第二話「一夏の授業、幽霊の生徒とともに」

日陰はまだ思考が完全には追いつかないまま、美晴の手をそっと離した。冷たい指先の感触が心に残り、言葉も出ないまま校舎の中へ足を踏み入れる。廊下には埃が積もり、床が軋む音が静寂に響き渡っていた。薄暗い廊下を進むうちに、現実から遠ざかっていくような錯覚を覚えながらも、不思議とその感覚が心地よく、このままずっとこの時間が続けばいいと、無意識のうちに願っている自分がいた。


「幽霊って……そんなに軽いノリで言うことじゃないだろ」


ようやく声を絞り出した日陰に、美晴はケラケラと楽しげに笑う。


「だって、重い空気で言われたらびっくりするでしょ?友達ができたのなんて久しぶりなんだから、楽しく過ごしたいんだもん」


「友達って……お、俺が?」


当たり前のようにさらっと口にする美晴に、日陰は思わず戸惑いの色を見せる。その様子を横目で見た美晴は、まるで「違うの?」と言わんばかりに首をかしげてみせた。

「か、仮にそうだとしても、俺は普通の人間だぞ?」

自分でも何を言っているのかよくわからないが、自称幽霊の彼女の「友達」が務まるのかと、どこか不安を感じてしまう。日陰のたじたじな反応に、美晴はじっと彼を見つめながら、軽く肩をすくめて言った。


「大丈夫、大丈夫。こうやって普通に話せるし、触れられるし、何より全然怖くないでしょ?むしろ可愛いでしょ?」


冗談めかして笑う美晴の言葉に、日陰は急に恥ずかしさがこみ上げてきて、返す言葉を失った。ただ、そのまま黙って彼女の後についていく。

少しだけ先を歩く美晴は、そんな日陰の反応を特に気にした様子もなく、ふと足を止めると、振り返って自信ありげに微笑んだ。


「ちゃんと楽しいこと、用意してるから!」


美晴がそう言って自慢げに目の前の教室のドアを開けると、少し埃っぽい空気がふわりと流れ込んできた。

教室の中は薄暗く、机や椅子が静かに並び、窓から差し込むわずかな光が埃を照らし出している。廃校に漂う静かな空気の中、まるで時間が止まっているかのようだった。


美晴が軽く跳ねるようにして教室に入ると、にこっと笑いながら日陰の方を振り返り、真っ直ぐに彼を見つめた。


「ねぇ、日陰。今日だけ私の先生になってくれない?」


「えっ、俺が……先生?ど、どういうことだ?」


戸惑いの表情を浮かべる日陰に、美晴は楽しそうに頷く。


「そう!私は生徒役で、日陰が先生役。いいでしょ?」


「いや、なんで俺が先生なんだよ。歳もほとんど変わらないじゃないか!」


美晴は得意げに胸を張り、「実はね」と少しだけ大人びた調子で続けた。


「私、死んだのは結構前だから、実質大人なんだよー!えっへん!」


「いや、何だそれ……あと死んだとかそんな軽いノリで言うなよ。それにだとしたら俺が先生ってますますおかしいだろ」


照れ隠しのように反論する日陰の様子を、美晴は嬉しそうに眺めていた。


「いいでしょ?日陰先生、よろしくお願いします!」


「先生」なんて、人生で初めて呼ばれたかもしれない。なんとも言えない気恥ずかしさと、ほんの少しの誇らしさが入り混じった、妙に心地よい響きだ。教師になった初日の先生たちも、こんなふうに感じていたのだろうか、とぼんやり思う。


彼女の純粋な瞳には、まるで期待に満ち溢れているようで、無下に断るのも気が引ける。

日陰はため息をつきながらも、内心では少しだけ楽しさを感じている自分に気づき、仕方がないかと思いながら教壇へと足を踏み入れた。

残っていたチョークのかけらを拾い上げ、黒板に【国語】と書いて美晴の方を振り返る。


「えっと……藤井さん、今日は……国語の授業、やる、ぞ」


なんとなく苗字で呼んでみた。先生らしさを出そうとしたつもりだが、言ってから少し恥ずかしくなってしまう。そして「授業」と聞いて、あまり考えもせずに【国語】を選んだ。特に深い意味はない。


