第三話「海よりも綺麗なものを撮影した日」
日陰は、久しぶりに早朝の空気を感じていた。夏休みに入ってからというもの、彼は昼過ぎや夕方に目を覚ます生活を続けていた。しかし今日は違う。枕元で鳴り響くアラームの音に目を開けると、時計の針はまだ朝の7時を指している。
「……もうこんな時間か」
わざわざアラームをセットして早起きするなんて、夏休み前の学校に通っていた頃以来だ。蝉の声ではなく、電子音で目覚める感覚が新鮮だった。眠たい目をこすりながらベッドを離れ、軽く伸びをする。
美晴との約束は8時に学校で。普段ならまだ夢の中にいる時間だが、今日は不思議と目覚めも悪くない。むしろ、胸の奥に小さな高揚感さえ感じていた。
「急がないとな」
洗面所で顔を洗い、鏡に映る自分の姿を見つめる。少し緊張しているような表情に、自分でも驚きを隠せなかった。いつもは無造作な髪も、今日は少しだけ整えてみる。
朝食を簡単に済ませ、カメラを首にかける。朝の光が窓から差し込み、これから始まる一日に小さな期待が膨らんでいく。玄関を出ると、爽やかな朝の風が頬を撫でた。
「さて、と」
日陰は深呼吸をし、足取り軽く歩き出した。早起きは苦手なはずなのに、今日は不思議とそれすらも心地よく感じていた。
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学校に到着すると、静寂が支配する校舎の前に、ひときわ目立つ美晴の姿があった。まだ朝の涼しさが残る空気の中、彼女は門の前で待っている。陽の光が彼女の肩にやさしく降り注ぎ、その輪郭をほのかに輝かせていた。
「おはよう、美晴さん」
少し緊張した面持ちで挨拶をすると、美晴は顔を上げ、満面の笑みで手を振った。
「おはよう、日陰!早起きできたんだね!」
美晴の声は明るく、まるで朝の光そのもののようだ。普段ならもっと遅い時間に起きている日陰にとって、この時間に誰かと会うのは新鮮で、どこかくすぐったい気持ちがした。
「……まぁ、なんとか」
照れ隠しに目をそらしつつ、彼は肩をすくめてみせる。すると、美晴は嬉しそうに微笑みながら、少し身を乗り出してきた。
日陰は学校の前で美晴と合流すると、スマホを取り出し、昨晩調べておいた海の情報を美晴に見せた。
「ここなんかどうかな?人が少ない穴場らしいんだ」
美晴は画面に映る小さな入り江の写真を見つめ、目を輝かせた。
「すごい!ここ、いいね!絶対楽しいよ!」
はしゃぐように小さく跳ねる美晴の様子に、日陰も思わず微笑んでしまう。彼女の嬉しそうな表情が、まるで小さな子どもが冒険に出かけるときのようで、無邪気なその姿に彼も少し心を弾ませる。
二人は並んで廃校を出て、駅へと向かって歩き出した。朝の風が心地よく肌を撫で、静かな街の中で鳥のさえずりが響いている。まだ眠っているような街の空気が、いつもとは違う一日の始まりを予感させていた。
「なんだか、ドキドキするね!」
美晴が嬉しそうに微笑みながら言う。まるで初めての遠足を楽しみにする子供のようで、その無邪気な表情に、日陰もつい口元を緩めた。
「そうだな…」
日陰は少し照れくさそうに頷きながら、隣で歩調を合わせる美晴をちらりと見る。彼女の表情は、どこか新鮮でいきいきとしていて、朝の光の中でまるで輝いているようにさえ見えた。
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「新幹線で行くよな?」
駅が目の前に見えてきたところで日陰がふと隣を歩く美晴に問いかける。
そんな日陰の問いに、美晴は少し不思議そうに眉をひそめ、「なんで?」と言いたげに首を傾げる。
「新幹線じゃなくて、普通の電車で行こうよ!」
日陰は思わず驚いた表情で返答する。
「え?でも、電車だと時間かかるだろ?せっかくだし、早く行こうと思って新幹線で……」
美晴は誇らしげに首を横に振ってみせた。
「電車の旅の方が、ゆっくり景色も楽しめるし、絶対楽しいじゃん!」
