第4話 その少女の名は
その日の学校生活は何をやってもまったく手につかなかった。
授業を聞いていても教師の言葉が耳から耳へと流れていき、学食で食べた好物のカツ丼も味がわからなかった。
クラスの女子が陽気に話しているユーチューブの内容や、友人の一人が熱く語る新番組のアニメ情報などは元から知りたくもなかったから無視した。
そして気づいたらすでに放課後になっていた。
西の空は茜色に染まり、烏の鳴き声が遠くから聞こえてくる。
カラオケに行こうぜ、と言ってきた友人の誘いを丁重に断ると、涼一は学校から最寄りの駅へと向かった。
今日は早く帰らなければならない用事があったからだ。
二駅分の電車に乗って涼一は地元のJR高志摩駅に降り立った。
九円市の中心街ということもあり、駅のターミナルには何台ものタクシーやバスの姿があった。
人ごみも多く、駅周辺は高いビルが立ち並んでいる。
涼一は人ごみの中を軽快な歩法を駆使してすり抜けていく。
それから二十分も歩いていくと途端に人の数は減少していった。
駅周辺は仕方ないとして、地方の都市は中心街を抜けるとあとは下町と同じである。
築数十年の一軒家が立ち並び、裏道を通って帰ればあまり人間と遭わなくてすむ。
自宅がある巳四里町に入ると、涼一は歩く速度を一気に速めた。
というより走った。
完全に地理を把握している涼一はただ道路を走るのではなく、壁を蹴って跳躍し、民家の屋根に上った。
〈神足法〉と呼ばれる足音をたてない歩法で瓦の上を疾風の如き走り、屋根から屋根へ飛び移っていく。
たまに人の気配を感知すると涼一は屋根から道路に飛び降りて平然と道路を歩き、そしてまた一人になると屋根に上って自宅への距離を一気に縮めるために走り出す。
これを何度も繰り返していくと、普通に歩いて帰るよりも数十分も短縮できた。
本来ならばこのような移動手段は極力使わないように心がけているが、涼一は少女のことがずっと気がかりだった。
そのため、今日の半日は何も手につかなかった。
涼一は西洋風の一軒家の屋根から飛び降りた。
もう自宅前に着いたのである。
今時珍しい武家屋敷のような門構えの玄関に、ぐるりと家を囲っている灰色の塀。表札には「雑賀」と達筆で書かれている。
観音開き式の門を通り、玄関から入って居間に向かう。居間には伝蔵がいた。
ただし畳の上には座っていない。
「ジーサン。あの娘は目覚めたか?」
涼一は天井を見上げた。
天井には片手一本でぶら下がっている伝蔵がいた。
天井にわずかに出ていた木のでっぱりを親指と人差し指で摑み、空いていたもう片方の手で本を持っていた。
伝蔵は指の鍛錬をしながら読書をしていたのである。
しかし雑賀家では特に珍しくもない光景であった。
指先の鍛錬は忍者にとって必要不可欠であったからだ。
「うむ、昼過ぎには目覚めたぞ。よほど腹が減っていたのか昼食はわしが作った粗末な蕎麦を美味いと言って食してくれた。中々見所のある娘子だ」
伝蔵は滅多に見せない嬉しそうな顔をしていた。
どうやら伝蔵もあの少女に少なからず惹かれる部分があったようである。
「それで今はどこにいる?」
「そう慌てるな。一度は目覚めたがよほど疲れていたのかまた寝てしもうた。なに、しばらくすれば夕餉の時間じゃ。そのときには目覚めるであろうよ」
「だったらいいが……」
居間に座った涼一は、ちゃぶ台の上に置かれた煎餅に手を伸ばした。
それから二時間後、部活動を終えた舞花が息を切らせて居間に飛び込んできた。
陸上部で幼少の頃から鍛えてきた忍術修行の成果を存分に発揮していた舞花も、少女のことが気がかりだったのだろう。
しきりにあの娘は目覚めたのかと聞いてきた。
夕日が西の彼方に沈み、宵闇が顔を出してきた頃、涼一は家の中に人の気配を感じた。
居間から離れた座敷からこちらに向かってゆっくりと歩いてくる人の気配が。
「目が覚めたか?」
居間の扉を開けようとした少女の代わりに、涼一がいち早く扉を開けて顔を出した。
廊下にいた少女と顔が見合う。
「あ、昨日の方ですね」
少女はニコリと笑顔を作った。
涼一の声をきちんと覚えていたらしい。