「ふふっ、よろしくお願いします、日陰先生!」


美晴は席にちょこんと座り、まるで本物の生徒のように両手を膝に揃えて、まっすぐ日陰を見つめている。その視線に圧倒され、日陰はどぎまぎとしながら、なんとか続ける。


「あ、ああ……それで、今日は……えっと、詩をやろうかな」


「詩かぁ、素敵な言葉が並んでる感じだよね。でも、詩って何のために書くんだろう?」


思いがけない質問に、日陰は思わず考え込んでしまった。何も考えずに選んだテーマが、急に深い意味を帯びて感じられる。


「えっと……その……詩って……心にあるものを……表すための、もの……というか、かな?」


美晴が少し首をかしげながら、熱心に聞き入っているので、日陰はさらに緊張して、ぎこちなく言葉を継ぐ。


「た、たぶん……忘れたくないこととか……誰かに伝えたい気持ち……とか……そ、そういうものを……形に、するためにあるんだと、思う……」


「へえ……そう考えると、すごくロマンチックだね。じゃあ、日陰先生も詩を書いたりするの?」


美晴のまっすぐな問いかけに、日陰は一瞬息を呑んでから、慌てて首を振った。


「お、俺は……書かない。いや、書いたこと、ない……」


「えー!先生なのに、それじゃダメじゃん!」


美晴は口を大きく膨らませ、わかりやすく不満げな表情を浮かべる。その仕草に、日陰は反射的に肩をすくめて「す、すみません」と、思わず謝ってしまった。

しかし、そんな日陰の様子を見て美晴は「嘘だよ」と軽く笑い、すぐに顔をほころばせる。


「ふふっ、でも日陰なら、きっと素敵な詩を書けそうだよ。『さみしい廃校にて、ある日突然現れた少女の美しさに――』とか?」


美晴がからかうように両手を広げてポーズを取ってみせると、日陰は困惑して顔を赤らめ、視線をそらしながら口元をゆがめた。


「は!?な、何言ってんだよ!恥ずかしいから……やめてくれ」


「じょーだんだよー!でもね、日陰。何でもね!伝えたい気持ちがあるなら、ちゃんと言葉にしないとだよ!」


「あれ?立場が逆転してないか?俺が先生役のはずだよな……」日陰は心の中でぼやきながら、なんとも痛いところを突かれたような気がして、思わず汗が滲む。


日陰は他人に気持ちを伝えるのが得意ではない。言葉にできないまま伝わらず、損をしたことも少なくなかった。そのことを全部見透かしているかのような美晴の瞳が、優しく彼を包み込んでいた。その眼差しはまるで本当の先生のようで、日陰はかすかに息を呑む。

ただ、今は自分が先生役なのだ。目の前で楽しそうに輝く美晴の瞳に見つめられていると、この授業をやり遂げねばという、妙な使命感が芽生えてくる。日陰は仕切り直すように咳払いをしてから、美晴に向かってぎこちなく指示を出した。


「と、取りあえず……藤井さん。詩を書いてみましょう」


「はい!わかりました!」美晴は満面の笑みで応じると、嬉しそうに続けた。「あ!日陰先生、ちゃんと採点してね!」


「……はい、藤井さんの詩……楽しみです……」


そうぎこちなく応じる日陰に、美晴は無邪気に微笑みを返す。その笑顔に、廃校の静かな教室が、不思議な温かさと穏やかさに包まれていくようだった。


---


美晴は教壇の前に立つと、慎重にチョークを握りしめ、黒板に文字を綴り始めた。彼女の手が静かに動き、言葉が形を成していく。日陰はその背中を見守り、やがて完成した詩をゆっくりと目で追った。

黒板に書かれていたのは、短くもどこか儚さを感じさせる言葉だった。


【ひと夏の風に 消えゆく夢の欠片誰かの記憶に そっと残れたなら】


日陰は目を細めてその詩を読み、しばらく黙り込んだ。意味を理解しようと努めたが、正直なところ、その言葉が示す意図には辿り着けない。ただ、胸にじんと沁みるような感覚が広がり、美晴の想いの一端を感じ取った気がしていた。


「……すごいな。俺には、全然意味がわからないけど……なんか、すごいと思う」


照れくさそうに言葉を絞り出す日陰に、美晴は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかい微笑みを浮かべた。


「ありがとう、日陰先生。私の気持ちが少しでも伝わってたら、嬉しいな」


日陰は無意識に、彼女の詩の意味がわからないことがどこかもどかしく感じられていた。もし、この詩の真意を理解できれば、掴みどころのないこの少女を少しは理解できるのかもしれない──そんな思いがふと心をよぎる。しかし、彼女の秘めた想いに無遠慮に触れるのはどこかためらわれ、日陰はその思いをそっと胸の奥に押し込んだ。


