通のアート
@yamashitamikihiro
第1話
裸足の親分トーリ 天才天然兼業画家と画廊の伝説
第一章 天才画家現る!
「あぁ・・・やっぱり俺には美術とか芸術とかよくわからないなぁ・・・」
絵画に囲まれながら仕事をしているにも関わらずその価値やそれを決める基準というものがいつまでたってもよくわからない。上手い絵、好きな絵、変わっている絵、など自分の感性で自分なりに評価することは別に難しくはないが、その絵がどのくらいの価値でどのくらいの値段になるのかとかいうことはまったくと言っていいほどわからないのだ。
彼の名前は海野月。月と書いて「ヒカル」と読ませる少し洒落た名前である。ここはとある街にある画廊でヒカルはここでアルバイトしているのである。
画廊の店名は「ギャラリーオーシャン」というのだが、ヒカルの伯父である海野勝男という画商が経営している。つまりヒカルは親戚ということでこの画廊に縁故採用されているだけであるので絵画に詳しいわけではないし、そもそも絵画にあまり興味があったわけでもないし、ついでにいうと自分で絵を描いたりするわけでもない。ということなので、画廊で働くにあたって本来必要になってくるであろう絵画の価値や値段を判断する能力やそのための知識などをほとんど持ち合わせていないのだ。
「ここにある絵画は美術の教科書とかに載っていて俺なんかでも知ってるような有名なものとはまたちょっと違うものだからな・・・作者だって名前を見たことも聞いたこともない人ばっかりだしなぁ・・・」
ヒカルはそう呟くと画廊内に展示されているいくつもの絵画をぐるりと見渡してため息をついた。
この画廊にある絵画の作者たちは伯父の勝男のようにその道のプロである人やここにあるようなジャンルの絵画が好きなマニアの人たちの間では有名な画家なのかもしれないが、ヒカルのように絵画に特に興味がない人間には全く知られていないようである。実際、友人などにここの絵画や画家のことを話しても知っていたためしがない。おそらく知る人ぞ知るというレベルなのであろう。
「だいたい画家っていうのは、誰でも知ってるくらい有名な人は既に亡くなっている昔の人が多いってイメージなんだよな・・・もちろん現役の有名画家も沢山いるのだろうが、死後に作品の価値が見直されて値段が跳ね上がるとかいう話も聞くし、おそらく教科書とかに載ってるのも既に作者が亡くなっている昔の作品が多いんじゃあないかな?」
画廊には亡くなった作家の作品を主に取り扱っているところもあれば、現代の作家の作品を主に取り扱っているところもある。このギャラリーオーシャンは後者であるのでヒカルが知っているくらい有名な作品は全くおいていないのである。
「まあ、仮に有名な画家の作品が展示されていても、俺にはそれが本物か偽物かを見抜く力がないけどな・・・やっぱり勝男さんの期待に応えることはできそうにないな・・・」
ヒカルは現在二十八歳、大学を卒業したあとは派遣の仕事などをして食いつなぎながらなんとなくこの歳まできてしまった。食いつなぎながら、といってもヒカルは実家暮らしであるので、派遣切りなどにあって家に入れる金が滞っても食事は出してもらえるのだ。家に金を入れないのなら出ていけと追い出されるということもないのでまた次の仕事をなんとなく探して見つかればまた働きに出るということを繰り返していた。
派遣切りには何度かあっているが、そういう時には何度か伯父である勝男が見かねてこの画廊でアルバイトをさせてくれていて、最近また派遣切りにあったのでまた世話になることになった。今回ここで働いているのもそういう経緯があったのである。過去に何度もここでアルバイトをしていて勝男も他のスタッフもまたかと思っているのであるが、今回はついに勝男からもう本気で画商の仕事を覚えて本格的にこの仕事を続けてやってみてはどうかと言われたのだ。
ヒカルとしてもそういう風に声をかけてもらえること自体は大変ありがたいことだとはわかっているのだが、人には向き不向きがあって、自分がこの仕事にむいているとは思えないので困っていたわけである。
「自分に能力があってちゃんとできるならけっこう楽しそうな仕事ではあるんだけどな・・・」
画商の基本的な仕事というのは簡単にいえば作品を仕入れて画廊で展示して顧客に販売することである。風呂敷画商などと呼ばれる画廊を持たない画商もいるが、この呼び方は良くない意味で蔑称的に使われることもある。
風呂敷画商は画廊を持たない形態であるが故にリスクも大きくその分より優れた目利きの能力を持っていなければならない。逆の言い方をすれば能力が高くなければ成立しないということであり、ここの経営者である勝男もこのギャラリーオーシャンを持つまでは風呂敷画商をしながら財力を蓄えたそうなのだ。
ちなみに昔は風呂敷に作品を包んで持ち歩き富裕層の人々の間を行商して回っていたためにこのような呼び方をされたらしいが、今は本当に風呂敷を使っている風呂敷画商はあまりいないかもしれない。
何にせよヒカルとしてはそんな勝男のような所謂たたき上げの実力者と違って自分は画商としての能力が無いし、勝男の甥ではあるが画商の素質があるとも思えないので画商の道に誘われても悩んでしまうのである。
素質が無くても画商の仕事に強い憧れがあれば相当な努力をしてでもその能力を身に着けようと思うのであろうが、そこまでの憧れや覚悟があるわけではないのでそういう意味でもこの仕事に向いているとは思えない。
弁解ではないが、そんな中途半端な気持ちで本格的に勝男の仕事を手伝いたいなどというのは失礼であろうし、迷惑になるだろうという遠慮もあるのだ。
「他のスタッフの人たちはこの仕事は魅力的だし色々とメリットもあるとか言うんだけど、俺としてはそうでもないしなぁ・・・」
作品を海外まで買い付けに行くこともあるらしいので、旅が好きな人にはそこは魅力的なのであろうが、ヒカルはそれほど旅好きでもないし海外旅行にも興味がないので、仕事で海外に行くことに魅力を感じたりしない。そんな感じであるのに買い付け以外の仕事でも国内での出張の仕事も多いらしい。
このギャラリーオーシャンでの仕事内容として、百貨店やショッピングモール、ホテルなどで出張画廊的な展示会を開催するということがあるのだ。そして、その展示会の企画や運営を行い、またその営業活動もしなければならなくて、そのため全国各地を出張するということなのである。
その仕事はこの画廊にとってとても大切な仕事であることは理解できるのだが、そんな営業マンのような仕事というのもそれはそれで大変であるし、目利きが重要な買い付けとはまた違った意味で責任が重くて大変な仕事なので、それこそ絵画や芸術が好きでもなければその仕事を頑張っていくのも結構きつそうでありこれまたちょっと厳しいなと思うヒカルなのであった。
そしてさらにもう一つ、さっきの風呂敷画商の話ではないが、この仕事は基本的に富裕層の顧客を相手にすることがほとんどなので、その点でもちょっと気後れしてしまうのだ。
風呂敷画商に限らずとも画廊で働く画商やスタッフが相手にするのはどうしても富裕層が多くなってしまう。絵画などの美術品は普段の生活に必要な消費財とは違い実用性や機能性はほぼないのであるが、それにもかかわらず興味を持って作品を見に来たり、気に入って買ったりする人たちというのはやはり資産に余裕のある富裕層がほとんどということにどうしてもなってしまう。
投資目的で絵画を所有しようと考えて画廊に見に来る人もいるがその場合もそれ相応の蓄えがある人なのでどちらにしても富裕層なのである。
ただ、画廊で働く人間は絵画を買いに来る顧客だけではなく、作品の作者とも接することがある。作者から作品を直接買い付けしたり絵画を展示販売する仲介のやり取りをしたりすることがあるからだ。
画家の中には当然既に売れっ子になっていて裕福な人もいるのだが、まだこれからであり収入的に富裕層とはいえないどころか普通の人より生活が苦しいような画家も多いのでそういう人には気後れすることはない。
しかし、芸術家というのは独特の感性を持っている変わった人が多かったりもするので、富裕層の人を相手にするのとはまた別の意味での大変さもあるのだ・・・
「だからぁ~っ、トーリくんは天才なんです!実際に作品を見てもらえばきっとそれがよくわかりますから!」
「ああ・・・いえ、確かにこの画廊で取り扱うのは現役の画家の方の作品ではあるのですけど・・・」
何やらスタッフの平野美奈さんが若い女性客に絡まれて困っているようだ。
「この画廊にトーリくんの作品を置いたほうがいいと思います。そうしないと絶対に後悔しますよ!」
「そのようなこと言われましても、私の一存では決めかねますので・・・一応上の者に伝えて検討させていただこうとは思いますけども・・・」
その若い女性の勢い、そして相手に与える「圧」たるや相当に強いものであった。平野さんは完全に対応に苦慮しているようであった。
「わぁ~、あのお客さん凄いな・・・まだ若そうに見えるけど、大学生くらいじゃないのかな?」
その女性は諦める気などはさらさらなくてまだまだ食い下がるつもりのようであった。
「じゃあ、今すぐその上の人を連れて来て下さい!今日は作品の実物は持ってきてませんけど、スマホに作品の画像はありますからそれを見てもらいたいです!」
「いや、その・・・ここの責任者は今、席を外していますので・・・今すぐ連れて来るのは不可能でして・・・」
その女性客はどうやら「トーリ」とかいう画家を売り込みに来たらしい。
「大変そうだなぁ、平野さん・・・」
ヒカルはまるで他人事のように二人のやりとりを眺めていた。
平野さんは確かここで何年か働いている正規スタッフのはずだ。そんな平野さんでも手を焼く相手に対してたまにアルバイトで入っている自分などがまともに渡り合えるわけはないと考えていたし、実際のところヒカルの出る幕ではなかった。
その女性客はまったく引き下がる気配はなく、画廊に来店していた他の客も何事なのかと二人のせめぎ合いを見物し始めていた。平野さんもその周りからの視線を気にし始めていた。
「騒がしいな、いったい何の騒ぎなんだあれは・・・」
画廊の奥で仕事をしていた勝男が騒ぐ女性の声を聞きつけて出て来た。
「ああ、勝男さんだ、いいところにきてくれたぞ」
勝男は周りの客にお騒がせしてすいませんと頭をさげながら二人のそばへと歩み寄っていった。
「いったいどうしたのだ?何があったのだい?」
「このお客様が、知り合いの画家の方の絵をここに置いてほしいと希望されていまして・・・」
「はい、私のいとこが天才で凄くいい絵を描くんです!」
「どうもはじめまして、私はここの店主の海野勝男と申します」
「はい、はじめまして!私は川上姫乃といいます。私のいとこの川上通くんが描く絵がとても素晴らしいんです、だからこの画廊に置いてほしいんです!」
「画家をされているいとこの方を推薦されたいということなのですね?」
「はい、その通りです。トーリくんは天才なのに私以外誰もそのことに気づいてないみたいなんです!」
その若い女性は画家だといういとこのことを凄い勢いで売り込んできているようなのだが、気が強くてチャキチャキしている雰囲気の女性というわけではなかった。どちらかといえばむしろおっとりとして天然キャラといった印象のほうを強く感じた。
「喋り方とかを見ても早口じゃなくてむしろゆっくりはっきり喋ってるよな・・・普段はのんびりしてそうな感じに思えるんだけどな・・・」
それはあくまでヒカルの主観であって実際はどうだかはわからない。しかし、川上姫乃というその若い女性は、顔つきはややたれ目っぽいこともありキツイ感じではなくおっとりしている感じに見えた。
髪形は黒髪ストレートのロングヘアーであり、やや丸顔で少し童顔ではあるが美人である。美人というより可愛らしい感じといったほうがしっくりくるかもしれない。おそらくアポイントメントなしで画廊に直接親戚の画家の売り込みに来たのであろうが、そんな大胆な行動をしそうには見えない感じのルックスであってどちらかというと穏やかで控えめで、名前の通り育ちのいいお姫様っぽいキャラっぽく見えた。
人を見た目だけで判断してはいけないのだろうが、何かおかしな企みがあってこのような行動をとっている感じではなくて、純粋にいとこの川上通という画家のことを多くの人に知ってもらいたいという気持ちでやっているようにヒカルには思えた。
「真っすぐで思い込みが強い子なんだろうな・・・平野さんもその見た目と行動とのギャップに戸惑っていたようなところがあったからな」
勝男と川上姫乃はしばらく話し込んでいた。平野さんも横で二人のやりとりを見ていたが、もう大丈夫だから持ち場に戻るようにと勝男に促されて二人から離れていった。
「どういう話になっているのだろうか・・・?」
ヒカルも顛末がどうなるのか気になってきた。受付の椅子に座っていたのだが、それとなく立ち上がり様子を伺うべくちょっとわざとらしい感じで二人のほうに少しだけ接近してみた。
ヒカルや平野さんは来店客の受付や案内の仕事をしているのだが、平野さんのように展示してある絵画の詳しい説明まで出来るスタッフと違ってヒカルが出来る仕事といえば主に受付と掃除くらいであった。
高額な作品もあるので一応警備的な意味で持ち場近くを巡回したり掃除したりしつつ絵画に異常がないか見張ったりもするのであるが、その際に作品に関する質問などをしようと客が声をかけてくることもあるので、その対応などもしなければならない。
しかし、先に述べたとおり作品について質問されてもヒカルには作品の詳しい説明などは出来ないため「担当の者をお呼びします」と言って平野さんや勝男を呼んでくるといういわば「つなぎ」のような対応しか出来ないわけである。
そんなヒカルの持ち場は入口近くの受付の机付近であるが、受付とはいっても来店客に記名をしてもらうくらいのことであるし、常連の客にはいちいち記名をお願いすることはないのではっきりいって普段は暇なポジションである。
あとは勝男などにアポイントメントをとっている客を案内するくらいしか仕事がないのだが、ただでさえコネで雇ってもらっておきながらたいした仕事もできないのにその上ずっと机に張り付いてのんびりしていたら何を言われるかわかったものではないのである。
そういうわけでずっと受付の椅子に座ってもいられないので来店客が途絶えたらすぐ巡回や清掃を行うことにしているのだ。
だから、多少わざとらしくてもヒカルの持ち場にもわりと近い場所で話している二人に巡回を装って近づくことは可能なのである。
「何かあった場合すぐに駆け寄れる位置にいないといけないもんな・・・」
独り言でそんな言い訳をしながら二人のやり取りがよくわかる距離まで近づいていった。確かに不測の事態に備えて勝男を助けられるようにスタッフが遠巻きに様子を伺う必要がある場合もある。
そういう時もあることはあるのであろうが、何せ相手が不審者などではなく若くて育ちの良さそうなお嬢さんであるので勝男に危険が及ぶような不測の事態が起きる可能性などは、ほぼほぼないであろう。そんなよくわからない言い訳をしたところで実際は興味本位で二人がどんなやり取りをしているのかが知りたいと近づいているに過ぎなかった。
「あれ、勝男さん・・・なんか、適当にあしらっている感じでもないな。何か写真とかを見せてもらってるみたいだし・・・」
「どうですか?素晴らしい作品だとは思いませんか?」
「う~ん、そうですねぇ・・・実物を見てみないことにははっきりとしたことは言えないのですけどね・・・」
どうやら先ほど姫乃が言っていた作品を写した画像らしきものを見せてもらっているようであるが、話にならないという感じでもなくて、食いつくとまではいかないが勝男が若干興味を示しているようにも見えた。
「まさか、ほんとに凄い作品を描く天才なのか?そのいとこの人は・・・そんな隠れた逸材をたまたまこの画廊に売り込みにきたのだなんて、ほんとにそんなことがあるのだろうか?」
この画廊も一応客商売ではあるので、売り込みにきた客をそう邪険に扱うこともしないのではあろうということが一つ、そしてもう一つ身なりもそんなに高い服を着ているようには見えないのではあるが、しかし何せ育ちが良さそうな見た目ではあるのでこの川上姫乃というお嬢さんが富裕層の娘さんという可能性は捨てきれないということがある。
そうゆう理由もあって今後のことを色々と考えた上で勝男は丁寧に対応しているのかもしれない。
一代でこのようなそこそこ立派な画廊を築き上げた人であり、さらにいうと頻繁に職にあぶれてしまうようなうだつの上がらない甥っ子をコネで雇って面倒を見てくれるような甲斐性まであるやり手の勝男さんのことであるので、どのような小さなチャンスの糸口も逃さずつかもうとして熱心に対応しているか、もしくは熱心に見えるように装って潜在顧客の機嫌を損なわぬように立ち回っているのやもしれない。
「勝男さんほどの人ならどんな凡才画家が売り込みにきても考えなしに簡単に冷たくはねつけるような対応はしそうにないからな・・・」
ヒカルは伯父である勝男のことを尊敬している。勝男にはカリスマ性があるので崇拝まではしないが一目置いているというか、伯父としてというだけでなくこの画廊を経営している画商としても尊敬しているのだ。
コネで雇ってもらっている立場であるのでそんなことは当たり前ともいえるのであるが、普通のサラリーマンである自分の父親よりも人間的な魅力を強く感じていた。もちろんヒカルとて自分の父親や母親のことは尊敬している。
この歳になり社会に揉まれ、派遣切りなどにも合えば親の偉大さを知るということもあるので、別に父親を嫌ったり疎んだりということはさらさらない。勝男と勝男の弟である自分の父親とを比べて勝男の方に人間的な魅力を感じてしまうというのは、父親がどうとかいうよりもむしろエネルギッシュな勝男のほうが凄いだけなのである。
ヒカルの父親は良くも悪くも普通の人であって職業も普通のサラリーマンであるので、画商という芸術にも深く関わっているようなやや特殊な仕事で自分の生きる道を切り開いている勝男のことのほうががどうしても格好良く見えてしまうのは仕方ないことなのである。
「それじゃあ、一度トーリくんと会っていただけるということなんですね!」
「そうですねぇ・・・一度作品の実物を見てみたいと思いますし、ご本人にもお会いしたいと思うのですがね・・・」
「え、マジか・・・ほんとに天才なのか、そのトーリくんという画家は・・・?」
意外な展開になりそうなのでヒカルは驚いてしまった。うまいこと言って丸め込んでお引き取り願うのだろうくらいに考えていたのだが、何やら勝男としては興味があるみたいなことを言っているのが二人の近くにいたヒカルに聞こえてきたのだ。
「おい、月!ちょっと、こちらに来なさい」
ヒカルが自分たちの近くまできていたことに気づいた勝男はヒカルを呼び寄せた。
「えっ・・・あ、はい、ただいま・・・」
ヒカルは早歩きというか、やや小走りで二人のそばに駆け寄っていった。勝男がその画家に興味をもったのだとして自分を呼んでどうするのかというのが謎であった。
平野さんやベテランのスタッフならその画家との面会の時間を作るため何か勝男のスケジュール調整的なことでも相談できるのであろうが、この状況で自分にできそうなことが思いつかない。
あまりやらされることはないが、お茶でも入れてくるように言われるのだろうかと思ってヒカルは勝男からの指示を待った。
「こちらは、川上姫乃さんです。いとこであり画家である川上通さんを推薦しに来られたということなのだよ」
「はい、そうですか・・・」
「彼はうちのスタッフの海野月と申します」
「あっ・・・はじめまして、海野月と申します。よろしくお願いいたします」
「はじめまして、ただいまご紹介にあずかりました川上姫乃と申します。よろしくお願いします」
姫乃は丁寧に挨拶を返してきた。近くで見るとやはりまだ若いお嬢さんであって、おそらく大学生くらいである感じに見えた。
「私はなにぶんいろいろとやらなければいけない仕事を抱えておりますので、その通さんという方にお会いする時間をお取りすることがしばらくは叶いそうにありません」
「え、そうなんですか?」
「はい、そこで一度、うちのこの海野に通さんに会いに行かせます。そしてお話しをさせていただきます」
「え?僕が、会いにいくのですか・・・?」
「そうだ月、お前がいくのだよ」
勝男から突然重要そうな仕事を与えられてしまった。というか、現時点ではこれが本当に重要な仕事なのかどうかは不明なのであるが、とにかくヒカルに白羽の矢が立ってしまったのだ。想像以上に意外な展開になってきたのでヒカルは完全に戸惑ってしまった。
「いや、それは無理があるでしょ・・・僕が行っても絵画について何を話せばいいかわからないよ。それに作品を見せてもらってもその作品がいいのか悪いのかわからないしさ・・・」
ヒカルは小声で勝男に猛烈に抗議した。仕事中は伯父と甥という関係ではなく店主とスタッフという関係になるのでそこはけじめをつけて仕事中はいつも敬語で話すのだが、あまりのことに我を忘れて伯父と甥の普段の会話のときの口調で話してしまった。
「大丈夫だ、そんなに難しいことはさせないよ」
「いやでも、ここでそんな感じのことやったことないし・・・」
他の正規のスタッフはそういう仕事をするのかもしれないが、ヒカルとしては思いのほか難易度が高めな無茶ぶりのような仕事を振られてしまったので「はい、そうですか」と即答して引き受けることなどは出来なかった。
「いいんだよ、どうすればいいかは今説明するから・・・」
「いや、でも・・・」
「どうしたんですか?何か問題でもありましたか?」
勝男も小声で話したが、なにぶんすぐそばにいるので姫乃にも二人がなにかしら揉めている感じなのはわかるのだ。
「いや、実はですね・・・名字で気づかれたかもしれませんがこの月は私の甥なのです」
「あ、そうだったんですね」
「はい、ですから私の代わりにまず一度、甥であるこの月に代理で行かせていただきたいと思います。そしてその通さんからお話を聞かせていただこうかと思います」
それを聞いてやはり勝男の代理などというけっこう重要で難しそうな仕事ではないかと
ヒカルは思った。
「そうですか、甥であるヒカルさんがトーリくんに会いにきていただけるんですね!」
「いや、確かに甥ではあるのですけど・・・」
ヒカルは「やられた」と思った。この状況で甥であるスタッフを代理で行かせるなどと言われたら、相手は身内なのだからヒカルのことを勝男の右腕だとか懐刀だとかいった感じの重要なポジションのスタッフなのだと思い込んでしまっても無理はない。
それはヒカルの年齢的にもむしろ自然な話だと思ってしまうであろう。まさか、そこそこいい歳の甥が派遣切りで仕事が無い時だけたまにアルバイトしにきているなどとは思うまい。
こう言われたら相手は店主の右腕のスタッフが代理で来てくれるのだと安心するだろうし、喜んでこの提案を受け入れてしまうであろう。
ヒカルはまた小声で勝男に抗議した。
「そもそもさ、無名の画家がこういう売り込みにくる場合って、当然画家のほうが自分の作品の実物を持って来て、ここで預かって展示してもらえるか判断して欲しいとか言ってきますよね?こちらから出向くのも代理がいくのも、それが僕みたいなたまにしかいないスタッフっていうのも、なんか・・・何から何までイレギュラーすぎやしませんか?」
有名で才能に溢れているような、こちらから作品をお預かりしたいとお願いしに行くくらいのポジションの画家であれば勝男が直々に出向くのが当然なのであろう。
しかし、無名で才能も未知数で、おまけに本人ではなくいとこの女の子がスマホの画像データを見せて売り込みにきたというこの状況で、こちらから出向いて話をしにいくのはどうかと思えた。
そして百歩譲ってその才能に興味を持ったからこちらのほうから出向くことまではいいとしても、この件をはっきりいって絵画の素人であるヒカルが担当するのはどうなのかというヒカルのこの言い分は、どちらかといえばまっとうな意見ではある。
「まあ、無名の画家に対してこちらから出向くというのは確かに異例だけどな、絵を見せてもらった感じではなかなか面白そうだと思ったんだよ」
「そんなに良かったんですか?でも、それならなおさら僕なんかが行くのはまずくないですかね・・・勝男さん本人が行かないにしても、もっと知識豊富なちゃんとしたスタッフが行くべきでは・・・?」
ヒカルが難色を示しているので話が長くなりそうになってきた。
「すいません、ちょっとこちらの都合で調整が必要になりますので、今から少々その相談をするお時間をいただいてもよいでしょうか?」
「はい、もちろん構いませんよ」
「申し訳ありません、少々お時間をいただきます」
ヒカルの説得に少し時間がかかると考えた勝男は姫乃に少し待ってもらえるよう承諾を得た。そしてヒカルを少し離れた壁際まで連れていって話の続きを始めた。
「そうだな・・・当然私は忙しいので行く時間がない。しかし、他のスタッフも色々と仕事を任せているので忙しいんだよ」
「面白いといっても勝男さんや他の優秀なスタッフが出向くほどの才能でもない感じなんですか?」
「そうとは言わないが、とにかく今はお前以外の正規スタッフの人手を割けないのだよ。とはいえ、面白そうな才能ではあるので放っておくのは勿体ない感じではあるのだ」
「すごく微妙なレベルの才能なんですね・・・」
「そうだな、しかしせっかく面白そうな才能がありそうな画家を紹介してもらえたのに
簡単にお断りをして、その結果他の画廊に取られて彼の才能が開花したり認められたりしたら取り返しがつかないし後悔することになってしまうだろ」
「飛びつくほどではないが、他に取られたくないので一応保険をかけておきたいみたいな感じですか・・・?」
「そんな身も蓋もない言い方はしないが、画家本人が売り込む気がなくて代理の方が売り込みにきているのでな・・・こちらから出向きはするが、私や他のスタッフの時間を割くことはできないのでお前が行くのが一番いいのだ。いわば、折衷案というわけなのだよこれは・・・」
なんか川上姫乃ではなく自分が勝男に丸め込まれてしまいそうな感じであるが、そこまで言われると川上通という画家にちょっと興味がわいてきてしまった。そして、勝男がもうひと押ししてきた。
「お前だって将来有名になるかもしれない画家に興味はあるだろ?そういう人と接することができる機会なんてめったにないのだぞ」
「まあ、正直興味はあります」
「それに、その画家のところに行ってもらう日はどんなに話が早く終わっても直帰してくれていいぞ、定時までの給料は保証してやるから。逆に時間が長くかかった場合は残業代も出すし当然交通費も出す。悪くない仕事だと思うぞ」
「そうなんですか?そうかぁ・・・」
この画廊でのヒカルの仕事はいつ、何人くらい来店するのかもわからない客をひたすら待たなければならない基本受け身のような仕事であるし、清掃や見回りをしながらといっても時間がたつのが遅く感じてしまうタイプの仕事なので正直ヒカルは退屈に感じているし勝男もそれは見透かしていた。
一日だけとはいえそれから解放されて気分転換にもなりおまけに早く帰れるかもしれないというのはヒカルにとっては確かに好条件ではあった。
「それにな、いきなり見ず知らずの人間が話を聞きに行くというのは少々難易度が高い。こういう仕事が初めてのお前であればなおさらだ」
「そう、それがちょっとどうかなと思ってまして・・・」
「だから、あのお嬢さんにも同行してもらって仲介していただけるようにお願いするつもりだ。それならだいぶやりやすいだろう?」
「ああ、まあそれなら色々助かるかな・・・」
話を聞きにいって一応作品も見るということになると、まずその画家の家なりアトリエなりを訪ねなければならないのであろうがそこまで彼女に案内してもらえるならそれだけでもちょっと楽にはなる。
「あのお嬢さんはいとこである画家を売り込む気満々だ。それは今日のあの様子を見ればわかるだろ?こちらが色々と説得などしなくても勝手に話を進めてくれるだろうから何かと手間が省ける」
「確かに、それはあるかもしれないですね」
「彼女がどんどん話を進めてくれる可能性が高いわけだから、何ならお前のほうが同行して横で二人の話を聞いているだけという状態になることも大いに考えられる。そうなれば相当楽な仕事だ。こういうことが始めてのお前にはうってつけの案件だと思わんか?」
「なるほど・・・そういうことでしたら初めての僕にでも出来そうではありますね」
ヒカルも相当乗り気になってきた。いきなり新しい仕事をやってみろと無茶ぶりをされて戸惑っていたが、それがあまり難易度の高くないものであるわりには条件が良い仕事であることがわかったのでやってみても良いと合理的に判断できたからである。
伯父と甥であるので勝男はそのあたりのヒカルの性格や思考パターンはきっちり把握できていた。説得完了まであともうひと押しというところまできている。
「そして何よりこの仕事には成功報酬が出る可能性もあるのだよ」
「成功報酬・・・ですか?」
「そうだ。画家との交渉を成立させて、さらにその作品が売れた暁には担当したスタッフに商談成立ボーナスを出している。基本的には限られた正規スタッフにしかやらせないような仕事に関するボーナスなのでアルバイトスタッフは対象外なのだが、この仕事を担当させるからには当然お前も対象となるわけだ」
「そうなんですか?それはかなり魅力的ですね・・・」
「そして、そもそも今回は実績のある画家を口説きにいくわけではないからな・・・もし、上手くいかなくてもダメもとなわけであってその責任をお前にとらせるようなことはしない。よって、リスクなしでチャレンジできるわけだからお前にとってはかなり有利な条件だろ?」
「確かにその通りですね。ただ、僕が失敗してその画家との契約を逃してしまったらと思うと結構なプレッシャーではありますけど・・・」
「なあに、もしお前が失敗したとしても俺がどうしても作品を取り扱いたいほどの才能をその画家から感じとれたときは俺が自ら交渉に行く。そこは心配いらんよ」
「そうですか・・・まあ、その画家が本当に金の卵であるとわかれば僕が成功しようと失敗しようと勝男さんが自ら乗り出して担当するまでのことですよね」
「まあ、そういうことだ、現時点では海の物とも山の物ともつかぬ存在なのだがな。さあ、どうだ?やってみるか、月よ?」
「やります、やらせていただきます!」
勝男は色々な交渉に関して百戦錬磨の手練れであるし、甥であるヒカルのことは幼い頃から見てきているので扱い方はよくわかっていた。だからこうしてヒカルがその気になるように上手く誘導することなどお手の物であった。
ヒカルの説得が完了したので、次は姫乃に同行してもらって川上通という画家との仲介役を引き受けてもらえるかを打診しなければならない。
「大変お待たせいたしました。こちらの方の調整はつきましたが、ひとつご相談したいことがございます」
「はい、それはなんのご相談でしょうか?」
「もし可能であればなのですが、川上通さんにお話を聞かせていただきに参ります際にですね、うちのこのヒカルに同行していただいてこの画廊で作品を取り扱わせていただけるかどうかという意思確認の場に立ち会っていただきたいのです」
「そういうご相談でしたか。はい、もちろん構いません。最初からそのつもりでしたから、私の方から同行させていただけないかお願いしようと思っていました。なので、私としても願ったり叶ったりです」
「そうですか、それは大変ありがたいです。もしこの画廊で作品を取り扱わせていただけることとなりましたら、細かい条件などについての交渉を私か専門のスタッフがさせていただくかたちとなります。もしよろしければその際にも立ち会っていただきたいと考えておりまが、そちらの方もよろしいでしょうか?」
「はい、もちろん構いません。トーリくんはとても人見知りなんです。だから、私が一緒にいないと自分の思っていることをこの画廊の皆さんに上手くお伝えできないかもしれないいですから・・・」
「そうですか・・・それでは早速ですが、いつ、どちらへお伺いさせていただけばよいかなどの相談をさせていただいてよろしいですか?」
「はい、私とトーリくんの都合の良さそうな日にちの候補はいくつか考えてきていますので、あとはその中にヒカルさんの都合のよい日がありましたらそこでお願いしたいと思います」
勝男と姫乃は川上通のもとへ交渉するために伺う日にちや場所についての打ち合わせを始めた。ヒカルのバイトのシフトは勝男の頭に入っていたし、休みの曜日は固定されているのだが、それとて特にヒカルに予定がなければずらすことも不可能ではないので結局ヒカル本人は打ち合わせには加わらずに最後まで勝男が姫乃と相談して日にちなどを決めた。
「・・・というわけで、日にちと場所はそのように決まったが、それで大丈夫だな?」
「はい、その日はもとから出勤日なので問題ありません」
姫乃との話がまとまると、勝男はまた姫乃から離れた壁際まで戻ってヒカルに予定日等の決定の承諾を得た。
「でも、ほんとにどうなっても知らないですよ・・・何せこっちは素人ですからね。そして芸術家の人というのは気難しい人もいるでしょうから、知らず知らずのうちに不機嫌にさせてしまうことだってあり得ますよ。こちらは丁寧に対応しますけど、何か気に入らないことがあってへそを曲げられる可能性はゼロではないと思うんです。何せ僕はそういう人種の方々と接してきた経験はほとんど無いんですからね・・・本当に僕が交渉しに行っても構わないのですね?」
「もちろんだ、男に二言は無い。それにさっきも言ったがお前が失敗すれば俺か、または他のベテランスタッフがあらためて交渉しに行くまでのことだ」
「それなんですけどね・・・僕は見てないですけど、その画家の作品はこのギャラリーオーシャンに展示すべき素晴らしい作品であることは間違いなくて、最終的には勝男さんが出張っていくかどうにかしてでも話をまとめて手に入れる価値のある画家と作品であるということはもう確定しているのですか?」
「ああ、それについてはこれから説明するが、彼女をこれ以上お待たせして引き留めておくのも申し訳ないのでとりあえず今日のところはもうこのあたりでお帰りいただこう。話はその後だ」
「それはそうですね・・・ではまずは彼女にお見送りの挨拶をしますか?」
「ああ、お前も来て一緒にお見送りするんだ。交渉に行くときにはお前がお世話になるんだからな」
「はい、わかりました」
今度は二人揃って姫乃のもとへ戻って、このあたりでお引き取りしていただけるように話をしめてお見送りの挨拶をした。そしてその後に先ほどの話の続きや、ヒカルが実際にどのような感じで交渉を進めればよいかのレクチャーが勝男からされたのであった。
数日後、川上姫乃が猛烈に売り込んできた画家の川上通と面談して作品をギャラリーオーシャンで取り扱わせてもらうという交渉をするその日がやってきた。
「はぁ・・・引き受けてはみたものの、初めてやる仕事だし上手くやれるかな?それに、
川上通という人はいったいどんな人物で、どんな画家さんなのだろうか・・・?」
当日ヒカルは画廊には出勤せずに交渉の場である川上通の自宅まで直行することになっていた。
同行してもらう姫乃とはまずは川上通の自宅の最寄り駅で待ち合わせて、そこから自宅まで案内してもらうという約束になっていたので、とりあえずその駅まで電車に乗って一人で向かっていた。
車内は空いていたのでゆったりと座ることができたのだが、ヒカルはこれからやらなければならない仕事の心配ばかりしてリラックスは出来なかった。
あの日帰ってからよくよく考えてみたらまずこれから最初に会う川上姫乃ともほとんどまともに会話していなかったことに気づいた。勝男とのやり取りを見ていてだいたいどんな感じの子かはわかったのだが、やはり直接会話を交わすことがほとんど出来なかったので今日は川上通と会う前にまずは姫乃がどういう人物なのかをつかんでいい感じで交渉に協力してもらえるように上手く誘導しなければならないと思っていた。
「とりあえず、勝男さんから受けたレクチャーの内容をもう一度おさらいしよう。結構いろいろ具体的なアドバイスもしてもらったしな・・・」
勝男からのアドバイスをまとめたメモを見ながらヒカルはあの日、姫乃を見送った後の自分と勝男とのやり取りを思い出していた。
「じゃあ、さっきの続きだが、何について聞きたいんだ?」
「そうですね・・・川上通さんとお会いできたらまずは作品の実物を拝ませていただいて、そしてそれが出来たらもううちで作品の展示や販売をさせていただけるかというところまで交渉して良いのですよね?」
「ああ、そうだ。おそらく立ち会っている姫乃さんも口をはさんでくると思う。利用するという表現はあまり良くないが、まあ上手く彼女お手伝いしてもらうんだ」
「はい、今日見ていた感じでは、それはなんとなくですがやれそうです」
あれだけの勢いで売り込みにきたわけであるから作品に興味を示したギャラリーオーシャンのことを川上通に猛烈にプッシュしてくれるであろうことはおそらく間違いない。それについてはヒカルも心配していなかった。
「もし仮にお前と姫乃さんとで説得しても交渉が上手くいかなかった時は、とりあえずお前が川上通という画家やその作品について見て感じたことをそのまま俺に伝えてくれればいい。俺か他のスタッフがあらためて交渉にいくべきかもう手を引くか、それは最終的にはお前の話を聞いた上で判断しようと思っている」
「僕が見て感じたことなんか参考になるんでしょうか?」
「それは大丈夫だ。俺は甥であるお前という人間のことはまあよくわかっている。そのお前がどう感じたかという情報で俺にとっては十分参考になるんだよ」
「はあ、そういうものなんですか・・・ではまあ最低でも作品の実物くらいは見せてもらえるように頑張ります」
「そうだな、うちで作品を取り扱えるかの交渉が上手くできるかどうかよりも、まずは作品の実物を目にすることができるか、そしてその画家と対面して話をすることができるかどうかということのほうが重要だからな。姫乃さんの話だと人見知りをする性格らしいからなおさらそこが想像以上に大変かもしれんからな・・・」
「人見知りですか・・・しかし姫乃さんもそれを心配して最初から同行してくれるつもりでいたわけですから、それこそ最低でも川上通氏との仲介役を担うという約束だけは絶対に果たしてくれると思うんですけどね・・・」
「まあそうだろうな・・・そうなればあとは本人がやる気になるかどうかということだけだ」
「川上通さんはいわばまだ駆け出しの画家さんですよね?そういう人にとってみれば自分の作品が認められて画廊に展示されるだけでも十分名誉なことじゃあないのかと思うんですよ。その作品が売れるかどうかは別にしても画廊で取り扱ってもらえた時点で結構嬉しいものだと思うので、渡りに船じゃないですけど普通は喜んで話に乗ってきそうなもんですけどね・・・」
「普通はそうだろうな。そう感じる画家がほとんどなのだろうさ・・・しかしこの画家の作品を見た感じではあまり普通ではなさそう気がしたのだよ。だから普通の画家が喜びそうなこういう話にどうリアクションしてくるかはまったく未知数なのだ。そんなわけだからあまり簡単に考えないほうがいいと思うぞ。まあしかし、そういう普通じゃなさそうなところが面白いと感じてしまったのだからそれは致し方あるまい・・・」
「はい、簡単なことだとは思っていませんし、油断せずにいきます。何せこういう仕事は初めてですからそれほど楽観視はしていないですよ」
「まあな・・・とにかくまずは相手の懐に入り込むことが重要だ。いきなりビジネスの話に入るよりも少し世間話などをしてご機嫌を伺ったほうがいい。そして徐々にうちがちゃんとした画廊であることを理解してもらって相手を安心させて信頼を得るんだ」
「なるほど、信頼ですね」
ヒカルはメモをとりつつ一言も聞き逃さぬよう勝男のアドバイスに聞き入った。
「そうだ、お互いちゃんとした信頼関係を構築していないと安心してビジネスを進められないからな」
「確かにそうですよね・・・こちらとしては川上通さんがどんな人なのか少し不安がありますが、向こうはそれ以上にこちらに対して不安を感じて警戒するかもしれませんよね。何せ作品を画廊で取り扱わせてほしいとこちらのほうから突然申し出るわけですからね。一応姫乃さんがアポをとってくれているとはいえね・・・」
「そうだ、こちらの都合だけで動いても駄目なのだ。相手の立場になって考えてみることが大切だ。どういう風に誘われたら安心して話に乗れるかを想像して出来るだけハードルを下げて飛び込みやすくする必要があるのだよ」
「相手がどう思うかを想像して安心させるのですね・・・」
「まあ、そこも姫乃さんに協力してもらえるように上手く立ち回ることだな」
