第3話 猫と美術館


 その週の土曜日。

 僕たちはさっそく美術館に足を運ぶことにした。


 美術館に着くと、橘さんは目を輝かせながら、展示されている絵画に見入っていた。


「どれも綺麗だね」


 僕が声をかけると、彼女は頷いた。


「うん。この絵とか特に……色の使い方が柔らかくて、優しい感じがする」


 そう言って彼女が指さしたのは、草原と風車を描いた一枚の風景画だった。


「こういうの、好きなの?」

「うん。静かで、穏やかで……でも、描いてる人がその場で何を感じていたのかを考えると、少し切なくもなる」


 彼女がそんなふうに雄弁に語るのは初めてで、僕は少し驚いていた。

 どうやら、彼女の絵に対する思い入れは大きいものらしい。


「橘さん、絵に詳しいんだね」


 僕がそういうと、橘さんは我に返ったようにして、少し恥ずかしそうに、はにかんだ。

 

「そんなことないよ。ただ、昔から描くのが好きなだけ」

「今度さ、橘さんの描いた絵、見せてよ」

「え?」

「いや、なんか、橘さんの絵をもっと見たくなってさ。僕、絵は全然描けないけど、見るのは嫌いじゃないから」

「……考えとく」


 彼女は照れくさそうに笑い、再び展示に目を向けた。

 その横顔を見ていると、胸の奥がじんわりと暖かくなるのを感じた。

 


 その後も橘さんは、展示されていた絵の一つひとつをじっくりと鑑賞していって、結局、昼過ぎに来たのに、すべて見終わった頃には、閉館時間間際になってしまっていた。

 

 美術館からの帰り道、夕方の柔らかな陽射しの中、僕たちはゆっくりと歩きながら、とりとめのない話をしていた。


「――中学のときはさ、橘さんと全然話したことなかったよね」

「そうだね。私、あんまり人と話すの得意じゃないから」

「どっちかっていうと、僕もだ」

「そんな二人だから、配偶予定者になったんだよ、きっと」


 橘さんは冗談めかしたように笑った。

 僕も、つられて淡く微笑む。


「でも……こうして話すの、嫌じゃないよ、と」

「え……」


 僕は思わず立ち止まった。

 橘さんも足を止め、僕の顔を見上げた。

 

「どうしたの?」

「あ、いや……」

 

 僕は少し言葉に詰まってから、続けた。

 

「……初めて、名前で呼んでくれたから」

「……そうだったっけ?」

「うん」

「普通でしょ、配偶予定者なんだし」


 その言葉とは裏腹に、橘さんの頬は赤くなっていた。

 その様子を見て、彼女が意識して僕の名前を呼んでくれたことが分かった。


「ありがとう、

「な、なんでお礼?」

 

 彼女は少し戸惑ったように目を泳がせた。

 そんな仕草がなんだか可愛らしくて、僕はまた自然と笑みがこぼれるのを感じた。


 しばらくそのまま帰路を歩いていた僕たち。

 そうしているうちに細い路地に差し掛かった。


「あ……」


 そこで、一匹の猫に出会った。

 三毛の毛並みの、野良猫だ。

 元は飼い猫だったのだろうか。

 そいつは人慣れしているようで、僕たちの姿を見ても逃げ出すそぶりを見せない。


「かわいい……」


 由紀が小さく呟き、しゃがみ込んで手を差し出す。

 猫は一瞬警戒したようだったが、すぐにその手に興味を持ち、近づいてきた。


「人懐っこいね」

「首輪はないけど、飼い猫だったのかな?」


 猫を撫でる彼女の横顔は、とても穏やかだった。

 僕も隣にしゃがみ込み、その猫を撫でた。

 手のひらに伝わる柔らかな毛の感触が心地よい。


「仙崎くん、猫好き?」

「うん、結構好き。家では飼ったことないけど、こういう野良猫とか見ると、いつも可愛いなって思う」

「私も好き。自由気ままで、お気楽な感じが」


 由紀は、猫の背中を撫でつつ、ふとつぶやく。


「……卒業したら、猫を飼いたいな」

「それ、いいね。飼おうよ」

「いいの?」

「大丈夫、猫アレルギーはないから」

「……ありがとう、楽しみだな」


 僕の隣で由紀は微笑む。

 高校を卒業したら、制度上、僕と由紀は一緒に住むことになる。

 彼女との生活を心の中で思い描くと、自然と顔がほころぶ気がした。


 

 翌週、学校で由紀と会うとき、僕の胸は高鳴っていた。彼女はいつも通り静かで控えめな態度だったけれど、僕にはそれが心地よく感じられた。


 *


 僕と由紀が一緒に過ごす時間は少しずつ増えていく。

 一緒に登下校をしたり、お昼休みはご飯を食べたり、学校の帰り道に寄り道したり――

 由紀と過ごす時間が、僕の中でどんどん特別なものになっていった。


 最初、口下手だと思っていた彼女は、打ち解けると意外とおしゃべりだった。

 彼女は、絵を描くことの他にも、読書や映画鑑賞も好きらしい。

 自分が好きなことを話しているとき、由紀の瞳はキラキラと輝いていて、そんな彼女を見ていると、僕もつられて笑顔になってしまう。

 最初はただの「配偶予定者」という記号にすぎなかった彼女が、僕にとって、全く別の存在になりつつある。


 気がつけば、僕は由紀のことばかり考えるようになっていた。

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