「何点?」


美晴が少し照れくさそうに微笑み、日陰にまっすぐ視線を向けた。


「…100点、です……た、多分」


日陰は返答しながら、心の中で自嘲する。正直、詩の知識もなく、採点なんてできる立場ではないのは分かっている。けれど、美晴の詩には意味が分からなくても、どこか引き込まれる美しさがあった。それだけで、満点をつけるには十分だと思えた。


美晴は日陰の言葉に満足そうに大きく頷くと、両手をパチンと合わせて声を張り上げた。


「よし!じゃあ次の授業ね!」


教壇に立ったままの姿勢でいた日陰は、その言葉に思わず表情をこわばらせる。


「……え?次もあるの?」


驚きを隠せない日陰に、美晴は少し首をかしげ、当然とばかりにニッコリと微笑む。


「一科目だけなんてもったいないでしょ?」


「えっと……それも、そうなのか?」


美晴の無邪気な笑顔に押されるように、日陰はつい頷いてしまった。次の瞬間、「起立!」と美晴の張り上げる声が響き、圧倒されるように日陰も姿勢を正す。


「礼!」の掛け声で軽く頭を下げると、楽しげな「ありがとうございましたー!」という美晴の声が静かな教室に響き、日陰は肩をすくめて小さくため息をついた。残る余韻に、どこか温かなものを感じている自分が少し不思議だった。


「で、次は……何の授業をやるんだ?」


「次は理科!実験がしたい!」


「実験って……どこでやるんだ?」


「ふふ、こっちについてきて!」


美晴は机からぴょんと離れると、手招きしながら廊下の方へと歩き出す。日陰もその後を追い、階段を登って3階へと向かった。


「理科室はね、一番奥の部屋だよ!」と、美晴が楽しそうに説明する。


日陰が彼女の案内で扉に手を掛けると、鍵がかかっていることに気づく。


「でも、鍵が……」


「あ、ちょっと待ってて!」


美晴は得意げに笑みを浮かべると、扉に向かってふっと体をすり抜けた。日陰は、その光景に息を呑む。二度目だとはいえ、まだ慣れない。まるで夢のようなその姿に、彼は目を丸くして呟いた。


「……これ、夢じゃないよな…」


思わず自分の頬をつねってみたが、しっかりと痛みを感じて、これが現実であるのだと理解させてくる。

けれど、扉をすり抜ける美晴の姿はどう見ても非現実的だし、そもそも彼女との出会い自体が小説のようで――今日の出来事は、一生忘れられないだろうな、と日陰はぼんやりと思った。


---


美晴は内側から扉を開け、満面の笑みで「どーぞー!」と手を広げ、日陰を理科室の中へと招き入れた。


「お、お邪魔します……」


日陰はどこか気まずそうに呟きつつ、そっと教室内に足を踏み入れる。薄暗い室内には、長年使われていない実験器具が埃をかぶって並んでいた。奥の棚にはガラス瓶やフラスコが整然と並び、天井からぶら下がる古いランプが、この校舎が刻んできた年月の重みを語っているようだった。


「ほら!日陰先生!早く早く、実験しよう!」


美晴が楽しげに声を上げ、部屋の奥へと進んでいった。彼女は棚からいくつかの器具を運び出し、埃まみれのテーブルを軽く払い、その上に丁寧に並べた。その真剣な姿に、日陰は思わず目を奪われる。まるで本当に授業が始まるかのような雰囲気が漂い、彼の胸には、ここが廃校であることも忘れさせるような不思議な感覚が広がっていた。


フラスコやビーカーを並べ終えた美晴が、満足げに日陰へと視線を向ける。


「で……何の実験をするんだ?」


日陰が問いかけると、美晴は嬉しそうに振り返り、いたずらっぽく微笑んだ。


「今日はね、透明な液体から何かを生み出す実験!見た目は何もないけど、混ぜると魔法みたいに色が変わるんだよ!」


「そ、そっか……そんな実験もあるんだな」


日陰は少し困惑しながらも、彼女の熱意に引き込まれ、机に向かって手を伸ばした。


「はい、じゃあ先生!まずこのビーカーを持って」


美晴は嬉しそうにビーカーを差し出し、そばにあった試薬瓶を手に取ると、慎重に青色の液体をビーカーに注ぎ入れた。日陰は「また立場が逆転してるよな。俺が先生だったはずなのに」と内心思いながらも、彼女の動作をじっと見つめ、何が起こるのか少しだけ期待している自分がいた。


