二話

 気分次第で好き勝手し放題の国王から距離を置くため、離れで家族と暮らす王女コルネリアだが、王女という肩書きがある以上、求められた公務をこなすのは責務である。そしてその責務の大半は城内でこなす必要があった。多くは近隣国から来た王侯貴族との交流で、本来なら王妃が対応することでもあったが、夫のヴェンデルが城から追い出してしまっていたので、仕方なくコルネリア一人が表に立つしかなかった。他にも晩餐会に出す料理を決めたり、城内の内装を指定したりと細かい仕事もしており、王女の公務も意外に忙しかったりする。なのであまり近付きたくない城ではあるが、公務のために頻繁に城へ行かなければならなかった。


 そしてこの日も、コルネリアは城へ来ていた。今日は近隣国からではなく、王国の有力貴族と会う予定だった。昔から知っている相手であり、特に深刻な話をするわけでもなく、いわゆるご機嫌うかがいのようなものだったので、普段よりは気楽に応対できそうだった。


「――では、この子のこと、頼んだわね」


「お任せください」


 コルネリアに言われて、侍女のフィティは小さく頭を下げる。


「レイナウト、大人しく待っているのよ?」


「はい。母上も頑張ってね」


 息子の言葉にくすりと笑い、コルネリアは笑顔を残して部屋を出て行った。その後ろ姿をフィティは行ってらっしゃいませと見送る。パタンと扉が閉まると、途端に部屋には静寂が広がった。大きなソファーに一人座るレイナウトは、慣れない場所に視線を動かす。この部屋は応接間のようで、壁際には豪奢な飾り棚や骨董品が数多く並べられている。絵画も数枚飾られていたが、九歳の王子にはまったく興味を引かれるものではない。無駄に広い空間の中央で、ソファーに座って足をブラブラさせるしかないレイナウトは、ただただ手持ち無沙汰だった。


 普段、コルネリアが公務で城に入る時、レイナウトは付いて行くことはなかったのだが、ヴェンデルの要望に応えて今回初めて公務に付いて来た。コルネリアが戻って来たら、次は国王に会いに行く予定になっている。それまでレイナウトはここで待つわけだが、ここには当然暇を潰せるものなどない。自分の部屋なら好きな本を読んで過ごせるが、見渡しても読める本どころか玩具にできそうなものすらない。強いて言うなら、大きな窓からの庭の景色が暇な時間を潰してくれそうだが、花壇や植え木に集まる生き物達が去ってしまえば、また退屈な時間に戻りそうだった。


 何もすることがなく、つまらなさそうに頭や足を動かす王子を見て、側に控えていたフィティは口を開いた。


「王子、机にラズベリージュースがありますが、お注ぎいたしましょうか?」


 ソファーの目の前の机には、前もって用意されていたポットとコップがある。フィティがそれに手を伸ばし、聞くと、王子はニコリと笑って言った。


「ジュースか。じゃあ飲む」


 返事を聞いてフィティはコップにジュースを注ぎ、王子へ差し出した。


「どうぞ」


「ありがとう」


 受け取り、一口、二口と飲む。コップを口から離すと、唇の上にラズベリーの赤色がべったりと付いており、フィティは微笑ましく思いながらポケットからハンカチを取り出す。


「王子、お口が汚れておりますよ」


「え? 本当?」


 舌で舐め取ろうとするのを止め、フィティはハンカチで丁寧に拭き取ってやる。


「……綺麗になりました」


「へへ、ありがとう」


 そう言って王子は再びジュースを飲み、今度は唇に付かないよう気を付けながら飲むのだった。


 ジュースで気を紛らわせたものの、長く続くわけもなく、レイナウトはあちこちへ視線をやりながら暇を持て余していた。コルネリアが行ってからまだ二十分も経っていない。この時間は当分続くものと思われた。


 どうにかしようと、フィティはまた口を開いた。


「あの、王子、お腹はお空きですか?」


「お腹? うーん、どうだろう……」


「私が厨房へ行って、何か持って来ましょう。もしかしたらクッキーやケーキがあるかもしれません」


 これにレイナウトの表情がパッと明るくなる。


「クッキー? お祖父様が好きなクッキーなら、後で持って行ってあげられるね」


「それでは探しに行ってみましょう。王子はここでお待ちください」


「僕も一緒に行くよ!」


「いえ、私一人で行きます。王子はコルネリア様をお待ちください」


 少し残念そうにわかったと言い、レイナウトは侍女を見送った。ジュースを飲みながらぼーっと待つも、一分もしないうちに心は限界を感じた。やっぱり暇だ――そう思い、レイナウトはコップを机に置くと、ソファーから離れて扉に近付いた。そっと開けて廊下に人影がないのを確認すると、部屋を出て当てもなく歩き出した。