その言葉に、日陰は少し考え込んでしまう。いつもなら効率優先の自分だが、美晴がそんなふうに言うなら、たまには違う選択も悪くないかもしれない。
「……まぁ、いいか。じゃあ、電車で行くか」
そう決めると、日陰は駅の自動券売機で自分の切符を買い、美晴の方に視線を戻した。しかし、美晴は財布を探す素振りもせず、いたずらっぽく笑みを浮かべている。
「私は大丈夫!だって幽霊だから、電車に乗る前に透明になれば無料〜!」
本気なのか冗談なのかよく分からない美晴の言動に、日陰は呆れたようにため息をつく。
「いや、犯罪だから!普通にダメだろ……」
ふと「幽霊に法律が通用するのか?」という疑問が頭をよぎったが、考えても仕方がないと気づく。日陰はため息をつきながら財布を取り出し、彼女に切符を差し出した。
「……ほら、俺が出すよ」
「いや!悪いよ!本当にスーッて透明になって、日陰の膝の上に乗ってるから!大丈夫だよ!」
「いや、何が大丈夫なんだよそれ!いいから、ちゃんと切符買って普通に乗ってくれ!」
美晴が当たり前のように言うことに呆れつつ、日陰は再度切符を買って彼女に手渡す。
「えっ、本当にいいの?ありがとう、日陰!」
美晴は嬉しそうに笑ってぴょんと一歩前に出た。その無邪気な姿に、日陰も小さく微笑みを返し、彼女とともに電車の改札へと向かっていった
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二人は目的地の海を目指して静岡県方面への電車に乗り込んだ。
電車の座席に腰を下ろした瞬間、美晴は周りを見回し、どこか懐かしげに窓の外の景色に目を奪われていた。
「電車に乗るの、すごく久しぶり……生きてた頃の通学以来かな?なんだか、冒険みたいだね!」
美晴は胸の前で両手を組み、小さくも嬉しそうに言った。まるで遠足に向かう子供のような輝く表情が、朝の光の中でひときわ映えて見える。
しかし、「生きてた頃」という言葉が日陰の心に引っかかった。この世にいないはずの彼女が、まるで普通の少女のように楽しげに語っている。美晴が幽霊であることを、彼は確かに理解しているはずなのに、その実感が今もどこかぼんやりしている。
自分の目の前で笑う彼女が本当に「この世の存在」ではないのだと、言葉を噛みしめるように思い返す日陰。それでも、彼女の隣で歩くことに、自然と心が弾んでいるのを感じていた。
「美晴さんは、どんな高校生だったんだ?」
ふとした疑問が口をついて出た。彼女の微笑みがまるで普通の女の子のように見えたからだ。
美晴は小さく首を傾げて、少し困ったように笑った。
「うーん……年は16歳だから、高校生のはずなんだけどね。なんていうか、ちゃんと通ってないから、まだ本当の高校生になれてない、みたいな感じかなぁ」
美晴は頭をかきながら、どこか煙に巻くように曖昧に笑ってみせる。それはまるで夢から覚めることなく佇んでいるかのように見える。
日陰はそれを察したかのように、無理に答えを引き出そうとはせずに、短く「そっか」と微笑みを返すだけに留めた。
電車は軽やかに線路を進み、やがてトンネルを抜けると、窓の外に青い海が広がった。
「わぁっ……!」
美晴の顔が一瞬で輝き、窓に体を寄せて目を輝かせる。陽光に照らされた水面がキラキラと光り、まるで宝石が散りばめられたように広がる景色が眼前に広がっている。美晴は目を見開いたまま、感嘆の息を漏らしていた。
「すごい……海って、こんなに綺麗なんだね……」
その言葉に、日陰もつられて窓の外に目をやる。青い海と、波が寄せる音が窓越しに聞こえてくるようで、胸の奥が少しだけ軽くなる気がした。日陰はそっと隣の美晴を見やり、彼女の喜ぶ姿に思わず微笑んでしまう。
「こんなに喜ぶなんて……来てよかったな」
その呟きは美晴には聞こえなかったのか、彼女はまっすぐ海の景色に目を向けたまま、窓越しに微笑んでいた。
「日陰、ほら、あそこ!海がもっと近くに見えるよ!」
指さす方を見れば、海岸沿いに小道が見えてきて
次第に目的地に近づいていることがわかる。
日陰は少し照れくさそうに微笑みながら、心の中で「早起きしてよかった」と思わずにはいられなかった。