「じゃあ、日陰先生!次はこの液体を少しだけ混ぜて!」


美晴の指示に従い、日陰がそっと液体を混ぜ始めると、淡い色がゆっくりと広がり、海のような青色がやがて柔らかな紫色へと変わっていく様子に、日陰は思わず息を飲む。


「……すごい、本当に魔法みたいだ」


日陰は、ビーカーの中で色が変わっていく様子に見とれ、思わず感嘆の声を漏らした。その表情を見て、美晴は満足げに頷き、満面の笑みを浮かべる。


「ふふっ、でしょ?理科の実験って、こういう瞬間が楽しいんだよね!」


美晴が小さく跳ねるように嬉しそうに言うと、日陰は、彼女が心から楽しんでいることが伝わり、少し照れくさそうに頬をかいた。自分が教える立場なのに、完全にリードされている気がしてならない。


「なんだか、さっきから俺が先生ってよりも、教えられてる気分だよ」


少し肩をすくめてそう言うと、美晴は得意げに笑い、もう一度ビーカーを指差した。


「いいの、いいの!先生役してくれてありがとう!すごく楽しいよ!じゃあ、次は……」


美晴は何かを思い出したかのように言葉を切り、ふと窓の外に目を向けた。夕暮れが校舎に柔らかな橙色の光を落としている。理科室に差し込むその光が美晴の横顔を淡く照らし、幻想的な雰囲気を醸し出していた。

日陰はそんな美晴の横顔に目を奪われ、胸の奥がじんと締め付けられるような感覚に襲われる。そして、同時に「綺麗だな」と思っている自分に気づくと、無意識に首にかけたカメラに手を伸ばし、少し持ち上げてしまっていた。

すると、美晴がその様子に気づき、やさしく微笑みながらこちらを見つめた。


「あれ?なにか撮りたくなった?」


美晴の澄んだ瞳に見つめられ、日陰は急に恥ずかしさが込み上げてきた。慌ててカメラを下げ、ぶっきらぼうに言葉を返す。


「い、いや!違うんだよ。ただ……」


彼女の姿に見とれて、写真に収めたいと思ってしまったなんて、正直に言えるはずもない。ただ、いつもはあまり人に関心を持たないはずの自分が、この少女には不思議と惹かれてしまう。彼女の過去や、彼女の言葉に込められた意味、そして今こうして自分の目の前にいる理由を知りたくてたまらない──そんな気持ちが、心の奥底で静かに芽生えていることに気づく。


(どうして、俺はこの子のことをもっと知りたいと思ってしまうんだろう……)


日陰は静かに息を吐きながら、その思いを胸にそっと押し込めた。しかし、再び彼女に目を向けると、その柔らかな表情にますます心を引き寄せられていくのだった。


「ふふ、ありがとうね。こうして“授業”を受けられて、私、すごく楽しかった」


少し照れくさそうに彼女が言うと、日陰はぎこちなく頷きながら答える。


「そ、そうか……それなら、よかった」


美晴は軽く伸びをしながら、もう一度理科室を見渡し、それから楽しそうに声を上げた。


「じゃあ次は、体育の授業をしよう!ちょうど夕暮れも綺麗だし、動いたら気持ちよさそう!」


「体育の授業……って、ここで?」


「ううん、体育館だよ!」


彼女はニコッと笑い、廊下の向こうを指差すと、軽快に歩き出した。日陰も美晴の後を追いながら、廊下を歩くたびに聞こえる足音が、どこか心地よいリズムに感じられる。

階段を降り、夕陽が差し込む校舎の廊下を歩く二人。校庭に続く窓からオレンジ色の光が差し込み、古びた校舎が一瞬輝いて見える。美晴は立ち止まり、懐かしむように景色を眺めると、ふと背伸びをしながらため息をつく。


「学校って、こんなに楽しい場所だったんだね。……それを今、実感してるよ」


少し物憂げな彼女の横顔に、日陰はまたも言葉を飲み込む。どんな過去があったのか、それを知ることへの迷いと、ただ彼女の今の笑顔を大切にしたいという気持ちが交錯していた。