 フィティが戻るまで、ちょっと近くを見てみるだけ――そんなつもりで、わずかな冒険心でレイナウトは歩いていた。だが普段来ない場所を見ていると、この部屋は何だろう、あの先は何があるのかと、次から次へと興味を引かれてしまい、気付けば元いた応接間から随分と離れてしまっていた。通りすがる兵士や臣下達も、王子が一人でふらついていることに疑問は持っても、わざわざ聞くことはなく、挨拶をして通り過ぎて行った。


 そうして十分ほど歩き回り、レイナウトは中庭にたどり着いた。廊下に囲まれた広い庭は青々とした芝に覆われ、規則正しく植えられている数種類の花が色鮮やかに咲き誇っている。その上を白い蝶がヒラヒラと舞い踊っていた。その光景に思わず庭へ入ったレイナウトは、猫がじゃれつくように蝶を追い始める。それが手の届かない場所まで飛んで行ってしまうと、次は葉に付いたテントウムシを見つけ、突いてみたり指に乗せたりして遊ぶ。生き物に触れるのは子供にとって、夢中になれる遊びでもある。だからレイナウトの頭からはもう、すぐに部屋へ戻ることなどすっかり消失していた。


 小さな虫達と戯れていると、その姿に気付いて立ち止まった集団がいた。側近と護衛を連れたヴェンデルだった。先ほど公務を終え、私室へ戻る途中のことだった。


「レイナウトよ、そんなところで何をしている?」


 廊下から声をかけると、王子は顔を振り向かせ笑う。


「……あっ、お祖父様!」


「コルネリアはどうした。一緒ではないのか?」


「母上はまだ公務でお話中だと思う」


「部屋で待たず、ここで待っているのか? 侍女はどうした。なぜ一人だけなのだ」


 そう聞かれたレイナウトは、ここでやっと思い出す。早く戻らないと侍女のフィティが待っているかもしれない――花から離れると、王子は駆け足で廊下へ戻った。


「そうだった。部屋に戻らなくちゃ……」


「待て待て。ここに侍女はいないのか?」


「はい。僕一人で来ちゃったから――」


「何だと? 一人だけなのか? では侍女は今何をしている」


「フィティは僕のためにお菓子を取りに行ってる」


 これにヴェンデルの表情が険しく変わった。


「菓子だと? お前をほったらかして、そんなことをしているのか?」


「僕も一緒に行くって言ったんだけど、待っててって言われて、それで――」


「それで中庭でたった独りにさせているというのか……!」


 言葉の節々に火の粉が舞うような雰囲気に、側近と護衛達は不穏なものを感じ始める。


「お祖父様、僕が一人なのは、僕が勝手に――」


「城内とは言え、いつ何時危険が降りかかるかもしれないというのに、側にいるべき侍女が王子から目を離すなど、あり得ないぞ! ……その名はフィティと言ったな」


 聞かれたレイナウトは小さく頷く。


「そうだけど、フィティは僕に待っててって言ったんだ。だけど僕が――」


「お前達、ただちにフィティという侍女を捜しに行け。菓子を取りに行ったのならば厨房にいるだろう」


 側近と護衛達は戸惑う様子を見せながらも、国王の言葉に従って捜しに向かって行った。


「まったく、コルネリアも低能な侍女を付けたものだ。我が子に危険が及んでからでは遅過ぎるというのに、そんな想像もできないのか!」


 顔をしかめてブツブツ非難するヴェンデルに、レイナウトは言う。


「お祖父様、違うんだ。フィティに言われて僕は部屋で待ってたんだけど、つまんなくなっちゃって僕が一人で部屋を出ちゃったんだ」


「レイナウトよ、やはりお前は優しい心の持ち主だな。侍女ごときをかばおうとするとは」


「かばってなんかないよ。だってフィティは何も――」


「もういいレイナウト。これからはまともな侍女を付けてやろう。いや、護衛を増やしたほうがいいだろうか」


「そんなに護衛なんていらない。僕はフィティでいいから。だから聞いてよ。悪いのは――」


「悪いのは明らかに侍女だ。お前ではない」


「違う、僕だよ。言われたことを守らなかった僕が――」


「陛下、連れてまいりました」


 声に二人は視線を向けた。その廊下の奥から側近と護衛達に連れられて、不安そうな顔のフィティが歩いて来る。


「随分と早かったな」