「そうか・・・じゃあまずはどういう段取りで川上通さんと交渉するのかを事前に姫乃さんと打ち合わせておいたほうがいいかもしれないですね・・・」
「ああ、そこまでわかっていればとりあえず問題はない。具体的にどういう感じの打ち合わせを川上姫乃さんとするかはもうお前に任せる。とりあえず思い切ってやれるだけやってみろ」
「はい、わかりました。色々と参考になりました。上手くいくよう全力で頑張ってみます」
勝男のアドバイスによると相手の懐に入り込んで信頼を得ることが重要で、そのためには川上姫乃の力を借りる必要があるということなのだ。
まずは姫乃と入念に打ち合わせをして川上通との交渉の段取りを決めておかねばならなかった。
そして、そのように姫乃に協力してもらうためには川上通よりも先に姫乃のほうの信頼を得ておく必要が当然あるわけなのである。「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」ということであるのだが、川上姫乃が訪ねてきたあの日は勝男とのやりとりを傍で見ていたので彼女がどういう感じの人間であるか観察することはできたのだが、直接会話することがほとんど出来なかったので今日は一からお互いに信頼し合えるような関係を構築しなければいけないのであった。
そして、色々考えているうちに目的地の駅のすぐそばまで来ていた。
「約束の時間より少し早く着けたな。バタバタしないように時間に余裕を持って行動しないと駄目だからな。遅刻なんかしたらいきなり印象が悪くなってしまって信頼関係を作るどころじゃなくなってしまう」
最寄り駅に到着すると姫乃との待ち合わせ場所である改札口を出てすぐのあたりまで行ってあたりを見回して姫乃を探した。
「おはようございます!今日はよろしくお願いします」
「あ、ああ・・・おはようございます。こちらこそよろしくお願いします」
後方から現れた姫乃に突然声を掛けられてちょっと驚いてしまった。どうやら姫乃のほうが早く到着して待っていてくれたようである。早めに着いて姫乃を迎えることで印象を良くできるかもしれないと思っていたのだが、その目論見はすぐに崩れてしまった。
しかし、ヒカルのほうもちゃんと約束の時間よりも早く来ているわけであり、姫乃自身がある意味その証人になったわけでもあるからそこはあまり気にしなくても大丈夫であろう。
ヒカルのほうが後にきたということで相手の機嫌を損ねたということはないであろうし、二人とも早く到着したことによって予定通りどころか若干時間を前倒しにして今日の計画を進めることができるのだ。
そのように思うことによって先手を取られ出鼻をくじかれかけて少し動揺しかけた気持ちを立て直したヒカルであった。そして、勝男のアドバイス通り交渉が上手くいくように姫乃に協力を仰ぐべくさっそく今日どのようにして川上通と接するべきか相談するのであった。
「本日は川上通さんとの面会にお付き合いしていただいてありがとうございます」
「いえ、こちらのほうから突然トーリくんのことを売り込みに行ったのに、こんなに早く動いて下さったのですから、こちらこそ感謝しています」
「そう言っていただけると、とてもありがたいですし正直助かります。このたび姫乃さんに同行していただけるようお願いいたしましたのはですね、まずは川上通さんご本人ではなく姫乃さんからの推薦でありましたのでご本人様自身のお考えがわかりません状態でこちらからお伺いするというかたちになってしまったため、私どもの画廊や私を川上通さんにご紹介していただく必要があると考えたからであります。さらに先日のお話しの中で川上通さんは人見知りをする性格であるとおっしゃられていましたので、いとこである姫乃さんが同行して下さったほうが、話し合いやその他のことも何かとスムーズに進めることが出来るのではないかとも考えたからなのであります」
「はい、それは承知しています。せっかく画廊のかたがトーリくんの絵に興味をもって訪ねてきて下さるという大きなチャンスなのに、トーリくんがいつもの感じで人見知りして上手くお話しできなかったら台無しですもの」
「いや、まあ・・・芸術家の方は独特の感性を持たれている人が多くて、それ故なのかどうかわかりませんが、他人と接するのが苦手な方も多いそうなのです。だから、川上通さんだけが特別お話しすることが苦手ということではなくて、芸術家の方々と仕事のお話しをする時にはむしろ割とよくあることらしいです。しかし、画廊が重要視するのはあくまで作品や才能についてでありますし、私どもの代表である海野勝男も画商として川上通さんの作品には大変興味を示しております。ですから画廊・ギャラリーオーシャンとしては作品を取り扱わせていただけないかという本日のこのお話合いには大変前向きであると理解していただきたいのであります」
芸術家の中にも社交的で喋りが達者な人も当然一定数存在するし、他の職業と比べて人見知りをする人の割合が多いのかどうかは実際のところよくわからない。
また、芸術家や職人というのは気難しくて口下手な人が多いなどという偏見をもつことは良くないのであろう。だがあえて芸術家にはありがちなことであるように言ったのは、この場では姫乃にあまり気を使わせないよう安心させてあげたいと思ったヒカルなりの気遣いなのであった。
「こちらこそ、そういう風に言っていただけると助かります。トーリくんの絵の良さをわかっていただけただけでも嬉しいのに作品を画廊に置いていただくことに前向きだとまで言っていただけるなんて、きっと本人も喜ぶと思います。思い切って画廊に伺って本当に良かったです」
川上姫乃は笑顔で穏やかに答えてくれた。作り笑いで社交辞令を言っている感じではなく川上通の作品が画商である勝男に評価されたことが本当に嬉しいのだということがヒカルにもちゃんと伝わってきた。
画廊での様子を見ていたら見た目は可愛らしいお嬢さんだが思い込みが強くてちょっと世間知らずな変わり者なのかもしれないという印象だったのだが、こうして話していると割と普通の子であるし、川上通を画家として成功させるためにここまで尽力しているわけであるから親切で優しい人柄のいい子ではないかという風に見方が変わってきた。
最初は交渉に協力してもらえるようにとにかくご機嫌をとろうとして耳ざわりの良い言葉を並べてしまったヒカルなのであったが姫乃の笑顔を見ているとそんな自分がとても姑息であったと感じて少し恥ずかしくなってしまった。
そして同時にこの川上姫乃の力になりたいとも思い始めた。画廊の利益のために新人発掘をしようだとか、その新人画家の未来を切り開くための手助けをしようだとかいうことではなくて、姫乃のためになんとかこの交渉を成功させたいという気持ちになったのである。
「姫乃さんは優しい人ですね。川上通さんのために自分のことのように一生懸命行動されて、その結果うちの代表でもあり筆頭の画商でもある海野勝男の心を動かして今回の商談までこぎ着けたのですからね」
このように見た目が上品で可愛らしいというだけでなく家族思いならぬいとこ思いで心が優しい姫乃のことであるから、きっと周りの人から愛され可愛がられて育ってきたのであろう。朗らかな姫乃の笑顔を見ながらヒカルはそんなことを考えていた。
「私なんて特別優しい人間じゃないですよ。それよりも、トーリくんは本当にすごくいい絵を描くんです。絵を描く才能が素晴らしいだけではなくて、人柄もとっても優しくていい人なんです」
「いい人、ですか・・・?」
「はい、私が子供の頃はよく遊んでくれましたし、今でも色々と話をするんですけど、私がどんな話をしても面倒くさがらずにちゃんと聞いてくれるんですよ。だから私もトーリくんのために何かちょっとでも恩返しみたいなことがしたいんです!」
真っ直ぐな心を持った姫乃のことを気に入ってぜひ手助けしたいと思う人間はヒカル以外にもきっと多くいるのであろうが、その姫乃から優しくていい人だと言われてこんなにも熱心に売り込んでもらえている川上通という人物はよっぽどの好人物なのかもしれないとヒカルは思った。
「そうですか・・・いや、先ほどは画廊が重要視するのは作品や才能であるとは言いましたが、やはり作り手、売り手、買い手ともにそれぞれが一人の人間であってですね、作品を取り扱わせていただくにあたってはそういった人間同士のふれあいみたいなことも大切にしていきたいと考えておりますので、やはり私どもとしましても川上通さんともしっかりとコミュニケーションをとらせていただいて、お互いの考え方を理解した上でのお付き合いをさせていただければ幸いであると考えております」
「そうですね・・・じゃあトーリくんにも頑張って自分の考えをヒカルさんに伝えてもらわないとですね。私も出来るだけ協力させてもらいます」
たまたまなのであるが、ヒカルも姫乃もこの件の関係者というか当事者である海野勝男と川上通とは甥といとこであって名字が同じであるので、区別をつけるため名字ではなくてファーストネームで呼び合うように自然となっていた。
外交などでも首脳同士がファーストネームで呼び合うことで親密な関係をアピールするみたいなことはあるが、ヒカルとしては意図していたわけではないのにそのような感じで姫乃との間で親密な雰囲気を作れた上に出来るだけ協力するという言質まで取り付けることが出来た。
ここまでは事前の計画通りに事が運んでいるので上々の滑り出しといえるであろう。しかし、当のヒカルは交渉を成功させるために姫乃を利用するという考えはすでになくなっていた。どちらかというと姫乃を喜ばせたいのでなんとか交渉を成功させたいという気持ちになってしまっているのである。
目的と手段が微妙にすり替わったというか、もはやほぼ逆転してしまっているのであった。そして、そのことはヒカル自身も何となく自覚してはいたのだが、別に構いはしないと思っていた。
どちらが目的でも手段でも関係ないというか結果的に交渉を成功させればどちらでも同じことであって、それで関係者全員がハッピーになれるのであれば何ら問題は無いわけなので趣旨が変わってしまったことを思いなおして初心を思い出してビジネスに徹するなどという固いことをいう必要は無いと考えていたのだ。
「この子の一途な思いを叶えてあげて喜ばせてあげたいし、俺に協力したいという気持ちにも報いたい。そういう気持ちでいたほうがモチベーションも上がってむしろより頑張れるからな・・・」
ヒカルは自分にそう言い聞かせて自分を正当化しつつこのままの方向性でこの仕事を続けようと思った。
「ありがとうございます。頼りにしていますので仲介のほうをどうぞよろしくお願いします。それでは、そろそろ川上通さんのご自宅へ向かいましょうか?」
「そうですね、今丁度本来の待ち合わせの時間になりましたから、そろそろですね。では、ご案内しますので行きましょう」
「はい、お願いします。では参りましょう」
二人は交渉の場所である川上通の自宅に向けて出発した。
川上通宅は先ほどまでいた最寄り駅から歩いて十数分ほどで行ける距離にあるということなので姫乃に案内してもらって徒歩で行くこととなった。
歩きながらこの後の交渉をスムーズに進めるためにヒカルは川上通に関する情報をできる限り聞いておこうと思った。
「ところで・・・姫乃さんのいとこということは、川上通さんも結構お若い方なのですかね?」
あらためてよく考えてみたら川上通の年齢や経歴などの割と大事な情報をまったく仕入れずに交渉の当日を迎えてしまっていたのだ。姫乃の年齢もきちんと聞いてはいなかったのだが、どう見ても大学生くらいにしか見えないので勝手にそのくらいの年頃の子だと思っていた。下手すると高校生なのかもしれないが、実際に会って顔も見ているのでとにかくそのくらい若いお嬢さんであることは予想できていた。
しかし、川上通に関しては顔写真すら見たことがないので姫乃のいとこなのだから年齢もある程度近いのだろうなと、そのくらいのぼやっとしたイメージしか持っていなかったのだ。
「トーリくんと私はいとこですけど、歳は二十歳以上離れているんです」
「え、そんなに?それは、結構年上だったのですね・・・」
「私は今十八歳ですけど、今年の誕生日が来たら十九歳です。トーリくんはいま四十一歳だったと思います」
姫乃は楽しそうに少し笑いながらそう答えた。二人の年の差に驚いたヒカルの反応がおもしろいくらい期待通りであったからなのかもしれない。だが、ヒカルのほうは事前の予想が覆されて少し戸惑っていた。まさか自分よりも十歳以上も年上だとは想定していなかったので、事前に考えていたシミュレーションのようなものを少々修正しなければと思ったのだ。
いま姫乃から年齢を聞くまではまだ世に出ていない若い新人の画家という人物像を想像していたので、少し持ち上げてプライドをくすぐった上で、画商である勝男に才能を認められて作品を画廊に置いてもらえることはプロの画家としての第一歩になるわけであって誰にでも出来るわけではない名誉なことでもあると説明すればなんとかなりそうだとヒカルは考えていたのだ。
だが、自分より年上のまあまあ中年の画家となると話が変わってくる。
それくらいの年齢であるにも関わらずまだ画家として世に出ていないということは何かしらそういう状況に陥ってしまう理由があるはずである。
画家としての才能に関してはプロの画商である勝男が一目置いているわけであるから一応問題はないはずなので、あとはチャンスに恵まれなかったとか、チャンスをつかむために姫乃がやったように自分から売り込むような行動をとっていなかったとか、まずはそういうことが考えられる。
そういうパターンの場合であれば今回姫乃が行動を起こしてチャンスを作ってくれたわけであるので、あとは本人が一歩踏み出してくれたらプロの画家としての道は開けるであろう。
他に考えられるパターンとしては、そもそも本人にその気がない場合である。画家としての才能はあるが、画家を職業にしてそれで食っていくという考えがない人なのかもしれないのだ。その場合本人をその気にさせるのはちょっと苦労するかもしれない。
今日初めて会う赤の他人の説得ではなかなか心を開いてくれない可能性もあるので、その時はいとこである姫乃頼みということになってしまうかもしれない。そうなれば先ほどのやりとりで姫乃に全面的な協力の約束を取り付けたことはかなり大きいし、勝男からの事前のアドバイスを忠実に実行できているということになるわけである。
川上通が画家として世に出ていない理由が何であれ、ここまでは予定通り事が運んでいてヒカルの仕事は順調に進んでいるようである。
勝男や画廊の役に立てそうであるのでそれについては大変結構なことなのであるが、しかしそんなことはもうヒカルにとってはどうでもいいとまでは言わないが二の次という感じであって、このまま順調にいけば川上通を画家として世に出したいという姫乃の願いを叶えてやれそうであるなと少し安堵しているというのが正直なところであった。
「あとですね・・・川上通さんは人見知りをする性格ということでしたが、それ以外に何か交渉をする際に心配なところはありませんかね?例えば、少し気難しいところがあるみたいな・・・」
チャンスに恵まれなかったとかその気がないとかいうことであれば何とか説得はできそうなのだが、そうではなくてとても疑り深いだとか他人を信用しないだとか、そういった感じの性格であり人間性にやや問題があるために四十一歳になっても画家として世に出ていない可能性も無くはないとヒカルは思った。そうであれば姫乃の説得にも全く耳を貸さないかもしれないので最も厄介なパターンだと思って、そのへんも少し探りを入れてみた。
「気難しいとかいうことはありませんけど、そうですね・・・何せシャイなんですよトーリくんは。自分の描く絵に自信がないわけではないとは思うんですけど、作品をコンクールに出してみるとか色んな人に作品を見てもらうための活動を何かやってみるとか、そういうことが出来ない人なんですよ・・・どうしても恥ずかしがってしまって自分の作品や才能をアピール出来ないでいるんですよね、ずっと・・・」
「ああ、そうなんですね・・・そういう方なのですね・・・」
「でも、決して悪い人ではないんです。本当に私にはとても優しくていい人なんです!」
「なるほど・・・とにかく姫乃さんに対してはとても優しいということなのですね・・・」
もう立派な大人であるというか、もはや立派な中年といってもいいような年齢であるにも関わらずとてもシャイ過ぎて才能を持て余してしまっているとはさすがに想像していなかった。そこまで恥ずかしがり屋さんだと確実に交渉に影響が出てきてしまうに違いないではないか。まったくとんだシャイボーイである。
そんなトゥーシャイな四十一歳のシャイボーイを自分が説得するのは相当に困難なことであると思えたので、ヒカルはとにかく姫乃に頑張って説得してもらうしかないと彼女の突破力に期待するというか、何とかしてそのシャイボーイを上手いこと説得してくれと願う他ない感じになってしまった。もう完全に他力本願である。
「どうかしましたか?トーリくんの性格のことで何か問題がありそうなのですか?」
ヒカルが急に難しい顔をして考え込みだしたので、姫乃が心配そうに顔を覗き込んできた。
「いえ、ちょっとだけ心配になってきましてね・・・今日初めてお目にかかる私に対してですね、はたして心を開いてお話をして下さるでしょうかねえ・・・?」
「さっきも言いましたけど、たぶんヒカルさんに会っても人見知りはすると思います。でもそれは、家族とか近しい親戚の私とか以外には誰にでもそうなんです・・・」
「別に友人のように親しい関係になる必要はないんです、こちらとしてはビジネスでありますので一応公私のけじめのようなものはつけないといけませんのでね。しかしですね・・・
ある程度は心を開いて私どもを信用していただいてですね、お互いに信頼関係を築くことが出来なければ厳しいかなと・・・こちらとしては作品を画廊で取り扱わせていただけなければもうどうにもなりませんのでね・・・」
「確かにトーリくんがその気になってくれないと画廊に絵を置いてもらうことは難しいですよね・・・」
「そうなんですよ、本人の承諾なしに勝手にできることではありませんからね・・・そこでなのですが、今日の交渉は姫乃さんが頼みの綱ということになると思うのですよ。初対面の私に対しては無理かもしれないですけど姫乃さんに対しては完全に心を開いているに違いないと思いますのでね・・・」
「確かにトーリくんは初対面の人にすぐ心を開くタイプの性格ではないですね・・・けど、
私思うんです、担当して下さるのがヒカルさんならきっと大丈夫じゃないかなって」
「え、どういうことでしょうか?私なら、なぜ大丈夫なのでしょう?」
「それはですね、ヒカルさんもトーリくんと同じで優しくていい人だからです!」
「私が、ですか・・・?」
「はい、ヒカルさんはこんなにも熱心に取り組んでくださるんですからね。もちろんお仕事だから当たり前なのかもですけど、それでもお仕事を一生懸命頑張られる姿勢にも誠意を感じます。なので、ヒカルさんがいい人なのはわかります」
そう言われてしまうと実際にはそこまで仕事熱心なわけでもないので少々心苦しかった。あと一つ、優しくていい人の前に「トーリくんと同じで」という言葉がついているのがちょっと気になってしまうヒカルであった。四十一歳のシャイボーイと一緒にされてしまうとどうしても複雑な気分になってしまう。
それに、いい人というのは「どうでもいい人」と同じようなものであるなどと言われることもあるので、ヒカルとしてはその点もちょっと引っ掛かってしまっていた。
姫乃の話を聞いている限り川上通という人物はいかにもその「どうでもいい人」に該当しそうな気がするので、自分も姫乃に同じように思われているとしたら嫌だなと思ってしまったのだ。それでもまだ川上通はいとこだから良いだろうが、自分は姫乃とはとりあえずは赤の他人のようなものなので「どうでもいい他人」ということになってしまう。
もしそうであるならさすがにそれはあんまりな扱いではないかと思って聞き捨てならないとまでは言わないが簡単にスルーできない発言に思えて気になってしょうがなかった。
「あの・・・私何か、お気に障ることでも言ってしまったでしょうか・・・?」
ヒカルが何か複雑そうな表情をしていたので姫乃がまた心配そうに聞いてきた。
ヒカルは思っていることがそのまま顔に出てしまうタイプであるので四十一歳のシャイボーイである川上通と同じように見られることを不本意だと思っていることが悟られてしまったようである。思っていることが顔に出てしまうことについては昔から指摘されてきたので普段から意識してそうならないようにしているつもりであったのだが、今は気を抜いてしまっていたというか川上通の性格や姫乃の発言について考えることに意識が集中していたために感情が思いきり表情に表れてしまっていたようだ。
「いえ、別にそういうことでは・・・優しくていい人だとか仕事を一生懸命していて誠意を感じるだとかいうことをあまり言われたことがないので、そういう言われ慣れていないことを言われてちょっとだけ戸惑ってしまっただけなのですよ・・・」
「ああ、そういうことですか。それはちょっと意外ですけどね・・・こんなに優しくて仕事熱心なのに、あまりそういう風に言われたことがないなんて・・・」
何とか上手く誤魔化せたようである。優しいとか仕事熱心とか言われることがあまりないのは事実であるので嘘をついたわけでもないからこれについては心苦しくはない。そして心配そうな姫乃に気を使ってのことなので誤魔化したことについても別に罪悪感はなかった。
「どうでしょうかね・・・別に私は特別仕事熱心な人間というわけでもありませんよ。私ぐらいやるのは普通ですし、画廊の他のスタッフとかで私より仕事熱心な人はいくらでもいますから・・・」
「そんなに謙遜されなくてもいいのに・・・でもあのギャラリーオーシャンのスタッフはそういう方々ばかりでとても素晴らしい画廊だということなのですよね」
これも事実を言ったまでのことであるし、謙遜というよりも自分は本当に仕事熱心なほうではないのでむしろ姫乃が買い被りすぎているのだと暗に言ったわけなのである。
しかしそれに対しても最終的には自分も含めたギャラリーオーシャンのスタッフ全員を肯定的に見てくれて褒めてくれるわけであるからどうやら姫乃は本当にまっすぐで素直な性格であるらしい。
「まあ、この姫乃さんが言うことに関してはあまりうがった見方はしないで額面通りに受け取っても大丈夫なのかもな・・・」姫乃の反応を見てヒカルはそう思うことにした。
先日はなかなかの勢いで結構強引に川上通のことを売り込んできて少々世間知らずなのかなという印象であったが、今日はヒカルの願いを聞き入れてくれたし何を言ってもいわゆる神対応というやつで返してくれている。むしろ姫乃のほうが優しくていい子だと思えるので先ほどの言葉も普通に褒めてくれたのだと解釈して素直に受け取ることにした。
それにしても川上通という人物は姫乃と勝男の評価を聞く限りは絵を描く才能があるのは間違いなさそうなのであるが、性格的にはやや難がありそうなのでやはりこの件は簡単な仕事ではないのかもしれない。
姫乃が言うように大丈夫だろうとかまあなんとかなるだろうとか、そんな感じで高を括っていたら思わぬ失敗を招いてしまいかねないわけであってまさに油断大敵といえるであろう。
「姫乃さんはああ言っていたが、やはり初対面の俺に簡単に心を開いてくれるとは考えにくいからな・・・交渉が上手くいくかどうかは川上通さんがどのくらい姫乃さんの言うことを聞いてくれるかにかかってくるな・・・」
結局は姫乃頼みということになってしまうのであるのだが、どうやら姫乃の画廊に対する印象は良さそうであるのでとにかく川上通と姫乃の両方ともに画廊や自分のことを信頼してもらえるように、今度はヒカルの方からギャラリーオーシャンのことを売り込むことにした。
「まあ、手前味噌で恐縮ですが私どもの画廊に任せていただければ作品一つ一つに対して誠意をもって出来る限りのことをさせていただきます。大手の画廊のように手広くやったり有名な絵画を扱ったりとかはしていないのですが、その分一つ一つの作品に力を注いでいけるのです。そのことはお約束させていただきますので、あとはもう本当にご本人様が我々を信用して下さってご決心して首を縦に振っていただけるかどうかということだけなのですがね・・・」
「そうですか・・・私はもちろんヒカルさんや画廊の皆さんのことを信用していますし、さっきお約束した通り出来るだけ協力させていただきます。そもそも私がお願いしたことですから、トーリくんが快諾してくれるように出来る限り頑張ります!」
「なんかすっかり頼りにしてしまって申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
姫乃はとても頼もしい言葉を返してくれた。
見た目はお嬢様っぽくて上品であるが時々少々予想外の行動が見られることもあるのでややつかみどころのない子だという印象があったのだが、もはやそれすらも彼女の魅力の一つのように思えてきたヒカルであった。
そして、川上通という人とは上手く接することが出来るかどうかわからないが、姫乃とは友好な関係を築いていきたいので、そのためにも今日の交渉を何としてでも成功させて姫乃の望みを叶えてあげたいと意気込むのであった。
「あ、もうそろそろ着きますよ。すぐそこにある一軒家なんです」
今日どのように話を進めていくのか、そして川上通はどんな性格かなどについて話しているうちに二人はいつの間にか住宅街に入ってきていた。もう川上通宅のすぐ近くまで辿り着いていたのである。
「割と普通な感じの家が多いですね・・・結構古くからありそうな住宅街ですが・・・」
「そうですね、私が生まれる前からずっと変わらずこんな感じだそうです。そしてあの角のところにあるのがトーリくんの家ですよ」
そう言って姫乃が指さした先には割と普通の一軒家があった。丁度曲がり角に位置している二階建ての一軒家であったが、周りの家々と似たような造りでありこれといった特徴のようなものもなくて本当にごくごく普通の家であった。
「あれがそうですか・・・結構普通の家ですね・・・」
「画家の自宅だからもっと変わった感じの家を想像してましたか?古い洋館みたいな家とか逆に純和風の古い日本家屋とか、もしくは何かもっと奇抜な家だとか思ってましたか?」
姫乃はヒカルの反応を見ながら少し楽しそうに聞いてきた。
「いえ、別に・・・そういうわけでもないのですがね・・・もしかして実家暮らしをされている感じなのですかね?」
その家のすぐ正面までやってきた二人は立ち止まって建物全体をまじまじと眺めた。今年四十一歳になる川上通が自ら建てた家にしては少々古すぎる感じの家であった。おそらく建てられたのは令和でも平成でもなく昭和の時代だと思われるくらい年季の入った家であった。
「そうですよ、トーリくんはこの家で生まれ育って今もずっとここに暮らしています」
「そうですよね、なかなかレトロなねぇ・・・最近流行りのまさに昭和レトロといった感じがする家ですもんね・・・まあ、レトロな家が好みだからあえてこういう物件を最近になって中古で購入されている人もいるかもしれないですけどね」
「あ、その気持ちちょっとわかるかもしれません。この家はなんか落ち着くので私もすごく好きなんです」
「そうなんですか?僕でもここまでレトロな家に住んだことはないのに、僕よりもっと若い姫乃さんが落ち着く家なのですね・・・僕は子供の頃に行ったことのある親戚の家が結構古い家だったのでそれを思い出してちょっと懐かしいとは思いますけど」
「私も同じような感じですよ。なんか懐かしい感じがして落ち着くんです」
そんなことを話しながら二人は家の敷地の中へ足を踏み入れていった。
「え、玄関はこっちじゃあないんですか?」
真正面にあった玄関をスルーして姫乃は左の方に進んで庭へと入っていった。
「はい、こっちの方にいると思いますので」
姫乃はそう答えると庭の植木の間を抜けて奥へと進んでいった。ヒカルはよくわからないがとりあえず姫乃のあとをついて行くしかなかった。
「トーリくんは普段はいつも庭にある離れで一日の大半を過ごしていますから、この時間ならあそこにいると思います」
「離れなんかあるんだ・・・もしかして、あの大きめの納戸みたいなところにいるのかな?」
姫乃が離れだというその建物は、一見すると物置とか納戸とかではないのかと思ってしまうくらい簡単な造りの建物であったが、よく見ると普通の部屋についているような窓があり中にカーテンも見えるので物置などではなくて人が中でくつろげるようになっていそうではあった。二人はその離れの入り口のドアの前まで辿り着いた。
「ここはトーリくんのアトリエ兼個室みたいになっている部屋なんです。食事をしたり寝たりするのは母屋にあるトーリくんの自室なんですけど、昼間はここにいることが多いんです。絵を描くのに熱中しているときはずっとここに籠ってしまいますし、ここで寝泊まりして絵を描き続けることもあるんです」
「そうなんですか・・・では、今はここにいらっしゃるのですよね?」
「たぶんいると思いますけど、とりあえず呼んでみますね」
簡素な造りの離れなので玄関チャイムやインターホンなどは無いため姫乃はドアをノックしながら中にいるのであろう川上通のことを呼んだ。
「こんにちはー、トーリく~ん!画廊の人を連れて来たよー」
声を掛けてそのまま数十秒待ったが中から返事は無かった。
「トーリく~ん、来たよ~!」
姫乃が再び呼んでみたのだが中からは何の反応も無かった。
「あれれぇ~おかしいなぁ・・・この時間に来るって言っておいたのに、どこかへ出かけちゃったのかなぁ・・・?」
「母屋のほうにいらっしゃるのでしょうかね?」
「そうかもしれませんね・・・じゃあ、母屋の玄関まで戻りましょう」
どうやら離れにはいないようなので二人は母屋の方を訪ねることにした。
母屋の玄関ドアの前まで来ると姫乃が今度は玄関チャイムのボタンを押して鳴らして応答を待った。しかし、これまた何の反応も無かった。
「こっちにもいないのかなぁ・・・」
何度かチャイムを鳴らしたが応答は無かったのでおそらく母屋の方も留守のようであった。
「今日はご家族の方々も皆さん不在なのですね・・・」
「今日は伯父さんも伯母さんも出かけて留守にしているということは聞いてました。でも、トーリくんには画廊の人と一緒に来るので今日は家にいて待っていてほしいって言っておいたんですけどねぇ・・・」
「近所のコンビニとかにちょっと買い物に行ってるとかじゃないですかね?」
「どうかなぁ?あんまりそういうことはしないんですよトーリくんは・・・」
「もしかして急に何か必要になってそれを買いに出たとかもないですかね?」
「それもどうかなぁ・・・?トーリくんは割とのんびりした性格なので、そういう場合でも次に外出した時とかについでに買えばいいかって感じに考えちゃう人なんです。ここに来る途中に一番近いコンビニの前を通り過ぎましたけど、たぶんいなかったんじゃないかな?奥の方は見えなかったけど、とにかくコンビニにいる確率は低い気がします」
「そうですか・・・では、どちらに出かけられたのでしょうかね・・・?」
「もしかしたら・・・ふと思い立ってどこかに絵を描きに行っちゃったのかな・・・」
「え?今日我々とのアポイントがあるのに、ふと絵を描きに行っちゃったんですか?」
「トーリくんは一度絵を描きたいと思い立ったら我慢できなくなって、早朝とかでも急に絵を描きに出かけちゃったりするんです。とにかく絵を描くことが好きな人なので・・・」
「そんな・・・そういうことは、本当によくあるんですか?」
「たまにありますね・・・それで私も何回か約束をすっぽかされたことがあるんです」
「そうなんですか?これは弱りましたね、どうしましょうか・・・?じゃあね・・・まあ、とりあえず電話して居場所を確認していただけますか?」
「それなんですけどね・・・さっきから電話をかけてるんですけど、ぜんぜん出てくれないんですよ・・・ああ、ダメですね、出てくれないです・・・」
そう言いながらもスマホを操作して電話をかけ続けてくれているのだが全くつながる様子はなかった。
「こんな感じでなかなか電話に出てくれないこともよくあるのですか?」
「それは結構よくあります。むしろ、すんなり出てくれることのほうが珍しいかもしれません。絵を描いている最中だったり、それ以外でも集中して何かをしている時は電話に出てくれないんですよね・・・」
「そうなんですか・・・では、どうしましょうか・・・?」
ヒカルはこの時点で既に正直いって川上通という人物は想像していた以上に厄介な人物だったと頭を抱えたくなっていた。
社会不適合者とかいうとさすがに言い過ぎになってしまうのだがここまでの彼の行動を見る限りでも四十一歳のいい大人がとる行動ではないと思ってしまっていた。そしてまだ絶望的とまでは言わないが、たとえ今日姫乃が相当頑張ってくれたとしても交渉成立はなかなか困難なことではなかろうかと思えてきていたのだ。
「こうなったら、トーリくんが絵を描きに行きそうなところを探すしかないですね!」
「え、どこに行ったのか見当はついているのですか?」
「はい、おそらく近所にはいると思います。トーリくんの立ち回り先はある程度は予想できますから、何とかなると思います」
「そうですか・・・では、すいませんがそこへ案内していただいてもよろしいでしょうか?」
「はい、もちろんです。トーリくんの行動パターンはだいたい決まっていますので、探せば見つかると思います」
ヒカルとしてはもはや姫乃の言葉を信じるしかなかった。簡単に見つからないかもしれないが、とりあえず川上通と会うことができなければ話にならないので彼を探しに行くという以外の選択肢はないのだ。
「では、探しに行きましょう」
二人は川上通宅を後にして彼の立ち回り先と考えられる場所を辿ることにした。
「まずは、来た道を引き返して一番近くのコンビニにいないか覗いてみましょう。さっきは店の奥のほうまでちゃんと見てなかったので、もしかしたら店のどこかにいたかもしれませんから」
「しかし、コンビニにいる可能性は低いのですよね?」
「そう思いますけど、念のため一応確認したいと思います」
「それはそうですよね・・・もしいたらラッキーですし、実はいたのに素通りしてしまって会えなかったら大変ですからね」
「そうですね、いてくれたら助かるんですけど・・・」
そんなことを話しながら少し歩いたらすぐにコンビニに着いた。
「私が店の中を探しますから、トーリくんが入れ違いで出て来ないかここで見張ってて下さい!」
「あ、はい・・・」
姫乃は素早くコンビニに入って店内をくまなく探し始めた。しかしヒカルはそこで重大な事実に気づいた。
「見張っててはいいんだが、俺は川上通氏の顔とか背格好とか、外見について何も知らないのだけどな・・・」
ヒカルは川上通に関して先ほどまで年齢すら知らなかったのだ。そして現時点でも具体的な人物像を知るための情報はほとんど持っていない状態であった。
よく考えてみたら、先日画廊にて勝男は川上通の作品の写真は姫乃から見せられていたようであるが、彼の顔写真などは見せられていなかったと思われる。つまり、ヒカルや勝男など画廊側の人間は誰も彼の外見について知らないし、外見だけでなく姫乃のいとこであること以外は彼の素性についてほとんど知らないのであった。
いくら画廊にとっては作品やそれを生み出す才能こそが最重要であるとはいっても川上通に関する情報が乏しすぎだろうと今更ながら思ってしまうヒカルであった。
「とりあえず四十一歳くらいのおっちゃんが出てこないか注意しておこうか・・・」
しかし、もし四十一歳くらいのおっちゃんに該当する人物が出て来たとしてもヒカル一人で追いかけていくわけにもいかないので、姫乃が出て来るまではその姿を見失わないようにするくらいのことしかできないのであった。
「やっぱりコンビニにはいませんでした」
ヒカルが色々考えているうちに店内を探し終えた姫乃が出て来た。
「やはりここにはいませんでしたか・・・では次に川上通さんがいそうなところへ行きましょうかね」
「はい、では次の場所に行きましょう」
二人はコンビニを後にして次の場所へと向かった。
コンビニまでは待ち合わせ場所にしていた最寄り駅から来た道をそのまま引き返して来ていたのであるが、コンビニを過ぎて少し歩いた場所で来た道とは違う方向に曲がって進んだ。
「さっきの最寄り駅の方には行かないのですね?」
「はい、さっきの駅より少し遠くにある駅のほうに行きます。そちらの駅前のほうが大きい商店街がありますし、そこに行く途中にもちょっと大きい公園がありますのでそのどちらかにいるかもしれないんです」
「なるほど、特に公園は絵を描くのに丁度良さそうな場所ですよね」
「はい、そうなんです。そんなに大きな公園ではないのでもしいたら見つけられると思います」
二人はとりあえず姫乃の言う公園へと向かった。
「ここですね・・・池なんかもあるし割と景色もいいので、確かにここならどこかで絵を描いているかもしれませんね」
「公園を一周回ってみましょう。そうすれば公園のほぼすべての場所が見渡せますので、もしトーリくんがいたらわかります」
二人は公園内を歩いて一周してみることにした。
「ここで絵を描いて下さっていたらいいのですけどね・・・」
「どうでしょうねぇ・・・どこで絵を描くかはトーリくんのその時の気分次第なので」
公園の中央にはやや細長い池があるのだが、二人の歩いている道は公園の端っこに近いところを通っていて中央の池の方を見渡しながら一周すれば公園内をほぼ隈なく探すことができるのであった。姫乃が池の方向の広い範囲を探して、ヒカルは公園の端から二人が歩いている道までのせいぜい十メートルくらいしかない範囲を探しながら歩くこととなった。
「あの、すいません・・・歩きながらで構いませんので川上通さんの顔とか全身が写っているような写真があれば私に見せてもらえませんか?」
「え?ああ、そういえばヒカルさんはトーリくんの顔とかを知らないのでしたっけ・・・?」
「はい、勝男さんは先日画廊で姫乃さんから作品の写真は見せてもらったみたいですが、私も勝男さんも川上通さんご自身の写真は見せてもらっていませんでして・・・川上通さんの顔や背格好がどんな感じかわからないのですよ」
「それは大変失礼しました。すぐに写真を出しますので」
姫乃はスマホを操作して川上通の写真を探し始めた。
「いえ、こちらも今日直接お会い出来ると思っていましたので事前に写真を確認させていただきたいとか、そういうお願いをしていませんでしたので・・・」
「トーリくんの写真はあんまり持っていないんですよね・・・でも一枚か二枚はあったと思うんですけど」
「とりあえず四十一歳くらいの男性がいないか見ているのですが、それっぽい人は見当たりませんね」
「あ、ありました!これがトーリくんです」
「ありましたか、ちょっと見せていただけますかね・・・」
二人は一度その場に立ち止まって姫乃のスマホの画面に映し出された川上通の写真を見た。
「ああ・・・これが川上通さんですか・・・」
その写真の人物はというとやや大柄でぽっちゃり体型であり髪形は短髪で顔のほうはというと目は細目であって顔のサイズも大きいのでお世辞にも男前などとは言えないが不細工とか崩れている感じでもない顔であり個性派俳優のような味のある顔であった。
「この方が勝男さんも一目置くような作品を描かれたということなのですよね・・・」
「そうです、先日画廊でお見せした作品は全てこのトーリくんが描いたものですよ」
ヒカルは写真で見た川上通が想像していた人物像とはかなり違っていて正直ぱっとしない人だなと思ってしまった。
ヒカルが想像していたのはわりとステレオタイプの芸術家といった感じの人物像であって、体型は細身で髪形はくせ毛もしくはパーマをかけた長めの髪で顔は目元にクマがあって目つきは鋭くてという具合に、ドラマや映画に出てきそうないかにもな感じの人物を想像してしまっていたのだ。
「どうかしましたか?もしかして、想像していた感じとだいぶ違っていましたか・・・?」
またしても表情などから思っていたことを姫乃に見透かされてしまったようである。
「ああ、そうですね、ちょっと違ったかな・・・まあでも、年齢的にはちょうど四十一歳に見える感じですね」
確かに最初に想像していた人物像とはだいぶ違ってはいた。だがしかし、もし事前に川上通という人が実は才能のある画家であるという情報がもたらされていない状態で予断を持たずに普通の四十一歳のちょっとシャイボーイな感じの人を想像していたとしたら、わりとピッタリと当てはまる感じであったかもしれないとヒカルは思ったのだ。