やがて体育館に着くと、扉はやはり鍵がかかっていた。しかし、美晴は日陰に軽くウインクをして、またもすり抜けて中へと消えていく。

少し慣れてきたとはいえ、彼女が内側から扉を開けて「どーぞー!」と手を広げて招き入れる姿に、日陰は一瞬目を見張りながらも、改めて不思議な気持ちで足を踏み入れた。

体育館の中は、夕陽が窓から差し込み、床に大きな影を落としている。

美晴は早速、体育館の中央まで走っていき、そこでくるりと日陰の方を向いた。


美晴は日陰の方を見ながら、「じゃあ、バスケしよう!」と、まるで当然のことのように言い放った。

日陰は思わず目を見開き、驚きの表情を浮かべる。


「え、バスケ……?俺、そんなに得意じゃないんだけど……」


「大丈夫、大丈夫!なんでもやってみるのが一番だよ!」


美晴は笑顔でバスケットボールを見つけ、手に取ると軽く弾ませてみせた。そのリズム良く跳ねるボールの音が体育館に響き、夕陽に照らされた彼女の姿はまるで夢の中のように輝いて見える。


「はい、日陰、パス!」


と、軽やかにボールを投げてくる美晴。日陰は慌てて受け取り、ぎこちなく構える。


「じゃあ、シュート練習しようか!あ、でも日陰がバスケ苦手なら、最初に教えてあげるよ」


「いや、そこまで教わるほどでも……」


日陰が戸惑いを隠せないままでいると、美晴はニコッと微笑んで、ボールを受け取り、そのままスッと体を伸ばして見事なフォームでシュートを決めた。ボールはきれいにネットを揺らし、ゴールへ吸い込まれていく。


「どう?上手でしょ!」


と得意げな表情を浮かべる美晴。


「お、おぉ……すごいな……」


日陰は純粋に驚き、そして尊敬の眼差しを向ける。美晴の動きはまるで何年も練習してきたかのように滑らかで、軽やかだった。そんな彼女の姿を見ていると、彼女がどれだけ運動神経が良かったかが伝わってくる。


「さて、次は日陰の番だよ!ちゃんとゴール狙ってね」


「俺が……?いや、さっき見てたら……無理だと思うけど」


日陰が苦笑しながらボールを構えると、美晴は一歩後ろに下がり、期待の眼差しを彼に向けた。その視線に促されるように、日陰はボールを放ったが、シュートはあらぬ方向へ飛んでいき、ゴールには遠く届かない。


「惜しい!でも、ほら、もう一回やってみて!」


美晴はボールを拾って日陰に渡し、励ますように微笑む。何度か挑戦を繰り返しているうちに、日陰は次第に少しずつ力の加減やタイミングを掴んでいく。


美晴は日陰のぎこちないシュート姿を見て、くすくすと楽しげに笑いながら、何かを思いついたように目を輝かせた。


「ねえ、日陰!こういうのってさ、ちょっとした願掛けみたいなのがあった方がうまくいくんじゃない?」


「え、願掛け?」


日陰が怪訝な顔を向けると、美晴はいたずらっぽく微笑み、手を口元に当ててウインクしながら続けた。


「例えばね、こうやって言うの!『これが入ったら俺と付き合ってくれ!』とか!」


そのあまりにも唐突で大胆な提案に、日陰の顔が真っ赤になり、焦って視線を逸らす。


「な、な、何言ってんだよ!そんなの、無理に決まってるだろ!」


「ふふっ、そうかもね。でも、ちょっとは本気で言ってみてもいいんだよ?」


美晴の楽しげな表情に、日陰はますます照れてしまい、言葉を詰まらせた。彼女に軽く揶揄われているのが分かりつつも、どこか振り回されているような感覚に、彼は胸の奥がむず痒いような気持ちに包まれていた。


