第二話 「こんな生活」

 裕福な家庭に産まれた善は、特に苦労というものを感じたことは無かったと自分でも思っている。何となく学校に行き、家族旅行には毎年何となく行った。気になるのは父が厳しいことくらいだ。しかしそれだけ。どうも刺激がない。昔は感じたことはなかったが、どうやら近頃は楽しいと思える事が急激に減っていた。やる気が出ない。

 

 高校に進学する、人生の一つの岐路。だが善はそんな煮え切らない調子で親に言われたとおりの進学校へ入学し、そしてやはり何となく半年ほどを経過させた。退屈である。友達だってそれなりにいる、アルバイトなどやらなくて良い、毎月お小遣いをたくさんもらえるからだ。これは流れだ、争う必要のない流れ。乗っていれば楽にどこかに辿り着く。


 だが、善はある時にその流れの中で立ち止まった。

 

 

 

 ──。


 その日の朝のホームルーム、名前も覚えてない担任が転校生を紹介した。入学してから六ヶ月、夏休みもとっくに終わっている。妙な時期に転校してくるものだなと善は思ったが、どうでもいい。それよりその転校生から目が離せなかったからだ。

 

蒼井楓あおいかえでです。よろしくお願いします」

 

教室の窓から吹いた風は彼女の長い黒髪をふわりとなびかせた。

 彼女は色白で、黒髪で、目元は涼しげで、鼻筋はすっきりと通っていてその声は澄んで美しかった。善はあっという間に心を鷲掴みにされた。その朝を境に、善の流れは乱された。

 

 予期せぬ転校生、しかも魅力的な雰囲気を醸し出している。すぐにクラス中の男子連中はそわそわすることになった。もちろん善もその一人だ。何とかお近づきになれないものかと、それとなく彼女の席の近くを通り過ぎてみたり、意味もなく大きな声で話してみたりした。だが、彼女は自分など視界に入っていないかのように窓際で一人、過ごすのだった。

 

 しかし、転校生の蒼井楓がやってきて一ヶ月が経過したころだった。教室が何か妙な気配になってきていた。何もない、だが何となくおかしい。みんなが楓を避けている。善にも心当たりはあった。楓の語ったたった数分の話だ。

 

 

 最初、楓もクラスに馴染もうと積極的に仲間の輪に加わっていた。そして当然の如く、話は家庭環境についてとなる。みんな転校の理由も気になっていたし、この少女は何者なのか知りたかったのだ。善も少し離れた場所でそれを聞いていた。

 

「──私の家は母子家庭で、妹が一人、弟が二人。お父さんは交通事故で私が小学生のころに他界したの。だからお母さんは頑張って私たちを育ててくれたけれど、去年身体を壊してしまったから私が今は働きながら何とか生活してる」


「へえ、大変なんだね」

 

クラスの中で中心人物という位置付けの男子が一人相槌を打った。彼が楓を「狙っている」ことは善も勘づいている。しかしどうか、どうも相槌に覇気が無い。

 楓は話を続けた。

 

「だからね、勉強を頑張って良い仕事に就いて、将来は家族を楽させてあげようと思ってる。今は夕方にお母さんが勤めてた法律事務所でお手伝いのバイトしてその後に深夜までコンビニでバイトしてる。そんな感じ」

 

 楓が話し終えると、聞いていた囲いの連中は貼り付けた笑顔を落っことして苦笑いを浮かべていた。

 壮絶だ、少なくても善にはそう感じられた。自分は何てぬるま湯に浸かって流されていたのか。自分が家族を養って、朝から晩まで働いて学校に行き、勉強する。信じられないことだ。すごい、と素直に思うと同時に「悔しい」と思う自分を自覚していた。そして、他のクラスの者たちも善に近い何か感情を抱かされた。

 

 


           ◯

          

 気がつけば、楓は孤立していた。

 理由は特にない、強いて言えば嫉妬なのかもと善は分析した。

 楓は大変な生活を送っている。家族のために身を粉にして働き、家事をこなして妹弟を育て、母の看病をして、さらに勉強もしなければならない。それを涼しい顔をしてやってのけるのだ。成績はクラスでトップクラスだった。善はついていくのがやっとだ。

 

 そんな楓に対する不安や恐れ、そしてどこか憧れという感情は嫉妬に包まれて表面化し、クラス中に伝播した。

 そしてある時、誰かが楓の机に落書きをした。たった一文だ。


 

「キャバ嬢」


 

──それは何を示唆しているのか、楓自身か? それとも楓の務めるアルバイトか? 事実かどうかは善には分からない。だが、深夜までアルバイトをしているという情報と魅力的な容姿がどこかそれを連想させたのかもしれない。たったのそれだけで、まるで押さえつけていたものが決壊して溢れ出したかのように、一斉に嫌がらせが始まり、ついにイジメに繋がった。

 

 机の落書きは増え、下駄箱やロッカーにはゴミが詰められるようになった。弁当箱は盗まれ、朝彼女が登校するまでに椅子が隠された。そして一部の女子生徒たちは、彼女の近くを通りすぎる時にわざと身体をぶつけるようになり、男子生徒は明確に下世話な話題を振ったり、陰で娼婦呼ばわりするようになっていた。


 善は、それを少しだけ遠くで眺めるだけだった。

 

 

 

──第三話に続く

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