引っ越したら隣のお宅が汚部屋だった話
たね胚芽
第1話 おじさんとの出会い
これは今から20年ほど前のこと。私がまだ20代半ばだった頃の話だ。
私達家族は子供の小学校入学をきっかけに、隣町の小さな古いアパートに引っ越すことにした。部屋は一階で、小さな専用庭もあった。洗濯物が多いので得した気分だった。
隣には一人暮らしの中年の男性が住んでいると、不動産屋さんがいっていた。挨拶しに行ったがいつ行っても留守だった。他のお宅には挨拶を済ませたので、まだ会えないおじさんのことが私は気になっていた。
引っ越しの作業も落ち着いてきた頃、隣の一戸建てのお宅の60代ほどの奥さんと、よく顔を合わせるようになった。
当時の私はパニック障害や対人恐怖症などの持病があり、この奥さんに苦手意識があり、顔を合わせるたびに緊張で酸欠のようになっていた。
そしてその奥さんは、我が家の隣の、いつも不在であるおじさんのことを気にしているようだった。
「お隣さん帰ってきた? いつもいないのよね。帰ってきたと思ったらすぐに出ていくのよ。駐車場に空き缶とタバコの吸殻を置いていくの、迷惑だわ」
と私にまくし立ててくる。どうやら隣の奥さんは、私はまだ会ったことのないおじさんのことが嫌いなようだった。
「そうですか……」
私は緊張で血の気のない顔に作り笑顔を浮かべ、冷たくなった手の平に爪を立てながらやり過ごした。
庭に出た時におじさんの部屋にちらりと目をやると、カーテンがしっかり閉められている。窓にはカビがびっしりついていて、レースカーテンは薄汚れていた。
おじさんは一体どこで寝泊まりをしていて、どんな生活をしているのだろうか。
引っ越してから2カ月くらいが経った頃、夕飯を作っていると、駐車場からトラックがバックする時になるピーッピーッという音が聞こえてきた。
なんだろうとキッチンの小窓から外を見ると、軽トラックが止まっている。そして運転席から、作業服を着た50代くらいの痩せた男性が降りてきた。
もしかして、隣のおじさんかも。
私が聞き耳を立てていると、男性は隣の部屋の鍵を開け入っていった。
後で挨拶にいかないとなと思いつつ夕飯の続きを作っていると、人と会う緊張で包丁を持つ手が震えた。息苦しい。呼吸を整えている時にチャイムが鳴った。
ドアを開けて出てみると、おじさんが立っていた。
「こんにちは。隣の〇〇やけど」
おじさんは柔らかな声で、にこやかに笑っている。痩せ型で中背、下がり気味の目尻に優しそうなシワがある。夕方の風に乗って、タバコの匂いと石鹸の匂いがする。白髪交じりの短髪で、焼けた肌に歯がキラリと光って見えた。
先ほどからの緊張と突然の訪問に動悸がしたけれど、いつものように相手に気づかれないように口角をきゅっと上げる。
「あっ、こんにちは〜……。 始めまして。〇〇といいます。2ヶ月ほど前にここに引っ越してきまして……」
小さい声で、早口でいう。
「あー、そうね。電気がついてたから誰か入ったんかなと思って。あのこれ、今日釣ってきたから、良かったら食べんね」
おじさんはそういうと、手に持った白いビニール袋を差し出してきた。
中身を見てみると、大きな魚が数匹入っている。
「いいんですか? ありがとうございます……」
低所得の子育て世帯、食べ物の差し入れには素直に喜んだ。戸惑いもあったし緊張もしていたけれど、優しそうなおじさんと差し出された魚に警戒心が揺らぐ。何よりおじさんは私の苦手な威圧感がなかった。
そしておじさんへの好感度が爆上がりした。
当時の私は今よりお人好しで、優柔不断で、セールスの押し売りを断れなくて家の中まで上げ、数時間居座られるような人間だった。
人が怖いのに、優しくされるとすぐ人を信頼する癖があった。
「いっぱい食べなっせ。捌くのが難しかったら、おっちゃんが捌いてやっけん、いつでも言うてきたらよか」
おじさんはそう言うとニカッと笑った。よく見ると、おじさんは下の前歯が1本なかった。銀歯が何本かキラキラとしていた。
魚をくれた上に優しいおじさん。
私はおじさんにお礼を言い、夕飯に鯵の塩焼きを追加した。
それにしても、と思った。引っ越してきてから2ヶ月、おじさんが帰ってきたのは知ってる限りではその日が初めてだった。おじさんの謎は深まるのだった。
引っ越して半年が経った頃、我が家に異変が起き始めた。
ゴキブリがやたらと多く出るのだ。慌ててバルサンを焚いたが、効果はなく、倒しても倒しても部屋のあちこちから出てくる。
虫が大っ嫌いな私にとって、ゴキブリの退治は苦行そのものでしかない。だけどゴキブリは、夫のいない昼間にも時間に構わず出てくる。ゴキブリが出始めて1週間も経つ頃には、退治することにすっかり慣れてきてしまっていた。
ゴキブリ用のホウキとちりとりを買い、殺虫剤、ゴキブリホイホイなどあらゆる物を買い集めた。
ゴキブリを見つけると、まず殺虫剤をこれでもかと振りかける。じっと奴の動向を見つめ、冷蔵庫の下など奥まったところに逃げようとするのをホウキで阻止する。弱って動かなくなってきたらホウキとちりとりを構え、回収し、処分する。
しかし、倒しても倒してもゴキブリはどこからともなく出現する。確かに田舎に住んでいるけれど、1日に大きなゴキブリが五匹も出るのはおかしいのではないだろうか。
そこで私は我が家をくまなくチェックしてみることにした。我が家の何処かで繁殖しているかも知れない。
キッチン、トイレ、お風呂場。お風呂場の換気扇は怪しい。でも風呂場で出たことはないので、ここではない気がする。
リビングのエアコン。覗いてみるけれど、見える限りここにはいない。
最後に押し入れをチェックすることにした。見る限りいない。布団やチェストを出してくまなく見てみる。それらしき形跡はない。
その時ふと、額らへんに変な風を感じた。反射的に上を見上げると、押し入れの天井板が数センチズレてることに気づいた。
ここだ!
きっと天井裏でゴキブリが大量発生していて、そのゴキブリがこの隙間から我が家に降りてきていたんだ!
いつズレたんだろう。子供が押し入れでかくれんぼしている時に、何かの拍子でズレたのかも知れない。
隙間から恐る恐る天井裏を覗いてみたけれど、暗くて何も見えない。懐中電灯を使ってまで見る勇気はなく、私はズレた板を隙間ないように動かした。
しばらく様子を見てみよう。
そしてその日以来、ゴキブリは一週間に一匹見かけるまでになった。
天井裏でゴキブリが大量発生。その事実が恐ろしい。
アパートの管理会社に電話するも、そのうち見に来ますね〜という返事だった。そして何ヶ月待っても管理会社は見に来てくれなかった。
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