第4話 テオ

「最初に言っておかなくてはならないのは、我々は競売人オークショニアであって、君の永遠の主人では無い、ということだ」


 テオを屋敷に連れ帰ったJ氏は、彼に部屋をあてがった。今はテオをベッドに座らせ、自分は椅子に腰掛けて語っている。


「旦那の商売は、罪や傷を負った人間の取引。俺はその秘書ってところかな、名前はオスカー。テオはまぁその辺り、結構な例外なわけだけど」


 J氏のそばに控えていたオスカーが続ける。


「悪名高い救貧院よりはたぶん、きっと、おそらく、マシな結果になると思うよ」


 オスカーは競売参加者である癖の強い面々を思い浮かべながら、しかしなんとか笑顔を浮かべて言う。


「ありがとうございます。うんと高く売れるように、僕、がんばりますね」


 テオはそう言ってにこにこと微笑んだ。反対にオスカーは、真顔になってしまう。それからちらりとJ氏の顔を窺ったが、その表情は読み取れなかった。




 次の競売会は、“商品”がある程度の数揃ってから。それまでテオは、J氏の屋敷に囲われていた。

 身の回りの世話は主にオスカーがやっていたが、J氏もしばしば様子を見に来るようになった。監視が必要になるような相手でもない限り、J氏が“商品”を気に掛けることはこれまで無かったのだが、いつからかテオは、まるでシェヘラザードのように、毎晩J氏に請われて歌うようになっていた。


「旦那様は、僕の歌がお好きですか?」


 或る晩、また一曲歌った後で、テオがおずおずと尋ねた。


「……その声に惹かれない者はいない」


 J氏がぼそりと答えると、テオは花開くように笑った。


「ありがとうございます! 団長は仕事以外で歌わせてくれなかったんです、惨めな気持ちになるからって……僕には歌しかないのに」


 へへ、とテオは苦笑して、思い出すように遠くを見る。


「仕事でも、僕が歌うと拍手もおひねりもたくさんもらえたけど、その後の演者が何やってもスベるから困るって、よくお仕置きされました。だから旦那様の前でこうして歌えて、僕、本当に嬉しいんです」


 そう言うテオの頭に、J氏は知らず触れていた。長く垂らしていた髪はオスカーに切らせて、少年らしい短さにまとまっていた。その巻き毛はふわりと柔らかくJ氏の指に絡む。自らの行為に戸惑っていたJ氏だが、やがてその手でぎこちなくテオを撫でた。

 テオは一瞬目を見開いたが、すぐにJ氏の手に頭を委ねた。その手は大きく硬かったが、確かに温かい。

 しばらくJ氏に頭をくしゃくしゃにされた後、テオはそっとJ氏の手を取って自分の頬へ導いた。


「旦那様、僕、本当に感謝しているから、僕で良かったら使ってくださって構いません」

「使う?」

「はい。団長に仕込まれましたから」


 テオはそう言うと、J氏の親指を口に含んだ。指の節に舌が絡みつき、唾液にまみれ、小さな唇が付け根からしごき、吸われる。じゅるり、と淫靡な音が響いて初めて、ハッとJ氏は手を引き戻した。唾液が細く長く糸を引く。


「……ごめんなさい、こんな僕ではお嫌ですよね」

「違う、いや、そうではなく」


 目を伏せるテオについ背を向けて、J氏は一度咳払いした。


「お前はそのままで良い。そんなことをしなくとも、良いんだ」


 テオはその背をきょとんと見つめ、まだその言葉を咀嚼しきれていない。そのままJ氏は足速に部屋を出ていってしまった。

 かと思うと、外からガラガラと音が近づいてきてテオの部屋の前で止まった。律儀なノック音はJ氏のものだ。どうぞ、というテオの小さな返事の後に扉が開くと、彼の目に入ってきたのは真新しい車椅子だった。


「旦那様、これは───」

「テオ、お前は罪人ではない。だから相応の自由があるべきだ。これを使って、屋敷内と庭までは出て構わない。それを伝えておく」


 J氏はそう言って、ベッド横に車椅子をぴったりと寄せた。

 テオは感極まった様子でJ氏にぎゅうと抱きついた。


「旦那様、ありがとうございます! だけど僕、何のお礼もできない……!」

「また、歌を聞かせてくれたら良い」

「はい、はい、何度でも!」


 テオは喜びの歌を歌い、それを聞くJ氏の顔には僅かに微笑みが浮かんでいた。

 そんな様子を扉の隙間からオスカーが覗き見て、やれやれと肩をすくめるのだった。



 車椅子を与えられたテオは、しばしば庭に出るようになった。一人のときもあれば、この日のようにオスカーに付き添われるときもある。通いの庭師によって木々は美しく刈り揃えられ、季節の花々が咲く。一際香りを放っているのは、ローズマリーの青い花だ。


