第2話 ワケアリたち

 J氏の本当の名を、誰も知らない。

 遠い昔から偽名を使い過ぎて、本人さえも忘れているからだ。


「旦那」


と、オスカーは彼を呼ぶ。

 町外れにある古ぼけた屋敷に、J氏はオスカーと共に住んでいる。二人の前にはいつもの朝食。柔らかく炒めた豆に、ベーコン、目玉焼き、そしてパン。オスカーは使用人ではなく、仕事上の相方という位置に収まっているので、こうしてJ氏と食卓を囲んでいる。顔の半分を長い髪で覆い隠して。


「どうした、オスカー」


 J氏は皿から顔を上げ、続きを促すようにオスカーに目を合わせた。


「実は今朝早く、レスター警部の使いが来まして」

「ほう」

「“が飛び込んできたから、なるべく早く来てほしい”とかで。俺だけ様子を見てきても良いですが、旦那はどうしますか」


 ふむ、とJ氏はナイフを置き、ナプキンで口元を拭いながらしばし考え込んだ。

 今、特別注意が必要な“商品”は屋敷にいない。他に急ぎの用も無いはずだった。


「いや、私も行こう。警部がそこまで言うなら興味がある」

「わかりました、じゃあ馬車を呼んでおきます」

「頼む」


 それからまた二、三、仕事の確認をして、それぞれ席を立った。オスカーが二人分の皿をキッチンへ片付ける。この屋敷に通いの料理人はいるが、彼らの秘密を守るために他の使用人はいない。代わりに、オスカーがJ氏の身の回りの世話をしている。執事というほどではないが、秘書の範囲は超えるくらいに。オスカーはそんな生活にすっかり馴染んでいたが、ときどき不思議にも思う。J氏に拾われる前は世話を焼かれる側だったはずだが、今ではむしろこっちの方が性に合っていると感じるなんて、と。


 オスカーは元々、詐欺師だった。

 生まれを偽り、心を偽り、たっぷりと愛を囁く。結婚をちらつかせておいて貢がせるだけ貢がせたら、ふいに姿を消す。そんなことを繰り返していた。オスカーには真っ直ぐに通った鼻筋と、艶やかな唇と、ベルベットのような声があった。この天からの贈り物を活かさない手は無い。そうやってまたとある令嬢をひっかけて姿をくらましていた頃、へまをした。追いかけてきたお相手に見つかったのだ。往来ですったもんだ、痴話喧嘩の挙句に、哀れな令嬢はオスカーの顔へ酸をぶちまけた。

 声にもならぬ悲鳴をあげて、オスカーは路地裏へと逃げ込んだ。令嬢はもう追っては来なかった。焼けるような痛みから逃れようと、決して清潔とは言えない水路の水で顔を洗った。そして水面に映る、化け物のようにただれた自分を見た。気を失いそうになるのを、顔の痛みが引き戻す。それでうずくまってただ呻いているところに、J氏が通りかかった。

 J氏は目も鼻も利いた。「いやだ……寄るな、見るな」と呻くオスカーを、J氏は闇医者へ抱えて行った。顔は元に戻りはしなかったが、それ以上酷くなるのは免れた。一通りの処置をされ多少落ち着いたオスカーに、J氏が経緯を尋ねると、やけっぱちになっていた彼は洗いざらい白状し、「だけどもう、おしまいさ」と吐き捨てた。

 そんなオスカーをじっくりと観察したJ氏は、「それなら私のところに来ないか」とぼそり。

 はっと目を見開いて、しかしすぐに嫌悪感を剝き出しに「慰み者にされるのはごめんだ」と言うオスカーに対し、J氏は首を横に振る。


「私は新しく事業を起こすつもりでね。だけど人前に出るのは得意じゃない、別の誰かに任せたいと思っている。顔は元々隠す予定だったから重要じゃない。大事なのは声、そして口上だ。君は適任だと思うんだが、どうかな」


 そうして差し出された手を、オスカーは取った。その場ではもはや取るしかなかったが、後悔は無い。結婚詐欺師はかつての天職だったが、今や競売人は第二の天職と思えたし、J氏に出会わなければきっと自ら命を絶っていただろう。


 J氏の起こした事業と言うのは勿論、競売のことだ。

 扱うのはいつもの人間ばかりだった。何らかの罪、傷、病。それがあるからこそ、おおっぴらに奴隷を買うことが咎められる時代にあっても闇に潜って商売ができるし、そこに価値を見出す者が必ずいるのだ。そうJ氏はオスカーに語っていた。そしてそれが正しいことは、開催する度に盛況な競売会が証明していた。

 “商品”の目利きの他にJ氏が得意なことに、逃げ足と根回しが挙げられる。レスター警部は何度か“商品”を取引してきた相手だったが、などと向こうから知らせてきたのは今回が初めてだった。


 馬車を少し遠くで降り、J氏とオスカーは警察署の通用口から中へ入った。話は通っているようで、すんなりと留置所まで案内された。簡素な待ち合い室には窓も無く、暗く湿った空気が澱んでいる。ほどなくして、やや腹の出た髭の男が二人のもとへやってきた。レスター警部だ。


「よう、調子はどうだ」

「お陰様で上々です」


 にっこりと答えるオスカーをちらりと見やって、レスター警部は鼻で笑った。


「そいつは世も末だな。しかしそんなあんたらに頼むしかないようなのが、中にいる」


 警部は顎をくいとやって、部下に鍵を開けさせた。ホコリとカビと、人の汗のようなすえた臭いが鼻をつく。警部の後ろを、顔をしかめたオスカーと、表情を変えないJ氏とがついていった。

 いくつもの牢を通り過ぎ、一番奥まで行ってようやく、警部は立ち止まった。中には小さな人影が丸くなっている。


「こいつだ、人魚だよ」


 天井近くに空いた小さな窓から、ひとすじの光がその姿を照らす。

 丸い頭を包むのは金の巻き毛。薄いブランケットの隙間からのぞく肌は白くカサついている。その骨ばった細い腰から下には、きらきらと青く輝く鱗が生え、尾ひれからは薄汚い床が透けていた。

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