第16話 逝く友と来る友と

 天にはまんまるな月がのぼっている。


 春靄しゅんあいかすんだ月。


 やさしい光がおやじと僕と照らしてくれる。


 いつもの小山で、いつものように、おやじは酒盃を傾ける。


 今日は僕もその隣で酒盃を手にしている。


 そうやっていつも通り、酒をあおりながら。


 おやじは僕の話を、静かに聞いた。


 ◇


「そうか、ダークは死んだか……」


 僕の話が終わると、おやじは小さくつぶやいた。


「うん」


 僕も一つ返事をするだけだった。


 おやじの手の酒盃の中。

 浮かんだ月に雫が落ちて、月は波紋に消える。


 雨もないのに。

 ポトリポトリと。

 何度かそれを繰り返し、波紋がおさまって、ふたたび月が酒盃に映るようになった頃に。


 おやじはやっと口を開いた。


「だがなあ、死んじまったのは悲しいが、それでも俺はちょっとだけうれしいなあ」

 友が死んでうれしいとは? 僕が語った死に様は決して綺麗な死に様ではなかったと思うが?

「うれしいって?」

 僕はおやじを見ないで問いかける。

「そりゃあ、あいつに頼られたって事がよう。それが俺にはうれしいんじゃあ。なあ、死に面したあいつはよう、ぎりぎりの時に俺を頼ろうとしてくれたんだよ。そりゃあうれしいだろうよう、なあ、お前にもわかるだろう?」


 ああ。

 そういうことか。


「うん、そうだねえ」


 わかるよ。


 僕は一つ頷いた。

 友ができてこれはわかるようになった。僕も友には頼られたらうれしい。

 おやじも僕に頷き、そのまま視線を流し、天に浮かぶ月を見つめる。


「あいつの死に場所がここに近かったってのは偶然かも知れねえがよう。ダークのやつはここに来ればなんとか命をつなげると思ってくれたんだよなあ」


 おやじは月を見上げないといられないのかも知れない。


「あの鳳さん……ダークさんはさ、僕の顔を見た事があるって言ってたんだけど、僕会った事ある?」

「いや、ないなあ。お前が産まれるだいぶ昔から俺はラクーンの頭目になってたし、ダークは鳳王になってたからな、簡単には会えなくなってたんだわ」

「そっかあ。じゃああれはなんだったんだろう? ダークさん、僕の顔見て笑ったり、初対面で間抜けづら呼ばわりしたり、今思い返すと失礼だったよねえ」

 むふん!


 そんな僕の不満の言葉に、おやじから笑いのような、嗚咽のような、判断のつかない音が鳴った。


「なんだよう、おやじい」

「いや……多分な、そりゃあ俺に似てたから、だろうよ」

「え、似てないけど? 嫌だけど? 僕はおやじみたいにそんなにキンタでっかくないよう」

 ほんとにやだけど?


「今の姿じゃねえよう。ダークの知ってる俺の姿ってのはまだ若狸だった頃の姿だからよう」

「ええーそれでも似てるのは嫌だなあ」

「リキマルもオリョウもリケイもよう、みいんなヒメに似てるがな、お前だけは俺にそっくりだ」

「ええ……僕もママン似がよかった……」

 正直ほんとにそうよ。


 ママン、美狸だし。確かに僕以外の兄弟はみんな中性的な美狸だけど、僕はなんというか少し雄感が強い。


「俺もよくあいつに笑われたなあ。どっから見ても間抜け面だってよう」

「そうかな? おやじの若狸の顔見たけど、雄らしい顔でいいと思ったけど?」

 似ていると言われる顔が間抜け面なのは困る。


「そりゃあ、そうだあ。鳳に狸の顔の美醜なんてわからんからな」

「じゃあなんで間抜け面なのう?」

「そりゃあ、あれだなあ。ちっと恥ずかしいがよう。俺はあいつと初めて会った時に心底びびっちまって、ひっくり返って泡吹いて気絶しちまったからな。あいつはそれをからかってたのよう」

 なるほど。そういう意味で、か。

「そっかあ、仲良かったんだねえ」

 間抜け面って言われてそれが冗談になってお互いに笑っていられる関係ってのはいいかも。

 僕もドナルドとそういう関係になれるとイイなあ。


 おやじは、ああ……と一声漏らす。


「仲、良かったんだよなあ」


 しみじみとした言葉。

 僕はなんと答えたらいいかわからない。

 でっかいおやじが少しだけ小さく見える。


「でもよう。最期によう。あいつにお前を見せられたのは良かったなあ」

「そうなの? なんで?」

「おう、俺はお前をこのラクーン808の跡取りだと思ってるからよ」

「ええ!? そなの? でも僕の上にも兄弟はいるじゃないか」

 全く関わりないけどね。

 彼らは彼らでそれぞれラクーン808の中で小さなコミュニティを築いているから。頭目であるリーチ直轄のコミュニティからは少しだけ距離がある。まあ、狸だからね。やっぱり大規模な群れは性に合わない部分があるんだろう。


「そりゃあいるがな。あいつらは普通の狸だ。欲望に正直で怠惰だ」

 それが。

「当たり前じゃあないか、それこそが狸だろう? 僕もそうだよう。寝て食って月を見て腹を叩くよ」

「おう、狸の本分がそれだあ。でもなあ、お前はそれだけじゃあないのをな……俺は知ってる」


 俺は知ってる。

 その言葉には何か含みが感じられた。


 何を知ってる? 僕を知ってる? 僕が他と違う事をか? 僕に前世の記憶がある、事をか?