「この先で王子を捜し歩いていたところをちょうど見つけまして」


 フィティを国王の前に出すと、側近と護衛達は後ろへ控える。


「へ、陛下、私にご用がおありだと……はっ、王子!」


 ヴェンデルの陰に立つレイナウトを見つけて、フィティは瞠目し安堵する。


「お部屋におられず、どこへ行ってしまわれたのかと心配いたしました! 陛下のお側にいらっしゃったのですね」


「フィティ、ごめんなさい。待っててって言ったのに、それを守らないで僕……」


「いいのです。早く陛下にお会いしたかったのですよね」


「そうじゃないんだ。お祖父様に会いに行ったんじゃなくて、ちょっと部屋の外を見るだけだったんだけど、この庭で虫を見つけて、戻るのを忘れちゃって……」


「そうでしたか……でも、何事もなくよかったです。ご無事であるだけで私は――」


「何が無事なものか。貴様は自分の責任を何も理解していないようだな」


 ヴェンデルがねめつけると、侍女は瞬時に全身を強張らせた。


「せ、責任は、私なりに、理解はして――」


「ではなぜ王子を独りにしたのだ」


「それは、退屈なさっていた、お、王子のために、菓子をご用意しようと……」


「だから独りにして放っておいたというのか」


「私は、放っておいたつもりなど――」


「事実、王子は独りにされて、この中庭にいたのだ。私が見つけるまでな!」


 侍女はウッと言葉に詰まり、うつむく。


「貴様はコルネリアに王子を見ているよう頼まれたはずだ。それなのに菓子を用意すると側から離れた。菓子など他の侍女や兵に頼めば済むこと。だが貴様は果たすべき責任を忘れ、王子を独りにしてほったらかしたのだ! この間に悪意ある者でも現れれば、王子の身も命もなくなるのだぞ! その重大さをわかっているのか!」


 ヒッと肩をすくめ、侍女は身を縮こまらせる。


「申し訳、ございません……」


「本当にそう思うのならば、二度と我が城に足を踏み入れるな! 貴様のような低能を王子に近付けることなどできない!」


「わ、私は、クビ、なのですか……?」


「そう言っただろう。それすらも理解できないのか! まったくひどいものだな。元より侍女としての資質すらなかったか」


 クビと言い渡され、茫然自失で動けない侍女をヴェンデルは鋭く睨む。


「……何をしている! さっさと出て行け! 貴様の顔など見ていたくないのだ! 早く――」


「お祖父様、そんなのやめてよ! 悪いのは僕だって言ってるでしょ?」


 レイナウトが腕をつかんで訴えると、ヴェンデルは表情を和らげて孫を見下ろした。


「いいや、お前ではない。部屋で待たなかったとは言うが、こやつが目を離したことは事実なのだ。もし部屋にいる間に危険が及んでも、お前は自分が悪いと思うか?」


「ここには悪い人なんていないよ。だから一人にされたって全然危なくないもん」


「それは違うぞレイナウトよ。我々はどこにいようとも、常に危険がともなっているのだ。隣国のダーメル王国……お前も知っているだろう。あの者らは虎視眈々と我が国を奪おうと狙い続けている。友好的に見せかけて何人も密偵を忍び込ませているのだ。そんな者が城に入り込んで来たらどうなる? 王家の人間であるお前は邪魔だと殺されてしまうことだろう。そんなことにならないよう、常に見守られていなければならないのだ」


「でも、ダーメル王国って、昔は嫌な国だったけど、今は仲良くして――」


「だから、友好的に見せかけていると言っただろう。嘘などいくらでも言える。そうして我々を欺き、油断させるつもりなのだ」


 国王独自の見方に聞いていられなかった側近は、思わず後ろから口を挟んだ。


「恐れながら陛下、ダーメル王国とはもう二十年以上も友好関係が続いており、過去の問題であちら側にわだかまりもなく、密偵とされる者も大半は――」


 刺すような視線が側近に振り向いた。


「黙れ! わしはレイナウトと話しているのだ! 邪魔をするな!」


 一喝され、側近は何も言えず下がった。


「……いつ、どこであの者らの息のかかった人間が動いているかわからないのだ。だから城内であっても、一人でいることはよくない。わしや、母、父など、信用できる者の側にいることを心掛けろ。いいな?」


