第5話   迫りくる恐怖

「じゃあこの街に越してきたのは最近なのか?」


「はい。それまでは施設にいました」


 涼一と聖がまともな会話をするようになったのは、巳四里町の隣町である天坂町に入ってからだった。


 何故かお互い妙に意識してしまっていた二人だったが、涼一はそれではいけないと話を振ったことによりようやく会話に入れた。


 コンクリートで舗装されている緩い下り坂を歩きながら、涼一は忍者が無意識でもしてしまう情報集癖を必死に抑えながら聖と会話をしていた。


 幼少の頃から伝蔵と正義に厳しく鍛えられていた涼一は、その土地の人間からさりげなく情報を収集する〈里人術さとにんじゅつ〉も仕込まれていた。


 そのせいか、自分でも気づかないうちに相手と話すときは一種の誘導尋問を行ってしまうことがあった。


 今では意識して抑えることが可能になったが、幼少の頃からの習慣というのは中々抜けるものでもない。


 さりげなく会話を始めた涼一だったが、内心自分の口を控えるのに必死だった。


 放っておけば聖が相手に言いたくないことまで探ろうと動いてしまうからだ。


 天坂町を抜けて信越町に入る頃には、涼一は聖のおおよその事情は把握できた。


 聖の父親はどこかの大学の研究員だったらしく、珍しいことに仕事先を転々と変えて生活をしていたのだという。


 そのせいで聖は学校もまともに行けなかったらしいが、数年前に父親とともに入った施設という場所で落ち着くと、そこでようやくまともな教育を受けられたらしいが、そんな生活も長くは続かなかったという。


「何で君のお父さんはその施設とやらを君を連れて抜け出したんだ? 友達もたくさんできてお父さんも自分の研究ができると喜んでたんだろう?」


 まばらに明かりが灯っている高級住宅街の通りを歩きながら、涼一は顔だけを振り向かせた。斜め後ろにいる聖の手から緊張が伝わってくる。


「はい……実は」


 涼一は聖の話を聞いて渋面になった。


 それは二人が尼羅通りという電柱に張られていたプレートの前を通り過ぎたところである。


 聖の会話の所々におかしな点が出始めてきた。


 最初に涼一が振った会話は、無難なところで自分の好きな家族や趣味などの話であった。


 それから生まれた場所や学校生活の話に移り、お互いの緊張がいい具合に解れた頃合を見計らって本題に入る。


 もちろん、会話を振った涼一から自分のことを話した。


 忍者については話せなかったが。


 そのお陰もあって聖も色々と自分のことについて語ってくれた。


 そこまではよかった。おかしかったのはそのあとである。


「そしてこのまま施設にいると殺されると君のお父さんは言ったんだな?」


 聖はこくりと頷いた。


 これはいったいどういうことだ? 