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駅に到着し、改札を抜けると美晴は海へと続く小道を跳ねるように先へ進んでいく。真夏の日差しが照りつける中、二人の眼差しには期待が満ち、足元の砂利道を踏む音がかすかに響く。道の先からはかすかに潮の香りが漂い、夏の匂いがあたりに満ちていた。
「この道をまっすぐ進めば、すぐに海が見えるはずだよ」
昨晩、地図で調べた小さな浜辺までの道順を日陰が説明すると、美晴はワクワクした表情で周りを見渡した。
「日陰、なんだか探検みたい!こうやって目的地に向かう感じ、すごくドキドキするね」
軽やかな足取りで先を行きながら、美晴は楽しそうに振り返って笑った。その無邪気な姿を見ていると、日陰もどこか気が軽くなり、思わず微笑んでしまう。
「確かにな。学校の行事なら、遠足みたいだな」
ふと口にした言葉に、美晴は嬉しそうに頷いた。
「うん!最高の夏になりそう!」
小道を抜けると、視界が一気に開け、広々とした砂浜が姿を現した。青く澄んだ海がどこまでも広がり、白い波がゆっくりと打ち寄せている。美晴は一瞬立ち止まり、その景色をじっと見つめた。
「……本当に、綺麗だね」
彼女の静かな声が、心に染み渡るようだった。日陰はそんな美晴をそっと見つめ、この時間が特別なものに思えてきた。
「行こ、日陰!」
美晴が砂浜に一歩踏み出し、日陰もそのあとに続く。
波音が近づくにつれ、日陰は胸の鼓動が高鳴るのを感じた。目の前に広がるのは、青い海と白い砂浜。その光景は、彼にとって未知の世界であり、その美しさに息を呑む。
潮風が髪を揺らし、かすかな塩の香りが鼻をくすぐった。 観光地ではなく、日陰が探して見つけたこの静かな浜辺には、他に人影がまるでない。二人の会話や足音だけが広い砂浜に響き、まるでこの場所が二人だけのために存在しているかのようだ。
夏に女子と二人で「海」なんて、自分には縁のない世界だと思っていたはずなのに、今はその光景がどこか心地よい。
日陰は思わず深呼吸をして、胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込んだ。
「どう?海、来てよかったでしょ?」
前を歩いていた美晴がふと振り返り、眩しい笑顔を向ける。太陽の光を受けて輝く彼女の姿は、そのままこの風景に溶け込むかのように美しかった。日陰は一瞬言葉を失い、ぎこちなく頷く。
「……ああ、良かった」
そう言いながらも、日陰の心の奥にはまだ何かが引っかかっていた。この美しい瞬間を前にしても、カメラを構える手が迷う。いつか消えてしまうかもしれない――その儚さが、彼を躊躇させていた。 その彼の様子に気づいたのか、美晴がそっと隣に歩み寄り、優しく微笑んだ。
「ねぇ、日陰。私の夏の思い出を残すために、代わりに撮ってくれない?」
その言葉は、柔らかくまっすぐに日陰の心に響き渡った。
「私、この夏を忘れたくないから。それに、写真部の課題の『夏』にもぴったりでしょ?」
彼女のひと言が、日陰の心の中にかすかに残っていた重い扉を少しだけ開けてくれた気がした。彼女のために、そして自分の課題のために――そう思うと、わずかに気が楽になった。
「……わかった。撮ってみるよ」
日陰は首にかけていたカメラを手に取り、ファインダーを覗き込んだ。美晴は嬉しそうに砂浜を駆け回り、波打ち際で無邪気に笑っている。その楽しげな姿に心を奪われ、いつの間にかシャッターを切る指が自然と動いた。
カシャッ。
彼女を初めて撮影した瞬間、日陰は肩の力がすっと抜けるのを感じた。ずっと感じていた躊躇いや迷いが、まるで解き放たれたかのように消えていき、胸の奥に温かな高揚感が広がっていく。
「どう?撮れた?」
美晴が笑顔で駆け寄ってくる。日陰はカメラの液晶画面を確認しながら、小さく微笑んで頷いた。
「……ああ、いい感じに撮れてる」
その言葉は嘘ではなかった。海と空の青さの中で、彼女の笑顔が美しく映し出されていた。