 腑に落ちないながらも、レイナウトはとりあえず頷いた。


「わかったけど……フィティは本当に何も悪いことしてないんだ。僕のためにお菓子を取りに行っただけなんだよ?」


「お前はまだかばいたいのか。お人好しが過ぎると、そこに付け込む者が現れ――」


「何事ですか、陛下」


 皆の視線が廊下の奥へ向く。そこから歩いて来たのは貴族との会話を終えて来たコルネリアだった。怪訝な表情で皆を見回すと、ヴェンデルの前までやって来る。


「あちらの部屋にレイナウトが見当たらないとやって来てみれば……陛下が連れ出されたのですか?」


「違うよ。僕が勝手にここへ来たんだ」


 祖父の代わりに王子が答えた。


「そうだったの。……それで、陛下はなぜこちらに? レイナウトを待ち切れなかったのですか?」


「そうではない。わしはたまたま通りかかり、王子を見つけたまでだ。それよりコルネリアよ、お前はどういう侍女を使っているのだ」


「……侍女?」


 ヴェンデルは廊下の端でうつむき、動けないでいる侍女を目で示した。それをコルネリアは見る。


「彼女が何か?」


「レイナウトの側を離れ、菓子など取りに行っていた」


「はあ……それがどうされましたか?」


「どうされたって……レイナウトから目を離したのだぞ! 独りにさせたのだぞ!」


 ヴェンデルの憤る理由に何となく気付いたコルネリアは、困惑を見せながらも穏やかに答えた。


「そうでしたか。しかし、目を離したと言っても、ほんの数分のことでしょう。目くじらを立てるほどのことでは……」


「何を言っている! お前は母親だろう。その数分間に何かあったらどうするというのだ! レイナウトは我が国、王家の宝なのだぞ!」


 怒りが増し始めている様子を見て、コルネリアは言葉を選びつつ言う。


「確かに、そうですね。こちらの言葉が間違っていました。申し訳ありません。……ですがレイナウト、あなたはなぜ一人で部屋を出たの?」


「することがなくてつまんなかったから……だから悪いのは僕のほうなんだ。フィティに待つように言われたのに、それを守らなかったから」


「待てと言われたのに出てしまったのね。……フィティ、そうなの?」


 聞くと、侍女はおずおずと顔を上げて答える。


「はい……ですが、陛下が仰った通り、王子から離れ、お独りにさせてしまったことは事実でございます。そちらに関しましては、何も言い訳をする気はございません」


 シュンと肩を落とす侍女を横目に、コルネリアはレイナウトと向き合う。


「あなたが言われたことを守らなかったから、フィティは陛下に叱られることになってしまったわ。これは明らかにあなたのせいですよ」


「はい。僕も、そう思ってる……」


「ではフィティに謝りなさい。そして勝手な振る舞いはもうしないと約束しなさい」


「はい。……フィティ、ごめんなさい。もう勝手なことはしないって約束――」


「何をさせているコルネリア! 謝らせるのは侍女のほうではないか!」


 横から割って入ったヴェンデルは、唾を飛ばす勢いで娘に怒鳴った。


「レイナウトは自分が悪いと認めていますし、現に悪いのはこの子で――」


「いや違う! 目を離したこやつが悪いのだ! 数分だとしても、王子を独りにさせるなどあるまじきことだ! こんな者、即刻クビだ!」


「クビとは……少々行き過ぎでは。彼女は侍女の中では長く勤めていて、その働きぶりは優秀です。ただ一度この子から目を離しただけでクビにするなど、あまりに厳し過ぎはしませんか?」


 ヴェンデルはじろりと娘を見やる。


「お前は、わしの言葉を聞く気はないというのか?」


 怒りと冷酷さの混ざった視線を受け、コルネリアは怯む気持ちを隠しながら続けた。


「そ、そもそも、彼女を選び採用したのは私です。その処遇をどうするかを含め、決定権は私にあると思うのですが」


「ならば、こやつを雇っている金は誰が出しているのだ。お前個人ではないだろう。この国に納められた金だ。つまり、国を治めているわしの金ということだ。決定権はわしのほうにあ――」