 涼一は額を人差し指で突きながら考えた。


 深く考えるときに出てしまう涼一の癖である。


 涼一は頭の中で簡潔に聖のことをまとめた。


 どこかの教育施設とやらで働くことになった聖の父親は、ある日から何者かの存在にひどく恐怖するようになった。


 そしてついには無断で聖を施設から連れ出し、どこかに逃亡するための準備を整えようとした。


 それが昨日のことであり、聖の父親は一緒にいると危ないからと聖一人だけを少しの間だけ白鷺公園に待たせたという。


 そこへ運悪く通りかかったチンピラに聖は見つかり、危ない目に遭いそうになった。


 自分の額を突く涼一の人差し指の動きが徐々に加速していく。


 深入りするつもりは毛頭ないが、今まで忍者の仕事に携わってきた涼一の心が激しく警鐘を鳴らしていた。


 危険な臭い匂いがぷんぷんする。


 それも異常なほどにである。


 涼一が考えあぐねていると、目の前に大きな西洋風の一軒家が見えてきた。


 外装は木材ではないコンクリート製で見るからに堅牢な感じであった。


 明かりは灯ってはいなかったが、強固な柵で周囲を覆われ、警備システムは万全だろうと涼一は読んだ。


 それに表からは二階建てに見えるだろうがおそらく地下室もあるだろう。


 あまり大っぴらに口にすることではないが、依然、仕事でこのような建物に侵入したことがある。


 そこで涼一はふと我に返った。


 涼一は無意識のうちに建物の侵入経路や脱出口の確保、警備システムの有無を考えてしまっていた。


 これでは一仕事をする空き巣と同じである。あまりにも情けない。


 涼一は聖の手を引いて建物の表札に近づいていく。


 表札には「橋葉」と書かれていた。やはりここが聖の家に間違いないだろう。


「着いたぞ、聖」


 門の前に立った涼一は、聖に顔を向けた。


 聖は名残惜しそうな表情で涼一の左手を握り続けていた。


 微妙に聖の手は震えている。


「どうした? 寒いのか?」


 涼一が首を傾げると、聖は慌てたように手を離した。


「ご、ごめんなさい。何故か急に不安になってしまって」


 聖は涼一の横を通り過ぎると、門の横に立った。


 門の横にはナンバー・キーを入力する


 装置が設置されており、聖は手探りにキーを入力していく。


 実に手馴れたものだった。


「本当にありがとうございました」


 聖は気配を頼りに涼一の場所を特定すると、羽織っていたコートをきちんと涼一に返した。


 涼一はそっとコートを受け取る。


「俺が勝手にしたことだ。礼なんていい」


「いえ、そうはいきません」


 コートを返した聖は涼一の元へ歩み寄っていくと、右手の人差し指にはめていた指輪を外した。


 涼一の手を取り、手の平にその指輪を握らせる。


「おい、何なんだ?」


「今の私にはこんなことでしかお礼はできません。どうぞ、受け取ってください」


 聖が涼一に手渡した銀色の指輪には、何やら紋章のようなものが彫られていた。


 その紋章は中国の道教のシンボルとしても知られている太極図に非常によく似ていたが、よく見ると少し違う。


 本来の太極図は半分に割れば勾玉のように曲線を描く図になるのだが、指輪に彫られていた太極図は割ったとしたら卍を半分にしたような形になるだろう。


「いや、とてもじゃないがこんな物は受け取れない。それに聖にとって大事な指輪じゃないのか?」


 変な形だと思いつつも、涼一は指輪を聖に返そうとした。


 デザインはどうあれ、高価そうな指輪には違いない。


 母親の形見です、とでも言われたらとても受け取るわけにはいかない。


 だが聖は受け取らなかった。


「ご安心ください。そんなに高価な指輪ではありません。施設では誰でも持っていたそうですから」


 くすっと愛くるしい笑みを浮かべると、最後にもう一度だけ聖は深々と頭を下げた。


 ロックを解除した門を潜って聖はよちよちと玄関へと歩いていくと、玄関近くに置かれていた鉢植えを手で探った。


 玄関の鍵でも隠してあったのだろう。


 自分の役目は終わったか。


 聖が玄関の鍵を開けて中に入ったことを確認すると、涼一は自宅へと帰ろうとした。


 しかし、数メートルほど歩いた時点で涼一は立ち止まった。


「やっぱりこれは受け取れないよな」


 涼一はお礼とした手渡された指輪を親指で真上に弾くと、すかさず空中で摑み取った。


 聖本人は高価な物ではないと口にしていたが、涼一にはとてもそうは思えなかった。


 細部にまでこだわって作られたこの指輪には何か気品すら感じられた。


 やはりこの指輪は返そう。


 涼一は振り返り門へと向かったが、すでに門は固く閉ざされていた。


 再び開けるには専用のコードを入力しなければならない。


 涼一は約三メートルの高さがある門を見上げた。


 何者の侵入も拒む雰囲気があったが、それは一般人に対してである。


 目線を左右に動かして周囲に人の気配がないことを確認すると、涼一は手にしていたコートを地面に置いた。


 そして再び門を見上げると、涼一は門の表面を蹴りながら一気に駆け上がった。


 頂上まで駆け上がった涼一は、門を跨ぐように飛んでふわりと地面に着地する。


 アクションスター顔負けの体術であった。


「あ、いかん。いつもの癖で」


 地面に降り立った瞬間、涼一はこんなことをしなくてもインターホンを押せば済むことではなかったかと気がついた。


 これでは本当に空き巣の行為である。


 だがやってしまったことには変わりはない。


 誰も見ていないし、聖に事情を話せば何とかなるだろう。


 頭をぼりぼりと掻いた涼一は、自分の悪い癖を自覚しつつ、玄関に向かおうとした。


 そのとき、すぐに異変に気づいた。


 明かりが灯っていないのである。門が閉まる間際、涼一は間違いなく玄関から家に入った聖の姿を目撃している。


 それならばリビングなり自室なりの明かりが灯っていてもいいはずである。


 聖は視覚障害者とはいえ、自宅の構造ぐらい把握しているはずであった。


 それにおかしな点はもう一つ。


「父親はいないのか?」


 そうである。


 親一人子一人の生活をしていて、娘が視覚障害者で行方不明だとわかれば親はパニックを起こすに決まっている。


 聖を自宅へと送り届ける間、てっきり大騒ぎにでもなっていると思っていたが、そうでもない。


 それどころか、家の明かりが灯っていなかったということは父親が不在だと意味していた。


 涼一は玄関の取っ手を摑み、ゆっくりと開けた。鍵はかかっていなかった。


「聖、いるか? 俺だ。涼一だ」


 悪いとは思いつつも、涼一は勝手に上がらせてもらった。


 そして――。


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