「あの、オスカーさん」

「オスカーでいいったら」

「ええと、旦那様の本当の名前って、オスカーも知らないの?」

「ああ。何せ本人も忘れているからね。Jにこだわりがあるようだから、きっと本名にも含まれていたんだろうけれど」

「不便じゃない?」

「それが意外と大丈夫なんだ。招待状に書く偽名さえ決めて貰えれば、大抵なんとかなる」


「だから全部が現状維持になっちゃってるんだけど」とオスカーがひっそり呟く。


「俺もね、旦那には拾ってもらった恩があるんだ」

「オスカーも?」

「顔を台無しにされて行き場も無くした俺に、今の仕事をくれた。だからこそあの人を尊重して仕えてきたわけだけど……旦那に本当に必要だったのは、同類の俺じゃなくて、きっとテオなんだよ」

「オスカー、いったいなんの話……?」


 オスカーは困ったように微笑んで、テオの車椅子を押した。木枯らしが冬の訪れを告げていた。どこからか枯れ葉がテオの胸元に舞い落ちる。ふと見上げれば庭の隅に高く伸びた糸杉が立ち、その葉は落ちることなくいつまでも暗い緑を保っていた。


「俺はね、ここに来る“商品”と同じく罪人なんだ。そしてたぶん、旦那も。だけどテオ、君は違う」


 オスカーはくるりと身を翻して、テオの正面に回った。


「さて、俺は競売人オークショニアだ。“商品”について誰よりも知っていなくちゃいけない。テオ、君について教えてくれるかな?」



『彼の名はテオ。本物の人魚ではありません。その尾ひれは造り物、しかしその下に本当の足は……ありません。

 彼は片田舎の小さな漁村に生まれました。しかしある時、病にかかり、両足を付け根から切り落とすしかなくなりました。両親は働き手になれなくなった彼を疎み、サーカス団長をしていた男に売り渡します。

 テオは体力勝負の芸には向きませんでしたが、唯一無二の歌声がありました。そこでサーカスでは人魚を演じることになったわけです。その声はどんな人間の、ええ、こちらにお集まりの皆様の心も必ず震わせてみせるでしょう。

 サーカス団長はテオの歌声に魅入られて、彼を愛人にしました。様々に仕込まれていますので、その向きでもきっと存分にお楽しみいただけます。

 さてこの団長、テオの甘い汁を啜るだけ啜って、最後にはサーカスの売上を持ち逃げしてしまい、現在は行方不明。サーカスは解散。他に当てもなくということで、この度わたくしどもが引き受けました。

 さぁお待ちかね、哀しき偽りの人魚テオの歌声を、どうぞお聴きください!』


「───って感じで、どうです?」


 J氏の執務室。椅子に深く腰掛けて両手を組んだJ氏に、オスカーが競売会での口上を披露しているところだった。


「結構」


 J氏は短く言って一度うなずいた。それきり黙っているのをオスカーはじっと見つめ、耐え切れず口を開いた。


「ねぇ旦那、本当に良いんですか?」

「何がだ」

「本当にテオを出品するんですか?」


 オスカーの問いに、J氏は再び黙り込む。オスカーは片方だけの瞳で射抜くように見据えていた。J氏はその時ようやくオスカーの視線を正面から受け止めた。


「何か問題でも?」

「問題? 無いです、無いですとも。過去最高額で落札されることもあり得ると思ってます。だってテオは、これまでの“商品”とは違う」


 オスカーはJ氏に、指折り数えながら詰め寄った。


「第一に、テオは罪を犯してない。そこらの悪ガキがのけぞるほどの真っ白。第二に、テオは自分が“商品”だと自覚してる。し過ぎてる。おそらくここに来るよりもずっと前から。第三に、旦那、あんたが気に掛けてる。旦那があの子をどんな顔で見てるか、見せてやりたいですよ全く」

「……どんな顔をしているんだ、私は」


 嘆くように呟くJ氏に、オスカーは深い深い溜め息を返す。


「憐れみ、優しさ、それだけでも珍しいのに、憧れ、嫉妬まで混じってる。これはもう───」

「オスカー、わかった。」


 ぴんと張った声音が、それ以上言うなと拒んだ。オスカーは口をつぐむしかない。


「オスカーがそう言うなら、そうなんだろう。だがそれなら尚更、テオはここにいてはいけない」

「どうして」

「私の後ろ暗さで、テオを染めてしまう」

「……本当に、良いんですね」

「くどいぞ」

「わかりました」


 オスカーは競売会の招待客へ送る目録カタログの一番最後に、『偽りの人魚』と書き込んだ。

 競売会は、間もなくだ。


 

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