「お祖父様、そんな難しい話なんかいいよ! それより僕が悪いんだから、フィティをいじめないで!」


 懇願してくる孫に、ヴェンデルは目をぱちくりさせる。


「い、いじめてなどいない。こやつがすべきことをしなかったから、わしはその重い責任を取らせ――」


「フィティのしたことは全部僕のためのことだよ? それの何が悪いの?」


「だからだな、お前の側から離れ、目を離したことが――」


「僕の側に誰もいない時なんて他にもあるよ。夜寝る時、部屋には僕しかいなくなって、皆廊下とか別の場所にいるよ? それも悪いことなの?」


「それは、また違う状況ではないか」


「違くないよ。僕が一人になってるんだから同じでしょ? なのに何で今日はフィティが悪いってなっちゃうの? そんなのおかしい!」


 説明に困るヴェンデルにレイナウトはさらに続ける。


「お祖父様は僕が一人で部屋の外を歩いてたのがよくないって思ったんでしょ? それは僕がちゃんと待ってなかったからで、言われたことを守ってればそうならなかったんだ。だから悪いのは僕でしょ?」


「う、うむ、待っていなかったことは、そうかもしれないな……」


「お祖父様もそう思うなら、もうフィティをいじめないでよ。叱るなら僕を叱って」


 正義と思い遣りの言葉に、侍女は密かに感嘆の眼差しを王子へ送った。それと同じように側近と護衛達も表情に見せないものの、幼い王子の気持ちに感心させられていた。


「し、しかしなぁ、何も問題にせず、咎め立てしないというのは……」


「レイナウトに免じて、お許しになってはどうですか?」


 笑顔を作り、コルネリアは言った。


「陛下のお気持ちもわかっていますので、彼女には私から厳しく注意しておきます。なので今回はこの子の意志を汲んであげてはもらえませんか? クビなどにしたら、レイナウトが悲しんでしまいます」


 むむ、とヴェンデルはしかめた顔を孫へ向ける。失態を見せた者を簡単に許したくはなかったが、見上げてくるレイナウトの純真無垢な瞳には、さすがのヴェンデルも無視して逆らうことは困難だった。


「……わかった。いいだろう。今回だけはクビを撤回してやろう」


 これに母子は笑顔を浮かべる。


「だが一つ条件がある。こやつはレイナウトから離せ。もっと有能な侍女を付けろ」


「わかりました。そうします」


「ふん……つまらぬことに時間を取ってしまったわ。おかげで腹が減った」


「じゃあお祖父様、一緒にお菓子食べようよ! ……フィティ、何か持って来てくれたんでしょ?」


「え、あ、はい。あちらの応接間に、クッキーを置いてありますが……」


「クッキーだって! お祖父様が好きなお菓子だよ。持って行くから食べよう!」


 レイナウトに手をつかまれ、急かすように揺らされると、ヴェンデルの怒りの溜まった心も次第に静まり、表情も自然と緩んだ。


「おお、そうだな。一緒に食べるか。ではわしの部屋へ行くか」


「はい! 行こう行こう! 母上も早く!」


「私はクッキーを持って行くから、先に行っていなさい」


「わかった! ……お祖父様、行こう!」


 孫に手を引かれ、こらこらと言いつつも笑顔を絶やさない父をコルネリアは見送った。どうにか丸く収められたことに安堵の息を吐く。その横を頭を下げながら側近と護衛達が通り過ぎて行く。


「あの、コルネリア様、私は本当に、クビにならなくてもいいのでしょうか……?」


 二人きりになると、フィティは思い詰めたような表情を浮かべて聞いてきた。それにコルネリアはやんわりと笑って見せる。


「いいのよ。あれは陛下が一時の感情に任せて言ったこと。あなたはクビになるようなことはしていないわ。だから安心して」


「はい……かばっていただき、ありがとうございました」


「かばったのはレイナウトよ。礼を言うならあの子に。でも、陛下の目がある以上、あなたをレイナウトの側に置くことはできなくなるわ。私の離れでの仕事に変わってもらうけれど、それは我慢してちょうだいね」


「我慢など、コルネリア様に引き続きお仕えできるだけで、私は幸せでございます。このご恩は、生涯忘れません」


「大げさね。こんな嫌なことはすぐに忘れなさい。……さあ、私も行かなければね。気は向かないけれど」


 苦笑いを見せてコルネリアは歩き出す。自分一人だけなら憂鬱だったかもしれないが、今はレイナウトという頼もしい息子の存在がある。鈍くなりそうな足取りも、彼がいれば幾分軽くなるコルネリアだった。

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