それか昼間に目覚めたときに伝蔵から色々と聞いたのかもしれない。
「さあ、中に入んな。廊下は寒いだろう」
舞花の寝巻き姿をしていた少女の手を取ると、涼一は居間の中に少女を迎え入れた。少女の手は氷のように冷たかった。
居間にあるちゃぶ台の上にはすでに夕食の用意がされていた。
弁護士を本業としていた正義の姿はなかったので、夕食は少女を含めた四人で食べることにした。
そのときわかったことがある。
目が見えないはずの少女の動きにまったく無駄がないのである。
嗅覚、聴覚、触覚を最大限に活用して少女はおかずの場所を特定し、箸を伸ばしていた。よほど訓練しないとこうはならない。
何気ない会話をしつつも、涼一は舞花が作った夕食を本当に美味しそうに食べる少女の仕草を窺っていた。
三十分ほどで全員は夕食を食べ終えた。伝蔵は煎茶をすすり、舞花は台所で食器を洗い始めた。
涼一は煎茶を一気に飲み干すと、本題とばかりに顔を少女に向けた。
「さて、今から君を家に送り届けるが、その前にお互い自己紹介といくか」
少女は煎茶が入った湯飲みにそっと唇をつけた。
優雅というよりも可憐、その何気ない仕草だけでも教養の良さが滲み出ていた。
二口ほど煎茶をすすった少女は、湯飲みをちゃぶ台の上にそっと置いた。
涼一のほうに顔を向ける。
「お名前はすでに伝蔵さまから聞き及んでおります。昨日は本当にありがとうございました、涼一さん。申し遅れました、私は聖と申します」
聖と名乗った少女は、丁寧に頭を下げながら自己紹介をした。
自宅は
高層マンションが立ち並び、高い塀に囲まれた億単位の一軒家が当たり前のように立ち並ぶ有名な住宅街である。
「なるほど」
いいところのお嬢様か。
教養のよさが垣間見える言葉遣いに仕草、貧乏人には住めない高級住宅街に家を構えているということはそうなのだろう。
だとしたら帰すのは早くしたほうがいいかもしれない。
よく考えれば彼女の家に連絡すらしていない。
誘拐されたと勘違いした親が警察に捜索願を出していてもおかしくない。
だったら詳しい話は行きの途中でもいいだろう。涼一はそう思った。
「舞花、この娘の服はどこにある?」
台所から顔を出した舞花は、聖の服はすでに洗濯済みで離れに置いてあると言った。
さすがは家庭的な妹だ。
常に二、三手先を見据えて行動している。
「聖ちゃんだったな。じゃあ、そろそろ君を家まで送ろう」
「重ね重ねご足労をかけます、涼一さん。それと、私のことは聖で結構ですよ」
十四歳の言葉遣いとは思えない口調で話す聖を立たせると、涼一は聖の手を取りながら離れの座敷まで送った。
そのまま聖の着替えを終えるのを涼一は待った。
聖は最初に会ったときと同じワンピースに着替えて座敷から出てきた。
「そのままだと寒いだろう」
涼一自身は無地のTシャツにくたびれたジーンズ、上から革ジャンを羽織った普段着姿であったが、聖は寒々しいワンピースしか着ていない。
だからこそ涼一は聖にあらかじめ用意していたコートをさっとかけた。
聖は顔を真っ赤にさせながら「ありがとうございます」と顔をうつむかせながら礼を言った。
「構わない。さあ、遅くなる前に行こう」
涼一は聖の手を取ろうとしたが、聖は拒否した。
昼間のうちに家の構造は理解したので一人でも歩けるらしい。
二人の準備が整うと、玄関を抜けて門のほうへ向かった。
雑賀家の正門は七時には閂を下ろして完全に閉ざしてしまうので、七時以降に出入りするためには正門の横に作られた小さな勝手口を通らなければならない。
勝手口を潜り抜けて外に出ると、涼一は天を仰いだ。
真円を描く満月が暗色の雲に翳り始め、夜風が前髪を掻きあげていく。
「行こうか。ほら、手を出しな」
微笑を浮かべながら涼一は聖の手を握った。
聖は気恥ずかしそうにそっと涼一の手を握り返す。
ここ雑賀家から聖の家までは約十キロ。
話をしながら歩いても一時間もかからないだろう。
頭上から降り注ぐ青白い燐光を全身に受けながら、二人はゆっくりと歩き出した。
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