとわかった。オスカーはもっと前に気づいていた。
テオを落札したのは、J氏だった。
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