第2話 きっかけ


 中学を卒業した僕は、高校生となった。

 僕の新しいクラスには、知っている顔の方が多かった。

 それも当然だ。

 高校進学も、国によって、予定調和に割り振られる。

 だから、クラスメイトの中には亮太もいるし、橘さんも含まれていた。


 橘さんの席は、僕の斜め前。

 ちょうど僕の席から、彼女の黒髪ボブカットの後ろ姿がよく見えた。

 クラスの中で、目立たない存在であることに中学の頃から変わりなかった。


 高校に入学しても、相変わらず、僕たちはほとんど言葉を交わさなかった。

 もちろん同じクラスメイトとして、顔を合わせれば挨拶や最低限の会話は交わすけれど、他愛のない雑談すらなかった。

 それでも、何となく彼女の存在が気になってしまうのは、やはり「配偶予定者」だからなのだろう。



 ある日の放課後、忘れ物を取りに教室に戻ったら、自席でノートに鉛筆を走らせる橘さんを見かけた。

 彼女は作業に没頭しているようで、室内に入ってきた僕の存在に、気づいていないようだ。


 一瞬、教室から出ていこうか迷って。


「何してるの?」


 僕がそう声をかけると、橘さんはびくりと身体を跳ねさせたあと、おずおずとこちらに振り返った。


「仙崎……くん、あ……えっと……」


 彼女は慌てた所作で、机のうえに広がっていたノート両手で覆い隠す。

 ノートの傍らには、鉛筆が数本散らばっていた。


「もしかして……絵を、描いてた?」

「えっと、その、うん」

「橘さん、絵を描くんだ」

「下手、だけど」


 橘さんは、消え入るようなか細い声で、そう答える。


「よかったら、見てもいい?」

「え?」

「橘さんの絵、見てみたいな」

「でも、下手だから」

「下手でも、みたいな。もちろん無理強いはしないけど」

「……笑わない?」

「絶対に笑わない」


 橘さんはためらいがちに、机から手を離した。

 ノートに描かれていたのは、人の顔のスケッチだった。

 

「これ……もしかして、僕?」

 

 僕がそう問うと、橘さんはおずおずとうなずく。


「仙崎くんのこと、あんまり知らないけど……こうして絵にして描いたら、人となりがわかるかもって……」

「それで、僕を描いてくれたんだ」

「わたし、お話しするの、苦手で……」

 

 橘さんは恥ずかしそうに視線を落とす。

 そんな仕草が愛らしくて、僕は思わず微笑んでしまった。

 橘さんは、ちょっと恨めしげに僕を見つめて、小さく頬をふくらませる。


「笑わないって、言ったじゃん」

「ごめんごめん」


 僕は謝りながらも、口元から笑みを消すことが、しばらくの間できなかった。


 橘さんが、彼女なりに、僕のことを知ろうとしてくれていたことが、嬉しかったんだ。


 *

 

 その日を境に、僕たちの関係は少しずつ変わり始めた。

 授業中や休み時間、橘さんのことを気にするようになり、たまに目が合うことが増えた。

 そのたびに、彼女は視線をそらすか、微かに頷いて応じてくれるだけだったけれど、それでも何かが動き始めた気がした。


 ある昼休み、僕は勇気を出して彼女に声をかけてみた。


「一緒に、食べない?」


 彼女は一瞬戸惑ったようだったが、やがて小さく頷いた。

 僕たちは裏庭まで移動すると、端に置かれたベンチに並んで腰かけて、お弁当を広げた。


「橘さん、お弁当なんだ。自分で作ってるの?」

「うん、そうだよ」

「えらいなぁ……」

「……仙崎くんは、いつも焼きそばパンだね」

「なんで知ってるのさ」

「お昼休みに焼きそばパンを食べてるのを、いつも見てたから」


 僕の問いに、橘さんは、いたずらな笑みを浮かべて答えた。

 

「まいったな……見られてたんだ」

「見てました」


 なんだか無性に照れ臭くなり、僕は焼きそばパンを頬張りつつ、話題を逸らすことにした。


「そうだ、橘さんに、提案があるんだけど」

「なに?」

「これ……」


 僕は学生服のポケットから、一枚のチケットを取り出す。

 

「これ……美術館の?」

「うん、今度さ、一緒にいかない?」

「いいの?」

「うん、橘さんは絵を描く人だって分かったから……喜ぶかなって」

 

 彼女は少し迷うような素振りを見せたが、やがて小さく頷いた。


「うん……いく。ありがとう、仙崎くん」

「よかった」

 

 その一言が嬉しくて、僕の口元からは自然と笑みがこぼれた。

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