「とにかくこの写真の人がいたら教えて下さい。私がちゃんと捕まえますので!」
「はい、どちらかというと割と存在感があって目立つ感じの人なのでもし公園にいらっしゃったらわかると思います」
結構インパクトのあるルックスなので見間違うことはなさそうだとヒカルは思った。そして単発でぽっちゃり体形の芸術家も何人か見たことがあったなと思い出していた。
「そうか・・・そっちのタイプの人なんだな・・・」
しかしそれにしても、「私が捕まえる」という言い草なのがまるで泥棒かもしくはこの公園にいる昆虫かのような扱いだなと思ってしまう。そしてヒカルはそんな川上通という人物について色々と想像を膨らませてしまうのである。
「最初に思っていた感じの人ではなかったけど、芸術家には色々なタイプの人が存在するからな・・・あの写真の人だったら、そうだな・・・服装は割と薄着で下も短パンとかを履いていて、そして片手におにぎりなんか持ってそれを食べながらのんびり風景なんかを描いていそうだよなぁ・・・ああ、なんかあまりにしっくりくるからもはや、そういう人しか想像できなくなったよ・・・・・・」
勝手なイメージを作り上げてその場で周りをぐるりと見回してそういう感じの人を探してしまうヒカルであった。
「その写真の人はどうやらこの辺りにはいらっしゃらないようですね・・・」
「そうですねぇ・・・でも一周するのにまだ半分以上あるので一応公園は全部探してみましょう」
「それはそうですね、では気を取り直して参りましょうか」
とにかく二人は川上通の捜索を再開して公園内は全て見て回ることにした。
「最初の場所まで戻ってきてしまいましたね・・・やはりこの公園ではなかったみたいですね・・・」
公園を一周して探してみたのだが、結局川上通は見つからなかった。
「すいません、空振りしてヒカルさんに余計な時間を使わせてしまいました。時々電話もかけてるのですが、やっぱり出てくれないんです・・・」
「いや、これはもう仕方ないですし姫乃さんのせいではありませんから・・・では次は先ほどおっしゃられていた少し遠いほうの駅前までいきましょうかね?」
「はい、そうしたいと思います。そこならトーリくんの目撃情報を得られるかもしれません」
「そうなんですか?何かそういう当てがあるのですか?」
「はい、駅前の商店街は昔からある商店街なんですけど、私やトーリくんが子供の頃からずっとあるお店も多くてお店の人たちとも顔馴染みなんです。ですからもしトーリくんのことを商店街やこの近辺で見かけていたら教えてもらえると思います!」
「なるほど、それなら確かに有力な情報を得られるかもしれませんね。では早速そこへ行ってみましょうか」
「はい、行きましょう」
二人は公園を後にして姫乃の言う商店街がある駅前の方へと向かった。
「もう見えてきましたよ、あの商店街です!」
「ここですか・・・」
もう商店街の入り口にあるアーチやゲートなどと呼ばれるものがすぐ近くに見えるくらいのところまでやって来ていた。二人はそのまま進んで行ってそれをくぐって中に入ってすぐの辺りでいったん立ち止まった。そして、そこから全体を見渡してみた。それほど大きくはない商店街であったがそれなりに活気のある感じではあった。
もちろん現在はスーパーやコンビニや大型量販店などの台頭によってこの商店街も御多分に漏れず苦しい時代となっていて全盛期ほどの活気はないのであろう。
しかし所々空き店舗のように見られる場所もあるのだが、シャッター通り商店街のようになっているわけではなくてどの店舗にもそれなりに客がいて少なくとも存続が危ぶまれるようなことはなくて十分やっていけている感じの商店街であった。
商店街はそのくらいの規模で特別大きいわけはないのであるが隣接する駅の駅舎もそれほど大きくはないらしくてこの位置からではまだ見えなかった。駅舎とつながった駅ビルのようなものも見えないのでどうやら快速電車などが停車するようないわゆる主要駅ではないようであった。
「なるほど、昔ながらの商店街といった雰囲気ですね・・・確かにここなら昔からあるお店の方々と顔馴染みになれそうな感じがします」
「はい、みんないい人たちばかりなんですよ。とりあえずトーリくんを探しながら、ここで一番の情報通の人がいるお店に向かおうかと思います。それで、私は右側のお店の方を探しながら行きますのでヒカルさんは左側をお願いします」
「わかりました。川上通さんぽい方がいたら言いますので・・・」
二人は商店街内での捜索を開始した。
ここでは有力な情報が得られる可能性が高そうではあるのだが、ヒカルは少し嫌な予感がしていた。それはどういうものかというと、姫乃のから聞いたことやここまでの展開から考えると川上通という人はとてもシャイな人らしいので,もしかしたら姫乃と自分に会いたくなくて意図的に逃げているのではないかという気がしてきたのである。
もしそうであるならば、捜索自体も困難になるが、仮になんとか見つけ出したとしても画廊で作品を取り扱わせてほしいという話にもまともに取り合ってくれない可能性が高いように思えてきてしまったのである。
「着きました。このお店ですよ」
「え、ああ・・・このお店ですか・・・?」
ヒカルがなかなか見つからない川上通の姿を探しながらちょっとネガティブな考えになってきていたところで情報通のいるというお店に到着してしまった。そこはいかにも昔からありそうな「ザ・商店街の八百屋」といった感じの八百屋であった。
「おや、姫乃ちゃんじゃないの!久しぶりだねぇ」
店先から中年の女性が声を掛けてきた。これまたいかにも八百屋のおかみさんといった感じの人であった。
「お久しぶりです、おかみさんも大将もお元気でしたか?」
「この通り元気いっぱいだよ!姫乃ちゃんも元気そうだし、また女っぷりが上がったんじゃあないかい?」
「そんなことないですよ~前とあんまり変わってないですよ!」
お愛想っぽいことを言ってきた八百屋のおかみさんに対して楽しそうに笑いながら姫乃が答えた。ヒカルは二人のやりとりを聞いているとなんだか昭和の商店街にタイムスリップして来たのではないかと思えてきた。
しかし、あまりこういう商店街に足を運ばない自分に馴染みがないだけであって、こういう場でのコミュニケーションは昭和でも平成でも令和でもいつの時代でも大して変わらないものなのかもしれないとすぐに思いなおした。
この商店街が昔ながらの雰囲気を漂わせているので余計に二人のやりとりが昭和の人っぽく見えただけであろうと自分を納得させるヒカルなのであった。
「あ、あの、ちよっとよろしいでしょうか・・・」
このまま八百屋のおかみさんとの世間話が始まってしまうと厄介だと思い、ただちに本題に入るべくヒカルは二人の会話に入っていった。
「おや、そちらのお兄ちゃんは姫乃ちゃんの連れかい?」
「はい、こちらはとある画廊のスタッフの海野月さんという方です。トーリくんの絵を画廊で取り扱っていただくための交渉に来て下さったんですけど、またトーリくんがちょっと行方不明になってしまったので行ってそうなところを探していたんですよ」
「へぇ~、画廊の人なのかい」
「はい、ギャラリーオーシャンという画廊のスタッフの海野月と申します」
「なるほどねぇ、まあ歳が離れてそうだから姫乃ちゃんの彼氏にはちょっと見えなかったけど・・・そうかい、画廊の人なんだね」
彼氏に見えないのはまあ仕方ないのだが、それをこうも遠慮なくはっきりと言う商売人もなかなかだなと思ってしまった。しかし、今は情報通らしいこのおかみさんが頼りであるので丁寧に対応して機嫌を損ねないようにしなければならない。
それにしてもちょっと行方不明になったので探していると聞いても別に驚いてはいないしリアクションも薄いことから考えると、川上通氏が画家であることも急に絵を描きに出かけて行方不明になることが割と毎度のことであるというのもよく知っているようである。
「今日この商店街やこの近所で川上通さんのことを見かけられませんでしたか?」
「そうだねぇ・・・さっきまでちょっとお客さんが多かったからあんまり外の方は見てなくてねぇ・・・たぶんいなかったと思うんだけど」
「じゃあ、今日は朝から一度もトーリくんのことを見かけてないですか?今日は商店街には来てないのかなぁ・・・」
「そう言われちゃうと絶対来てないなんていう自信はないんだけどね・・・今日はさっきまでたまたまお客さんが続いてずっと相手してたから、その時通り過ぎてたらちょっとわからないねぇ・・・お客さんがいないときはだいたい店の表の方を見てるから通ちゃんがいたら気づくと思うんだけど、今日は見てないねぇ・・・」
「そうですか・・・どうしよう、こっちの方には来てないのかなぁ・・・」
「それは、ちょっと弱りましたね・・・」
どうやらこちらの駅前に来るときは、ほぼ確実にこの商店街に立ち寄るらしくて、逆にいうとこの商店街に来てないとすればこの駅前の方面には来てない可能性が高くてまるで見当違いの方向に探しに来てしまっているのかもしれないということになりそうなのだ。
「通くんのことを探してるのかい?」
二人が絶望とまでは言わないが、やや気まずい空気になりかけていたその時に、一人の男性が歩み寄ってきて話に入ってきた。どうやら隣の店の主人のようであるが、先ほどまでのこちらの話が聞こえていたようで何かを伝えにきたようである。
「あ、どうもご無沙汰しています。トーリくんがここに来てないか探しにきたんですけど、もしかしてどこかで見かけましたか?」
「ああ、通くんならさっき通りかかったのを見たよ」
「えっ!見たんですか?」
「ああ、俺はちょっと用事があって店を任せて出かけてたんだ。それでさっき戻ってきたんだけどね、俺が向こう側からこの商店街に入ってきた時に丁度すれ違ったのさ。通くんは逆の方向から歩いて来ていてね、そしてそのまま商店街を出ていったんだがね。あれはねぇ、多分だが川の方に行ったんじゃあないだろうか・・・?」
「すいません、それってほんの何分か前のことですか?」
「ああ、ほんとに今さっきだよ。三分もたってないかなぁ・・・」
「ああ、それじゃあやっぱりうちの前を通り過ぎたのはお客さんの相手をしてて忙しかった時みたいだね。あの時はちょっと店の外まで見る余裕がなかったから気づかなかったんだわ」
「今から追いかけたら追いつきそうですよ、すぐ追いかけましょう!」
「そうですね、すぐ行きましょう。トーリくんは歩くのがゆっくりだから追いつけると思います」
先ほどまで捜索が難航していたのに突然有力な情報が得られて一気に発見のチャンスが訪れたのだ。ここは急いで追跡するしかない。
「教えてくれてありがとうございました。今日は急ぐのでまた今度来ますね」
「ああ、どういたしまして」
「早く行ってあげな!画廊のお兄ちゃんが訪ねてくるなんてきっと凄いことなんだろうからさ。まあ、よくわからないけど」
「ありがとうございました、さようなら!」
別れの挨拶もそこそこに二人は来た方とは反対側の商店街の出入口に駆け足で向かった。
とりあえずは商店街を出て、そこからまた川上通の足取りを辿っていくことになるわけであるが、川の方に行ったのではないかという具体的な行き先まで示してもらったので発見の可能性は格段に上がった気がして、二人ともやる気を取り戻して力強い足取りで進んで行った。
商店街を出てすぐのところに小さい駅があった。駅前にはロータリーがあってバスやタクシーが停車している。そのロータリーが面している少しの広めの道路を左右どちらかに進んで行くと川がありそうな感じであった。
「川のほうに行くにはあの歩道橋を渡って道路の向こう側に行かないといけないので、とりあえずあれを上りましょう」
二人はロータリーの端のほうにある歩道橋のたもとへと向かった。そして、歩道橋に上ると川が見えた。
「さっき言ってたのはあの川のことですよね?」
ヒカルが指さしたその川は、それほど大きい川ではないが河川敷には遊歩道があって草もきれいに刈り取られていて散歩やジョギングなどを楽しんでいる人なども見られた。いかにも付近の住民に愛されていそうな雰囲気のあるなかなか良い感じの川であった。
「はい、トーリくんは昔からこの川の景色が好きなんです。だからよくここで絵を描いてるんですけど・・・」
「確かにこういう感じの川ならスケッチなんかをしている人は結構いそうですよね」
「あっ!あれは、トーリくんじゃないかな?」
「え、どこですか?遊歩道を歩いている人ですか?」
「いえ、そっちじゃなくてあそこです。土手の上のほうにある道を歩いているトーリくんぽい人の後ろ姿が見えるんです!」
「土手の上にある道ですか?確かに遠くのほうに人影が見えますけど・・・」
「見失うといけないのですぐ追いかけましょう!」
「あ、はい・・・」
当然その距離ではそれが川上通であったのかヒカルには判断できなかったが、姫乃がそういうのでとりあえず追いかけるしかなかった。
二人は急いで歩道橋を下りていったが、なぜかタイミング悪く下のほうに上ってこようとしている人が十人近くもいた。
「ちょっとすいません、通してください」
二人は歩道橋の上から見かけた川上通っぽい人を追跡するために息を切らせて人ごみの中をかき分けながら川の土手のほうに向かって駆けていった。
土手の上のほうにある道につながっているコンクリートの階段を急いで駆け上がった二人であったが、歩道橋を下りた時点で川上通らしい人影は一旦視界から消えてしまったのでいざ土手の上の道まで到着して、さあこれから追いかけ追いつこうとした時にはもうその人影を完全に見失ってしまっていた。
「さすがにだいぶ距離を離されてしまったな・・・遠すぎてよく見えないや・・・」
「でもさっきの人がトーリくんだったらこの道を真っ直ぐ進んでいるか、もしくはどこか良さそうなポイントを見つけて絵を描き始めているんじゃないかと思います」
「そうですよね。この道の先の方を歩いているか、もしくは姫乃さんの言うようにどこかに腰を落ち着けて絵を描いているのであれば、とにかくこの道を進みながら同時に土手や川の方も探していけばきっと見つかるでしょう」
「じゃあ、またちょっと速足で行きましょう。私が川の方向を探すので、ヒカルさんは一応川とは反対側の斜面を探してください!」
「わかりました。では行きましょう」
二人は川上通に追いつけるように出来るだけ速足で道を進みながら探した。
ヒカルはまだ川上通の実物をちゃんと視認していないのであるが、いる確率の高い川の方向は姫乃がしっかりと見て探してくれるので、自分はとにかく写真で見た川上通に似た人がもし川と反対側の方にいたら姫乃に知らせるだけである。
しかし、そもそも川と反対側の方の斜面には全く人が見当たらないので念のためそちらの方も見ながら道の先の方をメインに探そうと思いつつ早歩きで進んでいった。
「川上通さんは歩くのがゆっくりと言われていたので追いつくとは思いますが、さっきのお店のご主人の話から考えると我々より三分以上は先に歩いているはずですよね。なので、時速4キロくらいだとすると、三十分で2キロ、十五分で1キロくらいの距離を進むわけだから、えっと・・・」
「三分だと200メートル以上は進んでることになりますね!」
人間の歩く速度が時速4キロくらいという知識があって十五分で1キロまではぱっと計算できたヒカルであったが、1キロを1000メートルに変換している段階で姫乃の方が素早く計算して先に答えを出してしまった。
「ああ、そうですね・・・あのお店から商店街の端までの距離を足して考えたとしても、さっき歩道橋から見えたのが川上通さんだとすると丁度それくらい先を歩いていた感じになるので計算的にはピッタリですね」
「そうですね!これくらい速足で進めばきっと追いつけると思います」
二人は速足で進みつつも目を凝らして見逃すことがないようにしっかりと探し続けた。
「あ、なんか人が見える!」
道の先に人が見えたので近づいて行くとそれは川上通とは別人で反対側から歩いて来た人であった。その後またジョギングしているこれまた別人と同じようにすれ違ったりしたが、お目当ての川上通の姿を見つけることはなかなか出来ないでいた。
「こっちの斜面にはぜんぜん人の姿が見えませんでしたから、川から離れてどこかに行ってしまったということは無いと思うんですけどね・・・」
「そうだとは思いますよ。トーリくんはこの川まで来たら絵を描くか、もしくはぼーっとしながら景色を眺めているのですが、ここからさらにどこか違う目的地に移動することはないと思うんです」
「気に入ったポイントを見つけるまではずっと川に沿って歩き続けるだけなのですかね?」
「はい、それで絵を描き終えるか景色を眺めるのに満足するかしたら、あとはもう引き返して来てさっきの駅や商店街の方に戻るだけですね」
「そうですか・・・では、ある意味この河川敷が最終目的地であって、ここで絵を描かないとしたらあとは帰宅するだけなのですね・・・」
「だからこの道の先か河川敷のどこかにはいると思いますし、仮に気分が変わって絵を描いたり景色を眺めたりするのをやめたとしたらこちらの方に帰ってくるでしょうから、どちらにしろこの辺りのどこかで会えると思います」
「なるほど、ではとにかくこのまま探し続けましょう」
今日は天気も良いしこういうところをのんびり歩くのであれば本来とても気持ち良いのであろう。姫乃のような若くて可愛らしいお嬢さんが隣で一緒に歩いてくれるなら尚更である。
しかし、商店街からずっと速足で移動してきたのでヒカルとしては気持ちよく歩けるという感覚ではなくて正直そろそろ疲れてきていた。姫乃は若いということもあってまだまだ体力は充分に残っていそうであったが、ヒカルのほうはもう限界が近づいていて少し休みたいと思ってきているのだ。姫乃の手前もう少し頑張って早歩きを続けようとは思うのだが、そろそろ川上通を見つけられないとしんどい感じになってきていた。
「少し先の方に橋が見えますね・・・もしあれを渡って対岸の方に渡っていたとしたらちょっと厄介ですね。もちろん渡らずにこっちの道を進んでいる可能性もあるわけですから、橋まで辿り着いたら二手に分かれて探さないといけないですよね?」
「そうですね・・・橋を渡って向こう岸の方に行くかどうかはトーリくんのその時の気分次第だと思います。向こう岸にいても私の視力でギリギリ見えますけど、もしあっちにいたらあの橋か次の橋で向こう側に渡らないといけないので、二手に分かれたほうがいいと思います」
「そうですよね・・・もし対岸にいるのを見つけてもそこにじっとしているとは限らないので一人は対岸の方にいてすぐに呼び止められるようにしないといけないですね。さすがにこちらからは見えない向こう側の斜面にはいないとは思うんですけどね、そこからだと川の景色が見えませんから・・・」
「向こう側には絶対にいないとは言えないですね・・・土手から町の方を見て町の風景を描く可能性がゼロではないですから。どんな絵を描くかもトーリくんのその時の気分次第だと思うので・・・」
あらゆることをその時の気分次第で決めることが出来て自由気ままに自分の思うがままに行動するなどというのは、本人はさぞかし気分が良いのであろうがそれに振り回される周りの人間からしたらたまったものではない。そもそも今日は彼の自宅で会って話をするというアポをとっていたのにそれを蹴ってちょっと絵を描きに行きたいと出かけてしまうなんていうのは、いい大人のやることではない。
いくら芸術家は作品を作ることが何より優先されるのだといっても、それにも限度というものがある。ヒカルとしてはもうはっきり言っていい迷惑でしかないし、責任を感じてこんなに必死になって探してくれている姫乃がとても気の毒に思えてきた。
「なんかもう、川上通とかいう人とかどうでもよくなってきた・・・ちょっといい絵を描くのかもしれないが、何でも気分次第で自分勝手に行動して他人のことを振り回しておいて平気でいられるような人間にこんなに苦労してまで会う必要があるのだろうか・・・?」
仕事とはいえさすがに川上通に対して憤りを感じてきてそんなことを思ってしまうヒカルであった。
「だいたい、いい絵を描くといってもどうせ俺にはそもそもそれがほんとにいい絵なのかどうかがわからないんだ。だからもしこの画家の作品を取り扱うチャンスを逃したって心の底から本気で惜しいことをしたとか思わないんだよ・・・本当にもう、こんなわけのわからない捜索なんかどうでもいいや・・・」
ヒカルはもうやぶれかぶれになっているというか、芸術作品に携わる画廊のスタッフとしての自分の根本的な資質すら否定するようなことまで思い始めていた。
「あっ、いた・・・トーリくんを見つけました!」
「え、いたんですか?」
もう少しで対岸に渡る橋まで辿り着いてしまいそうなところまで来ていたのだが、姫乃が川上通の姿を突然発見したらしい。
「はい、あの橋の手前のほうの土手の斜面にしゃがみ込んでる人がそうです」
姫乃が指さした先を見てみると少しぽっちゃり体形の男性が土手の斜面に川の方向を向いて座っていた。いわゆる体育座りのような座り方で二人のいる道から数メートル下ったあたりに座っている。先ほど姫乃から見せてもらった写真の人物で間違いなさそうである。
「あの人が、川上通さんか・・・」
「そうです。トーリくん、やっぱり絵を描きに来てたみたいですね・・・」
よく見るとその人物は膝の上に画板のようなものを乗せてその上で画用紙らしき物に絵を描いているようであった。
「確かに何か描いてますね。絵の具とか色鉛筆ではなく普通の鉛筆で何か描いてますけど、スケッチでもされているのでしょうかね・・・?」
「もう・・・ほんとにしょうがないなぁ、トーリくんは・・・約束をすっぽかしてこんなとこまで絵を描きに来てるなんて・・・」
「とにかくやっとお目にかかることが出来るわけだけど、またちょっと想像していたのとイメージが違ったな・・・」
「え、どう違ったんですか?」
「いえね、服装はもうちょっと薄着な感じを想像していたのですよ・・・上はタンクトップというかランニングシャツで、下は短パンみたいな服装です」
「トーリくんはそういう今風の若者ファッションは着ないですね」
「今風?なのかなぁ・・・あとは、常に日傘的なものを持ち歩いて日焼け対策がバッチリな感じをイメージしていましたね・・・」
「確かに最近は男性でも日焼けを気にしてこまめに日焼け止め塗ったりする人もいるみたいですけど、トーリくんはどちらかというとそういうのには無頓着なほうですよ」
どうやら二人がそれぞれ想像している服装はかなり食い違っているようである。姫乃はどうしても今時の若者像に当てはめて想像してしまうのに対してヒカルのほうは昭和の前半あたりのそれも割と特定の人の服装を想像しているのだ。
さらにいうとそれはその当時でもどちらかというと子供が夏に着ていそうなコーディネートの服装であるので、二人がそれぞれに想像している薄着な感じの服装は別物といっても良いくらい違っているのである。
「まあ、何にせよ無事発見できたわけですから、とにかく声をお掛けしましょうか・・・?」
「そうですね。私、ちょっと行ってきます!」
そう言うとすぐに姫乃は川上通のもとへすたすたと歩み寄っていった。
「ちょっと、トーリくん!どうして絵を描きに出かけちゃったの?」
「やあ、姫ちゃん。どうしたんだい?こんなとこまでやって来てさ」
川上通は急に声をかけられても特に驚くこともなく顔だけを姫乃に向けてきて別段悪びれる様子もなく姫乃の質問に対して質問で返してきた。
「今日は画廊の人が大事なお話をしに来て下さるから家にいて待っていてって言ってたじじゃないの!それなのに約束をすっぽかして絵を描きに出かけたりしちゃ駄目でしょ!」
「ああ、そうだったかな?すっかり忘れていたよ・・・」
本当なのかとぼけて嘘をついているのかはわからないが、川上通は姫乃との大切な約束をいとも簡単に忘れていたらしい。
「なんだろうな・・・完全に姫乃さんに子供扱いされてる感じだが、大丈夫なんだろうか、あの人は・・・?」
ヒカルは少し呆れてしまっていた。そして、姫乃の方もはっきりいってそれほど大人っぽくはない感じであるのに、その姫乃から子供のように扱われている四十一歳の中年シャイボーイと果たしてまともに交渉することなど可能なのかと不安にもなっていた。だが、もうここまできたら仕事と割り切って少し強引になっても何とか話をつけて帰るしかないと決意して彼との交渉に臨むことにした。
姫乃が人との約束を破ってはいけないみたいなお説教を続けていたが、もうそろそろいいかと思ってヒカルは二人のいる方へ近づいていった。そして近づきながら川上通の服装を観察していた。
「白いランニングシャツを着てベージュの短パンをはいて赤い傘なんかを持っている姿を想像していたんだが、さすがに今時そんなファッションをしている人はいないか・・・」
実際の川上通の服装はというと、上は白っぽい半袖シャツで下はツータックのスラックスであり色はベージュであった。座っているのであまりよく見えないが、シャツはスラックスの中にインしておりスラックスもお腹の上の方まで上げてはくという着こなしをしているようであった。
結局、先ほど姫乃から見せてもらった写真の服装そのまんまでもあったのだが、ではこの服装が今時のファッションかといえばそういうわけでもない。服の色合いだけならけっこう想像通りであったし、今時の流行りの若者ファッションではなかった点からいってもヒカルの想像が大きく外れていたということでもないようであった。
「あのぉ・・・」
二人のそばまでやってきたヒカルが話しかけようとしたその瞬間、突然年配の男性が近づいてきて川上通に声をかけてきた。
「よう、親分!今日も絵を描きにきたのかい?」
「ああ、こんにちは。今日は天気が良かったので何となく絵を描きたくなってつい来てしまいましたー」
その年配の男性はおそらく散歩中か何かだと思われるのだが、どうやら川上通とは顔見知りらしくて自然な感じで親し気に話している。それにしてもやはり川上通は何となく絵を描きたい気分だったから約束をすっぽかしてこんなところまでつい出かけてきたらしい。
本当にいい気なもんだと再び呆れてしまうヒカルであった。先ほど少し心配していたようにとてもシャイなので画廊の人間に会いたくなくて意図的にヒカルたちから逃げているのではというのはさすがに思い過ごしであったようだが、どちらにしても約束通り家で待っていてくれないのは困りものである。
しかし、そんなことよりもヒカルには新たにとても気になることが出来てしまったのだ。
「親分・・・?いま、親分といいましたか?」
「親分」というワードが気になり過ぎて、思わず反射的にその年配の男性に尋ねてしまった。
ヒカルからすれば見ず知らずの人なのであったが、この際そんなことはどうでもよかった。
とにかくなぜ「親分」と呼ばれているのかが知りたかったのだ。
「ああ、そうだよ。この人はいつもこうして裸足になって草の上に座って絵を描いているのさ。だから、ここらへんの人はこの人のことを裸足の親分って呼んでいるんだよ」
「裸足の親分!?ほんとだ、裸足ですね・・・」
ヒカルが川上通の足元を見てみると靴も靴下も脱いで裸足になっていた。脱いだ靴はきれいに揃えて自分の脇に置いていて靴下も丸めて靴の上にのせている。
「裸足はわかりますけど、その・・・なぜ親分なのでしょう?」
「そりゃあ、この人のこの体型だとか醸し出している風格だとか、あとは絵を描くのがとても上手だからその才能だとか、そういうのを全部合わせて只者ではない凄い人ということで親分さんと呼んでいるっていうところだろうかね・・・」
「そうなんですか・・・裸足の、親分か・・・・・・」
ただの親分ではなくて「裸足の親分」というのはなかなかのパワーワードであるように感じられた。服装は想像していたのとは若干違っていたのであるが、ヒカルとしてはそのニックネームについてはとてもしっくりくるというか、ぴったりであると思えた。
「じゃあな、親分さん。せいぜい精を出して頑張っていい絵を描いておくれよ!」
「ありがとうございます~。それではごきげんようですー」
急に話しかけてきたヒカルのことを特に不審がることもなく裸足の親分という呼び方についても軽く解説してくれたその年配の男性は川上通に激励の言葉をかけて河川敷の遊歩道まで戻ってそのまま歩いて去って行った。
「トーリくん、この人がわざわざ家まで訪ねてきて話をしに来て下さった海野月さんという画廊のスタッフの方よ!」
「ああ、申し訳ありません、親分というワードが気になり過ぎてそれについて知りたくなってしまって、すっかり申し遅れてしまいました。私は、ギャラリーオーシャンという画廊から参りましたスタッフの海野月と申します。どうぞよろしくお願いいたします!」
去っていく年配の男性をぼーっと眺めていたヒカルは姫乃から川上通に紹介されて慌てて我に返って自己紹介をした。
「私は川上通と申します。どうぞよろしくお願いしますー」
少し語尾を伸ばして話すところが若干気にかかったヒカルであったが、まあそういう癖なのだろうと思って気にせず話を進めようと思った。
「土手から見た河川敷の風景を描かれていたのでしょうか?」
いきなり本題に入って警戒されてもいけないと思ってまずは先ほどの年配の男性にならって自然に世間話をするような感じで質問した。
「そうなんです!私はこの川の風景が大好きですので、今日のように天気の良い日などににはよく風景の絵を描きにやってきます~」
「確かに今日は天気が良くて気持ちがいいですよね。そしてこの河川敷の風景もなかなか良い感じだと思います」
「わかっていただけますか!ここでこうしてのどかな河川敷の風景を眺めているだけでも心が洗われて清められるように感じるのです。そしてそう感じさせてくれるこの風景を絵に描いて残したくなります~」
「なるほど、そういう気持ちでここの風景を描かれているわけなのですね・・・」
先ほどまではこの川上通の行動に対して呆れたり苛立ったりとネガティブな感情が強くあったヒカルであるが、実際に本人と会話してみると毒を抜かれてしまったというか、そんなに悪い人ではないように思えてきた。
「普通の黒の鉛筆で描かれていますが、スケッチをされているのですか?」
「そうなんです!私はいつもとりあえず黒の鉛筆で描きはじめます。そして後から着色をするのですよ」
「なるほど、後から絵の具とか色鉛筆とかを使って着色されるわけですね」
「はい、水彩画だったり色鉛筆画だったり色紙を使って貼り絵にしたり・・・色んな絵を描きますけど、どんな絵にするのかはその時の気分で変わります~」
「貼り絵とはいわゆるちぎり絵ですよね・・・もしかして、油性マーカーを使ったペン画みたいなものも描かれたりしますか?」
「そうですね・・・まあ、そういう絵も描くことはありますー」
先日画廊で勝男は姫乃から通の作品の画像を見せてもらっていたのだが、ヒカルはいまだに通が描いた絵を見たことがなかった。なので、通がどんなタイプの絵を描くのかはなんとなく想像をしていただけであった。
その想像では油絵ではなく色鉛筆画やマーカーを使ったペン画、そしてちぎり絵なんかを描いていそうだと思っていたのでその点ではけっこう想像通りであった。
特にちぎり絵を描くということに関してはとてもイメージ通りな感じがした。油絵に関しては描くこともあるのかもしれないのだが、は通本人も言及していないのであまり描くことはないのかもしれない。
「どんな絵にするかはその時の気分次第なのですよね・・・では、絵の具ですとか色鉛筆ですとか着色するための画材も常に持ってきているのですか?」
「いえいえ、そういう画材全てを常に持ち歩くのは大変なのです。どういう画材を使うのかは家に帰ってからゆっくり考えて決めることがほとんどですー」
「なるほど、そうですか・・・では、いまスケッチされている風景の色に関してはしっかりと記憶して帰って、家で着色するときにその色を忠実に再現される感じなのですか?」
「まあ、記憶に残っている部分であればそういたしますが、記憶にも限界がありますからね。ですからいま見ている景色はこれで撮っておくのですよ」
通はおもむろにスラックスのポケットからデジカメを取り出して川の方向に構えてみせた。
「記憶することも大切ですが、写真を見て思い出しながら描いたほうが確実ですからね!」
「ああ、そうなのですね・・・そういう描き方をされるのですね・・・」
「もちろん、朝早くから来て描き始めていて着色までする時間がありそうな時は色鉛筆などの画材も持参して現地で着色するときもありますよ。しかし、そういう場合でも家に帰ってから続きを描くために景色は必ず撮影しますー」
通がわりと現代的な描き方をするのが意外に思えたヒカルであった。スマホではなくあえてデジカメを使うのはなんだかこの人っぽいなとは思ったが、そもそも着色したり色紙をちぎって貼ったりするのも全て題材にした景色を見ている現場でやっていそうなイメージがあったのだ。なんとなく昔の画家のような描き方をしていそうだと勝手に想像してしまっていたのである。
昭和のはじめのほうの頃の時代の画家のように実際に景色や対象物を見ながら描いたり、記憶を頼りに描いたりしていそうだと思っていたし、さらにいうと日本各地を放浪しながら絵を描いてまわっていて欲しいというよくわからない願望のようなものまでもってしまっていた。
景色を写真や動画に撮っておいて、後でそれを見返しながら絵を描いていくという今の人なら普通にやっていそうな絵の描き方はこの川上通にはなんだか似合わないなとヒカルは勝手に思ってしまっていたのだ。
「まあ、全ての作業を現場でやりきってしまうのは大変でしょうからね。例えば日中の景色を描いている場合、夕方になったり暗くなってきたりしたら昼間とは違う景色になってしまいますからね。そうなる前に描き切ってしまうとなると、あまりじっくりと時間をかけていられないので少々忙しないですよね」
「そうなんです!私は絵を描くことが何よりも大好きですので、時間のある限り描いていたいのです。写真に撮っておけば帰ってからも見返しながら描けるのでとても合理的なのです!」
「そうですよね・・・描く人それぞれだとは思いますが何時間どころか何日もかけて描く人も多いように思いますので、確かに写真に撮っておくほうが合理的ですね・・・」
「まあ、気に入った風景が見つかれば毎日その同じ場所に通って完成するまで描き続けるという理想ではありますけどね!」
自分が好きな絵の話題だからなのかもしれないのだが通はヒカルの質問に対して面倒くさがらず全て答えてくれている。そういう点でもやはりそんなに悪い人ではないように思えてきた。そしてヒカルと会話しながらもずっとスケッチを続けているので絵を描くことが何よりも大好きであるというのも本当らしい。
しかし、ヒカルとしては通が絵を描くことに関して「合理的」などという言葉を使ったことがけっこう意外であった。どちらかといえば他人から見ればむしろ少々非合理的なやり方を何かしらのこだわりをもってやっていそうな、そんなイメージがあったのだ。
ここまでの川上通という人間の言動をみていると、わりとイメージ通りな面とそうではなくて想像や予想を裏切る面が交互に表れているように思えてちょっとつかみどころがない人だという印象であった。
「なんかまた色々とイメージしてたのと違うところが次々と出てきたな。そうかと思えば裸足の親分なんてイメージにピッタリな感じのニックネームで呼ばれていたりするから、思っていたのとは全然違う人というわけでもないんだよなぁ・・・」
ヒカルとしては川上通という人物がこういうタイプの人ならこのように話をもっていこう、しかしこういうタイプの人であったらまた違うプランでいこうなどといった感じで一応事前にシミュレーションをしてきたのであったが、何通りか想像していた人物像のどれにも微妙に当てはまらないのでこの後どういう感じで交渉を進めたらいいのかよくわからなくなってきていた。
色々考えてきたプランがどれも微妙にそぐわない感じなので結果的には実質ノープランで挑むのと変わらないわけである。
「そういえば、画廊の方が私にどんなお話があって訪ねていらっしゃったのでしょうか?」
通が不意にヒカルの最も触れたいと思っていた話題についての質問をしてきた。
ヒカルは通の警戒心を解くべく通の描く絵について世間話っぽく話しながら水を向けるつもりであったのだが、ヒカルが本題を切り出す前に通のほうからストレートに今日の本題について質問してきてくれるという絶好のチャンスが訪れたのである。これは何たる僥倖であろうかと思って迷わず交渉開始に踏み切った。
「はい、実は先日うちの画廊に姫乃さんが訪ねてこられて自分の知り合いで世に出ることなく埋もれてしまっているすごい画家の人がいるのでぜひ会って話をしてほしいというご推薦がございまして、それで私どもの画廊の代表の海野勝男もいたく興味を持ちましてですね・・・」
推薦というより激しい売り込みといったほうがよい感じであったがヒカルとしてはできるだけ誇張や余計な脚色はせずに、しかし相手にとって耳ざわりの良い表現をできるだけ使ってご機嫌をうかがいながら交渉を進めていくという作戦でいってみようと思っていた。
「ほう、画廊の代表の方が私の描く絵に興味をもたれたのですか・・・」
「はい、姫乃さんから通さんの作品の写真を見せられて大変興味をもちましてですね、それでぜひ一度お話をしてみて通さんの方も画廊について興味がおありになるか確認してみたいということになりました。それで率直に申しますと、通さんのほうも画廊に興味がおありになるということでしたらぜひ私どもの画廊、ギャラリーオーシャンとのおつきあいを考えていただけないかというお話がしたいということで本日私が遣わされたということなのであります」
ここは勢いで単刀直入にいこうと決めたヒカルは先ほどのようなまわり道はせずに今度はすぐさま本題に入って通の意思を確認することにしたのだ。
「画廊とのおつきあいというのは、私の絵を画廊に置いていただいて販売したりするという感じのおつきあいでしょうか?」
「はい、その通りです。画廊に展示させていただいて作品を見たお客様で気に入ってお買い求めになりたいという方がいらっしゃいましたら販売させていただくといった感じになります」
通のほうもヒカルがどういう用件で訪ねてきたのかをすぐに理解してくれたようである。こうなると話が早かった。
「細かい話をさせていただくと契約の種類はいろいろあって少々複雑なのですが、大まかに分けますと買い取りか、もしくはいま通さんがおっしゃった委託販売かということになります」
「買い取りか、委託販売ですか・・・」
「一般のお客様の場合、私どもの画廊で扱わせてもらっている作家の作品を持ち込んでこられるということになります。それを私どもが買い取らせていただくか、またはいったん私どもに貸し出していただいて画廊で売却できたときに手数料を差し引いた金額をお支払いさせていただくかという違いになるのですが、通さんのようにご自分で描かれた作品を持ち込んでいただくかたちの場合もほとんど同じ流れになります」
「買い取りにしても委託販売にしても、そもそも私の描いた絵にまともに値段などつくのでしょうかね・・・?」
通が少し微笑みながら自嘲気味にそう言ったのだが、ヒカルにはそれが本音なのか実はまんざらでもなくて思わず笑みがこぼれてしまっていたのかはよくわからなかった。
「それは・・・私どもの代表である海野勝男が長年画商を営んできた経験から通さんの作品を画廊に置かせていただきたいと考えたのでありますから、どのくらいの価格設定にするのかなどもある程度は見込みを立てていると思いますけども・・・」
実際問題、ヒカル自身も通の作品にどれほどの値がつけられるものなのか全く見当がつかないのであるが、とりあえず勝男が画廊に置きたいというのであるから間違いなくそれなりの値はつくのであろうと信じて話を進めていった。
「委託販売の場合、販売価格の設定については持ち込まれたお客様や作家の方と画廊とで相談をして決定させていただくことになりますし、買い取りなのか委託販売なのかについてもまず通さんと私どもの代表とで相談をさせていただいて決めていただくことになると思います」
「なるほど、それはわかりました。しかし、画廊というところは基本的にはある程度有名な作家の作品を扱うものではありませんかね?姫乃が言っていたように私みたいな世に出ることなく埋もれてしまっている無名画家の作品を扱うというのが、やはりちょっとにわかには信じがたいのでありますよ・・・」
それに関してはヒカルも同感であるので内心ではまあそれはそうだろうなと思っていたのだが、やはり自分が信頼していて一目置く存在である勝男が勝算ありと考えての商談であるので、とにかく通に信じてもらえるような説得力のある説明をしようと試みた。