「よかった!じゃあ、もっといっぱい撮って!」
美晴はそう言うと、再び海へと駆け出していく。日陰はファインダー越しに彼女を追いながら、心の中で一つの変化を感じていた。
消えてしまうからこそ、今この瞬間を残したい。廃れていくものを恐れるのではなく、その美しさを形に残すことの大切さを、彼は初めて理解したのかもしれない。
シャッター音が何度も響く中で、日陰は純粋に写真を撮る楽しさを味わっていた。風に舞う彼女の髪、笑い声、きらめく波しぶき──すべてが輝いて見える。
「ありがとう、日陰。なんだか、私もすごく嬉しい」
美晴が振り返り、穏やかな笑顔を向ける。その瞳には、彼女自身もまた何かから解放されたような輝きが宿っていた。
「こちらこそ、ありがとう。撮らせてくれて」
二人の間に流れる穏やかな時間。波の音が心地よく耳に響き、遠くにはカモメの鳴き声が聞こえる。日陰はそっとカメラを下ろし、目の前に広がる海の景色を心に焼き付けた。
「ねぇ、日陰。これからも、いろんなところで写真を撮ろうよ」
美晴が提案すると、日陰は少し考えたあと、ゆっくりと頷いた。
「……ああ、そうだな。もっと撮りたい気分だよ」
自分でも不思議なほどに素直な気持ちだった。
そんな日陰の言葉にニコニコと嬉しそうな美晴は、砂浜に視線を落としながら、ふとつぶやいた。
「実はね、私、花が好きなんだ」
「花?」
日陰は唐突な彼女の言葉に首をかしげた。
「うん。花って、綺麗に咲いてもすぐに散っちゃうでしょ。でも、その一瞬だけは何よりも美しく咲いている気がするの」
その言葉に、日陰は胸が少し締めつけられるような感覚を覚えた。花の儚さに、自分とは異なる感性を持つ美晴の姿が重なる。
「夏の花といえば……やっぱり、ひまわりだよね。あの鮮やかな黄色い花が一面に咲いているところ、見てみたくない?」
美晴の瞳が期待に輝き、じっと日陰を見つめる。日陰はその輝きに圧倒されながらも、彼女の願いを叶えてあげたいと思った。
「……見たい、かも」
日陰の返答に、美晴は満面の笑みを浮かべ、嬉しそうに小さく跳ねた。彼もその様子につられて、自然と微笑んでしまう。
「やった!じゃあ次はひまわり畑に行こう!きっと素敵な写真が撮れるよ!」
美晴の明るい声が響く中、日陰はもう一度カメラを両手で持ち上げ、空を見上げた。自分の中で何かが変わり始めているのを感じながら、これからの日々を想像してふと笑みをこぼした。
「よし!じゃあ続き!撮って撮って!」
美晴はそう言い残すと、再び海へと駆け出していった。
日陰はファインダー越しに彼女を追いながら、この夏を一生忘れたくないと強く思った。
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海を満喫したあと、二人は砂浜で小さく息をつき、ゆったりとした夏の午後を過ごしていた。
夕焼けに照らされた海は青さを忘れ、オレンジ色に染まっている。
潮風に当たりながら、静かに寄せては返す波の音が耳に心地よく響き、まるでこの世界には二人だけしか存在していないかのような錯覚すら覚える。
「ここに来れて、本当によかった……ありがとう、日陰」
美晴がふと遠くを見つめながら微笑む。その表情は穏やかで、夕暮れの柔らかな光に照らされて、ますます美しく映えていた。
日陰は照れ隠しのように視線をそらし、ぎこちなく口を開く。
「べ、別に俺がしたことでもないし……でも、喜んでくれたなら良かった」
美晴がふわりと笑う。波打ち際で跳ねる光のように、その笑顔は儚くも鮮やかだった。
やがて、二人は波の音に耳を傾けながら、静かな海辺で穏やかなひとときを過ごし続けた。
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二人は静かに駅へと向かって歩き出した。
駅までの道のりには観光客の姿はほとんどなく、帰路を急ぐ地元の人たちがぽつぽつと通りを歩いているだけだ。美晴は時折振り返っては、名残惜しそうに海を見つめている。
