第三話 「流れの中で」
自室、もうすぐ二十二時になろうかという頃、善は携帯ゲーム機を枕元に放り投げてベッドに寝転んだ。飽きてしまったのだ。
そうすると、ふと、視線は勉強机に向けられる。あの机の引き出しには大量に「個人的な紙の束」が入っているのだ。
善には誰にも話したことのない秘密がある。それは将来、漫画家になりたいということだ。それか次点で小説家になりたいと思っている。もしくはゲームクリエイターかシナリオライター、とにかく物語を想像したいという欲求を持っていた。しかし、人生を賭けて全力で打ち込んでいるわけではない。ただ漠然とそういう仕事がしたいなあ、と思っているだけで今は留まっている。
だが、だからといってこの溢れ出る創作意欲とアイデアを押さえつけることもできなかった。何か物語を練っている時、それは幸福だった。退屈な善の人生が少しだけ華やかになる。テレビゲームをすると、この設定は良いなと思う、もしくは「俺ならこうする」と生意気に文句をつけたくなるときもある。そんな時はノートに設定を書き起こし、絵は練習中なので小説という形で頭の中の想像を具現化させるのだ。
……西洋ファンタジーが良いか、東洋ファンタジーが良いか、それとも近未来を舞台にするのも良いかもしれない。先日にSF映画を観たばかりなので気分はそちらか。あの場面で仲間のあいつを殺し、あの場面で主人公の能力は強化される、あの場面でヒロインはピンチに陥る……。
善は目を閉じて妄想の中で物語を組み立ててみた。しかし、どうも今夜は紙におこそうという気にならない。目を開いて起き上がると、小腹も空いてきた。
「めんどくさいなあ」
呟いてみても状況は変わらない。善はコンビニに向かうことにして、部屋を出た。門限は二十三時だ。補導される時間までということらしい。
◯
善の家は閑静な住宅街にあるので、コンビニに行くためには大通りまで少し歩かねばならない。しかしそれは意外と苦痛ではない。夜の静かで涼しい雰囲気を善は好んでいたからだ。そしてそんな雰囲気を好む情緒を備えた自分のこともちょっぴり好きだった。
夜空を眺めたりまた物語の設定を練ったりしているとあっという間に目的のコンビニまでやってきてしまった。通り沿いの店舗なのでやけに駐車場が広くやたら明るい。大型トラックが何台が停まって沈黙しているので休憩中なのだろうか、善はそんなことを考えながら目的のスナック菓子を買ってさっさとコンビニを出ることにした。
しかし、ここで運命は少しだけ善の味方をした。
丁度、善が店を出るのと同時に女性も出るところだった。少し面倒に感じつつ、善は立ち止まると視線を落とし黙って会釈した。先に行けという合図だ。しかし、彼女は動かなかった。それどころかじっとこちらを見ている気がする。善は舌打ちしたくなり、視線を上に向けて彼女の顔を見た。そして目を見開いた。
「なんだ、
声をかけてくれたのは蒼井楓だった。
──。
聞くと、楓の家はコンビニを挟んで善と反対方向に位置するらしい。そちらは確か商店街の方でアパートなども多くあったと記憶している。楓もそのどこかに住むのだろうか。
二人でコンビニを出るとどちらかが言い出したわけではなく、何となく善が楓を送って帰る流れになった。そんな中で善は少し体温の上昇を感じていた。気分も高揚している気もする。しかし沈黙を破らねば、横にいる楓は整った横顔を善に向けたまま黙って歩いている。とりあえず、何か言うことにした。
「──あ、そういや、あのコンビニでバイトしてんの? 帰りに鉢合わせたのか」
「そう」
「あはは、そうなんか。俺も家近くてよく行くんだよ」
「へえ」
「あ、うん、まあそうだね」
──何か手はないか。こんなチャンスは二度とない。クラスで楓は浮いてるが、しかし本当は嫌われていないことなど善は知っている。今も男子連中は虎視眈々と楓を狙っているはずだ。
だが、善が考えるより先に楓が口をあけた。
「……麦原は、私のことどう思ってんの」