「画廊によってはお亡くなりになっている作家の作品だけを専門に扱っているところもありますが、我がギャラリーオーシャンはお亡くなりになっている作家の作品も現在ご存命である作家の作品も古い作品も比較的最近の作品も、色々わりと手広く扱わせていただいている画廊なのです。そして若手でも無名でも代表の海野勝男が良い作品を描く作家だと感じて、そしてこの先有名になっていきそうだと期待できる方にはどんどんアプローチしていこうというスタンスでやらせていただいております。通さんにつきましてもまさにそのような良い作品を描く将来有望な画家であると海野が判断させていただきましたので、今日こうしてお話をさせていただこうとお伺いしたのであります」
「そうですか・・・それはとても光栄に思います。私は絵を描くことは好きですし、自分自身で満足のいく絵が描けたと感じることもありますが、それはまさに自己満足だと思っておりますので、自分のことを将来有望な画家だと思ったことは一度たりとございません。そんな私の作品を本当にそこまで評価していただけたのでしょうかね?」
「はい、それに関しては間違いございませんので、どうか信じてください。私も海野のほうから直接そのように聞きましたので間違いございません!」
「そうなのですね・・・あと、一つお聞きしたいのですが、あなたも画廊の代表の方も海野さんという名字ということですが、もしかしてお二人は親子なのでしょうか?」
「いえ、親子ではありません。しかし甥と伯父という関係ですので親戚ではあります」
「ああ、そうでしたか。なるほど、親戚という間柄なので信頼されていて、それで私との話し合いをする仕事も任されたといったところなのでしょうか?」
「はい、まあ一応そういうことで信頼はしてもらっているとは思います。信頼されていなければこのような重要な仕事を任せてはもらえませんので・・・」
実際は甥なので職にあぶれたのを見かねてアルバイトとして雇ってくれているだけなのであるが、とてもではないがそんなことまでぶっちゃけるわけにはいかない。
できるだけ誇張や脚色はしないつもりなのであるが、姫乃や通の気持ちを考えるとそんなことを馬鹿正直に言ってしまうと、そんなテキトーなスタッフをよこしたのかと気分を害してしまいかねないのでこればかりは仕方ない。
そこは嘘も方便だと割り切って姫乃にも通にも画廊の代表が重要だと考えている仕事を信頼できる身内のスタッフに任せたと思わせておくことにした。二人ともおそらくそのほうが気分よく話ができるであろう。ということでそのように思わせたまま話を進めることにした。
「そうなのですね・・・私も画廊の代表の方がヒカルさんの伯父様であると知りまして、ぜひ一度お会いしてみたくなりましたよ!」
「ありがとうございます。それは海野もたいへん喜ぶことかと思います。今日も本来であれば海野が直接お伺いするべきであったのですが、本日は先約がありましたし画廊の代表の仕事で多忙を極めていまして・・・本人が直接お話をしにお伺いできなかったことに関しては本当に申し訳ございません。近いうちに海野が通さんに直接お会いできる時間をなんとか作らせていただくと思いますので、それまでは私がお話を聞かせていただいて海野に伝えさせていただきますので、それでご容赦ください」
「そうですか・・・まあ、私としては今日ヒカルさんとお会いできてお話し出来きて楽しかったのです。ですからそれはそれで良かったと思っていますのでそれに関しては大丈夫でありますよ」
「ありがとうございます。そのように言っていただけるととても光栄ですしありがたいと思います」
「当然、海野勝男さんとも一度お会いしてみたいのではありますけども・・・まあ、はっきりいって私のほうが暇な人間ですから私の方が勝男さんの都合に合わせて時間を作るべきなのだと思います。とにかく直接お会いできる日を楽しみにしております」
通はヒカルや勝男に対して好意的になっているというか、少なくともある程度は好印象を持っているようなので、ヒカルのほうも今のところ交渉に関しては好感触をつかめていた。しかし、こんなことを言う割にはその日の自分の気分を優先して今日は約束をすっぽかして絵を描きに出かけてしまったのだ。それが川上通という人間なのである。
そういう意味ではまだまだ油断は禁物なのであった。
「通さんは普段けっこう時間に自由がきく感じでいて、こうやって景色や描きたい題材をスケッチされたり自宅アトリエで着色などの作業をされたりして毎日何かしら作品作りをされている感じでいられるのですかね?」
「いえいえ、そういうわけでもありませんよ。先ほど毎日同じ場所に通って描き続けるのが理想と申しましたが、私は一週間の半分以上は倉庫内で作業をする仕事をしているのです」
「倉庫で、作業をですか・・・?」
「そうなんです!いわゆる派遣労働者なのです。ですから画家といいましても派遣労働との兼業ですので・・・まあいわば、兼業画家ということなのです!」
「なるほど・・・兼業画家ですか・・・まあ、確かに現在まだ絵画を描くことでの収入が無いということであれば、生活もあるでしょうし何かしら別のお仕事をされて生計を立てていらっしゃるというのも自然なことですよね・・・」
「そうなんです!とはいえ、やはり絵を描くための時間は欲しいので週五日ではなく週四日とか三日とかくらいしか働いていません。ですから画廊の代表でいらっしゃる勝男さんと比べたらぜんぜん暇といいますか、時間は作りやすいのですー」
「まあ、そうですよね・・・確かに週五で働いていると作品作りのための時間を捻出するのはけっこう大変になってきますもんね」
「たぶんですけど、トーリくんの絵がまだ世に出ていないのは絵一本に絞ってやれていないことも原因なんだと思うんです。もっと沢山の作品を描いてそれをもっともっと大勢の人に見てもらうことが出来たなら、きっと世の中にトーリくんの才能が認められる日が来ると思うんです!」
姫乃が久しぶりに口を開いたが、やはり通は境遇に恵まれていないだけで才能には恵まれているという持論を崩してはいないようである。
川上通が画家として世に出ていないのは彼が絵を描くことに集中できる環境が整っていないことや、まだ世の中に広く知られていないことが原因であって彼の描く絵自体は凄くてとても素晴らしいのだという姫乃の信念は全く揺らいでいないらしい。
それは今日約束にルーズで身勝手な通に散々振り回されて苦労させられたにも関わらずなのだ。今日こんな目にあってもそれでも今しがた通の絵について語っていた時の姫乃の目は真っ直ぐで一点の曇りも無かった。とにかく通の絵の才能については一ミリも疑っていない様子なのであった。
「最近の言い方で言うと、通さんの才能が世間に見つかるみたいなことですかね・・・?」
「その通りです。私思うんです、もうちょっと自分から積極的にアピールしていけばトーリくんという凄い画家は絶対世間に見つかるんだって!」
「おいおい、そんなに褒めたって何も出ないぞ姫ちゃん・・・」
通がまた少し微笑みを浮かべながらいかにも昭和な感じの返しをしたが今度はよく知っている姫乃に言われたからであろうか、まんざらでもないよう態度であるようにヒカルには感じられた。
とにかく通のご機嫌も良さそうであるし、話の展開的にも最高のチャンスだと感じたのでヒカルはここでたたみ掛けてしまおうと話を切り出した。
「姫乃さんもこのようにおっしゃっていますし・・・どうでしょう、やはり私どもの画廊に通さんの作品を置かせていただけないでしょうか?画廊で展示させていただければ確実に世の中に広くアピール出来て世間での認知度も上がることでしょう。通さんの作品や才能があまり知られていないという現在の状態を打破できることは間違いござません!」
「そうだよトーリくん、こんなチャンスは滅多にあるもんじゃないよ。このチャンスを逃したらきっと後悔することになっちゃうよ!」
姫乃もここぞとばかりにプッシュしてくれた。
「そうですねぇ・・・確かに画廊に置いていただけたら私の絵をより多くの方に見ていただけるというのは間違いないとは思うのです」
「うん、そうだよ。それで、きっと多くの人から評価してもらえるよ!」
「では、私どもの画廊で作品を扱わせていただくということで話を進めさせていただいてもかまいませんか?」
「いや、しかしですねぇ・・・正直あまり気が進まなかったりするのですよ・・・」
「ええっ、どうして?すごくいいお話なんだよ、画廊に絵を置いてもらえたら・・・それはもう立派なプロの画家だと認められたってことなんだから!」
「プロの画家かぁ・・・・・・」
「こんないいお話をお断りするなんてもったいないことしたら罰が当たっちゃうよ!」
「そうですよねぇ・・・通さん、こんな言い方をするとあれですが・・・作家さんの方から望んでも叶わないことの方がむしろ多いくらいなんです。それなりのレベルの作品でなければ画廊で扱わせていただくことはありません。画廊としてもビジネスとしてやっているわけですから、お客様に買っていただけるレベルの作品でなければ扱えないのです。つまり、才能がある選ばれた人の作品でなければ画廊に置かれることはないということで、そういう才能に恵まれている人というのはとても貴重な存在ということでもあるのですよ」
「そうだよ、才能があってこんなチャンスまで巡ってきたのに、それを棒に振るだなんてどうかしてると思うよ、トーリくん!」
「どうして画廊に絵が置かれることに気が進まないのでしょうか・・・?」
「いえね、実を言いますと私は絵を描くのはとても好きですしライフワークにしていきたいとは思っていますが別に絵でお金を稼いで生計を立てたいという風には考えていないのですよ・・・」
「ご自分の作品をお売りになりたくないということでしょうか?」
「まあ、そうですねぇ・・・」
「もう少し詳しく理由をお聞かせ願えますでしょうか・・・?もしかして、ご自分の描かれた作品を手放したくないということなのですか?美術館などに貸し出すのはいいが、画廊で誰かに売られてしまうのは嫌だとかいうお考えなのでしょうか?」
「いやぁ、別にそういうことでもないのです。過去に描いた作品を全て手元に置いているかというと、そういうわけではありませんからね。誰かに売ったことはありませんけどプレゼントしたことならありますので、自分の作品に執着して全て手元に持っていたいとかいうことはないのです」
「じゃあ、なんでなの?」
「絵でお金を稼ぐという行為に嫌悪感というか,違和感があるということなのでしょうか?」
「まあ、そういう感じでしょうかね・・・嫌悪感とまではいきませんが違和感はあるのです。別に、絵で生計を立てていらっしゃる他の画家の方々を否定するつもりはありません。むしろ私が尊敬する高名な画家の方々の作品は実際に高値で取引されていますのでね。優れた作品に値がついて売買されることについてはそういうものだと納得はしていますが、自分の作品がお金で取引されて、それが次々と違う人の手に渡っていくみたいになるのがちょっとね・・・」
「何年単位なのか何十年単位なのかはケースバイケースだと思いますが、作品の売買が繰り返されて所有者が変わっていくというのもそういうものだとは思うのですけどね・・・」
「それも承知しておりますし、割と普通なことであるのでそれ自体には違和感などはありませんよ」
「では、なぜ・・・?」
「私のあずかり知らないところでどのような扱いをされてしまうのが分からない状態になることが少し嫌かなぁという感じなのですよ。私の絵を良いとも思っていないのにただお金を増やすための投資に使う資産として所有したり扱ったりする方もいるかもしれません。それで、そういう人たちの間で転売が重ねられて所有者が点々と変わっていくというのは正直嫌なのですよ。要は、私個人の問題ですね・・・」
「つまり、ご自身の作品の価値ともうしますか、作品そのものの魅力を理解して作品として気に入って所有される方に売られていくのは構わないが、そうでない人の手に渡ってしまってそういう人たちの間で転売が繰り返されてしまうのは我慢できないということなのでしょうか?」
「まあ、そういうことなのですー。一度作品がどなたかに買われてしまったら、その後そういう売買を防ぐことは不可能ですよね?」
「ま、まあ・・・そうですねぇ・・・通常は一たび作品を買ってしまえば、それをずっとご自分で所有され続けるのか、それとも違う方に転売してしまうのか、もしく美術館や個人に貸してしまうのか、どうされるのかは基本的にその所有者の方の自由ということになってしまいますね・・・」
「トーリくん、そんなこといったらさっき言ってたトーリくんが尊敬してるような画家の人たちみたいな、有名で立派な凄い画家になることは不可能ってことになるんだよ!」
「まあ、それはそうなのだが、やっぱり嫌なものは嫌なんだよ・・・」
「弱りましたね・・・先々まで通さんが望まれているような方に所有していただけるようにさせていただくとお約束するのは正直不可能ですからね・・・」
「だって、ギャラリーオーシャン以外でもそんなこと出来る画廊なんてないですよね?」
「おそらくは・・・」
「ほら、そんなことどこの画廊でも不可能なんだよ。それなら、こういうこととかをなんでも正直に言ってくださる誠実なヒカルさんのところの画廊にお任せするのが一番いいんだって思わない?トーリくん・・・」
「ヒカルさんが良い人でありギャラリーオーシャンも良い画廊なのであろうことは分かっているんだがねぇ・・・・・・」
姫乃が頑張って加勢してくれているのがとてもありがたいが、通の気持ちを変えるのはかなり難しそうだとヒカルは思い始めてしまっていた。
「最初にどういう方にお売りするのかを画廊や作者である通さんの意向で選別することまでは可能ではあります。通さんご自身か、もしくは私どもの代表の海野が購入希望者と面談して通さんのご意向に合う方であると確認できた上でお売りするという感じです。それならばとりあえずは転売や投資目的の方の手に渡ることはありません」
「うん、それならいいじゃない!売る相手を自分で選べるならトーリくんも納得でしょ?」
「まあね、それならばいったんは私の絵を良いと思ってくれる人にお売りできるとは思う。しかし、その人が何らかの理由で絵を手放してしまえばそこからは絵がどうなったか追跡するのは難しい。そして再び私が望むような人の手に渡るようその後の売買に介入することはさらに困難だ。そうでしょう?ヒカルさん・・・」
「はい・・・おっしゃる通りですね・・・まあ、最初にお売りした相手の方が絵を手放す時も自ら責任を持って売ったり譲渡したりする次の相手をよく吟味して下さる方であればまたいったんは大丈夫でしょうし、その先もずっとそのような売買が続いていけば通さんとしても安心なのでしょうが・・・」
「そうなれば私としても安心です~。しかしそうなってくれる保証などありませんよね?」
「そうですね・・・もうそれは最初にお売りする方や、その人が売る相手の方のことを信じるしかない感じですかね・・・」
「他人のことを信じることはとても大切なことだと思うのですが、人を信じるということはそんなに簡単なことではないのです。やはり私には画廊に来られる見ず知らずのお客様のことをそんなに簡単に信じることはできないのですー。申し訳ありませんが、ヒカルさんや勝男さんのご希望には沿えないということになります」
自分の作品の扱われ方に関する通のこだわりは相当に強いらしく、それはそう簡単に譲れるものではないようであった。
「そうですか・・・大変残念です・・・・・・」
「すいません、ヒカルさん。トーリくんの意志は固いみたいです。こう見えて結構頑固なところがあるので、こうなってしまったらなかなか気持ちは変わらないと思います」
「そのようですね・・・私のほうこそこんなに協力していただいたのに姫乃さんの望みを叶えられませんで、申し訳ございません。そしてここまでお力添えしていただいたことに感謝いたします、本当にありがとうございました」
「そんな、私の方こそこんなにも力になっていただいて、本当にありがとうございました」
精一杯力を尽くしたヒカルと姫乃であったが、川上通の心を動かして交渉を成立させることはついに叶わなかった。そして、こうなった以上もう仕事は終了であとは帰るだけであったのだが・・・・・・
「あ、そうだった・・・・・・」
もうほとんどあきらめかけていたヒカルであったが、不意に勝男から与えられた指示を思い出した。
その指示とは交渉が成立するかどうかという最終的な結果は別にして、とにかく川上通の作品だけは必ず実際にその目で見せてもらうことだけは成し遂げてこいというものであった。
本来ならまず川上通の自宅のアトリエで作品を見せてもらうところから始まってそれから画廊で扱わせてもらえるかという交渉に入るという流れになるはずであったのだが、通が約束をすっぽかして出かけてしまってその捜索から始めなければならないという展開になってしまったために色々段取りが狂ってしまったのだ。
そして結局先に交渉を始めてしまって、それがどうも上手くいかない感じになってしまった今になって最低でも通の作品だけは実際に見てこいという勝男からの指示を思い出してしまったのだ。
勝男いわく、今後またこういう仕事をする時にきっと役に立つので交渉がどのような結果になってもとりあえず作品を実際に見せてもらうことが大切であるらしい。
「あの~・・・・・・それはそれとして、とかいったらおかしいのですけど、通さん、一度あなたの作品を実際に見せていただくことは可能でしょうかね?」
「私の絵をですか?」
少し予想外だったようで、通がポカンとした顔で聞き返してきた。
「はい、実は私は通さんの作品をまだ写真でも拝見したことがないのですよ。当然私どもの代表の海野は姫乃さんから作品の画像を見せていただいて大変素晴らしいと思って画廊で扱わせていただきたいと考えたわけですが、私は海野の代理で通さんのアトリエをお訪ねしてお話をさせていただくことを命じられてですね・・・本来はアトリエを訪問させていただいた際に、まず最初にこのお願いをさせていただくはずだったのですが、まあ、色々あって予定が狂ってしまって順番が逆になってしまったのです・・・」
「ああ、私が約束を忘れて出かけてしまったせいですね・・・」
マイペース人間な通であったがさすがに事情を察したようである。
「まあ、そうなりますかねぇ・・・作品はアトリエにあると姫乃さんから聞いていましたが、アトリエではなくここでお話をさせていただくことになったので、まずは先に作品を見せていただきたいというお願いは当然出来ないわけですからね。そういうわけで先に作品を拝見させていただこうというこちらの思惑が崩れてしまったわけですが・・・まあただそれはこちらが勝手に考えていた手順ですから、その手順に無理やりお付き合いしていただこうとまでは考えていませんので、通さんが気になさることではないですから大丈夫ですよ」
「いや、そういうわけにはまいりません。本当に、大変申し訳ございませんでした。とにかく私がお約束を破ってしまってご迷惑をおかけしてしまったのは事実であります」
「まあ、それはもうお気になさらずに・・・それでなのですが、今日この後作品を見せていただくということは可能でしょうか?」
「それは構いません、というか、私の作品を見たいと言ってくださることはむしろ大変嬉しく思います。逆に、本当によろしいのでしょうか?私の作品を画廊で扱ってみたいというとても親切なお申し出をお断りするという無礼をはらたいら・・・もとい、はたらいた私の絵を見にきて下さるなんて・・・」
「もうそれもお気になさらずに。人それぞれ考え方は色々なのですから、当然こういうこともよくありますので」
「そうですか、いやぁ本当に嬉しく思います。ぜひ、ぜひ私の絵を見にきて下さい!」
「ああ、良かった。では、このあと通さんが帰宅されるときにご一緒させていただいてもよろしいでしょうか?もちろん通さんのご都合に合わせさせていただきます。今されているスケッチは心ゆくまで続けてください。その間は近くで待たせていただきます。画廊のスタッフである私が画家の方の創作のお邪魔をするわけにはまいりませんのでね」
「それでは、スケッチはもういいので今すぐ私の自宅アトリエへ参りましょう」
「いえ、お気を遣われなくて結構ですよ。私はスケッチが終わるまでお待ちいたしますので・・・」
「いや、大丈夫なのであります!ヒカルさんに私の絵をお見せしたいという気持ちが強くなっているのでスケッチを続ける気分ではなくなったのです~」
どうやらどう行動するのかは気分次第というスタンスは変えないようである。
「でしたら、善は急げではないですが、今からお願いします」
「そうですね、では、いざ我がアトリエへ参りましょう!」
そんなわけで三人は川上通宅のアトリエに戻ることとなった。
アトリエへと向かう途中に姫乃がヒカルのそばへ寄って来て小声で話しかけてきた。
「本当にいいんですかヒカルさん?ヒカルさんもお忙しいでしょうに気を使ってトーリくんの絵を見にきて下さるとかだったら、無理されなくてもいいんですよ・・・」
「いや、別にそういうことではありませんよ。本当に通さんの絵が見たくてお願いしたまでのことです。後学のためにも優れた作品の実物を拝見させていただきたいと思ったのです」
「そうですか、それならいいんですけど・・・」
通に聞こえないように話してはいたのだが、勝男からの指示があったからだということは通だけでなく姫乃にも言わないほうがいいだろうとなんとなく思ったので隠しておくことにした。それに、実はここまできたらヒカル自身も通の絵にちょっと興味が出てきてしまっていて、せっかくだから一度拝んでおきたいという気持ちも本当にあったのである。
そして一行はまた川上通のアトリエのある自宅へと帰ってきた。
行きとは違って注意深く通の姿を探しながら公園に立ち寄ったり商店街で聞き込みをしたりとかいうことに時間をとられなかったので、また徒歩での移動にはなったのだが帰りはそれほど時間が掛からなかった。
昼間来たときと同じように庭の植木の間を抜けて奥のほうにある離れへと向かった。
「到着いたしました!ここが我がアトリエです~」
「はい、実は姫乃さんに案内していただいて今日一度ここには来ています」
「ああ、そうでしたね・・・一度来られているわけですよね。それでは、改めまして・・・さあ、どうぞ我がアトリエへとお入り下さい」
「はい、それでは遠慮なくお邪魔いたします・・・」
三人は離れの中へと入っていった。
「おおっ、いきなり作品があちこちに飾られていますね・・・」
それほど広くはないその室内には所狭しと作品が飾られたり壁に立てかけられたりしていた。この部屋は納戸や物置とすれば結構大きいのであるが、アトリエを構えるにはやや手狭に感じる微妙な広さであった。なので、部屋に入った瞬間に多くの絵に囲まれる感じになってしまうのだ。
「これは・・・全て通さんの作品なのですよね・・・?」
「そうなんです!全て私の生み出した作品たちなのです」
アトリエには色々なタイプの絵があった。先ほど通が言っていたような水彩画であったり色鉛筆画であったり、そしてマーカーを使ったペン画であったり例の色紙を使った貼り絵であるちぎり絵など多種多様な絵があって、それほど広くない空間でそれらの多くの作品に囲まれたヒカルはなんだか圧倒されてしまった。
ちゃんと一つ一つの作品をよく見た上でその出来栄えなどの凄さに圧倒されたのではなくてまだそれぞれの作品をよく見る前の段階で少々異様とさえ感じられる通のアトリエというその空間そのものに圧倒された感じなのである。
「なんか、凄いアトリエですね・・・外から見た感じではこういう風になっているとは全然想像できなかったです・・・」
「私はここまで作品が多くなかった頃から少しずつ増えてこうなっていくのを見ているので慣れてしまったというか、トーリくんのアトリエってこういうものだと思っていたんですけど、初めて見る人はだいたい驚くみたいですね」
ここにはよく来ているらしい姫乃もヒカルに合わせるように部屋中の作品を見回しながらそう言った。
「何といいますか、美術館などの展示コーナーの一つみたいな感じですね・・・あえてこういうあまり広くない空間に大量の作品を展示して迫力を出すみたいなコンセプトの展示コーナーとしてこういう空間がありそうな感じがします」
「いやあ、そんないいものではなくて、本当にただ絵を置くスペースにあまり余裕がないのでこのようになっているだけですー」
確かにそういう演出を計算でやっている感じでもないようだ。おそらくだが通はそういうのを計算で出来るタイプではなさそうである。
「いや、しかし本当に凄い空間だと思います。それこそ奇抜な展示方法を売りにして他とは一味違うのだぞという感じを演出しているような変わり種のギャラリーをやっている人が見ても驚くほどの完成度だと思いますよ。まあ、ちなみに私どものギャラリーオーシャンはどちらかというとオーソドックスな展示方法でやらせていただいてますので、割と普通な感じで落ち着いて作品を見ていただけるタイプの画廊なのですけどね・・・」
「まあ、私としても画廊とはそういうところであるというイメージなのです。ここには私の作品しかありませんが、画廊というところは色んな作家の作品を展示しているのでしょうから、こんな感じでごちゃごちゃと全て一か所に展示するわけにはいかないと思いますのでね」
「そうですね・・・誰か一人の作家さんの特集コーナーとしてならこういう感じの展示方法もできるのかもしれませんが、それでもやはりうちの画廊ではやらないと思います」
通が強いこだわりをもって計算でこういう空間を作っているのならギャラリーオーシャンがオーソドックスなタイプの画廊だと伝えることはマイナスになったかもしれないのだが、通自身がもともと持っていた画廊のイメージがどうやらそのオーソドックスなタイプの感じであったらしいので特にマイナス評価にはならなかったようだ。
とはいえ、もう画廊に絵を置くことは断られてしまったわけであるからもはやマイナスにでもプラスにでも、どう思われても、どう評価されても別に構わないといえば構わないのである。ヒカルとしては、あとはもうとにかく通の作品を目に焼き付けて帰って勝男に交渉が不調に終わったことを報告して、そしてどのような作品を見て来たのかを伝えるところまでやればとりあえずは任務終了なのだ。
勝男が川上通の作品をどうしても諦めきれないのであれば自ら乗り出してくる可能性もあるが、勝男でも口説き落とせるかどうかはわからない。正直ヒカルとしてはもう通の作品を画廊に置けても置けなくてもどちらでもよかった。通の作品をぜひとも画廊に置いてほしいという姫乃の望みは叶えてあげたかったのだが、やるだけやってみて駄目だったのでこれはもう仕方がないという風に割り切れていた。
ただ、画廊に戻って通の絵についてちゃんと勝男にある程度詳しく具体的に報告できなければいけないので作品をしっかりと見て帰る必要はあるのだ。ヒカルはとりあえず一番自分に近い位置にある絵から見ていくことにした。
「まあ、どうぞごゆっくり見ていって下さいな」
「はい、ではお言葉に甘えてそうさせていただきます。絵の数の多さに驚いてしまってまだ一つ一つちゃんと拝見できていませんので、一つずつ集中して見せていただきます」
「私も久しぶりにトーリくんの絵をちょっと見させてもらうね」
「では、私はちょっとその辺の片付けをしているのでご自由に見て下さい~」
ヒカルはちょうど真横にあった自分の頭の位置くらいに飾られている絵を見ていた。そして次はその隣と絵といった感じで順番に見ていった。画廊に展示されている絵を見ていく要領でやるのがやり易いと思ったからだ。
「一つ一つ見たら別に奇抜な感じではなくてどちらかというと、なんというか見やすい絵なんだなぁ・・・」
ヒカルにとって「見やすい絵」というのは風景や人物があまりデフォルメされずどちらかというと写真のようにリアルに描かれている絵のことなのである。逆に見にくいというか、あまりちゃんと理解ができない難しいタイプの絵が抽象絵画なのであった。
つまり、抽象絵画の逆である具象絵画であればたいていのものは見やすい絵ということになる。多少の美化やデフォルメがあっても何が描いてあるかわかる絵であれば大丈夫なので現実の人物や風景を見たまま忠実に描いていなくてもそこは別に構わない。
空想や想像で描かれた人物や風景でもリアルに描かれていて何が描かれているのがわかる絵であれば内容はどのようなものでもいいので中世の宗教画なども「見やすい絵」ということになる。そして、そういう中世の有名な絵画は価値が高いということは知識としてあるのでそういうものとして安心して鑑賞できるのがいいとヒカルは思っていた。
具象絵画であり尚且つ写実絵画であればよりいっそうだがヒカルにとっては「見やすい絵」ということにとりあえずはなる。
とはいえ、抽象絵画であろうと具象絵画であろうと絵画に詳しくないヒカルでも知っているような有名な画家の有名な作品ではなくて絵画に詳しい人しか知らないような作品やそういう人ですら知らないような作品に関しては「これは優れた作品なのであろうか?そうだとしたらどれくらいの値が付くようなどれくらいのレベルの作品なのだろうか?」などということが気になってしまうのだが、結局そういうことはヒカルには全くわからない。そんなわけで有名でない作品は安心して見ることできないのである。
そんな世間的な価値など気にしないで純粋に絵画を鑑賞すれば良いのであろうが、伯父が画廊を経営している画商でありその画廊のスタッフとして働かせてもらっていることもあってヒカルは絵画の世間的な価値を気にしないで鑑賞することは出来なくなってしまっているのだ。
「勝男さんが興味を持った作品だからもうちょっと難解なものなのかと思ってたけど・・・なんというか、素直な感じというか素朴な感じがするな・・・ちょっと意外だったけど見やすい絵だったんだな・・・」
先ほど述べたような理由でヒカルとしてはあまり深く考えないで見ていられる作品が好みなのであるが川上通の作品は勝男のお墨付きがあるので優れた作品という認識で安心して鑑賞できるのである。
しかし、そういうことは抜きにしても通の作品は美しい景色を美しく描いている感じのシンプルなタイプの絵であってヒカルの好みの作風なのであった。
「やはり圧倒的に風景画が多いんだな・・・どれも構図はシンプルで見やすいから俺みたいな素人から見たらわりと普通な絵にしか思えないんだけど、まあそれ故に見やすいんだよなぁ・・・」
勝男からの指示があったので最初は仕事として半ば義務的に通の絵を鑑賞していたヒカルであったが、面倒くさいだとかなんだか難しくてよくわからないだとかそういったストレスは無くて、なんならちょっと楽しみながら鑑賞できていた。
そんなわけでヒカルは自然と絵を見ることに集中できていたのであるが、隣では姫乃も通の絵に見入っていた。
久しぶりに見ると言っていたがヒカルと変わらない感じでまるで初めて見るみたいにじっくりと興味深そうに見ている。久しぶりなので新鮮な気持ちで見ているのかもしれない。
「姫乃さんも絵画に興味があるのですか?もしかしてご自分でも絵を描かれたりもしているのですか?」
「あ、はい・・・私も少しは絵画に興味があってネットとかでいろいろ調べたりもしますけど、それほど絵画について詳しいわけではなくて大した知識は持ってないんですけどね。
自分では絵は描かないです。トーリくんみたいに上手くないですから」
姫乃は少し恥ずかしそうに笑いながらそう答えた。姫乃もなんだか自分と似たような感じだなと少し親近感がわいたヒカルであった。だが、画廊のスタッフであるヒカルが絵画について大した知識を持っていないのはちょっと問題である。実際、いま川上通の作品をいくつか見たのだが相変わらず絵の良し悪しであるとかどれくらいの値がつきそうだとか絵画の価値や芸術についてはよくわからないのであった。
「ヒカルさんは絵を描いたりはされないのですか?」
「私も絵は得意ではないので描きませんね。妹は美術部だったので絵を描くのですが、私には絵を描く才能はないようです」
「へぇ~、妹さんがいらっしゃるんですね。伯父さんもお兄さんも芸術関係のお仕事をされてるわけですし、きっと絵はお上手なんですよね?」
「どうでしょうね・・・・?上手いとは思いますが、画廊にあるプロの絵と比べたら普通なんだと思います。美術部の学生が描いた普通のちょっと上手い絵なんだと思います」
自分では絵の良し悪しなどよくわからないのであるが勝男がとても評価したり強く興味を持ったりしているところを見たことがないので、妹の絵はおそらく普通の上手な絵なのだろうという認識なのだ。
ヒカル自身で評価ができないので勝男の評価を基準にするしかないというだけなのであるが、もし勝男が妹の絵を見て何かきらりと光る才能のようなものを感じたら川上通の絵を見た時のようなリアクションをするであろうし、それこそ画廊に絵を置いてみないかみたいな話になると思うのでおそらく自分の認識は間違ってはいないとヒカルは考えていた。
「それでも上手な絵が描けるっていうのは、それだけで凄いことだと思いますし、羨ましいです私は・・・」
もしかしたらそういう羨ましいという気持ちや憧れが川上通の絵を画廊に猛プッシュするという大胆な行動を姫乃にさせてしまった原動力のようなものになっているのかもしれないなと、絵を眺めている姫乃の横顔を見ながらヒカルは思った。
そして二人はまたしばらくそれぞれ別の作品を見ていた。
二人が通の絵を鑑賞し始めてもう小一時間ほどたっていた。通本人は今日河川敷で絵を描くのに使っていたスケッチブックなどの画材やコンパクトデジタルカメラなどの荷物をアトリエの所定の位置に片付けたり、机や棚の整理らしきことをしたりと何せアトリエ内の片付けを黙々とやり続けていた。
「どうですか?トーリくんの絵は・・・」
また隣同士になって絵を見ていた時に姫乃が声をかけてきた。
「そうですね・・・まあ専門的なことは置いておくとして、私個人の感想だけ述べさせていただきますとね・・・お世辞抜きで本当に素晴らしい作品ばかりだと思います!私自身はこういう感じの絵はとても好きですね」
そもそも専門的な知識があまりないのでそれは置いておくしかないヒカルであったのだが、通の絵が良いと感じたのは事実であった。
「そうですか、良かったぁ!ヒカルさんがトーリくんの絵の良さを理解して下さってとても嬉しいです私は・・・」
姫乃は本当に嬉しそうな顔をして喜んでいた。
「もともと私は風景画が好きですので見ていて落ち着くというか、なんだか癒されますね」
ヒカルは久しぶりに難しいことなど考えずに純粋に絵画鑑賞を楽しめている気がした。
画廊で働いているのでヒカルの絵画鑑賞の機会はおそらく普通の人よりも多いはずである。
しばらく画廊とは別の仕事を派遣でやっていてその仕事が無くなりまた久しぶりに画廊のアルバイトに戻ってきた際や、ギャラリーオーシャンの作品が売れたり逆に新しく仕入れたりしていくつか作品の入れ替わりがあったタイミングで勝男から一度また改めて画廊の絵を全て見てまわるように指示されて絵画鑑賞をすることがたまにある。
つい最近もそのような指示があって画廊の作品を全て鑑賞したのだが、そういうときは「お前はこの作品たちの良さがわかるのか?どのくらいの値段がつくのかその価値がわかるのか?」みたいなことを問おうとする意図が勝男のほうにはある感じがするのでなんだか試されているような気がするのである。
そもそも画廊の仕事の一環としてやらされているのであろうし、プライベートで画廊や美術館に行って絵画鑑賞しているのとはわけが違ってただボーっと絵を見ているわけにはいかないのである。ヒカルなりに色々難しいことを考えながら鑑賞しているのだ。
伯父である勝男の画廊なので子供の頃にギャラリーオーシャンに遊びにいって自由に絵を見てまわったことが何度かあったのだが、その頃は無邪気にというか難しいことなど何も考えずに絵を見ていた。
暇つぶしで遊びにいった時もあったのだが、絵に関しては自分としては子供の頃から一応興味はあったと記憶している。だから暇なので仕方なくとかではなくて能動的に画廊の絵を見てまわっていたはずである。
子供だったので「絵を描くのが上手い大人たちが描いた色々な絵が飾ってあっておもしろいなぁ・・・」くらいのことしか考えていなかったのだが、子供ながらにお気に入りの絵などもあったりした。
次に画廊に行ったときにその絵が無くなっていたりもしたが、勝男から「あの絵は買われていった。あの絵の良さがわかっていてとても気に入っていた人の手に渡ったので良かった。絵も幸せだろう」などと聞かされていたので、そういうときは自分のお気に入りの絵が画廊から無くなって寂しいとかいう気持ちはなくて「ああ、あの絵はいい人に買われていって幸せなんだな、良かったんだな」くらいに考えていた。
そして、そんな感じで画廊の絵が入れ替わっていってラインナップが新しくなっていくことも新鮮に感じられて楽しかった。自分が知らなかった絵を新たに見ることができるというのも楽しかったわけである。
もしかしたら、ヒカルが純粋に絵画鑑賞を楽しめているのは子供時代に遊びで画廊に通っていたとき以来なのかもしれないのだった。
「私はこれなんかが結構お気に入りですね・・・」
ヒカルが子供の頃を思い出していたら隣にいた姫乃が自分の目の前にある絵を見たままそう言ってきた。姫乃がじっと見つめていた絵は数分前にヒカルも見ていた絵であったが、やはり風景画であり川の土手とその横に広がる街並みみたいな景色が描かれていた。おそらく今日行った川とその近所の風景ではないかと思われる。
「ああ、私もその絵はとてもいいと思いますし、好きですね」
「土手の斜面から街を見渡しているみたいな風景ですよね。少し高い見晴らしのいいところから眺めている感じがしますもんね」
「川は描かれてないですけど河川敷近くの景色なのはわかりますね。今日通さんを探して土手を歩いていた時に街の方に目をやったらこういう景色が見えましたから」
「あの時はトーリくんを探すことに必死で景色を楽しむ余裕はなかったけど、こうして見たらなかなかいい景色なんですよね」
「ああ、そうか・・・」
ヒカルは先ほど河川敷で通を探していた時のことを思い出した。そしてあることに気づいた。川が見えないのだから土手の川とは反対側の斜面にはいないと思うみたいな話をしていたが、この絵はまさにそういう場所から街のほうを見たような景色なのであった。
「危なかったな・・・今日通さんがこういう視点からの景色を描いていたとしたら、探していた我々からは場所的に見えないところにいたかもしれないですね」
「ほんとにそうですね。私、この絵は前に見たことがあったはずですけど、あの時はそれを思い出せなかったからきっと川が見える側にいるのだと思いこんじゃってました。トーリくんが対岸のほうの街側の斜面にいてこういう構図の絵を描いてたら私たちからは完全に死角になってましたね」
二人は笑いながらそんなたらればの話をしていた。しかし、結果的に見つけられたから良かったが、川上通がこういう死角のようなところにいて見つからなくて今くらいの時間まで彼を探してまだ街をさまよい続けていたとしたらこんな風に笑い事ではなくなっていたであろう。
「トーリくんがあの川とかその近辺の景色が好きで何枚か絵にも描いていたのは知ってたんです。だから今日もあの河川敷に行った可能性は高いと思って探しに行きましたが、本当にトーリくんにとってはお気に入りの場所なんでしょうね・・・」
「まあ、確かにきれいに整備されていましたし散歩したりするにはとてもいい河川敷でしたね。初めて行った私でもあの景色はなかなか良いものだと思いましたが、昔からあそこによく通っている通さんからすれば、相当思い入れがありそうですね」
「そうですね、思い入れはとても強いと思います。絵を見ていてもそれが伝わってくるんです!」
「そういう対象を題材にしているからこのような温かみのある素晴らしい作品に仕上がるのかもしれませんね・・・なんか、姫乃さんがお気に入りというのもわかる気がします」
「この絵だけではなくてトーリくんの絵はどれも好きなんですけどね。おおげさじゃなく見る人の心に何かを訴えるような絵だなぁって感じるんですよ」
通がいとこであり絵の才能がある画家であるのに世に知られていなくて無名なのがかわいそうだと思っているから応援したいという気持ちがあるのはもちろんなのだろうが、姫乃は純粋に通の絵が好きで素晴らしい作品ばかりだと思っているが故にもっともっと多くの人に川上通という画家の絵を見てもらって、その素晴らしさに気づいてもらいたいと考えているのであろう。
そうでなければ飛び込みで画廊に通の絵を猛烈に売り込みに行くなどという大胆な行動までは出来ないだろうなとヒカルは思った。
