第13話 猫と海とアイドルと

「どうしたんだよ、俺だよ。五反田、五反田です。朝だからってぼーっとしてたらあぶないよ」

「はあ、はい……おはようございます。五反田さん」

「いえいえ、おはよう。ところで具合良くなったんだね、良かった。恋水さんが心配していたよ」

「沙也加が……そう、ですか。ありがとうございます」

「いろいろと心配かけて大変だったみたいだよ、あの子。ちゃんとお礼言わないとね」

「ええ、ありがとうございます。あの、それでなにか……?」


 五反田の指先がエレベーターの一階を押すのを見て、玲は動きを止めた。


「あのさ、家賃なんだけど。こんな場所で言い出すのもあれだけど」

「は、家賃? それは沙也加に……」


 家賃。つまり、借りているマンションの一部屋の賃料のこと。

 頭ですばやく研修時のことを思い出し、えっとここの家賃、どうするんだろ、なんで沙也加に言わないの。目覚めたばかりの私じゃ、なんにもわからない……。

 どっと押し寄せてくる不安の波に、玲のこころは押し流されそうだ。

 このまま波にまみれてそのまま海の藻屑になりそうだった。

 五反田はかぶせるように発言する。


「いい、オタクの会社との契約は来月末までだから。みなさん、出ていかれたようだし、そろそろ二人共どうするのかきちんとしてもらわないと。このまま家賃滞納とかされるとね、困るんだよね」

「あ、は、はい……そうならないように、善処します……」


 善処なんて言葉をどこで覚えたのだろう。まるでエリカが憑依する前からこんな会話をしていたかのように、すらすらと逃げ口上が口を突いてでてきた。


「また? 善処するってなにもしないっていうのと同じ意味だと思うんですけど、どうなの」

「いえ、そんなことは……っ」

 そういう意味だったんだ、ひとつ勉強、と玲は笑顔で生返事をした。

「そういうことは、なにかな?」

「あの、沙也加はいまアルバイトに行っていて、私も近いうちにアルバイト始めるので――その会社から、ちゃんと連絡があると思います」

「そうなの? なら待ってるよ。寒いから気を付けてね。俺、ここで」


 といい、五反田は一階に到着したエレベーターから先に降りて右方向に歩き出す。

 会社って言っちゃった……どこの誰なんだろう、会社。あなたは、どこで働いていたの? と玲は心で語りかけるが返事はない。


 とりあえず、ここにいたら五反田と鉢合わせしそうな予感がしたから、真逆の左方向に足を進めた。

 マンションのエントランスを出て入り口をくぐると、大通りに面していて朝早いというのに人の波が途切れない。


 そのまま歩き出した玲は、天眼を起動して周囲を索敵する。

 すると、付近に川のようなものがあるのがわかり、そちらに歩き出す。

 なんだかこの馴染みのない東京という街は無機質で、すれ違うだれもが他人に意識を向けていないように感じる。


 オルスだったら王都でも行き交う人々は笑顔でなごみのある優しい雰囲気を、街全体がかもしだしていたが、東京はまるで季節のようだと玲は感じた。

 夏になれば暑く、冬になればただ冷たく冷え込む人工都市。


「みんなそんなにせかせか歩いて、急ぎの用事があるのかな?」


 と独り言をつぶやいても耳をかたむけてくれる人はいない。

 十数分歩いて川の近くまでやってきた玲は、自然に触れたいと願ったが、土手は高いコンクリートの壁で覆われていて、とても向こう側を覗き見ることができない。


 オートリテを使って飛ぼうか、とも考えたがやめた。

 もし、他人に見られてしまったら大騒ぎになるからだ。

 この世界では空を飛ぶ人間はいない。能力を活かしてできるような仕事があれば、とふと思いつく。


 でも、それはアンジュバールとしてアイドル活動を続けることとは真逆のことになってしまう。だめだなあ、どうしたらいいんだろ……と玲は自分の背丈の倍はある壁を眺めて不満をこぼした。

 天眼によると、この上には道がある。橋のように見えて、中を通過する物体が見て取れた。電車だ。地下から上がってきて、地上の橋のなかを通過して、また地下に吸い込まれていく。


「オルスにはないものね」


 地下鉄という概念を研修でまなんだ記憶から引っ張り出し、玲は高架橋の下をくぐった。もうすこし先に行けば、開けた場所に出る。そこまでいけば、川や自然のものが見れそうな気がした。

 そこから歩いて数分。

 広い運河のような河川の両側には、歩道があり数人のひとびとが行き交っていた。


 ジョギングをする男性、仲良く会話しながら朝の空気を楽しみつつ歩く老夫婦、これから学校に向かうのだろう制服の女子高校生や、自転車に乗った会社員……さまざまな生き方をしている彼らを見て、玲はここなら落ち着くなあ、とほっと一息ついた。

 川べりに用意されているフェンスの前には一定の間隔でベンチが用意されている。

 太陽が昇りはじめたばかりだから、朝露で湿っているベンチを手で拭き取り、その上に座ってしばらく彼らを見つめていた。


「あ、かわいい……なんだったけ……そうだ、猫?」


 いつの間にやってきたのか、首輪をつけた猫がベンチの端にあがって座りこみ、手を舐めている。

 人に慣れているのか、真っ白くてふわふわな獣は、猫と呼ばれて耳を軽く反応させたものの、まったく意に介さずそのまま毛づくろいを始めた。


「猫は地球では喋らない……んだっけ」


 オルスに生息している猫のような生物は、人語を発することはできないが精神感応による念話である程度の会話をすることができる。

 玲はこの猫でもできないかなーと思い、むむむっ、と念を送ってみたがだめだった。


 もしかしたら気づいているけれど、無視しているのかもしれない。

 オルスでも猫は気まぐれで自分が反応したいときしか返事をくれない存在だった。


『ねえ、白い毛並みが素敵なあなた! この街ではどうやって生きているの?』


 と、相手を褒める言葉を交えつつ念話してみたが、猫はピクっとふさふさの尾を揺らしたまま、また毛づくろいに戻ってしまった。


「だめなのかー話せると思ったのに」


 と玲がぼやくと、猫は「ナーオ」と鳴いてこちらを一瞥し、たちあがると顔をクイっと引いて視線を投げてくる。

 ついてこい、と言われているようで、玲はえ? と不思議な感覚に包まれながら、その後を追いかける。


「まってよー、どこ行くの? 私、この辺りは詳しくないんだってば」

「ナーオ」


 猫はそんなこと知らないよ、黙ってついてこいと言わんばかりに鳴き、玲の先をさっさと歩き出す。

 歩道からそれ、川べりの道なき道を進んだ。


 人ひとりがどうにか歩けそうな路地裏の狭い道に侵入し、玲は服に汚れが付かないように追いかけるのが必至だ。

 やがて、道が広くなり開けた先に会ったのは、最初に見た高い壁だった。


「なんだ……川が見れないのね」と玲が落胆していると、猫は奥へと進みどこかに消えてしまう。

「待って」


 追いかけたらそこには壁の下へと降りる階段があった。

 降りてみると一気に開けた景色が広がり、そこにあったのは川と海が混じり合う光景だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る