「え」
少し警戒を含んだ語気で楓は目線を前に向けたまま聞いてきた。どうしたものか。善の本心としてはそんなもの好意に決まってる。こんなに可愛いのに、クラスで浮いてて、何かチャンスがあって仲良くなれたら嬉しいなと常に妄想していた。いや、今がそうか。
「どう、て……そりゃあ」
「噂聞いてるでしょ」
“噂”とは、楓が水商売をしてるだの何だのという例の下世話なものだろう。善は否定しておくことにした。実際信じていないし、たった今コンビニのアルバイトから出るとこを見たばかりだ。
「あ、ああ、あはは、あれね。いや聞いてるけど信じちゃいないよ」
「本当だよ」
「え」
「やっぱ嘘だよ」
「え?」
ここで初めて楓と目が合った。じっと澄ました顔を向けてくる。善は意味が分からず次の言葉が出なかった。ほんの数拍の間そうすると、最初に吹き出したのは楓の方だった。
「やだ、何その顔。おもしろい」
すると楓は小さく笑っていた。
そんなふうに楽しそうに笑う楓をぽかんと眺めると、ふと腑に落ちた。そうか、楓は冗談を言ったのだ。いつも鉄仮面のような彼女も冗談くらい言うだろう、他の奴と同じだ。彼女もそうなんだ。善は堪らなく心が軽くなった気がした。
「あ、ああ! なんだよお、からかったのかよ」
「そーだよ、冗談。私がコンビニバイト帰りなの知らなかった?」
楓がいたずらっぽく笑ってみせた時に、きっと本当の意味で善は楓を好きになってしまった。たったこれだけで、自分に向けられた笑顔は特別だったのだと勘違いするには充分だった。
「……ああ、ああ」
「変な奴だね、麦原は」
「え、いやまあ地味とは言われるけど変な奴とは言われたことないぞ」
「ふうん、そうか、私の方が変か。浮いてるし」
その一瞬で楽しかった雰囲気は消え失せ、善はどきりとした。そうだった、彼女は明確にいじめを受けている。あまりにも彼女が楽しそうに、何事も無かったかのように振る舞っていたので忘れていた。彼女はまた明日も嫌がらせを受ける。善はとても、彼女を守ってやらねばという気持ちになった。
「あ、あのさ」
そして産まれて初めて、重要な一歩を踏み出すことにした。流されて生きていたら絶対に得ることのないものへ手を伸ばすために。
「が、学校! でもさあ、話……しようよ」
善がそう言うと、楓はその場に立ち止まって黙った。じっと視線を交わしている。もはや心臓が喉から飛び出るほど動悸が激しくなって、善はあと数秒で過呼吸になりかけた。しかし、それより先に楓は答えるのだった。
「いいよ、じゃあ私たちは今から友達?」
「あ、いや、まあ」
「違うの?」
「ち、違わない。友達だ、俺と蒼井は」
「そ、良かった」
また楓は表情を緩めて善と目を合わせた。
瞬間、善の心に透き通った風が吹き抜けた。心は軽くなり、幸せを感じていく。物語を自分の世界だけで密かに綴るよりさらに幸福感に包まれているのを感じた。
ねえ、と楓が声をかけるまで善は口もきけないほどの衝撃を受けていた。我に返ると慌てて返事をした。
「あ、ごめ、なんすか?」
「ここ、うちなの。もう着いたから」
楓が指をさしたのは新しい雰囲気のアパートだった。オートロックは無いが建物は新しいらしい、と楓は説明していた。が、善はその半分も聞けてなかった。もう、今日はこれで別れねばならない。
しかし、楓はそんな善の名残惜しさなど、やはり一瞬で吹き飛ばした。
「麦原、送ってくれてありがとう。じゃあまた明日学校でね」
「うん、また明日……」
かろうじて声を出せた善は、楓の背中を見送って手を振った。そして彼女がアパートの階段を登って消えたあともしばらくそうしていて、とても動けなかった。
だが、瞬間、何かが善の中で爆発した。
善は叫び出したい衝動は何とか理性で抑えたが、全速力で走ることは辞めなかった。
善の初恋はこうして始まった。
──第四話に続く
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