第6話 尸不相

 ハクはズキリと頭が痛み、こめかみを掌の底で押さえつけた。


 おかしい、何かが、そんな気がした。


(師父の言葉は正しい……いえ、どうしていままで、それを疑うこともしなかったの。違う、師父の言葉は疑う必要が無くて……あれ? どうしてそう思ったんだったっけ)


 暗示が、解けかかっている。


「い、嫌」


 差し伸べられた手を、ハクは振り払った。

 そのことにロギアは少し驚いた様子だった。


 だが、すぐに不敵な笑みを浮かべると、彼はじりじりと彼女ににじり寄った。


(に、逃げなきゃ。でも、どうして、この人を前にすると、足がすくんで、動かない)


 その矛盾が、ロギアに確信を抱かせた。

 暗示は解けかかっているだけで、完全に解けたわけではないと。


「ハク。『復習の時間』だよ」


 耳の奥で甲高い弦の音が鳴り響いた気がした。

 彼女の瞳から生気が失われ、瞳がとろんと溶けだす。


「『俺の言葉は絶対』」


 ロギアの放つ言葉が、再び胸に刻まれる。


「『俺の言葉は疑う必要が無い』」


 度重なる暗示の影響で、ハクは『復習の時間』というフレーズを聞くだけで心が無防備になり、警戒心を抱けなくなるよう教育されてしまっている。


「『俺の願いを叶えることが、ハクの幸せ』」


 いわば彼女の心はむき出しの状態。


「『俺に頼みごとをされると嬉しくなり、どんな無理難題でも叶えてあげたくなる』」


 いとも簡単に深層心理を書き換えられてしまう、操り人形。


「さあハク、改めてお願いするよ。俺の新しい魔法の実験体になってくれるね?」


 だから、ハクはうっとりと頬を染めた。


「はい。すべては、師父の御心のままに」


 彼の都合のいいように心を塗り替えられてしまったハクに逃げ場など無い。


「いい子だ」


 これから非人道的な呪文を唱えられるというのに、ハクに恐怖や不安の色は一切うかがえない。

 あるのは目の前の男に対する全幅の信頼。


 だから、彼の理不尽な要求を、彼女は至極当然の物として受け止める。


「【尸不相シープーシャン】」


 魔法は放たれた。

 定命の理を冒涜するこの魔法は、術者本人が自身に使うことを想定した完全自律式。

 神経を遮断し、肉体の設計図を獲得し、任意の年齢に組み替えるまでの工程に歯止めは効かない。

 一度放たれてしまえば、再構築が終わるまで待ったはできない仕様となっている。


 ハクは自分の体が溶け出していくのを、不思議そうに眺めていた。


「どんな感じだい?」

「妙な心地です」


 理屈で考えれば悍ましい光景であるはずなのだが、どういうわけか恐怖を抱けない。

 ロギアの魔法なら大丈夫だという、根拠のない自信が彼女からあらゆる不安を消し去っている。


 血肉の分解は進んでいく。

 肺が溶け、喉が溶け、声が出なくなった。

 味覚が遮断され、嗅覚、聴覚、視覚の順に感覚器官がシャットアウトされていく。


 脳の再構築は最も慎重に行われる。

 障害を残さないため分解した血肉から酸素をでっちあげ、疑似的な血流で脳細胞の死滅を防ぎながら逐次置換実行を進めていく。


 目が覚めた、と表現したのは、遮断されていた視覚情報が復元された点で考えればあながち間違いではない。


 肉体再構築の魔法が完了し、ハクは己を取り戻した。


「やあ、気分はどうだい?」

「あはァ」


 色っぽい吐息とともに、ハクは身を抱き寄せるように、歓喜に打ちひしがれた。


「最高です、師父。なんだか生まれ変わったみたいです」


 この魔法は服次作用として、肉体のあらゆる傷病を取り除く。

 結果、五感は人類最高峰レベルまで引き上げられ、いままでの世界が不鮮明に思えるほど輝かしく外界を感じ取れるようになる。


「意識に違和感は?」

「全くの無問題です。以前の私同様、師父に対する親愛と恋慕が全てのまま何も変わりませんわ」


 強化された五感は彼女に圧倒的な全能感と、酔いしれるような万能感を与えていた。


「ただ、その、なんだか、胸が大きくなったような」


 体の方の違和感には、眉をひそめた。

 彼女の指摘は的確だ。

 実はそのあたりもこっそり改造されている。


 この世界には魔法があるが、それは物理法則の不存在を証明するものではない。

 当然質量保存の法則が働いており、無い胸を盛ることはできない。

 だがそれは物理法則の範囲内の話であり、こと魔法を使った場合は魔力というエネルギーを消費することで無から有を生み出すことも可能となる。


 もともとは幼児を急成長させるための措置だったのだが、物は試しと胸を盛ってみたのだ。

 結果、実験は成功した。

 並サイズだったハクの乳は爆乳のレベルに変貌を遂げている。


「似合っているぞ」

「えへへ、でしたら何も問題はございません」


 それで、ハクは胸の違いは気にしないことにした。


「しかし、存外あっさり成功してしまったな。もっとたくさんの失敗を覚悟していたのだが」


 ロギアは顎に手を当て思案に耽った。


 そして思い出す。

 そういえば建国の時も、いざ完成するまでは万難を排したかのように順調だったことを。


 どうやら他者に恩恵がある行いをするときは、天運が味方する星のもとに生まれたらしい。


 だから自嘲気に、彼は独り言ちた。


「なるほど、性分だ」


 ロギアは痛感した。

 自分は神話の表舞台に立つのを得意とする人間ではないと。

 だが、神話の登場人物や舞台を整えることは得意らしいということを。


「ハク、頼みごとがあるんだ」

「師父が望むことなら、なんなりと」


 ロギアはハクを育てる中で、ひっそりと、とある妄想に夢をはせていた。


 というのもこのハクという少女、出会ったばかりの、行き倒れ寸前の時には気づかなかったのだが、かなりの美人なのである。


 となれば、目撃してみたいものである。


 傾国の美女と、滅びゆく国を。


「アルカヘイブンの支配者を篭絡し、散財させ、国を破滅に向かわせてくれ。細かい部分はハクの好きにしてくれて構わないから」

「んー」


 ハクは目を細めてしばらく考えたのち、こう告げた。


「どうしても、ですか?」


 露骨な嫌悪感がにじみ出ていた。

 ロギアは眉をひそめた。


「ハクにとってそんなにも思い入れのある地だったか?」


 ひょっとして、また暗示が解けかかっているのだろうか。

 これは一度、深く暗示を入れ直した方がいいかもしれないと思った。


 結論から言うと、その必要は無かった。


「いえ。ですができればこの体は、師父以外の男に触れさせたくなく……」


 ハクがノリ気でなかったのは、とても可愛らしい理由だった。


 ロギアがたじろぐ。


 この程度の言動で動揺させられていては、どちらが破滅させられる身なのかわかりやしない。

 自嘲しながら、対策を考える。


「はあ、試してみるか。もう一つの、外法を」


 人類最古の国家、アルカヘイブンに魔の手が迫っている。

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