第3話 猫と美術館
その週の土曜日。
僕たちはさっそく美術館に足を運ぶことにした。
美術館に着くと、橘さんは目を輝かせながら、展示されている絵画に見入っていた。
「どれも綺麗だね」
僕が声をかけると、彼女は頷いた。
「うん。この絵とか特に……色の使い方が柔らかくて、優しい感じがする」
そう言って彼女が指さしたのは、草原と風車を描いた一枚の風景画だった。
「こういうの、好きなの?」
「うん。静かで、穏やかで……でも、描いてる人がその場で何を感じていたのかを考えると、少し切なくもなる」
彼女がそんなふうに雄弁に語るのは初めてで、僕は少し驚いていた。
どうやら、彼女の絵に対する思い入れは大きいものらしい。
「橘さん、絵に詳しいんだね」
僕がそういうと、橘さんは我に返ったようにして、少し恥ずかしそうに、はにかんだ。
「そんなことないよ。ただ、昔から描くのが好きなだけ」
「今度さ、橘さんの描いた絵、見せてよ」
「え?」
「いや、なんか、橘さんの絵をもっと見たくなってさ。僕、絵は全然描けないけど、見るのは嫌いじゃないから」
「……考えとく」
彼女は照れくさそうに笑い、再び展示に目を向けた。
その横顔を見ていると、胸の奥がじんわりと暖かくなるのを感じた。
*
その後も橘さんは、展示されていた絵の一つひとつをじっくりと鑑賞していって、結局、昼過ぎに来たのに、すべて見終わった頃には、閉館時間間際になってしまっていた。
美術館からの帰り道、夕方の柔らかな陽射しの中、僕たちはゆっくりと歩きながら、とりとめのない話をしていた。
「――中学のときはさ、橘さんと全然話したことなかったよね」
「そうだね。私、あんまり人と話すの得意じゃないから」
「どっちかっていうと、僕もだ」
「そんな二人だから、配偶予定者になったんだよ、きっと」
橘さんは冗談めかしたように笑った。
僕も、つられて淡く微笑む。
「でも……こうして話すの、嫌じゃないよ、昴くんと」
「え……」
僕は思わず立ち止まった。
橘さんも足を止め、僕の顔を見上げた。
「どうしたの?」
「あ、いや……」
僕は少し言葉に詰まってから、続けた。
「……初めて、名前で呼んでくれたから」
「……そうだったっけ?」
「うん」
「普通でしょ、配偶予定者なんだし」
その言葉とは裏腹に、橘さんの頬は赤くなっていた。
その様子を見て、彼女が意識して僕の名前を呼んでくれたことが分かった。
「ありがとう、由紀」
「な、なんでお礼?」
彼女は少し戸惑ったように目を泳がせた。
そんな仕草がなんだか可愛らしくて、僕はまた自然と笑みがこぼれるのを感じた。
しばらくそのまま帰路を歩いていた僕たち。
そうしているうちに細い路地に差し掛かった。
「あ……」
そこで、一匹の猫に出会った。
三毛の毛並みの、野良猫だ。
元は飼い猫だったのだろうか。
そいつは人慣れしているようで、僕たちの姿を見ても逃げ出すそぶりを見せない。
「かわいい……」
由紀が小さく呟き、しゃがみ込んで手を差し出す。
猫は一瞬警戒したようだったが、すぐにその手に興味を持ち、近づいてきた。
「人懐っこいね」
「首輪はないけど、飼い猫だったのかな?」
猫を撫でる彼女の横顔は、とても穏やかだった。
僕も隣にしゃがみ込み、その猫を撫でた。
手のひらに伝わる柔らかな毛の感触が心地よい。
「仙崎くん、猫好き?」
「うん、結構好き。家では飼ったことないけど、こういう野良猫とか見ると、いつも可愛いなって思う」
「私も好き。自由気ままで、お気楽な感じが」
由紀は、猫の背中を撫でつつ、ふとつぶやく。
「……卒業したら、猫を飼いたいな」
「それ、いいね。飼おうよ」
「いいの?」
「大丈夫、猫アレルギーはないから」
「……ありがとう、楽しみだな」
僕の隣で由紀は微笑む。
高校を卒業したら、制度上、僕と由紀は一緒に住むことになる。
彼女との生活を心の中で思い描くと、自然と顔がほころぶ気がした。
翌週、学校で由紀と会うとき、僕の胸は高鳴っていた。彼女はいつも通り静かで控えめな態度だったけれど、僕にはそれが心地よく感じられた。
*
僕と由紀が一緒に過ごす時間は少しずつ増えていく。
一緒に登下校をしたり、お昼休みはご飯を食べたり、学校の帰り道に寄り道したり――
由紀と過ごす時間が、僕の中でどんどん特別なものになっていった。
最初、口下手だと思っていた彼女は、打ち解けると意外とおしゃべりだった。
彼女は、絵を描くことの他にも、読書や映画鑑賞も好きらしい。
自分が好きなことを話しているとき、由紀の瞳はキラキラと輝いていて、そんな彼女を見ていると、僕もつられて笑顔になってしまう。
最初はただの「配偶予定者」という記号にすぎなかった彼女が、僕にとって、全く別の存在になりつつある。
気がつけば、僕は由紀のことばかり考えるようになっていた。
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