やがて、ふと気がつけば、体育館の窓の外には薄暗い夜の帳が落ちかけていた。楽しげな美晴の笑顔が夕暮れの淡い光の中で輝き、日陰の胸には得も言われぬ暖かさが広がる。


「あー、楽しかった!」


そう言って美晴はくるりと回り、ふわりとスカートが揺れる。思わず日陰の視線が彼女の脚のラインに釘付けになる。


「ど、どこ見てるのよ?」


美晴がわざとらしくスカートの端を摘まみながら、楽しげに日陰の反応を観察している。日陰は慌てて目を逸らし、顔が熱くなるのを感じた。


「あ、いや、その……なんでもない!」


日陰が顔を赤らめて焦りながら言い訳をすると、美晴はその様子にニヤッと笑みを浮かべて、軽く肩をすくめた。


「あれー?日陰さ〜ん!もしかしてなんか違う写真が撮りたくなっちゃった?」


そう言って、いたずらっぽくスカートを少しだけ持ち上げてみせる。


「ち、違うから!なんのことだよ!」


日陰は顔を真っ赤にしながら、必死に視線を逸らしていたが、心の中は妙な感情が渦巻いていた。そんな彼の様子を見て、美晴はくすくすと笑いをこぼす。


「なーんだ、そうなんだ」


美晴はあっけらかんとした態度を見せると、少し遠くを見つめながらふと思いついたように言った。


「ねぇ、日陰。せっかくの『夏』なんだし、もうちょっと夏っぽいところに行かない?」


「夏っぽいところ?」


日陰が首をかしげると、美晴はまぶしそうに遠くを見つめたまま、明るく笑った。


「うん、例えば……海!日陰の写真部の課題って『夏』なんでしょ?海の写真とか、ぴったりじゃない?」


「う、海……?」


日陰は少し戸惑い、思わず考え込んでしまう。海といえば陽キャの巣窟のイメージが強く、なんだか自分には縁遠い場所のように思える。


「そうそう!海!波打ち際とか、絶対に絵になるってば!」


美晴は日陰の反応に構うことなく、元気よく続けた。そして、じっと彼の顔を見つめて、にっこりと笑いかける。


「行こうよ、日陰!」


「え、えっと……でも、今から?」


日陰は日がだいぶ傾きかけていることに気づき、さすがにこの時間からはどうかと思っていた。しかし、美晴は一瞬もためらわずに答える。


「うん、今!」


彼女の勢いに押されつつも、日陰は外の暗くなり始めた空を指差しながら、少しばつの悪そうな顔をする。


「いや、でもほら、もう夜だし……さすがに今からは……」


「そっかー、じゃあ……明日ね!決まり!」


彼の言葉が終わると同時に、美晴は元気にそう宣言し、嬉しそうに手を叩いた。彼女の無邪気な勢いに、日陰は苦笑しながらもつい頷いてしまう。


「……明日か。うん、わかった」


---


日陰と美晴は体育館を出て、夕暮れに染まる校庭に立っていた。お互いに名残惜しそうに見つめ合いながら、自然と足を止める。


「じゃあ、今日はこれで帰るよ。また…」


自分の口から自然と出た「また」という言葉に驚きを感じながらも、今はただ心を包む高揚感に身を任せていた。

そして自分の家の方向に足を進めようとした時、不意に気になったことを口にし、美晴の方を振り返った。


「そういえば、美晴さんって…どこに帰るんだ?」


日陰の問いに、美晴は一瞬驚いたように目を丸くし、すぐにおどけたように笑った。


「私?私はね、学校の幽霊だから、ここがいわばお家ってわけ!」


「そ、そうなのか…?」


日陰は曖昧に頷きつつも、どこか釈然としないまま、美晴の微笑む顔をじっと見つめた。


「うん、ここが一番落ち着くんだ。大丈夫、私はここで待ってるから。」


彼女の言葉は何気ないもののようでいて、どこか確信めいた響きがあった。それが妙に胸に引っかかり、日陰は小さく頷くしかなかった。


---


日陰が去った後、校庭の片隅にぽつんと立つ美晴の姿が夕陽に照らし出される。遠くから見れば、その姿はまるで影のようで、夕暮れに溶け込んでしまいそうなほど儚げだった。風に髪がなびき、彼女は静かに校舎の方を振り返る。


目の前に広がるのは静まり返った学校、そして、そこで過ごした日陰との思い出の数々がゆっくりと蘇る。彼女の頬に一瞬、切なさが漂ったかと思うと、ふっと小さな微笑みが浮かぶ。


「また、会えるよね…?」


誰にともなく呟いたその言葉は、ただ夕暮れの風に乗って、夜の帳へと消えていった。


その日の夜、日陰は何度も美晴の姿を思い浮かべては、妙な胸騒ぎを覚えながら寝返りを打っていた。彼女があの校舎にひとりでいると考えると、なぜか気が休まらない。どこか寂しそうな影を感じたからなのか、自分でもうまく説明できないが、心がざわめき続ける。

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