「なんだか、あっという間だったね……」
美晴の小さなつぶやきに、日陰もふと足を止め、薄明の空を眺めながら静かに答える。
「そうだな。でも……良い夏の思い出になった、気がする」
その言葉を聞いて、美晴は嬉しそうに微笑んだ。
しばらく歩くと、駅の入口が見えてきた。僅かに残る日の光に当てられた駅舎は、どこか懐かしさを感じさせる落ち着いた佇まいで、まるで一日の終わりを告げるかのように静かだった。
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東京方面へ向かう電車に揺られ、窓の外はすっかり夕闇が広がり始めていた。ぽつりぽつりと灯る街灯の明かりが流れる風景に混ざり、幻想的に浮かび上がる。
日陰は少し疲れた様子で外を眺めていた。
ふと窓際の美晴に視線を移すと彼女も外を眺めて静かに座っていた。表情は穏やかで、どこか遠くを見つめているようだった。しばらくの沈黙のあと、美晴がふいに微笑みを浮かべて口を開いた。
「ねぇ、日陰。今日は、本当にありがとう。楽しすぎて、幸せすぎたよ。こんなふうに電車で遠くに行くなんて、昔はよくしてたけど……すごく久しぶりだったから、なんだか懐かしかった」
その言葉に、日陰は少し驚いて彼女に目を向けた。
「昔……か…生きてた時のこと、だよな…」
「うん。中学の頃かな。友達と遠出して、いろんな場所に行ったりしてた。くだらない話をして、笑いあったりね」
美晴は小さく笑いながら、かすかに視線を落とした。けれど、その笑顔にはどこか儚さが漂っていた。
「でも、高校には結局行けなかったから……今こうして『友達』と過ごせてることが、すごく嬉しいんだ」
そのひと言に、日陰の胸が少し締めつけられるような感覚を覚える。何があったのだろう、なぜ彼女は高校に行けなかったのか。疑問が頭に浮かびながらも、それを口にすることを躊躇う自分がいる。美晴が今この瞬間を、心から楽しんでいるのが伝わってきたからだ。
「……美晴さんは、本当に楽しそうだよな」
日陰がふと思いのままを口にすると、美晴は驚いたように日陰を見て、それから小さく笑った。
「そう見えるならよかった。でも、本当に楽しいよ。日陰が一緒だから」
恥ずかしげもなく発されるその言葉に、日陰は顔が熱くなるのを感じたが、心にはじんわりと温かな優しさが広がる。
「俺で…良かったら。美晴さんがしたかったこと、できるだけ付き合うよ…」
口にしてから、自然と出たその言葉に自分で少し驚く。美晴に出会う前の自分なら、こんな言葉を口にすることなど想像もできなかっただろう。
美晴はその言葉に照れたように微笑み、優しく目を細める。まるで日陰の心の中の暗がりに光を差し込むかのように、彼女の笑顔はどこか温かな輝きを持っていた。
「ありがとう、日陰。本当にうれしい」
しばらくの間、二人の間に静かな空気が流れた。電車の揺れが心地よく、どこか夢の中にいるような感覚さえ覚える。
美晴がふと口を開き、何かを言いかけては言葉を飲み込むように、視線を窓の外へ向ける。
そしてしばらくしてから、静かに呟くように話し始めた。
「……本当は、こんな風に誰かと一緒に過ごすことなんて、もうないと思ってたんだ」
日陰は美晴の言葉を黙って聞いていた。彼女の横顔には、どこか切なげな影が差しているように見えた。
「友達とも過ごせなくなって、やりたいこともできなくて……それが耐えられなかったから……」
一瞬、言葉が途切れ、美晴は微かに唇を噛む。その小さな仕草に、日陰は自分でもわからない感情が胸を掠めるのを感じた。
「でもね、日陰と一緒にいると、なんだか生きてる頃に戻ったみたいで……」
そう言うと、美晴はぽつりと小さなため息を漏らし、それから柔らかく笑った。
「だから、ありがとう。忘れかけてた気持ちを思い出せた気がするんだ」
日陰はその言葉を胸に受け止め、少しだけ視線を下げた。彼女の言葉が自分にとっても大切なものだと、どこかで感じ取っていた。
「美晴さん……」
