第3話 セイレーン

 目を見開いたオスカーが檻に掴み寄り、カシャンと冷たい金属音が鳴った。

 檻の中の“人魚”はその音で目を覚まし、小刻みに瞬く。その澄んだ青い瞳にJ氏たちがぼんやりと映った。


「警部さん、こんにちは。僕の行き先、見つかったんですか?」


 それは少し高めの少年の声だった。体を起こした拍子にブランケットが肩から落ちて、薄い胸が露わになる。“人魚”はその両腕でずるり、ずるりとレスター警部の方へ這い寄った。すると臍の下辺りから生えていた鱗が、いや、貼り付いていた皮のようなものがべろりとめくれて、その下の白い肌がのぞいた。

 思わず声を上げたのはオスカーだった。よく見てみれば鱗は革の生地に縫い付けてあり、それを少年の下半身に履かせていたのだった。


「偽の、人魚……」


 オスカーが呟くと、「ああ、そうだ」と自慢の髭をいじくりながら警部が言う。


「こいつは元々、けったいなサーカスの一員だった。歌う人魚としてな。だがつい先日、そのサーカスの団長が売り上げ全部持ってとんずらしちまった。探してみたがこの町を出た先はもうわからん。その結果、寄せ集めの旅一座だったサーカスは解散、こいつは置いてけぼりにされたってわけだ」


「仕方ないんです、僕、お荷物だったから。不器用で芸なんてできないのに、団長に買われて置いてもらっていたんです」


 その言葉にJ氏がぴくりと反応した。檻の前にしゃがみこみ、少年をじっと見据える。


「名前は?」

「テオです。あの、旦那様は僕を買ってくださるんですか?」

「……それを決めるところだよ。鱗を、脱いでもらえるかな」

「はい」


 テオと名乗った少年は素直に返事をすると、造り物の尾ひれをするりと脱いだ。

 そこに脚は無い。付け根から肉が少し突き出ているが、それだけだ。下腹部には下着の代わりに、白い布をのように巻きつけてあった。

 J氏が一瞬眉をひくつかせたことに、オスカーだけが気付いた。


「もう良い、ありがとう」


 J氏が言うと、テオはもぞもぞと尾ひれを履きなおした。


「罪も無いのに囚人服を着るのと、そのままでいるのとどっちがいいか、俺だって聞いたんだがな。尾ひれが大事なんだとよ」


 レスター警部は肩をすくめた。


「その、これはサーカスで、髭のねえさんたちが一つ一つ鱗を縫い付けて、僕のために作ってくれたものなんです……ね、きれいでしょう?」


 そう言ってテオは微笑み、自らの尾ひれをそっと撫でた。オスカーはその様子があんまり哀れで、思わず目を逸らした。


「この子には、罪が無いのだろう。それなのに何故私に声をかけた?」


 立ち上がりながらJ氏が言うと、「そうとも、真っ白だよ」とレスター警部が答える。


「だから鍵だってかけてないが、そう長くウチには置けない。そうなると救貧院に送るのがスジだが、あんなところに行くのとお前さんにやるのと、どっちがマシだと思う?」

「あなたがそんな気を回すことがあるなんて知りませんでしたよ、警部」


 オスカーがわざと軽い口調で言うが、警部は溜め息で応じた。


「こいつの歌のせいさ。それを聴いたらこの俺でもそんな気を起こしちまった……そうだ、一度聴いてみるといい。なぁ、テオ」


 警部が目配せすると、テオはぱちくりと瞬いた。


「いいんですか? この間はもう歌うなって……」

「ああ、この旦那に一番得意なのを歌ってやれ」


 テオはそう言われると嬉しそうに顔を輝かせ、「はい!」と高い声で返事をした。

 それから目を伏せ、左の腕で体を支え、右手を胸に当ててひと呼吸。すぅっと顔を上げて歌いはじめた。


『舞い落ちた渡り鳥の羽根 拾い集めて

 青い空は 遠いあこがれ

 二度とは来ないあなたの顔を

 ひと目 見に行きたいだけ』


 その声は柔らかくどこまでも透き通って、留置所の石の天井をなぞり、鉄の檻を震わせた。

 J氏はただじっとテオを見つめていた。薄明かりに照らされるその姿は人魚そのものだった。小さな唇から溢れる声は温かく、それでいて心の急所を突き刺すような切実さがある。胸を締め付けられるのにずっと聴いていたくなる。固く握りしめていた拳を開いてしまう。覆い隠していた全てを剥ぎ取ってしまう。それはいっそ魔性、人魚というよりはセイレーンの歌声だと、J氏は思った。

 テオが一曲歌い終わると、他の牢からはすすり泣く声が聞こえ、オスカーの頬にも数年ぶりに涙が伝っていた。警部は耐えるように目を閉じ、頭を抱えていた。

 J氏はその様子をぐるりと見渡して、鍵のかかっていない牢の扉を開いた。


「テオ、君のことは私が引き受けよう」


 そう言って、彼の尾ひれごとテオの体を抱え上げたのだった。

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