「実を言うと今日ここでいくつもの作品を拝見させていただいて、私もすっかり通さんの絵のファンになってしまいましたよ」
「そうですか、良かった・・・すごく嬉しいです!」
「これも気を使っているとか社交辞令とかではなくて本心ですからね」
姫乃が余計な心配をしないようにヒカルは先に笑顔でお世辞やおべっかを使っているとかではないことを強調しておいた。
「ほんとに良かった・・・トーリくんの絵のファンが一人増えたのなら今日はそれだけでも意味があったと思います。トーリくんが画廊に絵を置いてもらうのをお断りしてしまったことはとても残念なのですけどね・・・」
「そうですよね・・・いつか通さんの気持ちや考えが変わって画廊に絵を置かせていただけないかと私も思っています。もしかしたら次は代表である勝男さんが直々に交渉にお伺いするということも考えられますので、その交渉で通さんの気持ちが変わって画廊とのお付き合いを始めていただけたら私個人としても嬉しいのですが・・・」
いま言ったこともヒカルの本心であった。少し前までは川上通の作品をギャラリーオーシャンに置けても置けなくてもどちらでもいいと思っていたのだが、ここで通によって描かれた多くの作品に触れて考えが変わったのだ。
いまだに絵画や芸術についてはよくわからいままであってそれは変わってはいないのだが、今日見た通の作品はどれも素晴らしいものだと感じた。
姫乃の言葉を借りれば見る人の心に何かを訴えるような絵だとヒカルも感じたのだ。芸術のことはよくわからないなりにも通の作品を好きになり素晴らしいと感じられたので、それだけに通に画廊との付き合いを断られてもう自分は通の作品に関われないかもしれないことを惜しいと思い始めたのである。
「私はギャラリーオーシャンという画廊についてまだよくわかってはいないと思うんですけど、それでもトーリくんの絵を置いてもらうとしたら一番いい画廊だと今でも思ってるんです!」
「ありがとうございます。そんなことを言っていただけるなんて、とても光栄に思います」
「トーリくんの絵を置くのはギャラリーオーシャンしかないとほんとに思うんです。お断りした理由があんな感じだから、どんな画廊からのお誘いも受けないと思いますけど・・・」
姫乃がこんなにも乗り気でいてくれても当の本人である通が首を縦に振ってくれなければどうしようもなかった。作家側が条件面での不満を理由に断ってきた場合、通常はどこかで落としどころを見つけて折り合いがつくように調整していけばよいのであるが、通の条件は金銭面などのことより満たすのがはるかに困難なものなので如何ともし難いのであった。
「もし勝男さんが自ら交渉に乗り出してきて下さったとしても、トーリくんの気持ちが変わることはないのかもしれません。こんなにトーリくんの絵を好きになってくれたヒカルさんがお願いしてくれたのに駄目だったのわけですからね・・・」
「いえ、私なんかよりも百戦錬磨の勝男さんのほうがはるかに上手に交渉にあたることが出来ると思いますから、まだ望みはあると思いますよ」
「そうですね・・・でも、トーリくんの場合は交渉技術よりもどれだけ仲良くなれるかのほうが重要なのだと思うんです」
「仲良く・・・ですか?」
「そうです、私はトーリくんとは付き合いが長いのでよく知っているつもりですが、今日初めてお会いしたのにヒカルさんのことはとても気に入ったのだと思います。私から見てももう二人は普通に友達みたいな関係に見えましたから」
「そんなに親しくなれたのかなぁ・・・?確かに作品を拝見したいというお願いはきいてくだいましたし、思っていたよりも気さくに話して下さったとは思うのですが・・・」
「一度しかお会いしてませんが、勝男さんはきっと画廊のお仕事に関してはとても凄い方なのだとは思います。でも、ヒカルさんのようにあんなにすぐトーリくんと打ち解けて友達みたいな感じになれるかどうかはわかりません。勝男さんはトーリくんからみても年上の方ですから気を遣うでしょうし、トーリくんはもともと人見知りなところがあるので勝男さんがヒカルさんと同じかそれ以上に打ち解けて仲良くなるのは難しい気がします」
「それはそうかもしれませんが、勝男さんは画商の仕事で長年培ってきた経験がありますからね。仲良くなるというやり方とはまた別の方法というか、勝男さん流のアプローチで交渉にあたるのではないでしょうかね」
「私は・・・次にまた交渉に来ていただけるのでしたら、勝男さんよりもヒカルさんにもう一度来ていただいたほうが上手くいくような気がするんです」
「勝男さんではなくもう一度私がチャレンジするのですか?」
「はい・・・なんか、そのほうがうまくいくような気がするんです・・・」
「いや、そんなにも私を買ってくれていることはとても嬉しいのですが、勝男さんに出来ないかもしれないことを私がやれてしまうなんてとても思えないんですよね・・・」
「ヒカルさんは勝男さんのことをとても尊敬されてるんですね。でも、勝男さんよりヒカルさんのほうが向いていることは色々あると思いますし、トーリくんとの交渉はまさにそれだと思うんです私は・・・」
「いやぁ・・・私のほうがこの交渉に向いているなんてことあるのかなぁ・・・?」
「別に勝男さんではダメだとか、そういうことではないんです・・・もし勝男さんが上手くトーリくんの心を開いて交渉を成功に導いてくださるならそれでもいいとは思います」
「それでも次も私が来たほうが交渉成立の可能性は高いと思っているのですか?」
「はい、画廊のお仕事の経験値を比べたら勝男さんのほうがはるかに高いのかもしれません。でもヒカルさんはもう既にトーリくんの心に入り込んで友達になれているのだと思います。それも交渉の技術とかではなくて、すごく自然な感じでそうなれていると感じるんです。だから、トーリくんの考えに影響を与えることが出来そうな人という意味ではヒカルさんが一番適任者だと思います」
「実を言いますと、確かに事前に想像していたよりも通さんと打ち解けられたような感触はあるといえばあるんです。しかし、私が通さんの心を動かして考えを変えさせることが出来るほどの存在にまでなれているかというと、正直言ってそこまでではないと思うのですがねぇ・・・」
「私、この間ギャラリーオーシャンで勝男さんとお話したときにトーリくんの性格について、人見知りをすることとかもちょっとだけお伝えしたんです。もしかしたら、それを踏まえた上でトーリくんとの交渉するのはヒカルさんが一番適任だと思って指名されたのではないかとも思うんですよ」
「え、まさか・・・さっきは伯父と甥の関係ということもあってある程度信用されているとは言いましたが、私が一番上手くやれそうだとまで思ってもらえてるかどうか・・・」
「勝男さんはきっとそう思われてますよ。今日のヒカルさんのお仕事ぶりを見させてもらって私はそう確信しています」
姫乃は少々自分のことを買い被り過ぎではないかと思ってしまうヒカルであった。仕事ぶりを評価してもらえていることは嬉しいが、現に交渉は失敗に終わっているので申し訳ないという気持ちのほうが勝ってしまうし、何だか気恥ずかしい。
「いや、実を言いますと・・・ギャラリーオーシャンには私よりもずっとベテランのスタッフも何人かおりますので、その人たちを差し置いて自分が一番適任者だとはとても思えないのですよ」
「ヒカルさんもお気づきだとは思いますが、トーリくんはちょっと変わり者ですから、経験だとか交渉の技術だとかが通用しないみたいなところがあるんです。だからやっぱりベテランだから適任とかではなくて、トーリくんと心が通じそうな人が一番適任者だと私は思うんです!」
川上通という人はちょっとどころか相当の変わり者だろうと思ったがそんなことは正直に言えなかった。それに自分が通と心が通じ合っているのかどうかもよくわからない。
今しがた画廊のスタッフには自分よりベテランの人もいることは伝えたが、正確に言えば画廊のスタッフとしては自分が一番経験が浅いスタッフなのである。今更そんなことを白状出来ないのであるが、姫乃が自分に対して過度な期待を持ってしまうと結局何も出来なかった場合に失望が大きくなる可能性が高いので、後々そうならないようにある程度予防線を張っておかねばとヒカルは思った。
「こんなことを言っては何ですが・・・通さんに限らず芸術家というのは少々変わり者な人が結構多いようなので画廊のスタッフはそういう人との向き合い方はそれなりに心得ているとは思うのですが・・・まあ人間同士のことなので性格が合わなかったりどうしても折り合いがつかない相手だったりすることはあるでしょうね。そういう意味では今日私は通さんとそこそこコミュニケーションはとれた気がしますし、それなりには信用してもらえているくらいの相性の良さはあったということなのでしょうかねぇ・・・」
「そう思ってもらっていいと思います。トーリくんとはいとこで付き合いが長い私が保証します」
「それでも、そこそこ相性が良いくらいでは通さんの気持ちまでは変えられない可能性が高いと思います。この先も私に出来ることは精一杯やらせていただこうかとは思っていますが、期待にお応え出来るかどうかはわかりません」
「ヒカルさんは相手にとても安心感を与えられる人なのだと思います。トーリくんはそう感じたと思いますし、私もそうですよ。だから、ヒカルさんならトーリくんを説得出来そうな気がするんです」
「安心感ですか・・・どんな交渉にあたる場合でも相手に警戒感を与えては上手くいかないと思いますので、最低限のレベルはクリアできたのですかねぇ・・・?」
「トーリくん相手の交渉の一回目としては、きっとヒカルさんご自身が思っているよりも今日はかなり上手くいったと思うんです。ヒカルさんもお忙しいと思いますしトーリくんにも少し考える時間があったほうがいいと思うのですぐには無理だとは思いますが、またもう一度トーリくんのことを説得しに来てもらえないでしょうか?」
予防線を張ってはみたが、やはり最終的には自分にもう一度来てチャレンジしてほしいとお願いされてしまった。「交渉の一回目」と表現しているあたり、二回目・三回目も当然あると想定していたようである。通と付き合いの長い姫乃にしかわからないような手ごたえを今回の交渉で感じたのかもしれないが、ヒカルにはそのような実感がないので次なら交渉を成立させられるという自信もない。
だから姫乃がなぜこうもヒカルなら次こそはいけそうだという勝算を口にするのか正直理解に苦しむほどであった。
「それはですね・・・勝男さんがどう考えているのか、次に私にどういう指示をしてくるのか、それ次第ですかね・・・」
「勝男さんの考えですか・・・?」
「はい、勝男さんのことですから今日私が交渉に失敗した場合のことも既に考えているのだと思うのですよ」
姫乃はギャラリーオーシャン側が懲りずにまた積極的にアプローチしてくる前提で考えているようなのだが、ヒカルはそれすらどうかわからないと考えていた。
まず第一に、そもそも勝男が川上通の作品を画廊で扱うことにある程度執着していて一度断られたくらいではあきらめないと考えているかどうかが重要なのである。そこまで執着していなければもうこれ以上は交渉を続けない可能性が高い。その場合、勝男自身や他のベテランスタッフはもちろんだが画廊でさほどの戦力になっていないヒカルにさえもう交渉には来させないであろう。
勝男が一たび手を引くと決めたら完全に交渉は終了する。画廊にとってカリスマ的存在の代表である勝男が決定したときの組織の動きとはそういうものなのである。
他の画廊であれば誰か一人のスタッフが個人的に一度交渉決裂した作家とのつながりを持ち続けて次のチャンスを伺うなどということもあるのかもしれないが、ギャラリーオーシャンのスタッフに関してはそういう選択はしない。良くも悪くもスタッフ全員が勝男の指揮に忠実に従うのである。
傍から見たら勝男のワンマン経営のようでもあるが、どちらかというと実際のところは勝男に近い価値観や考えを持つスタッフばかりが働く画廊なのでそもそも彼に対する反対意見がほぼ出ない組織なのだ。
そういうわけで画廊にとって重要なことはほとんど勝男が決定して皆がそれに従っている感じであるのだが、そういう体制に息苦しさや不満を感じているスタッフはいないのである。
ただそれは、逆にいうと勝男がとても川上通の作品に執着していてどうしても画廊で扱いたいと切望している場合は手段を選ばずというと言い過ぎになるが可能な限りのあらゆる手段を使って交渉を成立させようとするわけであり、そのためならば自らが積極的に行動することも辞さないのである。
海野勝男という人は一たびこうしたいと決めたらそのように徹底的にやる人であると甥でありそれこそ付き合いの長いヒカルにはよくわかっていた。
「勝男さんが自分でいくと決めたら私が名乗り出ても自分がいくのだと言うでしょうし、ここはしばらく様子見をしようと決めたら私が再びチャレンジしたいと言っても勝男さんからのOKが出るまでは勝手に動くことはできなくなるでしょうから・・・」
「そうなんですか・・・でしたら、私のほうから勝男さんにもう一度ヒカルさんに来ていただけるようにお話してもいいですか?」
「えっ・・・いやぁ、それには及びません。基本的には私自らが申し出たほうが、やる気があることを汲み取ってくれるでしょうし、とりあえずは様子見などせずに交渉を続けるという前提で考えておいて私がもう一度チャレンジしたいと直訴します。特に時間が限られている交渉ではないですし、勝男さんも忙しい身ですからもう一度くらいは私にやらせてくれるとは思いますので・・・」
姫乃から勝男にそんな話をされてはややこしいことになりかねないと直感的に感じたのでヒカルはすぐさま断って自分のやる気をアピールすることで誤魔化そうとした。通本人ではなく姫乃からまたヒカルにきてほしいなどと言わせると勘の良い勝男のことなのできっとこちらに何らかの思惑があると察してしまうに違いないと思ったのだ。
実際にはヒカルは別にそもそもはどうしても自分が再チャレンジしたいなどとは思っていなかった。だから姫乃を使ってまた自分を来させるように仕向けようなどとも思ってはいない。それなのにあらぬ疑いをもたれてしまうのは嫌だった。
そして、もし勝男自身が交渉に乗り出す気満々であった場合に姫乃から次も勝男ではなくヒカルに来てほしいなどと言われてしまったら、そんなことくらいでプライドが傷つくところまではいかないにしても多少気分を害されたりが複雑な気持ちになったりはするかもしれない。
どちらにしてもあまりよろしくない結果になってしまいそうであるし、その結果を受けて勝男がどんな行動をとるのかも予想できないので少し怖い。何にせよおかしな展開になってしまう可能性が高いので、姫乃の口からまたヒカルに来させてほしいと言わせるのは無しだと思った。
「では、再チャレンジしたいと勝男さんに直訴して下さい。期待して待っていますので!」
「あ、はいっ・・・頑張ります・・・・・・」
仕方なく姫乃のお願いをきいて自分から再チャレンジしたいと直訴することになってしまった。今日は終始通や姫乃のペースで事が進んでいる気がする。交渉事は自分が主導権を握らなければ思うようにいかないものであろうが、今日のヒカルはまったく逆で常に相手にペースを握られっぱなしなのである。
「どうでしょう?私の絵はヒカルさんの趣味に合いましたでしょうか?」
二人が再交渉の話をしていたところにアトリエの整理を終えた通が声をかけてきた。
「ええ、どれもお世辞抜きで本当に素晴らしい作品ばかりです。何と言いますか、見ていて心が癒されるような温かみのある作品ばかりだと感じます」
もし思っていたほど良い作品でなかったとしても描いた本人を前にして間違っても「何かいまいちでした」などとは言えないのだが、ヒカルは本当にお世辞抜きで心から素晴らしいと思っていたのでそれをそのまま伝えた。
「そうですか、気に入っていただけましたか。それは良かったです、ヒカルさんにそう言っていただけると私もとても嬉しく思いますー」
「私はもともと風景画が好きなのですが、まさにドンピシャで好みのタイプの絵ばかりなのですよ。通さんの作品のように一見シンプルに描かれているようでじっくり見ると実に深みがあることに気づかされるような作品は結構ありそうで実は意外とありませんからね。急に作品を見せて欲しいなどと無理を言ってしまいましたが、やはりお願いして良かったと思っています」
「気に入っていただけたのでしたら良かったです。確かに私の絵はほとんどデフォルメなどせずに基本見たままを描いていますからシンプルであるとは思います。そこに深みがあるのかは自分ではよくわからないのですけどね」
褒められて少し照れくさいのであろうか、表情はまんざらでもないといった感じで嬉しそうなのだが、通はちょっと遠慮気味に自らの作品を評した。
「いや、シンプルな作品や写真のようにリアルに風景を描いている作品は割とあるのですが、そういう作品は上手く描けているかもしれないけど深みと言うか趣がそれほど無かったりするものがほとんどのような気がします。しかし、通さんの作品は見ていて何かを感じさせられるというか、通さんが表現しようとしている何かが伝わってくるような作品ばかりです。そういう作品はただ上手く描ける技術があるだけでは生み出せないのだと思います」
「何かを感じる」だとか「何かが伝わってくる」だとか「何か」ばかりで実は抽象的なことしか言ってないのであるが、ヒカルの知識ではこういう感じの表現するところまでが限界なのであった。しかし、それでも通の作品を見て自分が感じたことを精一杯の言葉で伝えたわけである。
「ヒカルさんは直感や洞察力が鋭い方なのでしょうね・・・そういう人に私の絵を褒めていただけるのはとても嬉しいものです~」
「いやぁ、私なんか・・・知識でも洞察力でも長年積み上げたキャリアがある勝男さんなどには遠く及ばないですからね。しかし、その勝男さんも通さんの作品に大変心を惹かれているわけですから、通さんの作品は間違いなく優れた作品なのだと思います」
「そんなに褒めていただいたら何だか照れてしまいます~。私はただ絵を描くのが好きだから描いているだけなのです。しかし自分の絵を誰かに見ていただいて、そしてこうやって褒めていただくというのはですね、やっぱりとても嬉しいものですね」
通は本当に嬉しそうな様子でそう語っていた。欲が無いのかどうかはよくわからないが、この川上通という人物は好きな絵を好きなように描いて、そしてそれを褒めてもらえでもしたらもうそれだけで充分満足なのかもしれない。
自分の作品が高く売れるだとか有名になるだとか、そういうことにはほとんど興味が無いのかもしれない。そうでもなければ画廊の方から作品を扱わせてほしいと申し出て来るなどというこんな滅多に無いであろういい話を断ったりしないであろう。
「しかしですね・・・私、一つ思ったことがあるのですが・・・」
「ほう、それはいったい何でしょうか?」
「画廊に置かせてもらうということは叶いませんでしたが、通さんの作品が画廊でなくても美術館などに展示されるですとか、そこまで大きな施設でなくてもどこかそれなりの広さがある場所で通さんの作品展が開かれるですとか、そういった展開があれば素晴らしいなと思いました。作品を売りに出すのではなくて、そういう形で展示されるのであれば、
通さんも別に嫌ではないのですよね?」
「ああ、そうですねぇ・・・そんなことが実現出来たら、それはもう素晴らしいことだと思います~。しかし、正直言いましてそれは夢みたいな話でそう簡単には実現しないと思いますねぇ・・・」
「確かに簡単なことではありませんよね・・・作品展を開くのは美術館に展示されるよりかはまだ現実味はありますが、それでも簡単ではないでしょうね。しかし、これだけたくさんある通さんの素晴らしい作品たちが公に展示されて多くの人に見てもらえるなどということがいつか実現されたらいいのになぁと、ちょっと想像してみただけでもなんかワクワクするのですよ私は・・・」
「そうですねぇ、それは私もワクワクいたします~!」
「このような素晴らしい作品を多くの人に見てもらうということは大変意義のあることだと思います。一人で静かに鑑賞するのも良いですし、いま私が姫乃さんとしていたようにお客さん同士で作品の感想を述べあうのも良いですし」
「ああ、そのように楽しく鑑賞していただけたら私も嬉しいですよ!」
「今日このアトリエで作品を鑑賞させていただいたのはとても楽しかったです。先ほど申しましたようにこの部屋中に大量の作品が詰め込まれているような感じもそれはそれでとても雰囲気があって良いとも思いました。しかし、このアトリエにたくさんのお客さんを招くというのはさすがに無理があるでしょうから、どこかで通さんの個展を開くことが出来たら素晴らしいですよね・・・」
「それはそうなんです!ここに多くのお客さんを招き入れることは正直不可能なのであります。そして実は、個展を開くことは昔から持っていた私の夢の一つなのですよ」
「それはほとんどの画家の方がお持ちになっている夢なのだと思います。これだけ多くの作品を描かれた方であれば尚更なのでしょうね・・・」
「しかし、個展を開くのは大変なのです。きっとお金もさぞかし掛かるのだと思いますしねぇ・・・」
「ああ、それは確かにね・・・正直、コネとかお金とか、色々と必要みたいですね」
「私には個展を開くことが出来るような財力も人脈もないのです。先立つものが無い以上は、夢は夢のままでしょうかね・・・」
通は小さく笑いながら自嘲気味にそう言った。その微笑みはヒカルには少し寂しそうにも見えた。
「まあ、こんな私の作品で良ければ好きなだけご覧になっていって下さいな」
「ありがとうございます。ではもう少しだけ・・・」
ヒカルはまた作品の鑑賞を始めた。通とヒカルの会話を横で聞いていた姫乃も同じくまた作品鑑賞を再開していた。
「本日は本当にありがとうございました。とても勉強になりましたし、仕事とかではなく純粋に絵画鑑賞を楽しめました」
「そうですか、それは何よりです。そのように言っていただけると私としましても大変嬉しく思います~」
作品鑑賞を終えて川上通宅を後にしようとしているヒカルを通と姫乃が玄関先で見送ってくれていた。
「ヒカルさん、またいつでも来て下さいね!いつでも歓迎しますから」
「おいおい、ここは姫ちゃんの家じゃないんだからね・・・でも、私も大歓迎いたしますので、またいらして下さいな」
「ありがとうございます。ではまたいつか・・・」
「じゃあトーリくん、私も帰るね」
「もう暗くなってきたから家まで送っていくよ」
「大丈夫だよ、家はすぐ近くなんだし一人で帰れるから」
「いや、送っていくね。もし帰り道に姫ちゃんに何かあったらおじさんやおばさんに申し訳が立たないからね!」
「もう子供じゃないし、本当に大丈夫なんだけどな・・・それに家に帰る前にヒカルさんをまた駅まで案内しないといけないし」
「なら、僕も一緒にヒカルさんを駅までご案内して、それから姫ちゃんを送っていくよ」
「いえ、それには及びませんよ。今日だけでもここから駅まで続く道はもう何回も通りましたので覚えてしまいました。駅までは一人で迷わず行けますから大丈夫ですよ」
「それでもヒカルさんはお客様なので駅までお見送りしないといけません。トーリくんもお見送りしたいなら一緒に来てくれてもいいけど」
「いえ、もうここでこうやって見送っていただいているだけで充分ですよ。それよりやはりもう暗くなってきたのでこのまま姫乃さんを家まで送って差し上げてください。私は本当に大丈夫ですので」
「そうですか・・・?すいませんね、それではここでお見送りさせていただきます・・・気をつけてお帰りください」
「ありがとうございます。お二人もお気をつけて・・・」
「本当にまたいつでもいらして下さい~」
「はい、またいつか・・・それでは失礼します」
ヒカルは玄関先で二人に別れを告げて駅の方へと歩き出した。二人はヒカルとは違う方向へ歩いていった。姫乃の自宅は通の家から駅までの間にはないらしい。駅までの見送りは断って正解だったとヒカルは思った。
わざわざ家とは違う方向に送らせるのは申し訳なかったし、もし駅まで送ってもらっていたら二人と何か会話をしていたであろうがヒカルとしては、今はちょっと一人でいろいろ考えながら歩きたい気分であったのだ。
「とりあえず今日の仕事は終わったな・・・初仕事終了だけど、出来れば交渉を成功させて終わりたかったな・・・」
自ら志願したわけでもなくどうしてもやりたかった仕事というわけでもなかったのだが、やはり上手くいくに越したことは無いし、姫乃の願いも叶えてあげたかったので交渉が上手くいかなかったのは残念であった。それに勝男から任されたこの仕事を見事クリアできていたらいまいち画廊の戦力になっていなくて肩身の狭かった状態から脱却できたかもしれなかったのだが、そのチャンスも逃してしまったのだ。
「でもなぁ・・・ああいう考え方の人なんだから、それはどうしようも無かったよな。他人の考えを変えさせるなんて、そう簡単に出来るもんじゃあないからな・・・」
何がいけなかったのかを考えていて、細かい反省点はいくつか思い当たったのだが交渉を失敗させるような決定的な失敗をしたということも特に無かった気がするのだ。
通はそもそも乗り気ではなかったようだし、その理由も解決が困難なことであるので本当に下手をすれば勝男が交渉に来ていても結局上手くいかなかった可能性のほうが高いようにすら思えるのだ。
「まあ、誰が交渉に来ていたとしても一回目で即決なんてことはないだろうな・・・姫乃さんからは次またチャレンジしてほしいと言われたが、どうしたもんかなぁ・・・?」
もし気が変わったらすぐに、お気軽にご連絡を下さいくらいのことは言っておくべきだったのかもしれないのだが、何となくあの場の空気的に少ない可能性に賭けて一応言っておくかみたいな、そんなとりあえずみたいな発言もしづらかった。
それに、そのような軽い発言をしてしまったら次に来た時に「やはりどうしても通さんの作品を扱わせていただきたい」と画廊側の本気を示してもやや説得力が無くなってしまいそうな気がしたのだ。
ましてや再交渉に訪れるのが勝男だった場合のことを考えたら再交渉の邪魔になるようなことをうかつに言うわけにはいかない。そういう余計な発言は極力慎むのが正解であろうと思えたのだ。
「もしかしたら、次また俺がチャレンジしたら案外上手くいくことだってあるかもしれない。でも、その場合は俺でなくてもスタッフの誰が来ても上手くいくパターンなのだろう」
ヒカルはなぜか仮に自分が再交渉に挑んで成功したとしても問題が生じるかもしれないみたいな余計なことまで考え出してしまった。
「俺の実力でどうにかしたわけではなくて本当にただ向こうの気が変わってたまたま交渉が成立したとしてだな・・・その成功したという結果だけを見た勝男さんから俺に意外と交渉の才能があったみたいに思われて、それで今後また同じような交渉の仕事をどんどん振られたら、それはそれで正直いってしんどいよな・・・」
捕らぬ狸の皮算用ではないが、上手くいった場合でもそれで評価が上がるというプラスの面についてよりその後また今回のような難しい交渉の仕事を振られてしまったらしんどくて嫌だというマイナス面のほうが気になってしまうということなのだ。
こんなことを心配してしまうのは仕事に対してポジティブではないというか、何か新しい仕事を与えられてそれに挑戦している状況下においてはっきり言ってあまり感心できない考え方といえるであろう。
それを心の中で思っているだけでなく表面に出してしまったら職場での評価はむしろ完全に下がってしまう。しかし、逆に言うと自分に正直であるという見方もできるし、今後もまた自分には向いていない仕事を引き受けて結局実力不足で上手くいかないという結果になってしまったら画廊に迷惑をかけてしまうことになるのだ。
そのような事態に陥るのを危惧しているからこそ責任のある難しい仕事を避けたいと思っているのだとも言える。
引き受けるからにはその仕事はしっかりこなさないとまずいというある意味そういう責任感を一応もっているが故に出来ない仕事を簡単に引き受けるべきではないというややネガティブともいえる思考に陥ってしまうヒカルなのであった。
「まあ、なにせ今日のこの結果は勝男さんに報告しなければいけないし、自分に再チャレンジさせてほしいと直訴できるかどうかもその時の勝男さんの反応次第みたいなところがあるからな・・・」
そんなことを色々と考えながら歩いているうちに駅に着いてしまった。
「勝男さんは直帰してもいいと言っていたが・・・やっぱり今日中に直接会って報告したほうがいいだろうな・・・」
ヒカルはそのまま帰宅せずに画廊へ向かうことにした。
画廊に到着したヒカルは勝男を探した。
「すいません平野さん。いま帰ったのですが、勝男さんはどちらにいますかね?」
「ああ、お帰りなさい。今は一人で社長室にいらっしゃるわ」
社長室とは言ってもせいぜい八畳くらいしかないような大して広くない普通の部屋なのだが、勝男が一人で事務作業などを行う時にはそこを使うのである。
「ありがとうございます。今日の仕事の報告なのですが、いま行っても大丈夫そうですかね・・・?」
「そうね・・・たぶん大丈夫だと思うけど・・・」
「では行ってきます・・・」
もし勝男が忙しそうなら報告は明日にしようと思っていたが、タイミングは良かったらしい。
「ん?待てよ・・・」
ここでヒカルはあることに気づいた。
「勝男さんはどんなに話が早く終わっても直帰していいと言ってたけど、それって交渉が成功しても失敗してもどちらの場合でもそうしていいってことだよな・・・直帰するにしても一応結果についてはメールくらいするつもりだったが、もし成功してたらその後の契約とかの段取りなんかを決める必要があるから、普通は当然その日のうちに直接報告に行くよなぁ・・・」
実際には交渉は失敗に終わったので今日のところは結果だけメールか電話で伝えて詳しい報告は明日にしてもよいくらいなのであったが、仮に成功していた場合は交渉を終えて現場を去ったその足で直接報告に行くのが自然であろう。
その場合、おそらく気持ち的にも成功したことを早く報告したくて仕方ない感じになっているはずだ。それをわざわざ明日まで我慢するというのもよくわからない話である。勝男が忙し過ぎて時間がないので詳しい報告は明日にしてくれということなら仕方ないが、別にそういうわけでもない。
勝男なら次の日の自分の仕事がどのくらいのレベルの忙しさなのかはだいたい事前に予想できるのだと思われる。よって報告は明日でよいので直帰して構わないという指示を出したのは勝男が多忙であるからという理由ではないはずである。そうなると結果が成功・失敗どちらであっても直帰してよいと事前に言ったことについては今になって考えるとやはり少々違和感があるのだ。
「もしかして・・・勝男さんは今日の俺の交渉は十中八九上手くいかないだろうと見越していたのだろうか?交渉が失敗した場合の報告なんか明日でも良さそうだし、どうせ上手くいかないだろうから別に報告は急がなくてもいいぞというつもりで今日は直帰しても構わないと言ったのかな・・・?」
初めての仕事で、それも割と急に振られたということもあるので上手くいかない可能性のほうが高いと思われてしまうのは仕方がないし、正直ヒカル自身もそのように思っていたのである。変にプレッシャーをかけられるよりは気楽でいいとも思っていたのだが、最初から勝男にほとんど期待をされていなかったのかと思うとやはりちょっと複雑な気分である。
本当に勝男は自分に全く期待をしていなかったのかを確認するのもちょっと嫌だったが、勝男の真意を推し量るための材料があるわけでもないし、勝男がそんなに単純な性格ではないこともわかっていた。だから自分は甥であり付き合いは長いがそれでも勝男の考えていることを完全に理解することは困難というか不可能であるということもよくわかっている。
なので、自分は期待されていないのか、そうでもないのか、結局のところ真相はやぶの中であった。
ヒカルはこういうことを考え出したら気になってしまって仕方がない性格なのであった。しかし、今そんな事をくよくよ考えてみてもどうしようもない。実際に仕事は失敗してしまったわけであるし、その結果を変えられるわけでもないのだ。
社長室のドアの前まで来たヒカルはノックして中に声を掛けた。
「失礼します。月ですが、只今戻りました。本日の報告をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
勝男が中からそう返事したのでヒカルは少し控えめな感じで入室した。
「帰りはもう少し早いかと思ったが、結構遅くなったな」
それはどっちの意味なんだ?とヒカルは勘ぐってしまった。交渉が順調に進んでいればもっと早く終わっただろうという意味なのか、それともすぐ失敗すると予想していたのでもっと早く諦めて帰ってくるかと思っていたという意味なのか、どちらともとれた。
そして、実際のところは帰りが遅くなった理由は主に二つあった。行方不明になった川上通の捜索をせざるを得なくなったことと、交渉が失敗に終わった後も勝男の指示に従って川上通の作品を鑑賞させてもらっていたことだ。交渉の結果だけでなくそのあたりの経緯も説明せねばなるまいとヒカルは思った。
「ちょっと、色々ありまして・・・こんな時間までかかってしまいました・・・」
「で、交渉の方はどうだった?」
「すいません、結果は失敗です。川上通さんに断られてしまいました・・・」
「そうか、それは残念だが・・・まあ仕方あるまい。双方ともにこういう交渉は初めてだったわけだから、簡単に交渉成立するほうが珍しいくらいだろう」
やはり勝男は上手くいかない可能性が高いと思っていたようであったが、先ほどヒカルが想像していたのとはややニュアンスが違う感じの言いぶりである。どうせ失敗するだろうと最初から一ミリも期待していなかった感じではなさそうだ。そもそもそのように考えていたとしたら、なぜヒカルに交渉にいかせたのかちょっと意味が分からない感じになってしまう。一応少しは期待も持ってくれていたらしい。
「もう少し詳しく説明させてもらっていいですかね・・・?」
「ふむ、聞かせてもらおうか」
ヒカルは今日一日の出来事について順を追って勝男に話した。その中で川上通がどういう考えをもっていてどういう行動をとる人間であるのかも説明した。
見苦しく失敗した言い訳をするつもりは無かったが、次は勝男が直接交渉に赴く可能性もあるのでそう簡単な相手ではなかったことは知っておいてもらったほうがよいと思ったのだ.そして、通に断られた理由まで説明すると、一応自分が再チャレンジしたいということも伝えた。
勝男はヒカルの説明を聞くだけで特に何も言ってこなかったので再チャレンジを直訴してみても大丈夫だろうと思えたのだ。
「姫乃さんがおっしゃるにはもう少し交渉を続ければ何とかなりそうな感じらしいのですよ。実は、僕自身の感触としてもそれほど悪くはありませんでした。何せまたいつでも作品鑑賞に来てくれと言ってもらえたくらいですから。ただ、やはりネックになるのは通さんとしては転売や投資が目的の購入者には売りたくないと思われてますので、そこをどうするかですね。出来るだけ通さんのご希望に沿いたいとは思いますが、当然それにも限界はありますから、そのあたりの折り合いがつけられるかどうかだと思うのですけど・・・」
「そうか、再交渉か・・・」
勝男はぽつりとそう呟くと数秒無言になって何かを考えていた。そして再交渉をすることについてイエスかノーかというヒカルが待っていたような返答ではなく少々意外な方向に話題をふる感じの質問を返してきた。
「なあ月よ、川上通氏の作品をいくつか見せてもらって、お前はどう感じたんだ?」
「え、どう感じたか・・・ですか・・・?」
「そうだ、作品を見てどう感じたのかだよ」
話が交渉についてではなく川上通の作品に対する感想のことになってしまったのでやや意表を突かれた感じになってヒカルは戸惑ってしまった。
「それは・・・僕なんかの感想で参考になるのでしょうか?僕はまだまだ絵画とか芸術についてぜんぜんわかっていないような人間だと思うのですけど・・・」
「そんなことは別に構わないから、絵を見て感じたことをただ素直に言ってみればいい」
「じゃあ・・・感じたことをそのまま言いますね・・・僕は抽象画とか難しくてわかりにくい絵が苦手なんですけど、通さんの絵はどちらかというと写実的でしかも風景画が多かったので色々難しいことを考えながら見なくてよかったので、ストレスなくというか、楽しんで鑑賞出来ました」
「ほう、仕事抜きで作品鑑賞を楽しめたということか?」
「はい、僕はそもそも風景画が好きだということが大きいとは思うのですが、川上通さんの作品は僕好みのものばかりでしたね。なんというか、余計な作意を感じさせないというか、とにかくとても素直でストレートな感じの作品だと感じました」
「なるほどな・・・そういえば、確かにお前は子供の頃に画廊に遊びに来ていた時も風景画を好んで見ていたな」
「そんな昔のことをよく覚えてますね。しかし、ほぼ素人の僕の感想なんかで大丈夫ですか?参考になるんでしょうか・・・」
「ああ、大丈夫なんだよ。俺はお前という人間についてはかなりよくわかっているつもりだ。何せお前が生まれた時からの付き合いだからな」
「それは、まあそうですよね・・・」
ヒカルも自分が物心をつく前のことは覚えていないが、勝男はずっとヒカルの一家のすぐ近所に住んでいて、生まれてすぐの頃のヒカルと一緒に写っている写真を何枚か見たこともあるので勝男の言っていることに間違いはないはずである。
「そのお前がどのように感じたのかを聞けたらそれで充分なのだよ。まあ、彼の作品の写真は姫乃さんからいくつか見せてもらっているしな」
「なるほど、そういうものですか・・・それで、どうなんですか?川上通さんの作品は画廊で扱うのを諦めてしまうのは惜しいくらいの良い作品なのでしょうか?」
「ああ、そうだな。諦めることはない。お前もそう思っているのだろ?」
「はい、そう思ってます。では、再交渉をさせていただいてもよいということでしょうか?」
「いや、そういうことではない。それはちょっと待て」
「それは・・・僕では駄目ということですか?次は他のベテランスタッフか、もしくは勝男さんが直接交渉に出向くということでしょうか・・・?」
「いや、そういうことでもない。お前からの報告を聞いて思ったが、少し様子を見てもいいんじゃないかと思うのだよ」
「様子を見るのですか・・・通さんに少し考える時間を持ってもらったほうがいいということでしょうか?少し時間を空けてから交渉に行ったほうが上手くいく可能性が高くなりそうなのですか?」
「まあ、そういうことなのだが・・・相手の反応次第だな。全く反応がなければタイミングを考えてこちらから再交渉に出向かねばなるまいが、反応があるまで少し待ってみたほうがいい。今はお前が投げたボールを向こうが持っている状態なのだ。どういうボールが返って来るのかを待つというのもある意味交渉のうちだからな」
「ということは・・・そもそも交渉はまだ続いているということですか?だから再交渉について考えるのはまだ早いと?」
「そんなところだな。ひたすらプッシュするのではなく相手の出方を待ってみるとか、そういう駆け引きみたいなものも交渉術の一つということだ」
「わかりました・・・ではちょっと様子を見ますが、少し時間を空けさせてもらうということは姫乃さんには伝えても大丈夫でしょうか?さっきも言いましたが、姫乃さんはもう一押しすればなんとかなるかもと思っていて再交渉を熱望されていましたので・・・」
「うむ、そうだな。彼女には伝えておいてくれて構わんよ。ただし、このことは川上通氏には伝えないようにと一応口止めをしておいてくれ。まあ彼女なら大丈夫だとは思うけどな」
「わかりました。後で連絡しておきます」
「報告ご苦労だった。今日はもう帰ってもいいぞ」
「はい、ありがとうございます。それでは失礼します」
帰り道にコンビニに立ち寄り少し買い物をした後に駅前まで行ってベンチに腰掛け一服したヒカルは再交渉の時期についてその場で姫乃に連絡することにした。
「姫乃さん、がっかりしないかな・・・?もしくは、業を煮やしてまた一人で強烈に売り込みに来たりしないだろうか・・・」
そのような不安もあったが、しばらく様子見すると勝男が決めた以上ヒカルとしてもそれに従うしかなかった。
「姫乃さんからしたら期待はずれな回答になるんだろうけど、連絡は今日中にしておいたほうがいいだろうな・・・」