日陰は何か言おうとしたが、結局その先の言葉が見つからなかった。それでも、美晴は何も聞かず、ただ穏やかな笑顔で彼を見つめ続けていた。電車がしばらく進むと、二人を包む空気はさらに静かになり、夜が深まるとともに、彼女の抱えるものが少しだけ見えた気がした。
やがて日陰は少しずつ眠気に誘われ、揺れる車内でうとうとしていた。
一方で美晴は眠らないまま、じっと窓の外を見つめていた。その瞳にはどこか懐かしむような色が宿っている。
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日陰は小さなお腹の音にハッとして目を覚ました。
視界が鮮明になると電車は自宅の最寄駅に到着しているのがわかった。
「……今日は何も食べてないな」
そんな彼の呟きに、美晴が振り向いて嬉しそうに笑い、立ち上がってドアの方へ歩き出す。
「そっか!ごめんごめん!忘れてた!日陰はご飯食べないと死んじゃうもんね!私はもう死んじゃってるから大丈夫だけど」
日陰は一瞬どう反応していいか迷い、思わず苦笑いを浮かべながら美晴の後ろをついていく。
彼女が冗談っぽく笑っているのを見て、自然と肩の力が抜けたが、どこか言葉にできない寂しさも同時に感じていた。
「……なんか、それで笑っていいのか分からないんだけど」
美晴はいたずらっぽく笑い、「平気平気!」と言いながら足を進める。
駅の改札を出ると二人は小さな定食屋を見つけて、日陰は夕食をとることにした。
日陰が食事をとっている間、美晴は何も口にせず、静かに彼の隣で座っていた。黙々と箸を進めながらも、彼女が何も食べない様子に日陰は少し胸が締めつけられるような気持ちになった。ふと、彼は顔を上げ、美晴に問いかけた。
「ほ、本当に何も食べないのか?」
「うん!寧ろ食べられないから」
変わらない調子で笑いながらの美晴だったが、少しだけその言葉に影が見えた気がした。
何も食べない美晴を見ていると本当に自分とは違う存在なのだと改めて実感する。
「……飲み物とか、ちょっとでも飲まないか?」
日陰が少し遠慮がちに尋ねると、美晴はにこっと笑い、少し考え込むような顔をした後、カップにそっと手を添えた。彼女はそれを口に運ぶことはなかったが、まるでその温もりを感じているかのように、楽しげに目を細めた。
そんな美晴の姿を見て、日陰はまたも不思議な安堵を覚えた。
---
夜はすでに深まり、涼やかな空気が駅の周りを包んでいた。日陰と美晴は静かに歩きながら、廃校までの道を進んでいた。昼間とはまた違う穏やかな時間が、二人の間に流れているようだった。
やがて廃校の門が見えてくると、美晴がふと足を止めて日陰を振り返る。その優しい瞳に見つめられると、日陰は少し緊張し、自然と視線をそらしてしまった。ずっと言おうと思っていた言葉が、喉元に詰まる。
だが、ゆっくりと顔を上げ、意を決したように美晴に向き直った。
「……今日は、すごく、楽しかった」
改めて彼女の顔を見つめると、胸が高鳴るのを感じた。こんな素直な気持ちを言葉にすることが、思いのほか照れくさい。でも、どうしても伝えたかった。
「それに……ありがとう、誘ってくれて」
日陰の言葉はぎこちなかったが、まっすぐな思いが込められていた。改まって口にするとなると、自分でも驚くほど恥ずかしく、まるで告白のような緊張感が体を包み込む。彼は思わず視線を落とし、息を詰めるようにして次の言葉を待った。
美晴はその気持ちを受け止めるようにじっと聞いていたが、やがて優しく微笑んだ。
「うん、私も楽しかった。ありがとう、日陰」
その柔らかな微笑みと、返された言葉に、日陰はほっとしたような、そして少し胸がいっぱいになるような感覚を覚えた。
二人はしばし見つめ合い、やがて美晴が手を軽く振り、校舎へと歩き出す。日陰は見送るようにその姿を目で追った。美晴の背中が夜の闇に溶けていくように遠ざかっていくのを見つめると、なぜか胸の奥がざわつくような切なさが広がっていった。
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