 おやじは。

 知ってる、というのか?


 言葉に、思考が荒れ、僕の腹の中の何かが、ずんっと下がった。

 これが血の気がひくってやつか。


「そ、う?」

 と答えるだけで精一杯だった。


 同時に浅く、荒くなる呼吸。呼吸と同期して頭の中をぐるぐると回る。


 記憶。


「お前はさ、違うんだよな」

「なんか変だよ」

「なんなの? マジでキメえな」

「常識で考えてよ」

「お願いだから、普通にしてください」


 前世で投げつけられたたくさんの言葉の断片。

 言葉の棘と痛みに慣れたからって、傷がないわけじゃない。


 普通じゃないから。

 排除。

 

 前世では普通にしてたつもりだった。

 でも違った。

 だから排除された。


 今世でも普通の狸……

 とはちょっと違う事しちゃってた自覚はあるけど……それでも普通だったと思うんだけど……いやあ、普通になれた気がしていた……だけ、かも、しれないなー。

 あーそうかー違ったのかー。

 てことはここでも排除されるんだ。


 あー、そーかー。

 楽しかったのになー。


 一気に芯から身体が冷えて、全身から汗がふきだす。


 冷たい身体と熱せられた頭。

 グルグルドロドロとどうしようもなくなりそうな限界寸前の瞬間。


 頭がペロリと暖かい感触になでられた。


 これはなんだ。


 と思った瞬間に鼻にいつもの匂いがする。


 ああ、くさい。


 このくささはおやじのグルーミングだ。


 くせえ。


「おい! おい、リントぉ、大丈夫じゃあ、落ち着けえ」

「なに、が? だよう」

 頭から漂う臭いに少しだけ正気を取り戻せた気がする。でも何も大丈夫ではない。

 だって排除するんでしょう? 僕の居場所がなくなるんでしょう。


 やだよう。


「お前が何を考えて、そんなに青ダヌキになってるのか、俺にはわからんがなあ、お前みたいなのはな、この森じゃあ、たまにいるんだ。その種族の全体を底上げするような個体がたまに産まれてくるんじゃあ。まあ、時代や環境によって、森の愛子いとしごだったり、森の忌子いみごだったりと呼び名は変わるがな。多分お前もそれじゃあと俺は思っとる」

 僕、みたいなやつが他にもいる。そっかあ、忌子かあ……前世でそんな風に呼ばれた事もあったような気がするな。でもいたからって何なんだよう。僕には関係ないじゃないかあ。


「そ、う……で、結局、僕はどうなるの? 教えて」

 聞きたくないけど聞かなくちゃ。自分に引導を渡すんだ。勘違いにトドメを刺さなくちゃ。


 僕の決死の問いかけに。

 相対したおやじの顔はポカンとしていた。

 ああ、確かに間抜け面かも。


「教える? あん? どうなる、ってなんだ? お前は別にどうもならんぞ?」

「どうもならんって?」

 なんなのさ?


「さっきも言ったろうがあ。お前はラクーン808の頭目候補じゃあ。なんであれ、それは変わらんし、同時に俺の自慢の息子で、ヒメの可愛い息子じゃあ。それも変わらん! あれだけヒメに匂いを嗅がれて愛されてないとは言わせんぞ!」

 僕を見て、僕を知って、それでもなお息子と呼んでくれるのか。

 てか、あれ、見てたのかよ。おやじ。


 もしかして……


「おやじ、息子に妬いてるの?」

「当然じゃあ! 俺のヒメを独占しおって!」


 息子に妬くなんて。

 変なおやじ。


「そんなだから間抜け面って言われるんじゃないの?」

「うるせえわ。ほれ、お前も一緒に酒をのめ! 今夜は友の弔い酒じゃからなあ!」


 そう言っておやじは僕の背中をボンボンと叩いた。


 痛いよう。

 酔ってるから力加減が出来ていない。


 もう!

 ほんとにおやじは口が臭いし、叩くと痛いし、ガサツだし、ママン大好きなんだからなあ。


 でもね。

 おやじは。

 僕を排除しないし。

 僕を心配してくれるし。

 僕にここにいて良いんだと思わせてくれる。


 背中を叩く、大きくて強い手から、それだけはわかった。


 変なおやじなんだけどさ。


 今日は。


 ありがとう。


 おやじ。


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