うつしみ屋

水也空

はじまり はじまり

 (どうしよう)


 膝をかかえて、ハナは泥まみれの爪先を見ていた。

 靴はどこへやったかなと、ぼんやり思った。フリルのついた靴下は買ってもらったばかりだったが、あまり好きでなかったから、今も泥水の下かもしれない。


 暑かった。

 なによりおなかが空いていた。

 しかし地べたに尻をついたきり、足が言うことをきかなくなった。ピアノがとにかく嫌だった。

 というよりも、ピアノの練習にかこつけて「ああしろ」「こうしろ」「ああでもない」「こうでもない」打たれつづけるのに辟易したのだ。


 このまま帰れば夏休みがはじまるのだという。8月半ばのコンペティションにも、いつの間にエントリーさせられているのだという。

 それはもう気の遠くなるほど底深い真っ暗闇が、大口をあけて待っているようなものだった。


 ぞぉぉっ…


 とした。

 前後左右、すでになんにも見えやしないくらいには。


 それで帰るに帰れずうろうろしていたらば、田んぼのあぜにハマッて力がぬけた。すかさず「なにやってるの」と、耳奥からわんわん聞こえてくるのは、母のあの言い様だった。


「あなたは一流のピアニストになるんでしょ」


 ハナの母は、いつ頃からかそう言っていた。呪文でも唱えているように、ハナには聞こえた。


(そうだったかな)


 ハナにはよくわからなかった。そうかもしれないと自分で自分を言い聞かせることにしたのは、生まれつき言葉がなかなか出ないことと無関係ではなさそうだった。それさえ母にとっては自慢の種だったようで、「この子は話すよりも先に、を歌ったのよ」と、音楽の才能が絶対あると、なにかにつけて力づよく言いふらしていた。母自身が声楽の先生だったというのも強力な熱源としてあるかもしれない。

 が、ハナには本当によくわからない。ただこういう時の母は、普段にはあってないような、それはそれは嬉しそうな笑顔をみせるのだった。


 これにはハナは言葉もなかった。母をしょんぼりさせるようなことは慎みたかった。できれば喜んでもらいたかった。あの笑顔を見て、息をゆっくりしてみたかった。

 そのためだけに懸命にたたき出す音色には、母はちっとも喜ばず、むしろどんどんしかめ面にさせるようでつらかった。あんなに好きだったも、いつの間に歌にも声にもならなくなった。






◇ ◇ ◇ ◇ ◇






(どうしよう)


 雨がポツポツ降り始めたから、ハナは座り込んでばかりもいられなくなった。朝からうんざりするほど晴れていたのに。

 のろのろ腕をうごかした。自分が濡れるのはかまわなかった。すでに汗だく。泥まみれでもある。雨で洗い流すくらいでちょうどいいかもしれないが、とりあえずランドセルは引き寄せたい、と。―――


(―――あれ???)


 ハナはそれで気づいてしまった。

 あぜ道を真っすぐ行った先の、つき当たり。雑草だらけの田んぼの一角に、真っ赤なチャリンコが仰向けになってコケているのを。


(…だれかいる)


 雨がポツポツ降っていた。

 雲らしい雲はなかった。

 いつのまに青かった空は白っぽくなっていて、薄い煙を見るようだった。


 それは終業式を負えたばかりの、長い永い帰り道のはじまりだった。

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うつしみ屋 水也空 @tomichael

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