姫乃が最初に画廊に来た時に勝男と連絡先を交換したのだが、その時に勝男の代行で交渉に行くヒカルの分まで一緒に交換していたのだ。待ち合わせ時に必要になるかもしれなかったのでヒカルも姫乃の連絡先は知らされていたのだが、結局待ち合わせの時はスムーズに出会えたので連絡するのは初めてということになる。
ヒカルは仕方なく姫乃にとって少々残念であろうお知らせを伝えた。
「・・・ということで、通さんに少し考えていただく時間をもっていただこうということになりました・・・」
「そうですか、ちょっと残念ですが、勝男さんがそうお考えになったのでしたら仕方ないですよね・・・」
「あくまで少し時間を置くだけですから、交渉延期ではありますが中止ではありませんのでね。それに、勝男さんいわく今の状態でも交渉は続いていると考えてよいそうですから・・・」
「それを聞いてちょっと安心しました。それで、時間を置くというのはどれくらいの期間なのでしょうか?」
「とりあえず、また通さんにご連絡を差し上げるのは・・・まあ、一週間ほど時間を空けてからですかね・・・」
「わかりました。では、言われたとおりこのことはトーリくんにも伝えずお待ちしますので、一週間後くらいにまたご連絡下さい」
「はい、必ずご連絡を差し上げますので安心して下さい」
やはり少し残念がってはいたが、時間を空けることは姫乃も何とか了承してくれた。
これで業を煮やしてまた猛烈に売り込みに来ることはたぶんないであろう。一週間ほど時間を置けば勝男の言ったように通から何らかの反応が返ってくるかもしれないというのは正直ヒカルとしては半信半疑であったが、とりあえずはいったんこの交渉は延期ということで、明日からは平常業務へと戻ることになった。
今日はその平常業務の時の帰宅時間よりはかなり遅い時間になっていた。そして時間が長くなったことよりも慣れない仕事を頑張ったことでいつもより心身ともに疲れてしまったヒカルであった。
「はぁ・・・さて、これでやっと帰れるな・・・」
そう呟きながらベンチから立ち上がると、ヒカルは帰途に就いた。
それから一週間くらいたったある日、突然事態は動いた。
「えっ!通さんが訪ねて来られたのですか・・・?」
その日は、ヒカルは休日明けの出勤であったのだが、出勤してすぐに前日にこのギャラリーオーシャンをあの川上通が訪れたと先輩スタッフの平野さんに聞かされたのである。
よりによって自分が休みで不在の時に突然訪ねて来るなんて思わず「なんてことだ!」と口に出してしまいそうになったくらい驚いて狼狽したのだが、よく考えてみたらそういう行動をするのはいかにも彼らしいと思えてきて少し冷静さを取り戻した。
「しかし、せめて来る前に連絡してくれたらよかったのに・・・いや!違うな・・・俺は通さんとは連絡先の交換をしてなかったんだった。そして、姫乃さんからも連絡がなかったということは、彼女にも知らせず急に思い立って訪ねてきた感じなのかな・・・・・・・?」
なぜ川上通が事前に知らせずに自分が不在の日に訪ねてきたのかはだいたい理解できた。
連絡の仕様が無かったのだから仕方がない。正確には姫乃を通せば連絡がつくことくらいはわかっていたのであろうが、このあいだ河川敷にスケッチに行っていた時のように急に思い立って行動する場合はわざわざ姫乃に知らせることはしないようであるし、たぶん彼は性格的にヒカルが休みで不在かもと考えて画廊を訪ねる前に何らかの方法でそれを確認するみたいなこともしなさそうに思えた。
そして昨日来たのはおそらくたまたまであろう。ヒカルが休みの日だと知らずにたまたま思い立って昨日来たのだろう。だからそれはもう仕方がないことなのである。
「それで、川上通さんは今日また来られるそうよ」
「えっ、今日も来られるのですか?」
「ええ、確かそのはずだけど」
再交渉するための絶好のチャンスを逃してしまったかと思ったら、なんと今日またすぐにそのチャンスがあるかもしれないのだ。
「良かった・・・いや、しかし昨日通さんが訪ねてきたのはどういう意図があったのかがまだよくわかっていなかった。まずはそれを勝男さんに聞いてみないとな・・・」
ヒカルはそう思ったらもうすぐに勝男に昨日のことを聞きたくて居ても立っても居られなくなってきた。
「あの、勝男さんは今どこにいますか?」
「奥の方の展示スペースにいたと思うわよ」
「ありがとうございます」
ヒカルはすぐに勝男のもとへと向かった。
画廊の奥の方の展示スペースに行くと勝男が壁に向かって立っていた。そして何も展示されていない状態の壁を見ながら何やら考えているようであった。
「おはようございます!昨日川上通さんがここに来られたらしいですね」
「おう、おはよう。昨日の午後に突然来られたよ」
勝男はそう言ってヒカルを一瞥するとまた壁のほうを見た。
「通さんは一体どういう用件で訪ねて来られたのでしょうか?」
「とりあえずはお前に会いにきたらしい。昨日お前は休みでいなかったのだがな・・・
そして私とも話がしてみたかったということで少し話をしたよ。まあ、私と話してみたいというのはついでみたいなもので、お前と前回の話の続きをしたかったようだな」
「そんな、ついでだなんて・・・で、彼とどういうお話をされたのですか?」
「実は今日また来られる予定なので細かい話はその時に本人とすればいいさ。まあ、簡単に言うと今日彼の作品の実物を持って来るのでそれを見て欲しいということなのだ。お前はこのあいだ彼の自宅で見ているかもしれないが、彼が我々に一番見て欲しい絵を持って来るそうだ」
「そうですか・・・ということは、通さんは気が変わってここで作品を扱いたいという我々の申し出を承諾してくれるということなのですか?」
「いや、まだそこまでは話を進めてはいないのだ。その話の続きも今日またすることになると思うがな」
「まだどうなるかわからないのですね・・・一度断られているのであまり拙速に事を運ぼうとするのはよくないということであえてあまり話を進めなかったのですか?」
「まあ、そんなとこだ。彼もそういう話はお前がいるときにしたいと思っていそうな感じだったしな・・・」
「通さん、僕に気を遣って下さってるのかな・・・?自分の作品を持ち込んできて見て欲しいということは、考えが変わってこちらの誘いに前向きになってくれているのだと思うんだけどな・・・いや、でも・・・彼のことだからどう考えているのかは、まだよくわからないな・・・」
「とりあえず荷物を置いてきて仕事の準備をしておけ。気持ちはわからんではないが、ちょっと落ち着けよ。そんな落ち着きのない状態で川上通氏をお迎えしたって上手くいくものもいかなくなってしまうぞ」
「はい、わかりました・・・では失礼します・・・」
ヒカルは従業員用のロッカーに荷物をしまって急いで仕事の身支度をした。そしてほどなく画廊が営業開始してヒカルも通常業務に就いていたのだが、やはり川上通が来るまでは落ち着かなくてそわそわしながら仕事をしていたのであった。
「おじゃまします~!川上ですー」
営業開始から一時間ほどしたところで川上通が来場してきた。通の隣には姫乃の姿もあった。待ちわびていたヒカルは二人のもとへと駆け寄っていった。
「おはようございます、お久しぶりですヒカルさん」
「おはようございます~ご無沙汰しております」
「おはようございます。お二人ともようこそギャラリーオーシャンへ。通さんは二日続けて足を運んでいただいて本当にありがとうございます」
「いえいえ、私が自分の絵を見ていただきたくて来ているのですから」
三人が挨拶を交わしているところにスタッフの平野さんがやってきた。
「いらっしゃいませ、本日はご来場いただきまして誠にありがとうございます。応接室のほうで海野がお待ちしていますので、ご案内いたします」
「僕がご案内しても大丈夫ですかね・・・?」
「ええ、そうしてもらうように指示されていますのでお願いします」
「では、私がご案内いたしますので・・・そちらのお荷物は作品でしょうか?私がお持ちいたしましょうか?」
通はやや大きい風呂敷包みを小脇に抱えていた。平べったい物体であったのでおそらく見て欲しいという作品であろうことはすぐに想像がついた。しかし、作品を風呂敷で包んでくるというのはいかにも彼らしいというか彼のキャラにぴったりの運搬方法であった。
「大丈夫です、このまま私が持っていきます~」
「そうですか、では早速参りましょうか」
大切な作品なので運ぶのを他人に任せたくないのか、はたまた遠慮をしているだけなのか、どちらかはよくわからないが何せ自分で持ち運びたいらしい。ヒカルは二人を応接室へと案内した。二人の先に立って歩き始めたヒカルに姫乃が歩み寄ってきて小声で話しかけてきた。
「トーリくん、考えを変えてくれたのかもしれません。勝男さんの言う通り時間を置いたのが正解だったのかもしれませんね」
「そうだと良いのですが、まだどうなさりたいのかよくわかりませんからね・・・」
姫乃は嬉しそうにしていたが、ヒカルとしてはまだ楽観出来ないと思っていた。通が自分
から絵を見て欲しいといってきたのだから大丈夫だと太鼓判を押してぬか喜びをさせておいて、やっぱり画廊に作品を置くことはできないということになってしまったら結果的に姫乃にまた残念な思いをさせてしまうかもしれないからだ。
相手が何を考えているかよくわからない相手である以上、予断を許さない状態が続くことに変わりはない。何せ相手はあの川上通なのである。絶対に油断は禁物なのである。
応接室のドアの前までくるとヒカルはノックをして中に声を掛けた。
「失礼します。川上通さんをお連れしました」
「どうぞ、中までご案内して下さい」
ヒカルはドアを開けて二人を招き入れた。
「どうぞお入りください」
「それではお邪魔しますー」
「失礼します」
応接室には勝男が一人でいた。部屋の壁際に置かれたイーゼルの傍に立っていたのだがそのままの位置で二人を向かい入れた。
「いらっしゃいませ、川上通様、川上姫乃。お二人も本日はお越しいただきまして誠にありがとうございます」
「勝男さん、お久しぶりです」
「勝男さん、昨日ぶりです~」
「姫乃さん、ご無沙汰しております。通さんは二日続けてお越しいただいてありがとうございます」
「さっそくですが、これが昨日言いました私が見ていただきたい絵なのです~」
特に前置きも無しに通がいきなり絵を風呂敷から取り出し始めた。風呂敷の中からは薄っぺらい紙製の箱が出てきたのだが、その箱を開けて中から絵を取り出してみせた。
「おお、こちらですね。ありがとうございます。」
通がいかにもマイペースな彼らしい性急な行動をしてきたのであるが勝男はそれに動じることなく普通に対応した。
通の持ち込んだ絵は10号サイズの水彩画であった。普段使うような紙や書類などのサイズとしてなじみ深いA3サイズがだいたい6号くらいなのでそれよりはだいぶ大きいのであるが、それでも持ち歩くのがとても困難というほどではない。しかしそれを包む風呂敷は大判の中でも大きいものが必要である。通が作品を包んできた風呂敷はおそらく100センチ以上はあると思われるが、作品を風呂敷で包んで運ぶというのが彼のこだわりなのか特に意味はないのかはよくわからなかった。
そして、肝心の作品はどんなものかというと、姫乃がお気に入りだと言っていてヒカルも良い絵だと思って同じく気に入っていた風景画であった。川の土手とその横に広がる街並みの景色が描かれていたあの風景画である。
「ほう、こちらですか・・・ふむ、なるほど・・・・・・このイーゼルに置かせていただいても構いませんか?」
「どうぞ、置いて下さい」
勝男はその絵をイーゼルに丁寧に置くとじっくりと鑑賞し始めた。
「ヒカルさんには見ていただいたことのある絵だとは思いますが、これだけを単体で見ていただくとちょっと違った感じに見えるかと思いますー」
「確かに、こうしてこの作品だけが飾られた状態で見せていただくと、またちょっと印象が変わりますね・・・・・・」
通が言うようにこの作品一点だけを置いて集中して見ると、多くの作品で埋め尽くされていた通のアトリエの壁に飾られていた時とは本当に結構違って見えるのだ。
「この絵は私が前回ここに来て勝男さんにお見せした写真の中にはなかったものなので勝男さんは初めて見るものだと思います」
それから少しの時間、勝男は熱心に作品を鑑賞していた。そして三人はその少し後方から通の絵とそれを見る勝男の様子をうかがっていた。
「ふむ、良い絵だと思います」
ひとしきり作品を眺めると勝男はとても簡潔に作品の評価を通に伝えた。
「本当ですか?そう言っていただけたらとても嬉しいです~」
「良かったね!トーリくん」
「大ベテランの画商である勝男さんの厳しい目で見ていただいて、どのような評価が下されるのか大変心配していましたが、いやぁ・・・ホッといたしましたー」
さすがの通も勝男の言葉を聞くまでは緊張していたようであった。やはり、ヒカルに作品を見られて感想を言われた時とはわけが違うらしい。さすがの通も勝男には一目置いているらしくてずっとマイペースなままではいられないということなのであろう。
「本当に、本当に私の絵は良い絵なのでしょうか・・・?」
「勝男さんはお世辞で作品を褒めたりはしません。良いと思わないものをテキトーに良いと言ったりはしない人ですから大丈夫ですよ」
「まあ、その通りですので・・・どうぞご安心下さい。先日、この月から通さんの作品の感想を聞いていたのですが、私の感想もほぼ同じです。長年多くの絵を見てきた私からしても作風にかなりのオリジナリティを感じます。これは唯一無二の良い作品と言わせていただいてよいと思います」
「おお、そこまで言っていただけるなんて・・・とても感激なのです!本当にとても嬉しいお言葉です~」
勝男にほとんど手放しで作品を褒めてもらって通はとても素直に無邪気な感じで喜びを表していた。
「しかし、こうして改めて見させていただくと、やはり素晴らしい作品ですのでこの画廊に飾らせていただきたいという気持ちになってしまいますね・・・やはりお気持ちは変わらなくてこの画廊で扱わせていただくことは叶いませんですかね・・・?」
ヒカルは思わず核心に切り込む発言をしてしまった。
「はい、そちらがよろしければお願いしますー」
「そうですか・・・やはり・・・・・・ん?」
「はい、ぜひこちらの画廊に置いていただきたいと思っております!」
「えぇつ!いいんですか?本当に、ここに置かせていただいてもよろしいのですか?」
「はい、そのように思っております。私、先日ヒカルさんと私の夢について語り合った時に思いました。やはり私も自分の絵を多くの人に見ていただきたいと思いますし、それに夢である個展を開くためには先立つものも必要になるでしょうから、作品を買っていただいてその足しにさせてもらう必要があるだろうとも思うようになったのでありますよ」
なんと、通が考えを変えてあっさりOKしてくれるという思わぬ急展開と相成ったのである。
通があっさり画廊の申し出を受けてくれたところで勝男がすかさず話を進めるための提案をした。
「実は通さんがそうおっしゃって下さった時のために、展示スペースを一か所準備させていただいているのですが、どうでしょう?具体的にどういう場所に展示されるのかを確認してみられては?」
勝男は商談などの場においてこういうとんとん拍子で話が進んでいく時は勢いに乗ることも大事なのだと常日頃から言っていたのだが、やはりこういう時のための準備も抜かりが無かった。朝、勝男が見ていた空きの展示スペースはこういう展開になった時に通に見てもらうために準備していたのだとヒカルはすぐに察した。
「よろしいのですか?ぜひその場所を拝見させていただきたいです~」
「では、すぐに参りましょう。私はこの作品をそこまでお持ちするので、ヒカルはそのイーゼルを持ってきてくれ」
「わかりました。では案内いたしますのでお二人とも参りましょう」
「はい、お願いします」
「はい、とても楽しみなのであります!」
善は急げとばかりにどんな場所に展示するかという具体的なプレゼンまで行うこととなった。勝男としては作家の気持ちを盛り上げようという思惑があってこのように充分準備を整えた上で話をどんどん進めているのであろうが、通の反応を見る限りは功を奏しているようである。
四人は勝男が朝に見ていた画廊の奥の方にある展示スペースまでやってきた。
「こちらです。場所的には画廊の奥になってしまうのですが、大抵のお客様はこのあたりでいったん立ち止まるのでどなたの目にも留まりやすいのです。初めて展示させていただく作家の方にとっては良い場所だと考えているのですが、どうでしょうか?」
「いやあ、とても素晴らしいと思います。ここに展示していただけると考えただけで私はとてもドキドキワクワクいたします~」
「すごいね、トーリくん。本格的にプロの画家って感じだよ!」
「ヒカル、壁際にイーゼルを置いてくれ。できるだけ壁に掛けた状態をイメージしていただきやすい場所に飾って見ていただこうと思うのでな」
「はい、このあたりですかね・・・」
「実際にはきちんと額装して壁に掛けて展示するのですが、とりあえずこの場所に展示した時の雰囲気だけでも感じていただけたらと思います。どのような額縁に入れるのかもご提案いたしますが、通さんのご希望もあるかと思いますのでそれも含めて展示のスタイルについては事前にご相談させていただきたいと思っております」
「ありがとうございます。私は何もわかりませんのでほとんどのことはそちらにお任せすると思いますが、画廊のお客様にお披露目する前に事前にどういう感じになるか見せていただけましたら幸いです~」
「もちろん、正式に展示させていただくのは作家の方に最終確認をしていただいてからとなりますのでどうぞご安心下さい」
そのように説明しつつ勝男は通の絵を壁際のイーゼルに置いて少し離れて絵の方を手で指し示した。
「だいたいこのあたりに設置されるとイメージしてみて下さい。先ほど言いましたように額装させていただきますし、これよりもだいぶ高い位置に掛けることになると思いますが、そのあたりは想像で補っていただけますでしょうか・・・」
「おお、素晴らしいのです!まるで自分の絵ではなくてプロの画家の絵のようです~」
「ほんとにすごくいいよね!やっぱりこういうちゃんとした画廊に飾ってもらうと作品が引き立って何倍も良く見えるんじゃないかな」
イーゼルに乗せただけの仮の状態であるにもかかわらず通も姫乃も心底から感動して喜んでいた。
「確かにどんな絵でも画廊に展示されていればある程度は見栄えが良くなります。しかし、本当に中身のある良い作品でなければすぐにメッキが剥がれて誰にも見向きされなくなります。どんな人が見てもそういう本物かどうかみたいなことはわかってしまうものなのですよ」
「そう言われると不安になってしまうのです・・・私の絵も誰にも見向きされなかったらどうしようと思ってしまいますー」
「それはないと私は確信しています。この作品の良さをわかってくださる方はきっと沢山いらっしゃると思いますよ」
「そうだと良いのですがね・・・」
「大丈夫だよ、こうして画廊に飾られてるのを見たらほんとにすごくいいよ。この画廊に展示されている他のプロの人たちの作品と並べて見ても全然違和感が無いもの」
「そうですよ。勝男さんが太鼓判を押しているわけですから、自信を持ってよいと思いますよ」
「あぁ、ここに来られたお客様が私の絵を見た時の反応が今から気になります。しかし、それを知るのがちょっと怖くもあるのです。でもやっぱり反応は気になりますー」
さしものマイペース人間の川上通でもいざ自分の作品が公に批評されるとなると不安でしょうがないらしい。
そして作品がどのように見られてどのような評価をされるのかということを一刻も早く知りたくなって気が気でないといったところなのであろうか。知るのが怖い、不安だという気持ちと、しかしやっぱり早く知りたい気持ちと、相反する感情がせめぎ合っていて少々混乱気味になっているようであった。
「程度の差はあるでしょうが、画廊などに初めて自分の作品を展示する作家は誰しも今の通さんのような気持になってしまうものですよ。しかし、皆さんそこを乗り越えて立派な作家になられていくものです。通さんもそうなられていくと確信していますのでそんなにご心配されなくて大丈夫ですよ」
「わかりました。勝男さんにそう言っていただけると安心できます。ちょっと気持ちも落ち着いてまいりました~」
「まだ額装もしていなくてイーゼルに置いているだけでこれほど雰囲気があって良い絵なのですから、正式に展示させてもらったらもっと良い感じになりますよ。だから画廊に来られた多くのお客様に興味を持っていただけることは間違いありませんよ」
「ありがとうございます。そうやってヒカルさんに褒めていただけるだけでも十分嬉しいものでありますよ」
ヒカルは勝男とは違って通に「大丈夫」だと言ってあげられるきちんとした根拠のようなものは持ち合わせていなかったので、とにかく良い絵なのだから評価してもらえるだろうみたいなことしか言いようがなかった。それでも自分も通に自信を持ってもらえるように何か言いたかったのだが、その気持ちは一応通にも伝わったようである。
「それにしても、ほんとにいい場所に飾ってもらえて良かったよね。勝男さんが言ってたように画廊内の絵を見てまわっていたらすごく目につく場所っていうのは私でも何となくだけどわかるもの」
「確かに、ほんとにいい場所なので嬉しいです~」
「そうですね・・・それにここは画廊の一番奥の方なので落ち着いて鑑賞できるなと以前から個人的に思っていた場所なんですよ。そういう意味でも私としてもとても良い場所だと思います」
「やっぱりヒカルさんや勝男さんを信頼してこちらに絵を預けに来て良かったと思います。よろしくお願いいたします」
「いえ、こちらこそありがとうございます。私たちの願いを聞き入れていただいて本当に嬉しく思います」
「どうでしょう?もしこの後お時間がありましたら先ほどお話しした具体的な展示方法のご相談をこれからすぐにでもさせていただけませんか?」
「ああ、良いですねぇ・・・私、すっかり気持ちが盛り上がってしまっていますので、こちらこそぜひそうさせていただきたいです~」
勝男は一気呵成に商談を進めにかかっているようであった。これまた商談は勢いに乗ることも大事だという考え方なのであろうが、通の反応を見てヒカルは改めて勝男の熟練の交渉術に感服した。
「さすが勝男さんだな、絶妙のタイミングを見計らって相手に水を向けて話をどんどん進めていくもんな・・・」
ヒカルは前回通にスケッチが終わってからでいいので作品を見せてほしいと頼んだ時に、気分が乗ってきていた通が今のような反応をしてすぐに作品を見せたいので自宅に戻ろうと言い出したのでそのような性格であることは知っていたのだが、そこまでの細かい報告は勝男には出来ていなかった。
それでも勝男はそういう通の性格を見抜いた上で交渉しているようなのである。やはり海野勝男はなかなかに洞察力が優れている人物であることは間違いないらしい。
通と勝男が展示方法についてなど今後の相談をその場で始め出した時に姫乃がヒカルのそばまでやって来て労いの言葉を掛けてきた。
「どうやら上手くいったみたいですね、ご苦労様でした。そして、いろいろご尽力していただいてありがとうございました」
「いえ、とんでもないです・・・私なんて大したお役にも立てませんでした。今日だってほとんど勝男さんが話をまとめてくれましたから」
「そんなことないですよ、ヒカルさんが前回アトリエに来ていただいて色々とお話していただいたことが大きかったんだと思います。あの時お話ししていただいたことをトーリくんはこの一週間ずっと考えていて昨日ここに来て勝男さんと話した上で自分なりの結論が出せたようでなんです。それで昨日私に明日ギャラリーオーシャンに自分の作品を持ち込んで見てもらうんだと連絡してきたので私もついて来たんです。だから今日ここに来るときにはもうトーリくんの心は決まっていたんだと思います」
「私はそんな大したことは言えなかったと思うんですが、まあ結果的には少しはお役に立てたのかな・・・?」
「それと、今日ここに来ることをヒカルさんにお知らせしようかと思ってたんですけど、昨日勝男さんがトーリくんに明日はヒカルさんも出勤してくるので連絡していただかなくても大丈夫だと言って下さったそうなので、ヒカルさんにも伝わっているものだと思ってたんですけど、もしかして今日私たちが来ることはご存知じゃなかったですか?」
「いえ、今朝出勤したときに聞かされました。しかし、昨日通さんにお越しいただいたことなども今日初めて知らされたのでちょっと驚いてしまいましたね・・・そうですか、勝男さんが通さんにそう言ってたのですね・・・」
「この画廊に来て初めて勝男さんやヒカルさんとお会いした時からこのお二人ならトーリくんの絵を世に出す手助けをしてくれそうな予感がしていましたけど、本当にその通りになったので感激しています。トーリくんはもちろんでしょうけど、私もすごく嬉しいです。ヒカルさん、本当にありがとうございました!」
「こちらこそ、川上通さんという素晴らしい画家を紹介していただいて本当にありがとうございました」
嬉しそうに展示方法などについて勝男と話している通を見ていると、ヒカルも姫乃も我がことのように嬉しくなってきて自然と笑顔になっていた。
実際のところは川上通がプロの画家としてやっていけるのか、画廊側としても上手く事を運ぶことが出来るのかなど大変なのはまだまだこれからなのであるが、ひとまずスタートを切ることは出来たわけである。
「あの様子だと具体的な話もどんどん進んでいきそうだな。本当に、良かったな・・・」
こうして交渉はとんとん拍子に進んでいって川上通の作品は画廊ギャラリーオーシャンで扱われる運びとなり、この数日後にはもう正式に画廊に展示されることになった。
「通さんの作品を見てくれる人は結構いるみたいですね。ご本人が心配していたみたいに誰にも見向きされないなんてことはなかったので良かったです・・・」
川上通の作品を鑑賞している客を少し離れて後ろから見ながらヒカルと勝男が小声で話していた。
「まあな。あとは購入希望者が現れるかどうか、その方が投資目的などではなく本当にあの絵を気に入ってずっと手放さずにいてくれるような方であるかどうか、それが問題になってくるがな・・・」
「確かに・・・ああやって興味をもって見て下さっているような方はよくお見掛けしますけど、購入してもらえるかどうかとなると一気にハードルが高くなるというか、もはやそれは別次元の話にすら感じます」
「絵なんてそうポンポン売れるものじゃあない。買う側からしてもそう簡単に買う決心がつくものでもない。新人の作家の作品となると尚更だ。過去にこの画廊で絵を買って下さったことがある顧客の方々でも、海の物とも山の物ともつかない無名の新人画家の作品にはなかなか手は出せない。それは至極当然のことだ」
「それはそうですよね・・・」
「画廊に作品を置く作家というのは買ってくれる人が現れて初めて一人前と認められるわけだからな。とりあえず一枚、あの絵が売れた時が本当のスタートになるということだ」
「そうかぁ・・・やっぱり通さんの作品に買い手がつくのは難しいのかな・・・?」
「何か一つきっかけを掴むことが出来れば良いのだがな・・・」
「きっかけ、ですか?」
「ああ、一番わかりやすい例だと有名な評論家あたりに作品を気に入ってもらえて公の場で紹介されるとかだな」
「それは最高のきっかけになりますね」
「さすがにそこまでいくとちょっと出来過ぎだがな・・・そんな都合の良いことはなかなかあるもんじゃあない。だからといって、金を出せばそういう都合の良い宣伝をしてくれるような評論家に頼むというのは俺のポリシーに反するからな」
「勝男さんの性格からしてそういうことはされないですよね・・・もしそういうことをしたとして、それが画廊のお客様に何となく気づかれた時には作品のイメージや評価が悪くなりますからね。実際にはちゃんと見てもらえれば良い作品だとわかっていただけるのに、そういう余計なことをしたら逆効果ですよね」
「まあそういうことだ。そういう工作は結構簡単にバレてしまうもんだ。金で動いたりしないまともな評論家が自発的に褒めてくれるのはありがたいことだが、それすら疑いの目で見る人間だっているからな。まともでない評論家にそんな依頼をするのは論外だ。画廊のお客様を馬鹿にするようなそんなふざけた工作など俺は絶対にしない」
「今はネットとかで事実無根の誹謗中傷をする人がいますからね・・・評論家に普通に褒めてもらえたとしても悪意を持って批判される可能性はありますよね。評論家とか美術の専門家とかに褒めてもらう以外で何かいいきっかけになりそうなことってあるかなぁ・・・?」
「そういう劇的なきっかけでなくてもいいのだよ。お前がそうであるようにああいう感じの風景画がドンピシャの好みだというお客様が一人でも画廊に来てあの絵を見て下さったら、そしてあの絵を気に入って購入して下さったらそれでいい。そうやって一枚作品が売れるだけで十分なきっかけになる。そこから画家としての最初の一歩が踏み出せるのだ」
「そうですね・・・もし僕がセレブと言われる人たちのように使い道に困るほど金を持っていたら、迷わずあの絵を買います。そのくらい素晴らしくて好みの絵ですから。まあ、今の僕にはそんな財力は全くないですけど・・・」
「絵を買えるくらいの財力があってお前と同じような感性をもっていて同じような絵を好むお客様が来る可能性はそれほど低くはないだろう。しかし、それほど高くもないだろうからな。とにかく待つしかない・・・」
「そういうお客様が出来るだけ早く現れてほしいですけど、どうですかねぇ・・・」
「まあ、俺は大丈夫だと思っているよ。そもそも勝算が無ければ特に実績も無い無名の新人作家の作品など扱ったりはしない」
「そうですよね、もし通さんが僕と同じように買い手が現れてくれるか不安がっていたら、勝男さんが太鼓判を押していてお墨付きで折り紙付きの作品なので必ず売れますとお伝えしようと思います」
「彼があまりにも不安になり過ぎて自分の才能を疑って自信喪失しそうになっていたら、そのくらい大袈裟に言ってさしあげてもいいだろうな・・・彼には余計なことは考えないで自由気ままに絵を描いてもらいたい。そのほうが今まで通りのいい絵が描けるはずだ」
「それは僕にも何となくわかります。美術に詳しくはないですけど通さんの性格についてはちょっとわかってきた気がしますから」
川上通の作品の前で足を止めて鑑賞する客は毎日何人かいたのだが、ギャラリーオーシャンに作品が展示されてから数日たってもまだ購入希望者は現れなかった。
ヒカルとしてはとにかく待つしかないとはわかっていても何かできないものかと毎日考えながら仕事をしるのだが、結局は打つ手が無くて特に何も出来ないでいた。しかし、またある日突然に事態が動いたのだ。
「通さんの作品、今日こそは売れるかな・・・やっぱり最初の一枚が売れるまでが大変みたいだから、どうかなぁ・・・?」
画廊に作品が展示されてから二週間ほどたったある日の朝。いつものように仕事場であるギャラリーオーシャンへと向かいながらヒカルはやはり川上通の作品に何とか買い手が現れてくれないものかと、そればかり考えながら歩いていた。
「興味を持ってじっくり鑑賞してくれるお客さんは結構いるんだけどなぁ・・・そういえばなんか昨日は外国人のお客さんが熱心に見ていたよな・・・」
画廊に到着したヒカルはまず真っ先に川上通の作品のもとへと向かった。実をいうとこれはもはや日課となっていた。出勤したらまず一目あの絵を見ておかないと気が済まなくなっていたのだ。
ヒカルが川上通のあの風景画の展示スペースの近くまで行ったあたりで何かおかしい、何かいつもと違うと感じた。その違和感の正体はすぐに判明した。展示スペースにあの絵が無いのである。
「え?何で無いんだ・・・もしかして、売れた?いや、昨日見たときにそんな様子あったかなぁ・・・?」
出勤時は毎回日課のように川上通の絵を見に行くようになっていたのだが、退勤時は毎回必ず見てから帰るわけではなかった。ヒカルはもともと仕事が終わって疲れていると割とさっさと帰宅してしまうタイプであったし、昨日は珍しくやらなければならないことが多くて退勤時間近くになってもなかなか終わらず時間ギリギリまで掛かってしまって、何とか仕事を終えるとそのままバタバタと慌ただしく帰宅してしまったのだ。
だから、ヒカルが最後にあの絵を見たのは先ほどヒカルが呟いていた外国人の客が鑑賞していた時であり、確かそれはヒカルが退勤する二時間ほど前のことであったのだ。
「あの外国人が買ったのか?いや、熱心に見てくれてはいたが・・・見終えたら隣に展示されている作品を見始めて、そのままどんどん違う作品の方へ移動していったはずだ。もし購入を考えたならスタッフを呼んで色々聞き始めると思うからなぁ・・・」
先日勝男が話していた通りほとんどの客は購入を考え始めてもそう簡単に決心がつくものではなくて、どうしようかと悩み出してそのうちにスタッフを呼び止めて色々質問や確認を始め出すのである。
この作品はどういう画家の作品で、人気はどうなのかとか価格の相場はどうなのだとか、そういうことが知りたくて色々聞いてくるというわけだ。
絵画の価格はサイズに比例して決まる感じになっていて、例えば仮に川上通の作品の1号あたりの価格が一万円であれば、今展示されているあの風景画は10号サイズであるので十万円となるわけである。川上通の同じような作品でそのサイズが8号である場合、価格は八万円になるといった具合である。その1号あたりの価格が他の画家と比べて安いのか高いのか、自分が所有している絵と比べてどうなのかとか、色々と思案して購入するか否かを決めることが多いわけである。
もし川上通が希望するような買い手の場合、絵を気に入って購入すればそれから転売したりはしない人なのでそういう相場は関係ないのかもしれないが、そういう人でも自分の収入から考えて購入するのに無理がない価格かどうかは普通考えるわけであって、最低でもその絵の値段は聞いてくるであろう。
そして、人気がある作家の作品であれば購入を急がなければ他の客に売れてしまう可能性もあると考えてしまうのでどれくらいの人気なのかということを聞いてくる人も結構多くて、絵について特に何も質問してこないでいきなり「この絵を買います」みたいに言ってきてすぐ買っていってしまうというのは相当に稀なケースなのである。
大抵の場合は画廊のスタッフから作品の説明をされる時に買って損はない素晴らしい作品であるなどと言われて、その言葉に背中を押されて購入を決意するという感じの流れになっていく。
絵画の専門家である画廊スタッフの太鼓判があると安心であるし、「作品との出会いは一期一会であってタイミングを逃すと他のお客様買われてしまうなどして手に入れるチャンスが二度と訪れないことも多いのですよ」などと言われてしまうと「そこまで言われたらとりあえず手に入れてしまおう、最悪後々お金に困ることになってもそれなりの値段で売れるのであろうし、運が良ければ手放さなければならなくなったタイミングで価値が上がっていて自分が買った時より高額で売れる可能性だってあるわけだから・・・」などと自分に言い聞かせて購入を決意するというパターンが結構多いのである。
もちろん画廊スタッフの側も押しつけがましくない程度のほどほどにわきまえたセールストークで購入を検討してもらうことを心掛けなければならない。「なんか売りたくて必死すぎて嫌な感じだな」とか「売ってしまえば後のことはどうでもいいと思っていそうでちょっと信用できない人だな」とか、そういうことを客に思われてしまうような行き過ぎた購入の煽り方は逆効果でしかない。
過ぎたるは猶及ばざるが如しということであって、そのあたりのいい塩梅のセールストークが求められるのは何も画廊だけではなくて何かを売る仕事であればだいたい共通しているのであろうが、このギャラリーオーシャンでいえば海野勝男をはじめとしてベテランのスタッフはそのあたりは十分心得ていて、画廊内で作品を鑑賞している客の動向をしっかりと見て把握しながら付かず離れずの丁度良い距離感を保ちつつ前述のように客が作品について質問をしてきたタイミングなどで熟練のセールストークを駆使して勝負をかけるといった感じなのである。
よって画廊で作品が売れる時というのはそういった前兆というか、傍から見ていて「これは売れるかもしれない」と思えるようなやりとりが客とスタッフの間で繰り広げられていることがほとんどであり、そういう前ぶれが何もなくて急に売れたという可能性はかなり低いので昨日見た外国人の客があの絵を買っていったとはヒカルとしてはちょっと考えづらかったのである。
「待てよ・・・誰かに買われたのでここに無いのだと思い込んで誰に買われたのだろうかとかそういうことばかり考えてしまったが、違う理由で移動させた可能性だってあるよな・・・」
確かに画廊で作品が展示から外される理由は買い手がつく以外にも色々とあった。
「絵の作者や持ち主が売るのをやめたとか、売りたかったけど売れないので諦めたとかそういう理由で展示から外されることはたまにあるからな・・・通さんか、もしくは勝男さんの方がちょっと売れそうにないと諦めて展示をやめることになった可能性だって十分にあるよなぁ・・・」
ヒカルは作品が結局売れないまま川上通に返却されたのではないかと心配になってきた。
「もしそんなことになっていたら、通さんや姫乃さんはきっとすごいショックを受けてるはずだぞ・・・どうしようか・・・?」
ヒカルは物事を悪い方へと考えてしまうことが多いタイプなのだが、まだ何も情報がないうちから川上通の作品は見切りをつけられて外されてしまったのかも、もしそうだったら大変なことだと慌て出していた。
「おい月、そんなところで何をやっているんだ」
朝っぱらから画廊内でうろたえているヒカルを見つけた勝男が堪りかねたのか後ろから声を掛けてきた。
「ああ、勝男さん。おはようございます」
「どうしたんだ?そこで一人で何を慌てているのだ?」
「そうだった!絵が、絵が無いんです!通さんのあの風景画が無くなってるんですよ!」
「ふむ、あの絵なら売れたぞ。昨日の午後に無事買い手が見つかったのだ」
「えぇっ、売れたんですか!昨日閉店の二時間前くらいまではまだあったはずだけど・・・」
「その少しあとくらいに売れたのだ。今日出勤してきたら知らせてやろうかと思っていたのだが、まさかこんなところであたふたしていたとはな・・・」
「そうでしたか・・・で、絵を買われた方というのは通さんが望まれていたようにあの絵を簡単に手放さないような方なのですよね・・・?もしかしてあの外国人のお客様ですか?」
「ああそうだ。お前もあのお客様に気づいていたのだな」
「やっぱりあの人に買われたのか・・・まさか外国人のお客様が買っていかれるとは思わなかった。あの人は初めて来店された方ですよね?」
ヒカルはこの画廊には子供の頃から出入りしていたので昔からの常連客のことは割と知っていたりするのだが、何ぶんずっとこの画廊で働き続けていたわけではないので顧客については当然完全に把握しきれているわけではなかった。
しかし、あのような外国人の客であればある意味目立つ存在なので何度か来店していればきっと記憶しているはずだと思っておそらく初めて来た客であろうと考えたのである。
「それはそうなのだが・・・あの方はアルベルト・リッチマンだぞ。お前、あの方が画廊の絵を鑑賞していたのを見ていたのだろう?気づいていなかったのか・・・?」
「アルベルト、リッチマン・・・?なんか、どこかで聞いたことある名前だな・・・」
「知らないのか?相当な有名人だぞ」
「え?ちょっと待ってくださいよ・・・・・・もしかして、あのIT長者で大富豪の・・・
あのアルベルト・リッチマンですか!?」
アルベルト・リッチマンとは米国においてIT事業で大成功をおさめて巨万の富を築き上げた人物であった。世界中に知られている存在であるので勝男のいうようにかなりの有名人であり、よくマスコミからも時代の寵児のような取り上げられ方をされているような人物なのである。
「そうだ、そのアルベルト・リッチマンだが・・・存在は知っていたわけなのだな?」
「はい、流石に僕でも知っています。しかし、顔をちゃんと見ていなかったし、まさかこの画廊に来るなんて想像もしていなかったので・・・」
「まあそうだろうな・・・ここに有名人が来ることはたまにあるのだが、あれほどの世界的な有名人が来るとは俺でも思っていなかったからな」
「いや、しかし・・・まさかあのアルベルト・リッチマンがこの画廊に来るなんて・・・本物・・・なのですよね?」
「ああ、それは確かだ。売買契約時に御本人であることは確認できたからな」
「来日していたなんてたぶん昨日のニュースでもやってなかったと思うんですけどね・・・」
「どうやらお忍びで日本に来ていたらしい。目的は観光なのかまだ秘密裏に進めている仕事の関係などで来たのか、そのあたりは知る由もないのだがな・・・しかし、この画廊に来たのはおそらくプライベートだと思う。画廊を訪ねるのは彼の個人的な趣味であるらしいからな」
「そうか、確かあの人は絵画のコレクターとしても有名でしたよね?高い絵画だけでなく色々な物を収集しているとかよく聞きますけど・・・」
アルベルト・リッチマンは大成功をおさめた実業家としてだけではなくて絵画などの高額な美術品の収集家としての一面も有名なのであった。
さらに彼のコレクションはそういった美術品だけにとどまらずSF映画や漫画やアニメの作品関連グッズについても多数所有しているのである。そういう作品のキャラクターのフィギュアなども収集していてそのことがメディアに取り上げられることもしばしばあった。
日本のアニメや漫画の関連グッズもかなり所有していることが有名になったため日本人にも親しみがもたれているIT長者なのである。
「そうだ。お前も彼が美術品の収集家であることに着目していたのだな」
「一応僕も画廊スタッフの端くれですからそういう情報を耳にすれば記憶に残るようにはなってきているのかもしれません。しかし、彼は有名画家の高額な作品をいくつもコレクションしているらしいのですが、そんな人が通さんの作品に目をつけて買っていかれるなんて、凄いことですよね」
「まあそうだな・・・」
「こんなことを言っては何ですが・・・川上通という人はまだ全然無名の画家なのですからね・・・でもそんな通さんの作品が有名画家の作品と同じようにアルベルト・リッチマンのコレクションに加わったということは、もしかしたら通さんは名だたる有名一流画家たちと肩を並べたといっても過言ではないということですかね?」
「流石にまだそれはちょっと言い過ぎかもしれないな。アルベルト・リッチマンのコレクションは有名な作家の高額な美術品からそこまで高額ではないサブカルチャーに関するものなどまで多岐にわたっているらしいからな。絵画に関しても有名画家の高額な作品だけでなく割と手ごろな価格の作品を購入することもあると聞く。彼は自分が気に入ったものなら世間がつけた値段や価値は気にしないで即決でポンと購入して自分のコレクションに加えることもよくあるらしい」
「では・・・通さんの作品も自分が気に入ったから買っただけで、一流画家の作品と同レベルのものだとは彼自身も考えてはいないという感じなのですかねぇ・・・?」
「要するに現時点ではまだ川上通氏に対してはそういう評価をするのが妥当なのだろうな。だがな、俺はアルベルト・リッチマンが芸術作品を見る目はそれなりに確かなものだと思っているぞ。川上通という画家は確かに現時点では無名ではあるがこの先世間から評価されて有名になって一流画家であると認められる可能性は十分にあると思っているよ」
「まだまだ伸びしろがあるみたいなことですかね?」
「まあ、そういう言い方もできるが、彼がこれまでに描き上げてきた過去の作品も十分素晴らしいものであるし、それは変わらない。当然彼の才能はこれからも伸びていくとは思うが、世間が彼の才能に気づけば彼が今までに描いてきた作品も評価されていくことになる」
「そうか・・・確かに、現時点でもすでにあの人の才能は開花しているわけだもんな・・・でなければあのアルベルト・リッチマンが通さんの作品を自分のコレクションに加えたりはしないもんな」
「あえて伸びしろがあるという表現をするなら、彼自身の才能の伸びしろというよりは彼と彼の作品の認知度や人気の伸びしろはまだまだあるということだな」
「なるほど、そうですよね・・・それにしても、通さんが世間に見つかる前に作品に目をつけたアルベルト・リッチマンは流石ですよね!先見の明があるっていうのかな・・・」
「まあな・・・先見の明がある人だからITビジネスという新しい分野で成功をおさめることが出来たのだろうからな」
「それはそうですよね。やっぱり優秀な人なんだなぁ・・・」
「もちろんITビジネスのセンスと芸術品の価値を判断できるセンスとはまた別物ではあるが、彼は両方とも持ち合わせていると思うぞ」
「ともあれあのアルベルト・リッチマンにも認められたわけだから、あとは世の中のもっと多くの人に認めてもらわないとですね」
「そうだな。彼のこれまでの、そしてこれから作っていく作品も、どちらも素晴らしいものだと誰からも思われるようになって世間から才能が認められた暁には、晴れて有名一流画家たちと肩を並べられる存在になったと公言してもよいということだ」
「では、これからはギャラリーオーシャンとしても通さんを全面的にバックアップしていくということなのでしょうか?」
「我々に出来ることは彼の才能や作品の認知度を上げたり、人気を上げたりする手助けをすることくらいだ。そしてそれはあまりでしゃばらずに、画廊のお客様などにアピールする際も相手に押し付けがましいと思われない程度にやっていかねばならない。それだけではなく彼がのびのびと創作活動に勤しむための環境づくりに協力することも画廊スタッフとしてはもちろんやっていかねばならないぞ」
「そうですね。でもとりあえず、僕としては勝男さんだけでなくアルベルト・リッチマンのお墨付きまでいただけたので、安心して通さんの作品や才能を人にアピールできそうです」
「そうか・・・月よ、実はな・・・川上通氏の担当はこれから先もお前にやってもらおうと思っている」
「僕がですか!でも・・・いいんですか?もう通さんはあのアルベルト・リッチマンに作品を購入してもらえたという実績ができて有望な存在になりつつあるわけで、ギャラリーオーシャンにとっては大切な作家さんだと思うんですけど・・・」
「その通りなのだが、俺はお前にやってもらいたい。お前が嫌なら無理にやれとまでは言わんがな」
「嫌だなんてとんでもない!お願いします、やらせてください!僕は通さんの描く絵が好きになってしまいました。だから、できればこれからも画廊スタッフとしてあの人の作品に関わっていきたいと思っていたんです・・・」
「そうか、では頼んだぞ。しっかりやってくれ」
「勝男さんやベテランスタッフの方々ではなくて、本当に僕で良いのですよね?」
「それは構わんよ。お前に担当を任せると決めたのだからな。お前流のやり方を模索しながら作っていけばいい。実際、お前流のやり方で川上通氏に心を開かせて画廊に絵を置かせてもらうことを了承してもらえたのだからな」
「まあ、あれは運も良かったのだと思いますが・・・しかし、これからも画廊と通さんの役に立てるように頑張っていきます!」
「ふむ、まあ頑張れ。しかし、それにしてもまさかあのアルベルト・リッチマンがお前と同じような感性をもっていて同じような絵を好んでいたとはな・・・それだけは少し驚かされたよ」
「確かに、そこは驚きでしたね・・・あんなセレブで大金持ちのIT長者と僕に絵の好みが同じという共通点があったとは。僕とはまるで真逆の人生を歩んできたような人だと思うんですけどね・・・」
「ははは、川上通氏の絵は俺だって好きだし素晴らしいと思っている。だからこそお前を交渉に行かせたわけだからな。実はセレブだとか金持ちだとかはあまり関係ない話なのだよ」
「まあ、いい絵というのは玄人が見ても素人が見ても優秀な人間が見てもそうでない人間が見ても金持ちが見てもあまりお金が無い人がみても、誰が見てもいい絵であることに変わりはないということなのでしょうね・・・」
「その通りだ。アルベルト・リッチマンが作品を購入して自分のコレクションに加えてくださったことは意義深いとは思う。だがそれは、まだ世間が知らないだけで川上通という画家の実力が本物であって、人の心を動かす作品を描くことが出来る画家だということが証明されたのだという、それだけのことだ・・・」
「では僕は・・・担当にしてもらったからには通さんの絵を出来るだけ多くの人に見ていただけるようにしたいと思いますし、その上で作品を気に入ってずっと大切に持っていたいという方に購入していただけるように、そのための手助けを頑張っていきたいと思います。ところで・・・作品に買い手がついたことは昨日のうちに通さんご本人に連絡されたのですか?」
「もちろんだ。そもそも彼が買い手について確認して許可を出さなければ売らない」
「そうでしたよね・・・近いうちに僕が直接ご報告に伺ってもよろしいでしょうか・・・?」
「ふむ、お前が担当スタッフなのだからそのへんはお前に任せるよ」
「わかりました。通さんにアポを取ってお伺いする日にちが決まり次第報告します!」
「ああ、そうしてくれ」
「いやぁ・・・しかし、あのアルベルト・リッチマンが才能を認めたことを世間の人が知ったら、通さんはすぐに有名になっちゃいそうだよな・・・」
「アルベルト・リッチマン氏の名前を使ってPRするつもりなのか?」
「はい、これを利用しない手はないですよね?かなりの話題性があると思いますからね!」
「それはまだ無理だ。彼自身が川上通氏の作品を購入したことをまだ公表していない」
「え?公表するまで無理なのですか?」
「ああ、こちらが勝手に情報を出すわけにはいかんよ」
「そうかぁ・・・せっかくのチャンスなのにな・・・」
「彼はたまに自分のコレクションをブログや他のSNS等で紹介することがある。まあ、それを気長に待ちつつそれまでは地道に川上氏のPRやサポートをやっていくしかあるまい」
「そうですね・・・そう簡単にはいかないか。まずは地道にやっていきます」
こうして川上通と海野ヒカルのコンビによる二人三脚での活動が始まった。
ギャラリーオーシャンに展示されていた風景画が売れてから数日たったある日、川上通は一人でとある広い公園内を歩いていた。その日はとても天気が良くお散歩日和といった感じであった。
公園を歩く通の表情は明るくて清々しいので機嫌が良いようである。画廊に預けた最初の一枚が何とか売れたことで気分が晴れやかになっているのかもしれない。
その公園は広い敷地内に多くの木々などの植物が植わっている自然公園のようなところでありなかなか景色が良いということもあって通はたまに来てはスケッチなどをしているようである。
「このあたりがよさそうだな」
通は広大な芝生の広がる広場までやってきた。そして広場の入り口で靴と靴下を脱いで手に持つとそのまま広場の中ほどまで進んでいった。
「ああ、ここからの景色はなかなかであります!」
気に入った場所を見つけるとどっしりと仁王立ちするように足を開いて芝生を踏みしめてしばし景色を眺めた。
「うん、やっぱりこうやって外で裸足になると、とても気持ちが良いです~」
嬉しそうにそう呟くとドサッとその場に座り込んだ。
「あぁ、草の上に座って青いお空を見上げると幸せを感じてしまいます~」
そんな独り言を言いつつ川上通は今日も絵を描くのであった。
第二章 裸足の親分放浪記
「ひどい!あなた、私のことをずっとだまし続けていたんですね!」
「ええっ、いや・・・何のことでしょうか?騙すも何もお客様とお会いするのは始めてだと思うのですけど・・・・・・」
「こうして実際に会ったのは初めてだけど、SNSではずっとやり取りしてきたでしょ!今までSNSではずっと女の子のふりをして私とやり取りをしてたのでしょ!」
「いや、だから何のことだか・・・ちょっと何を言っているのか分からないのですが・・・」
「あなた、海野ヒカルさんですよね?いま同僚の方からヒカルさんって呼ばれてましたよね?」
「確かに私は海野月という名前ですが、SNSであなたと何かやりとりした覚えが全くないのですよ・・・」
「嘘よ、ずっと前にSNSで知り合って同い年ということで意気投合して仲良くなって、けっこう長い期間連絡を取り合ってきたじゃないの!」
「いや、それがもう全然違う・・・どう考えても私とあなたとは十歳近く年が離れているので同い年だから意気投合するなんてありえませんし、何より私は男ですし・・・今おっしゃったように女の子に成りすましてあなたと交流するとか、そんなおかしなことはやっていません。人違いだと思いますよ・・・」
「そんな嘘には騙されないわ!昨日の晩にも今日ここで会うことについて連絡してきたでしょ!」
海野月が「画廊ギャラリーオーシャン」で仕事をしていたところに若い女性の客が怒鳴り込んできた。怒鳴り込んできたという表現をするのはちょっと大袈裟なのかもしれないが、ヒカルの同僚の平野さんがちょっとした用事でヒカルに話しかけてきて去って行った直後くらいにその若い女性がけっこうな剣幕でまくしたててきたのである。
「ですから、私はそんなやり取りはしていませんって・・・完全に人違いですよ。ちょっと考えてみて下さいよ、もし私が十歳くらい若い、それも女性を装ってみたところですぐにおかしいと気づくはずですよ。何より、もし成りすましていたのなら今日ここで会う連絡なんてしないでしょ・・・実際に会ったら女の子じゃないことがバレてしまうのだから・・・」
「そんなこと言って誤魔化そうとしたって無駄です!女の子のふりをして近づいてきてとりあえず仲良くなっておけばしめたもので、後から実は男だったと告白しても何とでもなるはずだと踏んでいたとか、どうせそんなところでしょ?そうはいきませんからね!」
「そんな・・・あなたはたぶん女子高生とか女子大生とかそのくらいのお歳ですよね?そんな人と私とでは生活している環境とかが違い過ぎて話がかみ合わないですよ。私はそんな若い人に話を合わせるみたいなことは苦手ですからね・・・私があなたと同い年の女の子に成りすましたところで、すぐに分かると思いますよ・・・」
「そんなのは今あなたがそう言っているだけで何の証拠にもなりませんよね?口では何とでも言えるんだから。実際には巧妙に成りすまして今日まで私を騙していたのでしょ?」
「いや、成りすましということでしたら何者かが私の名前を騙ってあなたとやり取りしていたという可能性が高いと思いますよ。あなたと同い年の女性だと思わせようとしているのであろうから、なぜ私の名前を使うのかということはちょっと疑問ですけど・・・まあ、ヒカルという名前は男性女性どちらにでもつけられる名前ではありますから、それでなのでしょうかね・・・?」
「とりあえず、あなたが海野光という名前なのは間違いないのでしょ?SNSでは文字だけでやり取りしていたから、光という漢字をヒカリと読むのかヒカルと読むのかはさっきまでわかっていなかったけど、それはさっき同僚の女性があなたの名前を呼んでいるのを聞いたので確認できましたからね・・・」
「ちょっと待って下さい・・・今、光(ひかり)という漢字と言われましたけど、その光という字は英語ではライトと言うあの光という漢字ですよね?」
「そうよ!普通、光と言ったらそれでしょ?」
「このネームプレートをよくご覧になって下さい。これが私の名前ですから」
「うみの・・・つき?」
「月と書いてヒカルと読むのですよ」
ヒカルが胸に付けていたそのネームプレートには漢字とローマ字とで名前が表記されていた。なので名前がどういう漢字でどういう読み方なのかは両方とも確認できるようになっているのだ。
「えっ、いったい・・・どういうことなの?」
「このように海野光ではなく海野月と書かれているのを確認していただければ、そもそも私とは全くの別人とやり取りされていたということだったと、そういうことになるのが分かっていただけますよね・・・?ん、待てよ・・・海野光っていったら・・・」
「お兄ちゃん、どうしたの?何なのこの騒ぎは・・・」
「おお、アカリじゃないか・・・何でここにいるんだ?」
ヒカルが若い女性客と軽い押し問答になっていたというか、一方的に問い詰められていた感じになっていた丁度その時に若い女の子が現れた。その子は少し歳の離れたヒカルの妹であった。
「何でって、絵を見に来たのよ・・・それよりも、その人と何を揉めていたの?」
「おお、そうだった。それがなぁ、何かちょっとこちらのお客様が誰かSNSでやりとりしていた人と俺とをどうも人違いされているみたいなんだよ・・・」
「あの・・・そちらはあなたの妹さんなのですか?」
「そうです、私の妹です。それで、実はこの子の名前が・・・」
「もしかして、あなたはSUZUさんじゃないですか?私とSNSで仲良くなってずっと連絡を取り合っていて、それで今日ここで私と会う約束をしていたあのSUZUさんですよね・・・?」
ヒカルがその女性に妹の名を教えようとしたところで、その妹本人が会話に割って入ってきた。
「はい、私がそのSUZUです。本名は山下涼(すず)といいます。あなたは・・・?」
「やっぱりそうでしたか!私が海野光(アカリ)です。実際に会うのは今日が初めてですね・・・」
「もしかしてと思ったが、やっぱりそうだったのか・・・俺が漢字で海野光と書かれているのを見たらアカリのことを思い浮かべるんだけど、アカリのことを知らない人が海野光という名前を見たら、ヒカリなのかヒカルなのか、男なのか女なのかよく分からないだろうからな・・・」
「じゃあ私がずっとSNSでやりとりしていた海野光(ひかる)という人は、あなたのことだったの?」
「そうです!私の名前は光と書いてアカリと読むんです」
「そう、アカリって読むのね・・・光という漢字だったからヒカルさんかヒカリさんと読むのだと思いこんでいたわ、私・・・」
「良かった、とりあえず誤解は解けたようだ・・・」
「そうだったんですね・・・海野月(ヒカル)さん、失礼なことをたくさん言ってしまって本当に申し訳ございません。完全に私の早とちりでした・・・」
「いや、誤解が解けたのならもう大丈夫です。私たち兄妹の名前がちょっと変わっている上に紛らわしいということもありますから・・・」
「昨日SNSでアカリさんから伯父さんである海野勝男さんの画廊で一緒に作品を鑑賞しないかと誘ってもらって、現地で待ち合わせをしようということになっていたんです。私は待ち合わせの時間よりちょっと早く着いてしまって先に中に入って待っていたのですが、さっきヒカルさんのことを同僚の女性の方が呼び止めて話していたのを聞いてしまって、それであなたの名前を知ってSNSで知り合った人だと思い込んでしまいました・・・」
山下涼という若い女性はヒカルに謝罪をしてなぜ勘違いをしてしまったのかを説明してくれた。要するに、月と書いてヒカルと読ませたり、光と書いてアカリと読ませたりする海野兄妹の名前が彼女を混乱させてこんな騒ぎになってしまったということらしかった。
「あれ・・・しかし、平野さんは私のことを名前で呼んだと思うので、名字が海野かどうかは分からなかったのではありませんか?」
「それは・・・会話の内容でわかりました。あなたはご自分のことを勝男さんの甥だと言ってましたし、この画廊の代表をされている方が海野勝男さんであることはアカリさんから聞いていた上に事前にホームページを見て確認して知っていましたから、それであなたのお名前は海野ヒカルさんなのだと思ったんです」
「そういえば・・・」
ヒカルは先ほど交わした平野さんとの会話の内容を思い出してみた。
「ねぇヒカルさん、川上通先生が次に持って来て下さる作品についてだけど、どういう感じの作品なのかはもう確認できているのかしら?出来れば早めに知っておきたいのだけれど・・・」
「ああ、それなのですが・・・一応候補はいくつかあるようでして、僕も少し前にちょっと見せてもらいました。まあ、その候補の絵はやっぱりどれも風景画でしたけど、どれも全部とても良い絵でしたよ・・・」
「その時に川上先生と話してどれにするか決めるのは無理だったの?」
「勝男さんは通さんと僕とで話し合って決めてくれて構わないと言ってくれたのですけど、やはり実物を持ち込む前に勝男さんに確認してもらいたいんですよ。僕が勝男さんの甥だからといって大事なことを独断で決めてしまうのはいけない気がするんです。そんな大事なことを決める権限を与えてもらっているのは何か特別扱いされてる感じに思われかねないですし・・・」
「別にそんなことを気にするスタッフいないわよ。それに、代表は伯父と甥の関係だからといって変に贔屓みたいなことはなさらない人だってことはみんな分かってるわ」
「まあ・・・確かにそうですよね・・・そもそも僕がここで働かせてもらっていること自体が縁故採用なわけで、そこからして特別扱いはしてもらえているのに今更格好つけても仕方ないですけど、そのことと身内である僕を贔屓したり優遇したりして画廊の仕事の大事な部分を任せるのかどうかは、またちょっと別の話でしょうからね・・・」
「ヒカルさんは確かに画廊スタッフとしての経験はまだまだ浅いとは思うけれど、川上通先生を口説き落とすことが出来たのは間違いなくあなたの功績だってことはみんな認めているわ。実際、先生との交渉に関わったのはヒカルさんと代表だけなのだから。まあ、先生のいとこであるあの姫乃さんも間に入って色々やって下さったけどね・・・でもこの画廊の人間でいうとヒカルさんが一番動いたのだから、あなたが川上先生の担当を任されたのは妥当だとスタッフみんな思っているわ。だからあなたと川上先生が話し合って色々決めていって大丈夫よ。何か迷った時は代表や他のスタッフに相談したり頼ったりしても構わないから、もっと思い切ってやってみて下さいね」
「ありがとうございます、そう言っていただけると心強いです。頑張ります!」
「なんか・・・さっきのあの話を聞かれていたのかと思うとちょっと恥ずかしいな・・・」
二人の会話において山下涼が気になった部分はヒカルの名前と、あとはヒカルと海野勝男との関係についてのことであろう。
だからそれ以外のヒカルが他人に聞かれて照れくさいと思うような話の部分はさして気にも留めていない可能性が高くて少々自意識過剰なのかもしれないのだが、それはともかくとして同僚である平野さんがヒカルの名前を呼んだことと二人の会話の内容とを合わせて考えたら自分がSNSで知り合った同い年の女性であるはずの海野光という人物が実は目の前にいる画廊スタッフの男のことだったのだと、そういう風に山下涼が勘違いしても無理はないのかもしれない。
実際には、よく似た名前である上に漢字の表記までが紛らわしい名前をしている年の離れた妹が別に存在していてその人こそが「海野光(ヒカル)」改め「海野光(アカリ)」であったわけであるが、そんな可能性だってあるかもしれないなどと瞬時に考えられるかというと、この場合それはなかなか難しいであろう。
「それにしても・・・けっこう長い期間SNSでやりとりしてたのに、名前の光という漢字を何と読むのか今日までずっと確認してこないでアカリとやり取りしていたのですね・・・」
「本当にごめんなさい、そのせいで大変な勘違いをしてしまって・・・」
「いえ、別に責めてるわけではありませんから」
「彼女、結構そういうところがあるのよ。細かいことはあまり気にしない性格でおおらかと言うか豪快というかね」
アカリは涼の性格についてあまり気を使っていない感じの表現で言い表した。実際に会うのは初めてであるが、おそらくSNS上では相当親しくなっていたのであろう。
「というかな、お前が最初に自己紹介する時に予め自分の名前の読み方を伝えておけばそれで良かった話だろ?俺たち兄妹の名前はちょっと変わってるんだからな・・・」
「私の名前はお兄ちゃんほど変わってる名前じゃないから。一緒にしないでよね」
「いや、似たようなもんだと思うぞ」
「もしかして、アカリさんとしてはあえてそのあたりはちょっとボカシてたんじゃないですか?名前だけ見て男性か女性か分かりづらいようにあえてそうしてたのでは?そうしておけばナンパが目当てで寄ってくる男性をある程度防ぐことができるでしょうから」
「そうそう、それもあったのよ」
「なんか、後付けっぽいな・・・だいたい、最初に親しくなった時にお互い自分の性別くらいはすぐに明かすだろ?女同士ならナンパされるとか関係なくなるじゃないか・・・」
「それでもアカリさんの場合本名を使っているわけだから、個人を特定されることとか、そういうのに尚更気をつける必要があるでしょ?でも読み方を隠されている場合、アカリさんの名前のことを元から知っていないとアカリさんだと特定するのは難しくなると思うんです。漢字の読み方がちょっと変わっていることをうまく利用したセキュリティ対策の一つだと思います」
「その通り、さすが涼さんね。だから名前の読み方を明かすのはこうして実際に会った時にしようって思っていたのよ」
「まあ、ネット上で不特定多数の他人とやりとりする時のセキュリティは重要だからな。
そういうことなら構わないが・・・でも、名前が紛らわしい俺のセキュリティがおびやかされてんじゃあないのか?この場合・・・」
「そういえば、涼さんの名前はどんな漢字を書くの?」
「山下は普通の山下で、涼は涼しいっていう漢字よ。私の場合SNSでは本名をアルファベットでSUZUと表記しているのだけど、アカリさんとは逆で読み方だけ明かして漢字の方を隠すタイプのセキュリティ対策をしてる感じね」
「山下涼さんか・・・とてもいいお名前ですね。なんとなくですけど、名前だけ拝見したら芸術家というか、画家っぽいお名前に感じます」
「そうですか・・・?確かに私もアカリさんと同様に絵は描きますけど、自分のことをまだ画家だなんて言えないわ・・・」
「私と涼さんは絵画に興味がある人たちのためのSNSで知り合ったの。涼さんの作品の画像を見せてもらったこともあるけど、とても素晴らしい絵だったし、実際に絵画のコンクールで金賞まで受賞しているほどの実力なのよ。だから画家だと名乗ってもぜんぜんおかしくないわ!」
「あれはそこまで大きなコンクールではないから、金賞をもらったからといって画家だなんて名乗るのは恥ずかしいわよ・・・」
「いや、金賞を取られるほどの実力は相当なものだと思いますよ。そういえば、アカリもなんか学生向けのコンクールで金賞じゃないけど、なんかの賞はもらったことはあるんだよな。努力賞的な何かだったっけか?」
「私の話はいいのよ!あれこそ美術部の学生向けのマイナーな小さいコンクールだし、受賞したのも金賞じゃないから涼さんのとは比べ物にならないんだから。言っとくけど涼さんの方はかなり本格的なコンクールなんだからね!」
「アカリさんの絵もとてもいい絵だったじゃない。私はとても好きよ!」
「ありがとう。私の絵のことが好きだなんて、素直に嬉しいわ」
実際のところ妹のアカリが素直な性格であることは兄としても分かっているので、本当に喜んでいるのだろうなとヒカルは思った。
「こいつも結構絵は上手なんですよ。まあ、一応幼い頃からこの画廊にはよく来ていて、色々な絵をよく絵を見ていましたからね・・・」
「親バカならぬ兄バカみたいなこと言わないでよ、恥ずかしい・・・」
「そうやって子供の頃からここで絵画に親しんでいたというのは間違いなくアカリさんの絵の才能に良い影響を与えたのだと思いますよ。私としてはとても羨ましい環境だわ」
「絵が好きな人にとっては羨ましい環境なのかな・・・?とにかく、ややこしい名前のことで涼さんにかえってご迷惑をおかけしたかもしれませんが、こいつは本当に絵が好きですし、悪い奴ではないので、これからもアカリと仲良くしてやって下さい」
「こちらこそ、これからもよろしくお願いします」
「これからもよろしくお願いします、涼さん」
「アカリ、いいお友達ができて良かったな」
「それはお兄ちゃんに言われるまでもなくそう思ってるわよ。あとね、名前がややこしいのは私たちの名前をつけたお父さんとお母さんの責任ですから、私のせいじゃないわよ」
「それはそうかもしれんが、漢字で書くとどちらかというと俺の名前みたいなんだから、俺たちのことを知らない人が間違わないように、そういう配慮はしてくれよな」
「それはもう分かったから。でも、とにかく私の名前はお兄ちゃんの名前ほどクセが強い感じの名前じゃないからね、お兄ちゃんの名前って、なんか色々ネタの宝庫じゃない」
「なんだよそれ・・・別に面白いネタなんか無いだろ?」
「まずは、漢字で書いた時の字面を見てなんかクラゲっぽい名前だとかよく言われるじゃない。あと、月と書いてヒカルと読ませることを言うと、恐ろしいノートを使って世界の救世主になろうとしてそうだとか、囲碁のチャンピオンを目指してそうだとか、なんかそんな感じの漫画の主人公みたいな名前だとかもよく言われるんだよね!」
アカリは笑いながら実の兄の名前のことをいじってきた。
「確かに全部言われたことはあるが・・・それを今ここでわざわざ言わなくてもいいだろうが・・・」
「私は、海野月というお名前は綺麗で素敵なお名前だと思いますよ」
「そうですか?そんな風に言ってもらったらちょっと照れるな・・・まあ、トータルでいい感じの名前だとしても名字の方は私たちの名前を付けた親ですら選べないので、半分はたまたまというかご先祖様のおかげなのでしょうけどね」
「それでもご両親が熟慮されたのだと思います。ヒカルもアカリさんもとても美しいお名前だと思います」
「ありがとう涼さん。涼さんというお名前も美人の涼さんにピッタリの素敵なお名前だと思うわ」
「そんな、私なんて全然美人じゃないわ。アカリさんこそ私が想像してた通りで、明るくて女の子らしくて可愛い人だわ」
お互い褒め合っている二人の会話を聞きつつ、確かにアカリの言う通り山下涼は美人だなとヒカルは思った。
山下涼はどちらかというと顔はキリッとした感じの美人であり、身長は普通くらいだがスリムでスタイルも良かった。髪形は黒髪のボブヘアで服装も上下ともにほぼ黒と白だけで構成されたシックな感じのファッションであるが、そのファッションがどういう分類に入るのかまでヒカルにはよく分からなかった。何せクールな感じの美人さんだという印象である。
一方、妹のアカリはというと顔は卵型で目鼻立ちは割とはっきりしていているが、美人タイプの涼とは違ってどちらかというと可愛いタイプの感じの顔である。背丈は涼とほとんど同じくらいであり髪の毛も涼と同じく黒髪であるが、ロングヘアを後ろで一つ結びにしている。服装は地味というか割とおとなしめの普通っぽいファッションだとヒカルとしてはそう思っているのだった。
兄妹なのでヒカルとアカリの顔は似ているのかというと、他人からはよく似てるともあまり似て無いとも言われないし、ヒカル自身もどちらでもないと思っているのだが、アカリの方はというと別に似ていないと普段から言っている感じである。
二人の両親や祖父母、親戚などの身内からは二人は似ていると言われるが、これはおそらくどこの家族や一族でもわりとありがちなことなのであろう。兄妹だから似ているはずだという先入観もあるのだろうし、変にあまり似て無いなどと言うより似ていると言っておいた方が無難ということもあるのだろう。よっぽど似て無い場合を除いてだいたい身内からは似ていると言われることのほうが多いと思われる。
涼とアカリの二人の方に話を戻すと二人とも美術部であったりして絵を描いているということもあっていかにも文科系な感じに見えた。文科系ということで二人ともあまり活発ではなく大人しいというか落ち着いた感じの印象である。
ということでギャルやパリピ女子などといわれる子たちとは対極にいる感じであまり派手なタイプではないのだが、ルックスは間違いなく良い部類に入るはずである。そんなわけでヒカルの勝手な感想というかイメージとしては、二人とも学校では「一軍」とか表現される位置にいるかどうかはわからないが、最低でも二軍には入っていてそれなりに異性からもモテていそうにも思えた。
ヒカルが学生の頃は学校のクラス内で今ほどはっきりしたヒエラルキー的なものはなかったように思えるが、毎日楽しくてしょうがないみたいな充実した学生生活でもなかったので、二人を客観的に見て「ああ、この子たちの学生生活は毎日が楽しそうで何よりだなぁ・・・」などと、勝手にそう思うのであった。
とにかく二人の組み合わせについては見た目的にも中身も同じ属性っぽくていかにも気が合いそうに見えたしSNS上では親しくしていたらしいし、こうして実際に生身で対面してもすぐに打ち解けている感じであるのでこれからも良い関係でやっていけそうであった。
「とりあえず誤解も解けてついでに自己紹介もできてめでたしめでたしですね。これで心置きなくゆっくりと作品を鑑賞していただけそうだ。アカリ、お前はここをよく知ってるんだからしっかりご案内してさしあげるんだぞ」
「お兄ちゃんにいわれなくてもそのつもりよ!じゃあ涼さん、作品を見て回りましょうか?」
「はい、じゃあお願いします。ヒカルさん、ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした・・・」
「いえいえ、全然大丈夫ですよ。どうぞ楽しんで行ってください」
「はい、ありがとうございます」
「じゃあ、手前の方から順番に見ていきましょうか」
二人はギャラリーオーシャンに展示されている作品の鑑賞を始めた。ヒカルとしては、一時はどうなることかと思ったが、途中で妹のアカリが来てくれて助かったなと思った。しかしすぐに「いや、そもそもの元凶はあいつじゃないか・・・」と思いなおすのであった。
「何か一瞬だけ騒がしかったけど、大丈夫だったの?」
騒ぎを聞きつけて平野さんが来てくれたのだが、何か用事があったりしてすぐには来られない事情があったのであろう、何もかも解決した後の今更というタイミングでの登場であった。
「あ、平野さん。聞こえてましたか・・・」
「何かまた若いお嬢さんが騒いでいたような声が聞こえた気がしたけど、川上姫乃さんの声ではなかったわよね?なんか最近そういうのが多いわね・・・」
「そうか・・・そういえば、姫乃さんが最初に訪ねてきて猛烈に通さんのことを売り込みに来た時に最初に対応したのは平野さんでしたよね・・・大丈夫です、何も問題はありませんよ」
「本当に大丈夫なの?」
「はい、実はアカリがSNS上で知り合った同い年の女の子がここに訪ねてきたのですけど、なんかアカリがちゃんと説明してなかったせいで僕のことをSNSでやりとりしていた人間と勘違いして、同い年の女の子だと言ってたのにどういうことなんだと抗議してきたというわけなんです」
「ヒカルさんとアカリさんのことを間違えたって、そんなことあるの?」
「SNS上ではアカリは本名でその子とやりとりしてたのですが、アカリの名前は漢字で書かれてあると僕の名前と勘違いされやすいんですよ」
「へぇ、そういうことなの・・・ネームプレートを見たら別人だと気づきそうなものだけどね。とにかく、それは災難でしたね」
「ネームプレートはよく見てなかったみたいですね。それ以前にアカリからの情報と、あとはさっき僕と平野さんが話していた内容を近くで聞いていたのとですっかり思い込んでしまっていたらしいです」
「さっきの話を近くで聞いていた若い女の子がいたのね。全然気づかなかったけわ・・・」
「僕もです。あの時はあまりお客様に注意を払っていなかったので、急に激しく問い詰められてびっくりしてしまいました。まあ、すぐにアカリが現れて誤解は解けたのですけど」
「それなら良かったけど。男性のあなたが若い女性に急に問い詰められたら焦っちゃうわよね。姫乃さんに猛烈にまくしたてられた時は女の私でも焦ってうまく対応できませんでしたけど・・・」
同僚の平野さんは姫乃とのことがあったのでこの画廊で同じくらいの若い女性である涼が騒いでいたことに少々過敏に反応してしまっているのかもしれない。
姫乃にうまく対応できなかったことがトラウマにまではなっていないのであろうが、相当不本意ではあったのであろう。次に同じようなことがあった時にはその時こそ上手く対応しなければと思っているのであろうが、その時に本当にちゃんとそれが出来るか不安でもあるようだ。
「あぁ、あの時はすぐに勝男さんが来て対応してくれたけど、あの時のすごい勢いの姫乃さんに対応するのは誰でも難しかったでしょうね。僕なんかただ見てるだけで何もできなかったです」
「でも、ヒカルさんは最終的にはあの姫乃さんにも川上通さんにも上手に対応できてると思うわ。私もあの人たちにもっと上手く対応できないと駄目だと思ってます・・・」
ヒカルとしてはフォローしたつもりであったが気休めにもならなかったようだ。ヒカルはあの二人と自分とはたまたま相性が良かったからそこそこ上手くやれているだけだくらいに思っているのでもし仮に平野さんからあの二人に上手く対応できるコツはあるのかなどと聞かれても何一つアドバイスなど出来そうにない。
よってこれ以上あの二人についての話題を続けたり平野さんをもう少しフォローしようと頑張ったりしてみたところで仕方ないというか、もうどうしようもない気がするので話を変えようと思った。
「いやしかし、さっきの騒ぎもたまたま勝男さんが不在の時で良かった・・・」
「どうして勝男さんがいない時で良かったの?」
「え?それは・・・あぁ、そうですよね・・・そういえば勝男さんがいたらまずいということもないですよね。ん?どうなんだろ・・・むしろ、いない時で良かったのか?いる時のほうがまだ良かったのか・・・?」
「まあ、代表がいたとしても普通のお客様ではなくてアカリさんのお知り合いのことだし、それも勘違いされて騒いでいただけだったのなら騒ぎがあったことについて怒ったりその場にいた私たちに何か注意したりとかはされないと思うけど」
「そうですよね・・・勝男さんはアカリには結構甘いところがあるから、あいつが持ち込んだみたいなトラブルだったけど、それに怒ったりはしなさそうだし。じゃあ、いる時でもいない時でも一緒だったかな・・・?」
「まあ、大ごとにならずにすぐに解決できたようだから、どちらでも良かったのでしょうね」
職場において何かトラブルがあった時にその場に上司や会社の偉い人がいなくてトラブルがあったことを知られずに済んだ場合には「上の人に知られなくて良かった」となることもあるのかもしれない。ヒカルが思わず勝男が不在の時で良かったと言ってしまったのはそういうことなのであろう。
しかし、それは今回のようにたいしたトラブルでもなくすぐに解決できた場合であって、もし大きなトラブルであったり後に何か問題が残ったりした場合には結局上に報告せざるを得なくなるのが普通である。さらにはトラブルの大小の程度に関係なくたとえ些細なことでも上への報告が必要な職場だって存在するであろう。
しかし、このギャラリーオーシャンにおいては平野さんが言ったように今回の騒ぎのような場合には海野勝男という人間は特に気にもしないと思われる。
だから、もし今回の騒ぎについて勝男に知られたとしても問題は無いわけであるし、そんなことはヒカルも落ち着いてよく考えてみればすぐに分かったことなのだが、話を変えようとして何となく言ったことなのでそもそも深い意味は無かったしヒカル本人も実は大して気にしていなかったのについ言ってしまったというだけの話であった。
甥や姪であるヒカルやアカリと伯父である勝男との関係性から考えても大きな問題にはなりそうにない。幼いころからこの画廊に出入りを許していてちょっとした遊び場のようにさせていたようなところもあるので、今更ヒカルやアカリやその知り合いがちょっとした騒ぎを起こしても勝男が腹を立てるとは考えづらいのだ。
ヒカルは一応この画廊の従業員であるので仕事に関しては他のスタッフと比べて贔屓したり特別扱いしたりということはないのだが、勝男は今回のようなことくらいでは仮にヒカルではなく別のスタッフが当事者だったとしても御咎めなしにするであろう。実際、先日川上姫乃が騒いでいた時に平野さんが上手く対応出来なくて騒ぎを収められなかったので結局自分が出ていくことになったわけだが、そのことで平野さんを注意することはなく結局お咎め無しであった。
だから先ほどのヒカルの発言に対して平野さんもあのような反応をしたのであろう。よっぽど酷い騒ぎを起こされたりとても大切な顧客を招いていたタイミングで変な騒ぎを起こされたりとかいうことなら少々話が変わってくるのであろうが、今回程度のことであれば勝男が別段問題にはしないことは間違いないのである。
「でも、やっぱり・・・そう思われてたんだなぁ・・・」
平野さんと話しながらヒカルは心の中で思った。
「俺やアカリが今日くらいの騒ぎを起こしても大したことではないと平野さんは言っているけど、もしも自分がこの画廊でああいうトラブルに出くわした時にはあんな騒ぎにすらならないよう上手く対応できないと駄目だという認識なわけだから、やっぱり俺やアカリは勝男さんの親戚だからどこか特別なのだと思っているのだな・・・アカリはここのスタッフですらないからいいんだけど、俺はスタッフであるし今回の騒ぎの当事者だったのに、それでも大丈夫だって言うのだからな。やはり、フラットに見てもらえていないのだろうなぁ・・・まあ、平野さんはここでの経験は豊富でしっかりしてるということもあるのだろうけど・・・」
このヒカルの同僚の平野美奈さんという人はこの画廊ではそこそこのベテランというか、中堅からそろそろベテランの域に入りつつあるくらいの立ち位置のスタッフである。
実はヒカルはこの平野さんの年齢をちゃんとは知らない。彼女の年齢について普通に興味はあるのだが、女性であるしまさか本人に直接聞くわけにもいかない。女性でも明らかに新卒くらいの新入社員になら聞いても大丈夫そうであるが、彼女の場合年齢に関して一番敏感になっていそうな年頃っぽいので一番聞きにくい人ということになる。
以前それとなく勝男に尋ねてみたことがあるのだが、「確かお前と一歳か二歳しか変わらん歳だったはずだ・・・」と言ってはっきりとは教えてくれなかったのである。
ヒカルより一歳か二歳年上なのか年下なのかもはっきりしないニュアンスだったのであるが、どちらにしても二十代の終わりか三十歳くらいということになる。というわけで年齢の話はとてもデリケートな話題という感じになってしまうのだ。
なんにせよ、画廊のスタッフとしてそこそこ経験も豊富である平野さんから見たら、自分など仕事っぷりはまだまだであるのに勝男の甥だから何とか画廊の一員としてやらせてもらえているくらいの扱いのなのかもしれないなと思ってしまうヒカルなのであった。
そして、そんなことを言い出したら平野さんよりも年上でもっとベテランであるスタッフも何人かいて、その中にはヒカルがまだ子供の頃にここに遊びに来ていた時代からずっと働いている人だっているのだ。
そういう勝男と歳が近いくらいの年配のベテランスタッフからしたら、ヒカルなど「親戚の子供みたいに思っていたのがちょっと成長して近頃はここでバイトなどさせてもらい始めたのだな」くらいの扱いなのであろうから、平野さん以上に良い意味でも悪い意味でもフラットには見てくれてはいないのであろう。
そんな感じでこの画廊における自分の評価について改めて考えてしまうと、ヒカルがちゃんと画廊の戦力になっている一人前のスタッフだと言う風に見てもらえるようになるにはまだまだ修行が必要で大変そうだと思い知らされてしまう。ヒカルは何だかとても気持ちがしんどくなってきてしまったので、また話題を変えたくなった。
「そういえば、今日って確か勝男さんは休暇なのでしたっけ?プライベートで何か予定でもあるのかな・・・?」
「今日は野球らしいわよ」
「野球ですか?今日は・・・観戦にいく方ですか?それとも自分でやる方ですか?」
「中嶋さんからお誘いがあったらしいのだけど、今日は自分でやる方なのだそうよ」
「またいつものお誘いか、本当に好きなんだなあ・・・あの歳で草野球なんて元気だよなぁ、まったくパワフルな人だよ・・・」
海野勝男の最大の趣味は「野球」である。プロ野球や高校野球の観戦にいくことも好きであるし、友人らとチームを組んで自分でプレイするのも大好きなのである。
どちらも古くからの友人の中嶋さんという人からの誘いを受けて一緒に出掛けていくことがほとんどであるのだ。勝男が野球関係で出掛ける時は大抵というか、ほぼ確実にその中嶋さんが一緒なので、勝男本人もそう思っていそうだが画廊のスタッフはみんな「野球といえば中嶋さん」という認識になってしまっていた。
「お元気なのはいいことよ。仕事は文科系だけど趣味は体育会系というところが社長の人間の幅の広さがわかる一面でもあるしね」
「なんか、凄くいいように言うなぁ・・・甥の俺からみたら意外と子供っぽい一面があるなくらいのことなんですけど・・・友達に野球に誘われて即決で休暇をとるのもなかなかのことだしなぁ・・・」
「代表は自分がいない時でも他のスタッフだけで日常の業務を回せる体制を作り上げていて、その上で毎日出勤してきて精力的に活動されているからね。どうしても自分がいなければいけない日以外なら割といつでも休暇は取れるし、むしろもっと休みをとってもいいくらい働かれているわ。だからたまの息抜きの野球くらいは存分に楽しんでもらったほうがいいのよ」
「まあ、そうなんでしょうね・・・」
「ご自分で野球をされる時は怪我だけは気を付けて下さいとは言ってるけどね」
「そうなんですよ。勝男さんもまあ、いいお歳なのであまりハッスルし過ぎないようにしてもらわないといけないですよね。ほんと、怪我したらシャレにならないですよ・・・」
この発言はヒカルとしては完全に本音を言ったものであった。この画廊のスタッフとしても甥っ子としても本気で怪我だけはしてくれるなと心配しているのである。
一方、アカリと涼の二人は手前の方から順番に作品鑑賞を進めていて、そろそろ画廊の一番奥の方に辿り着こうかというところであった。
「さあ、いよいよ涼さんが見たかった作家さんの作品の展示スペースがありますよ!」
「もしかして、あれかしら・・・?」
「そうそう、あの風景画がそうよ。一番奥の方だってお兄ちゃんが言ってたから」
二人が目指す先にはこの画廊で今一番ホットな存在と言えるかもしれない画家の作品が展示されていた。
「涼さんの一番のお目当てはこの川上通という画家の絵なのよね?」
「そう、この人の作品の実物を見たかったの。これがそうなのね・・・」
「それはやっぱり、涼さん的にはこないだ私がこの作家さんについて話したことが気になってるのかな・・・?」
「そうね。アカリさんの話を聞いたらこの作家さんにとても興味がわいてきたの」
「この人は経歴が変わってるし、年齢的には中年の方だけどプロとして活動されだしたのはついこないだっていうんだから、なんか色々凄いよねぇ・・・でも、絵は割と普通な感じの風景画よね・・・」
「確かに、技術の方は画家としては普通ね。でも・・・この絵の魅力は技術どうこうとかでは無いわね。それまで特に何か目立った実績があったわけでもないのに有名な絵画コレクターが目をつけて作品を購入したというのも頷けるわ・・・」
「う~ん、勝男さんとかお兄ちゃんの評価はすごく高いみたいなんだけど、よくわかんないなぁ・・・お兄ちゃんはともかく勝男さんが評価してるのなら凄い作品なんだろうとは思うんだけどね・・・」
「私もアカリさんから色々と聞いていてどうしても凄い人の絵なんだって先入観を持ってしまってそうだから、できるだけ予断を持たずに見ようとしてるのだけど、それでもやっぱりちょっと只者ではない感じがひしひしと伝わってくるわ・・・」
「涼さんがそう感じるのだから、やっぱり凄い作家さんなのね」
「私はそう思うわ。ただ、こんな絵を描いた人が最近までほとんど誰にも知られていなかったというのは、ちょっと信じがたいわね。この作家さんは四十歳くらいらしいけど、その歳になるまで作品や才能が誰の目にも止まらなかったというのはむしろちょっと不思議なくらいだわ」
「確かに、学校の授業とかで絵を描くことはあるでしょうから美術の先生とか誰か絵画についての見識がある人がこの人の才能を見出していても良さそうなものよねぇ・・・」
「私、ますますこの人に興味が湧いていたわ。一度この川上通という人に会ってどういう人なのか見ることができないものかしらね・・・」
「たぶんこのギャラリーオーシャンにたまに出入りしているでしょうから、会える機会はありそうね。一度、勝男さんに頼んでみるか・・・いや、お兄ちゃんに頼んだ方がいいのかなこの場合・・・?」
「ここの代表の勝男さんよりもヒカルさんにお願いしたほうが良さそうなの?」
「お兄ちゃんはこの川上通って人の担当をしているのよ。だから、お兄ちゃんの方がこの人に頻繁に会っているし、細かい打ち合わせとかもだいたいお兄ちゃんが任されているそうだから。まずは勝男さんに頼んでもいいけど、結局担当であるお兄ちゃんに話が回っていきそうな気がするの」
「アカリさん、お願いしていい・・・?勝男さんにでもヒカルさんにでもいいので、一度私を川上通さんに会わせていただくことが出来ないか聞いていただけないかしら?」
「うん、じゃあどちらかに頼むだけ頼んでみるわ。結果がどうなるかはわからないけど」
「ありがとう、アカリさん。急に無理なお願いをしていただくわけだから断られても仕方ないので、駄目でもともとだと思っているわ」
またヒカルと平野さんのほうに場面を戻すと、勝男の趣味の野球について二人が話していた時に予定になかった来訪者があった。
「お邪魔しますー。川上です~!」
「こんにちは、お久しぶりです、ヒカルさん!」
「えっ、通さん?それに姫乃さんも・・・い、いらっしゃいませ。どうしたのですか?今日は画廊に来られるというご予定はなかったはずですが・・・」
「いえね、現在展示されている私の作品に買い手がついて売約済み状態で展示されてると聞きましたのでね・・・」
「はい、それはこの間お伝えした通りです。ですから次に預けていただけそうな作品の候補についてもお話しさせていただいたわけなのですけど・・・」
川上通がこのギャラリーオーシャンに初めて持ち込んだ作品はすぐには売れなくてどうなることかと皆の気を揉ませたのであるが、結果的には展示されてからひと月もたたない頃に海外のIT長者であるアルベルト・リッチマンに買われていった。そして、二回目に持ち込んできた現在展示されている作品も先ごろ買い手がついたのである。
作品を買ったのはこの画廊の昔からの常連客であった。その客は割と裕福であり勝男が薦めた作品を購入することも度々あるような、いわばお得意様であった。
実は、川上通が最初に持ち込んだ作品がもうしばらく売れなくてどうにもこうにもなりそうにない状況になった場合には勝男はこの客に薦めてみるつもりであったのだ。
しかし、最初の作品は無事に売れていったので次に持ち込まれた作品を薦めてみたのであるが、最初の作品が売れてすぐのタイミングであったので勝男としてもかなり自信を持って薦めることが出来たこともあってこれまた無事に売れたというわけである。
「はい、それはそうなのです。今度作品を買っていただける方もこの画廊の常連客の人であって作品を大事に持ち続けていただけるような方だということですので安心しております!」
「そうですね・・・購入されたのはそういうお客様ですのでどうぞご安心下さい。ということで今回も特に問題はないと思われますが、今日はどういったご用件でお越しいただいたのでしょうか?」
「いえ、別に大した用事ではないのです。お客様に買われていってしまうともうあの作品の実物を見る機会は一生無い可能性もありますので・・・」
「そうですね・・・その可能性はありますね」
「ですから、最後にもう一度だけあの作品をこの目で見ておきたいと思って来ました。最初に持ち込んだ作品はお客様のご希望で即日お持ち帰りされてしまいましたのでもう一度見ることは叶いませんでしたが、今回はまだ見るチャンスがあるので参りました~」
「そうですか、そういうことでしたか・・・」
最初の作品はアルベルト・リッチマン氏が自分の帰国のタイミングで一緒に持ち帰りたいということで、売買契約を交わしたその日うちにこの画廊から持ち出されてしまったのであった。もう海外に持ち出されていて、しかもそれがIT長者の豪邸のコレクション室に厳重に保管されているわけである。
だから美術館などに買われて展示されているのとは違って、実物をもう一度見ることができる可能性は相当低い。作品を気に入ってるわけであるから、その作者に興味を持ったアルベルト・リッチマンが川上通を豪邸である自宅に招くという電撃的な展開が全く考えられないわけではないが、おそらくそれはほとんどゼロ%に近い奇跡的な確率でしか起きないような出来事だと考えたほうが良さそうである。
今回の購入者はアルベルト・リッチマンとは違って画廊からわりと近い所に住んでいる人なのではあるが、とはいえ親しくなって家に招いてくれるような関係になれるかどうかは何とも言えないのでまだ画廊に展示されている今のうちが作品を目に焼き付けておく最後のチャンスかもしれないというのは間違ってはいないであろう。
「なんだ、そういう理由で来られたのか、それなら良かった・・・」
突然の通の訪問に驚いた上に、売約済みになっている作品の件で来たなどと言れたことでヒカルは少し要らぬ心配をしてしまって内心では少しヒヤヒヤしていたのだ。
「もしかしたらやっぱりあの作品売るのをやめたいと思っていて売約済みとして展示されている今ならまだ間に合うと考えて売買契約をキャンセルしたいなんて言い出さないかと不安になってしまったが、取り越し苦労だったか・・・とりあえず今回の売買も問題なく終わりそうで良かったよ・・・」
そんなことを思いつつヒカルはせっかく通が来てくれたのであるから、接待的なことをしながら次に預からせてもらう作品についての打ち合わせが出来れば都合がいいな、などと考えていた。
「もしかして、アポ無しで急にお邪魔してご迷惑でしたか・・・?」
ヒカルが何かを考えているのを察した姫乃が心配そうに聞いてきた。
「いえ、お二人でしたらいつでも大歓迎です。そもそも、特別なイベントを行っている時でもない限りこのギャラリーオーシャンは基本的に予約制ではなくて、どのようなお客様がいつ来店してこられても歓迎いたしますので、迷惑だなんてことはありませんよ」
そういうオープンな画廊であるから最初に姫乃が来店した時も飛び込みで通の作品を突然売り込み始めるなどというなかなか大胆な事が出来てしまったわけである。
「それなら良かったです。絵の作者であるトーリくんはともかく、私は付き添いとしてついて来たおまけみたいな者ですから」
「何をおっしゃいますか、姫乃さんは通さんのマネージャーみたいな大切な存在ですからおまけみたいだなんてことはありませんよ」
「そんな・・・私なんて大したことは出来てませんよ。ヒカルさんや勝男さんに比べたら、トーリくんに何もしてあげられてませんから」
「まあ、私や勝男さんはそれが仕事ですからね。そうだ、ご来店された目的はあの絵を見ておかれたいという事でしたね。ちょっと挨拶が長くなってしまいました。まずは、あの作品の方に移動いたしましょうか?」
通が自分の作品をどれくらいの時間を掛けて鑑賞するのかは見当もつかなかった。だから、とりあえずは打ち合わせの時間を確保させてもらうために出来るだけ早く鑑賞を始めてもらって、鑑賞が終わったあとに画廊に滞在する時間を少しでも残してもらえるようにしたいと思い、すぐさま作品のほうへの移動を促したヒカルであった。
「そうですね、じゃあ早速だけど見に行こうか?トーリくん!」
「そうだね。それでは、すぐに見に行かせてもらいます~」
「あ、私もお供させていただきます」
長い時間鑑賞するのか、それとも数分くらい見られたらそれで満足なのか、通がいつ鑑賞を終えるのか分からない以上、ヒカルとしては二人のそばにいて様子を伺えるようにしておく必要があったのだ。
「平野さん、ちょっと通さん達について一緒に作品のほうへ行ってきます。出来ればさっき話していた次に持ち込んでいただく作品についての打ち合わせも出来たらと思うので・・・」
ヒカルは平野さんに持ち場を離れる了承を得るべく小声でそう告げた。
「わかりました。フロアの方は他のスタッフで見るから、どうぞごゆっくり先生と打ち合わせしてきて下さい」
正直、自分がフロアにいてもいなくてもあまり変わらないことは自覚しているのだが、一応最低限の報連相(報告・連絡・相談)は欠かさない方が良いと思って先輩である平野さんに確認をとってから二人について行くことにしたヒカルであった。
しつこいようだが、ヒカルは画廊の代表の甥ということで縁故採用されているが、仕事はまだあまり出来ないので他のスタッフには結構気を使わなければいけない立場なのである。
「ありがとうございます。すいませんが、お願いします。通さん、姫乃さん、お待たせいたしました。それでは参りましょうか」
三人はすたすたと売約済みになっている通の作品の展示スペースへ向かった。
三人が通の作品の前に着いた時、アカリと涼はその直前に隣の絵のほうに移動していたので丁度入れ替わりで鑑賞を始める感じになった。
「ああ、やっぱりこんな風に額装されてこういう立派な画廊に展示していただくと見違えますねぇ。まるで自分の絵ではないみたいですよ!」
「作者の方にそう言っていただけると画廊スタッフとしてはとても嬉しいです。こちらとしましても作品をいかにより見栄えの良い感じに展示出来るかというところにはこだわっていますので、それが上手くいっているのだという実感が湧いてきます」
「本当に大事に扱っていただいて、私の方こそとても嬉しいのです。こちらの画廊にお預けして良かったと改めて思いますよ!それにしても、もうこの絵ともお別れなのでありますね。この絵を描いていた時のことが色々と思い出されます~」
通が自分の作品をあまりにも名残惜しそうに見ているので「やっぱり手放したくないですー」とか言い出さないだろうかとヒカルはまたちょっと心配になってきた。
「あれ・・・?お兄ちゃんと一緒にさっきの絵を見てる人ってもしかして・・・」
「あの恰幅の良い人ね・・・あの人がどうかしたの?」
「あの人があの絵の作者の川上通さんじゃないのかなぁ・・・?」
「えっ!あの人が、そうなの・・・?」
「そうだと思うんだけどなぁ・・・いま自分の絵がどうだとかこうだとか言ってるのが聞こえたの。それにね、一緒にいる私たちと同じくらいの歳に見える女の子は確か、勝男さんから聞いた話では川上通さんのいとこの子らしいわ。それでね、あの子が突然この画廊にやって来て、いとこである川上さんの作品を猛烈に売り込んできたらしいのよ」
「なにそれ?凄いわね。こんなところで突然猛烈に売り込み始めるなんて普通じゃちょっと考えにくい行動よねぇ・・・」
さっきまでそこそこ凄い剣幕で同じように猛烈にヒカルにまくしたてていたことなど忘れて涼は他人事のように驚き呆れていた。
「どうしよう・・・せっかく本人らしき人がいるのだから、これから三人のところへ突撃して川上通さんとお話し出来ないか聞いてみようかな・・・?」
「急にそんなことして大丈夫なの?ここは伯父さんの画廊だからトラブルとかになったらまずいんじゃなくて?」
今さっき自分が軽いトラブルを起こしていたのにアカリがトラブルを起こさないかは心配になってしまうようだ。
「そのあたりはお兄ちゃんを上手く使って和やかな雰囲気になるように持っていくわ!」
「そう?でも、くれぐれも無理はしないでね・・・」
「大丈夫よ。あの川上通さんらしき人もそんな怖そうな感じの人じゃなさそうだから。じゃあ、ちょっくら行ってみるわ」
アカリはそろりそろりとヒカルたちの方へと近づいていった。
「あのぉ、すいません、もしかしてあなたはこの作品の作者の川上通さんですか?」
「いかにも、私がこの絵の作者の川上通であります~」
「え、アカリ?何だ、いきなりどうしたんだ・・・?」
「おや、このお嬢さんはヒカルさんのお知り合いの方なのでしょうか?」
「はい、私の妹のアカリといいます。すいません、急に声をお掛けするなんて・・・ご迷惑でしたよね・・・」
「いえ、迷惑だなんてとんでもありません。そうですか、妹さんですか・・・」
「私、海野勝男の姪で海野月の妹の海野光と申します。いつも兄がお世話になってます!」
「いえいえ、こちらこそヒカルさんにはお世話になりっぱなしなのです!」
「おい、アカリ!ダメだろ、急に気安く声をかけてくるなんて失礼なことをしたら・・・それに、俺だって仕事中なんだからな・・・」
ヒカルはアカリのすぐ横まで行って小声で注意した。
「そんなにお気遣いしていただかなくても結構ですよ。この作品を見てくれて私のことも知って下さっていたわけですし、何よりヒカルさんのご家族なのですからね!」
「ありがとうございます。想像していた通りの優しい人で良かったです!」
「すいませんね、まだまだ子供ですから公私のけじめみたいなことがまだよく分かっていないようでして・・・」
「そんな堅苦しいことはよいではないですか。お二人はご兄妹なわけですし、なんでしたらもはや私たちは皆ファミリーみたいなもんやないですか!、くらいに私としては思っております~」
「そうですよヒカルさん、私も同じような感覚です。私とトーリくんもいとこ同士ですし、家族ぐるみのお付き合いみたいになってきてると勝手に思わせてもらってます!」
通も姫乃も突然話しかけてきたアカリのことを快く受け入れてくれた。
「そう言っていただけるとありがたいといいますか、私としましても嬉しく思います」
「あの、初めまして・・・私、川上通のいとこの川上姫乃と申します。ヒカルさんや勝男さんにはいつもお世話になってます」
「やっぱりあなたが姫乃さんでしたか・・・通さんと姫乃さんのことは勝男さんから聞いていてよく知っています」
「勝男さんから二人のことを聞いてるのか・・・」
いったい勝男は画廊のスタッフでもないアカリにどこまで詳しいことを話してしまっているのだろう、やはり勝男はアカリに対しては甘くて興味を持って聞いてきたことには何でもすぐに答えてしまうのだなとヒカルは思った。
「私の方も前にヒカルさんから美術部に所属していて絵を描くのが上手な妹さんがいらっしゃることは聞いていました。いつかお会いしてみたいと思ってましたので嬉しいです」
「そうでしたか、でも美術部だったのは高校までで、今年からは一応芸術系の専門学校にいってるんです」
「去年まで高校生だったなら私と同学年だったんですね。それで美術部にいただけでなくて芸術係の道に進んでいるなんて本格的で凄いですね!」
「いやぁ、私なんて・・・もっと凄い才能を持った人は沢山いますから・・・でもまた同学年の女の子と知り合えたのは嬉しいなぁ・・・」
アカリと姫乃は同学年で歳が同じなこともあって意気投合したようで仲良くしていけそうな感じであった。通もそんな二人のことを微笑ましく思っているようで、ニコニコしながら見ている。先ほど涼に宣言したようにアカリは上手く立ち回って本当に和やかな雰囲気に持って来ることが出来たようだ。
「それで、ですね・・・実はさっき言ったような私なんかよりもっと凄い絵の才能を持っている友達が、今日ここに来てるんです・・・涼さん、ちょっとこっちに来てくれる?」
アカリは振り向きながら少し離れたところで待っていた涼のことを呼んだ。
「この人は山下涼さんといいます。私の友達なんですけど、絵の才能が凄いんです。結構有名な絵画コンクールで金賞を受賞したこともある実力者なんですよ!」
「失礼します、いまご紹介にあずかりました、山下涼と申します。紹介していただいた通り私も絵を描く者の端くれなのですが、こちらに展示されている川上通さんの風景画を見せていただいて、こんなに深みのある凄い絵を描く人はいったいどんな方なのだろうと非常に興味を持ちまして、もし叶うのであれば一度実際に会ってみてお話を聞いてみたいと思ってアカリさんにお願いしてたのですが、偶然今日ご本人が来店されていると知ってアカリさんが声を掛けてくれたというわけなんです・・・」
「ほう、そうでしたか。しかし、私のような者にいったいどういう話を聞きたいのでしょうか?あなたのように若くして既にコンクールで金賞を取られるほどの実力がある優秀な方が私などの話を聞いても参考になることなど何も無いと思うのですがね・・・」
「え?そんな・・・参考になることが何も無いなんてことはないと思いますけど・・・私はアマチュアですけど、川上さんはこうして画廊に作品が置かれていて、そしてそれを買われるお客さんもいるわけで、いわばプロの画家なわけですからね。実際この絵だってもう売約済みになっているじゃないですか・・・」
「それに関しては大変嬉しいですし、いま私は恵まれた環境にあると思っていますー。しかし、私はこの通りの中年で歳は四十一歳なのでありますが、そんな私もつい最近までアマチュアだったのですよ」
「それはアカリさんから聞いて存じ上げています。プロの画家になる経歴としてはなかなかレアな感じのパターンであることは聞いているのですが、でもそのお歳まで絵の才能を表に出さずに生活されていたのに最近になって急にこうやって画廊に作品が置かれるような華々しいデビューを飾るなんて、それはそれで凄いことだと思いますけどね」
「それもこれも、ここにおられるヒカルさんやこちらの代表の海野勝男さんにご尽力していただけたから実現したことであります。あとは、私のいとこであるこの姫乃さんが私のことをこの画廊に売り込みにきてくれたことも大きいですね。私は今に至るまでずっと自分の好きなように絵を描いてきただけですから、何も成し遂げていないようなものなのです。そういうわけで私などは画家としてはまだまだペーペーなのでありまして、ヒカルさんや勝男さんのお力添えがなければとてもじゃないですがプロの画家などには成れていないような、そんな感じの大したことのない人間なのです~」
「そんなこと・・・それって、謙遜されてるだけじゃないですか?」
「いえいえ、私は事実を申し上げたまでなのでありますよ!」
多少は謙遜もあるのであろうが、通は本心を述べていた。そして彼が述べた内容は客観的に見てもほぼ事実と言ってよいので少なくとも彼が変な嘘をついているなどということは無い。しかし、それを聞かされている涼はぜんぜん納得がいかないという感じで通に反論してきた。
「プロとしてやっていけてる画家が大したことがないなんて、普通に考えておかしくないですか?じゃあ、私たちのようなアマチュアの画家なんてもっと大したことない存在ということになるわけですよね?」
通に対してそう言い返した涼はもう既にだいぶイラついているような様子であった。
「いえ、決してそんな意味で言ったわけではありません。しかし、お気を悪くされたのなら申し訳ございません。むしろ、私などはコンクールの受賞者や美大などに合格するくらいの実力をお持ちの方と比べられてしまうと、全然劣っている劣等生のような絵描きなのでありますよ」
なんと通は自分などコンクールで金賞を受賞した涼をはじめとした公に認められたような何らかの実績を持つ画家には全く敵わないのだと完全なる敗北宣言をしてきた。だが涼としてはそのようなことを言われるとますます納得がいかないのであった。
「プロがアマチュアに負けてるなんて・・・そんなはずはないでしょ!コンクールの受賞歴や美術系の難関校の合格歴なんて、最終的にプロの画家になれなければ勲章にもならない無意味なものだと思いますよ」
「私から言わせていただくと、そういうものが無意味だという意見のほうが不思議なのです。むしろ私はあなたのようにコンクールで金賞を取られるような方を尊敬いたしております。私は今までの人生において金賞を取るどころかコンクールというもの自体と無縁なところでこそこそと絵を描いていただけの人間ですからね。劣等生だという事実を突きつけられたくなくて他者との勝負を避けて、偉い方々からの批評からも逃げて、本当にこっそりと人知れず絵を描き続けていただけの臆病者で卑怯者な人間なのですよ」
涼はプロの画家である通が自分などは劣等生だと主張することに納得がいかなくて、腹立たしくすら思えるくらいであるらしいが、どうやら通は通でコンクールや美術系の学校の受験など、絵の専門家に実力をジャッジされるような場に苦手意識があるらしくて、さらにはそういう場で勝ち上がってきた画家たちにコンプレックスを持っているようなのである。
「そんな・・・通さん、あなたは自分の絵が他人からの評価にさらされることを嫌っていたのは事実なのかもしれませんが、でもあなたの作品は間違いなく素晴らしいですし、評価されているからこそ購入されるお客様もいるのですよ。そんな風にご自分のことを卑下することはないと思います!」
相当自虐的になっている通を見かねたヒカルが慌ててフォローしたのだが、涼が追い打ちをかけるようなことを言ってきた。
「百歩譲って、この画廊でデビューする前のアマチュア時代であればそういうことをおっしゃられるのも理解はできます。でも、今はプロの画家であり実績もあるのにまだそんなことを言っているなんて変だと思いますし、実力を認めてくれた代表の海野勝男さんやそちらにいらっしゃるヒカルさんや、あとはあなたの作品を気に入って買われていった方にも失礼ではないですか?」
涼の言うことにも一理あるというか、正論といっても良いくらいなのだが、十代の女子学生が四十歳を超えている中年の画家、それもプロの画家を捕まえてこのような説教じみたことを言うのはなかなかことである。
若いのに堂に入っているというか、肝が据わっているというか、もはやあっぱれと言いたいくらいであるが、逆に言われている側からすればたまったものではない。
「涼さん・・・ちょっと、ヒートアップしすぎじゃないかなぁ・・・?」
それまで黙って成り行きを見ていたアカリであったが、歯に衣着せぬ発言で通のことを責め立てる涼のエスカレートぶりにだんだんハラハラしてきてこらえきれなくなって口を挟まずにいられなくなった。しかし、アカリにそう声を掛けられても涼はそのままのペースを崩すことはなかった。
「私はいたって冷静よ。それともアカリさんは私の方が何か変なことでも言ってると思うのかしら?」
「それは・・・涼さんが間違ったことを言ってるとは思わないんだけどね・・・」
「間違ったことを言っていないのなら問題はないわよね・・・」
自分では冷静と言いつつも実際のところ涼はかなりイラついていたし、自分でもそれは自覚していた。しかし、それを認めたくはないという思いがあるのか、もしくはイラついていることは認めるが、然れども自分の言い分はすこぶる正しいのだという自負があるからなのか、通に対してまだまだ何か言いたげなようであった。
「涼さん、ちょっと・・・」
アカリは通に聞かれないようにするため彼から少し離れようと思い、涼の正面に立ち彼女の両方の二の腕に自分の手をそっと添えるように置くと、そのまま少し後方に連れて行って涼が通にやや背を向けるようにポジショニングして小声で説得するように言った。
「涼さんの言ってることは間違ってはいないと思うけど・・・ほら、芸術家の人って自分自身はこうありたいみたいな理想像や強いこだわりがある人も多いから、まだ自分がそこに達していないみたいなギャップを感じて自分のことを強く否定するような人もたまにいるじゃない?川上さんもそんな感じじゃないかな・・・?」
「確かにアカリさんの言うような芸術家の人もいるけど、あの人の場合ちょっと違っているというか、何か不自然な感じがするのよ。自分自身に対しての理想が高いだとか、自分の実力に自信があるのに大袈裟に謙遜してるだけだとか、何かそういうレベルの話じゃなくてただただ自分のことを否定して卑しめている感じで、何か変な感じなのよ・・・」
涼は通の煮え切らないというか卑屈すぎるとも取れるような態度を見ていると、どうしてもイライラしてしまうようだ。そして、実は自分でもそのイライラの正体に薄々気づいているのである。
「あとね・・・勝男さんが認めるくらいだから川上さんはそれ相応の才能の持ち主であることは間違いないけど、私は涼さんだって負けないくらいというか、彼以上に凄い才能の持ち主だと思っているわよ!」
「ありがとうアカリさん・・・でも、勝男さんはそうは思っていないんじゃなくて?」
「勝男さんだって川上さんのことも涼さんのことも評価してると思うわ。でも、二人の年齢が違い過ぎるから二人に同じような対応はしないだけだと思うんだけど・・・」
そうやって二人がこそこそ話していると通が近づいてきて諭すように涼に話しかけた。
「あの、よろしいでしょうか・・・?さっきあなたがおっしゃったことはその通りなのかもしれません。ただ、私としましては思っていることを嘘偽りなく申し上げたまでなのであります。コンクールで金賞をお取りになったあなたのことは尊敬いたしますし、自分自身のことはそういったものに挑戦すらできない情けない画家だと思っております。それは信じていただけませんかね・・・?」
「あなたが嘘を言っているとは思いません。そもそも心の中で何をどう思うかはその人の自由ですからね。でも私が納得いかないのはそういうことではないんです・・・」
「蒟蒻問答」ではないのだが、いまいち噛み合わない問答を通と繰り返してきた涼のイライラはもう限界に達したようである。そしてその結果、ついに彼女は思いもよらないことを口走った。
「そもそも、あなたは・・・本当にあの凄い風景画を描かれた方なのですか?」
「へ?それは・・・どういうことでありますか・・・?」
「ちょっと言い方が強すぎましたね・・・訂正します。あの作品はあなた一人の力だけで描き上げたものなんですか?」
「す、涼さん?それは、さすがにちょっと失礼じゃないかな・・・」
川上通はこの画廊にとって大切な作家だと聞かされていたので、兄と違ってここのスタッフではないのだがアカリも画廊の主の身内として一応は涼のことを諫めなければと焦ってしまった。だがアカリが涼を制止しようとしているのも構わず通の方から涼に話しかけてきた。
「山下涼さん、あなたは・・・なぜそのように思ったのでありますか?」
「さっきまでそちらの絵をじっくり見させていただいてましたが、私なりの素直な感想を述べさせていただくと、一見素朴な風景画のようだけど実はすごく深みのある凄い絵だと感じました」
「そうですか、そういうご感想をいただけますと私としてもとても嬉しいのです!」
「でも、この絵のイメージとあなたとが全く結びつかないんです。そこへ持って来てあなた自身がご自分のことを大したことがないだとか情けないだとかおっしゃるんですから、あの凄い作品とあなたとに何かギャップを感じても不思議じゃないですよね?そして、あの凄い絵は自分が描き上げた傑作なのだと、胸をはって、自信をもって言い切れないことに対して疑問というか、疑念を抱いてしまったというわけです」
「そうですか・・・私の発言についてそういう風に取られましたか・・・私の言い方と言うか、態度がこういう事態を招いてしまったのですね・・・」
通は涼からあらぬ疑いのようなものをかけられたのだがそれに対して頭に血が上ったり怒ったりするわけでもなく、もしくは濡れ衣に対して焦ってしまうというわけでもなく、ヒートアップしている涼とは逆でどちらかというと冷めてしまった感じで少し元気を無くしてしまったようであった。そして、やはり涼を諭すというかもはや弁明するように語り始めた。
「私は勝男さんやヒカルさんには大変感謝しております。そして勿論、私の作品をご購入していただいた方々にも同じく感謝しております。あと、作品に関してですが・・・あちらに展示されている作品は、良いものになるようにと全神経を注ぎ込んで描き上げたものであります。私は作品作りには断じて妥協などしておりませんことも誓えますし、全身全霊傾けて作り上げた文字通り私の分身であるとまで思っておる次第なのです」
「ですから、あの作品についてはあなたも今おっしゃったみたいに自己評価が高いようですし、私も凄いと思っていますし、勝男さんやヒカルさんも高く評価されているということですので、いわば自他ともに認められた傑作ということになると思います。それなのにその作品を描かれたはずのご自分のことは大したことがない画家とおっしゃられるのが私にはどうしても不自然に感じられるんです。何かご自分の実力で凄い絵を描いたと言いづらい感じの引け目みたいなものでもあるのだろうかと思ってしまうんですよ・・・」
やはり、二人の主張はどこまでいっても平行線をたどってしまいそうで埒が明かない状態に陥ってしまっていた。
「あの、涼さん・・・」
互いに実力を持っている画家である当人同士が議論をしているところに口を挟むべきかどうか思案していたヒカルであったが、やはり通の担当として言うべきことは言わねばと思って二人の間に割って入っていった。
「こちらも百歩譲って・・・通さんがご自分のことを卑しめるような発言をなさるのは私としてもあまり前向きではないとは思います。しかし、あなたの行き過ぎた発言を川上先生の担当者として見過ごすわけにはまいりません!」
「私の発言が行き過ぎだというのですか・・・」
「ええ、さっきアカリも言ってましたが、やはりあなたの発言や主張はこの川上通先生に対して失礼であると言わざるを得ません。あなたの主張が根本的に間違っていることを私が証人としてはっきりと申し上げることができます。なぜなら、私は川上先生が絵を描いている様子を実際に見たことがあります。そして、こちらにいらっしゃる姫乃さんにいたっては私以上に川上先生が創作されている場に多く立ち会っておられます。ですから川上先生がご自身で作品を描かれていることは少なくとも我々二人が証明できます!」
「失礼な発言だったのは承知の上ですし、謝罪しろというなら謝罪します。しかし、私もあの作品をまるまる川上さんとは別人である画家が描いたのでは?などとは言いません。でも、誰かからアドバイスを得たり何らかの協力を得たりしているのではないかくらいのことは思ってしまってます。理由はさっきから言ってる通りですけど・・・」
「いえ、ですから我々は先生が誰かからそんな協力を得ているところは見たことがありませんよ」
「ではお尋ねしますが、画家が作品を描く時は大抵自分一人だけの空間で黙々と作業するものだと思いますけどヒカルさんと姫乃さんのお二人はあちらに展示されている作品を川上さんが描く様を一から完成までずっとそばにいて立ち会っていたわけですか?」
「そ、それは・・・そもそもあの作品は私が川上先生を担当する前というか、初めてお会いしたその時よりもずっと前に描かれたものですので、私はあの作品を描いている姿は全く見ていないのですけど・・・」
「私も・・・あの絵を描いてる時のトーリくんの姿を見たか見てないかまではちょっと覚えていません。私は子供の頃からトーリくんが絵を描いているところを何回も、それこそ百回以上は見ていると思いますが、トーリくんが自分のアトリエにこもって絵を描いている時やどこかに出掛けてそこで景色を見ながら描いている時のことまではさすがに知りませんねぇ・・・」
「そうでしょうね、それが普通だわ。美術の授業や部活動で絵を描く時はそばに同級生が何人かいたりするでしょうけど、川上さんは学生ってお年ではないですからね。要するに、川上さんがあなた方の知らないところで創作されている様子を知る術はないということになりますよね?」
「まあ、そうですけど・・・だからといってそれは川上先生が誰かの協力を得ているという根拠としては弱すぎると思いますよ」
「まあ確かに・・・悪魔の証明じゃないですけど、誰も見ていない時でも後ろめたいことなどはやってないことを証明できないから後ろめたいことをしているはずだ、みたいな論法はちょっと乱暴だとは思いますけどね・・・」
「そうでしょう?あの作品を創作していた時だって、川上先生は誰かの手を借りたりはせずに自分の力だけで描き上げたのだと私は信じていますよ!」
「あそこに展示されている作品は素晴らしいですし、以前この画廊に展示されていた川上さんの別の作品も画廊のホームページで見ることが出来ましたけど、やはりその作品も同じく素晴らしいものでした」
「だったら、川上先生のことを信じられませんか・・・?」
「だからこそですよ。作品自体は間違いなく素晴らしいのにその作者であるはずの自分のことは劣等生で大したことがない情けない画家だなんて言うのはおかしくないですか?あれらの作品の作者であることを誇れないような、何か後ろめたいことでもあるのかと思われても仕方ないと思うんですけど・・・?」
「それは・・・そんなことを言われてもなぁ・・・私は先生のことを信じていますし、ご自分の力以外の何かに頼っておられるところを見たりもしてませんしね・・・」
結局、涼の相手が通本人から担当者であるヒカルに変わっても、やはり互いの主張がどこまでいっても平行線をたどってしまう展開になるのは変わらないのであった。
「私は、川上さんが完全に自力だけで創作してるのかしてないのかについては、そこまでこだわってないんですけどね」
「え?それは、どういうことですか・・・?それだとちょっと話が変わってきちゃうんですけど・・・そこが重要なのではないのですか?」
「説明が必要ですね。また百歩譲って・・・もしも川上さんが誰にも見られていないところで創作されている時に、どなたかからアドバイスをもらったり、または直接的なアドバイスでなくても誰か他人と作品について会話などしていて、そこからインスピレーションをもらって作品作りに生かしていたりしていたとしても別に問題はないと思います。ヒカルさんだってそのくらいなら問題ないと思うでしょ?」
「まあ、描いているのが川上先生ご自身であればね・・・しかし、そういうのも程度にはよると思います。誰かの言いなりになって完全に言われた通りに描いていたとしたらちょっとアレだとは思いますが、川上先生に限ってはそれもないと思いますけどね」
「その根拠は何ですか?」
「ご本人の前では言いづらいのですが、姫乃さんから先生は他人とのコミュニケーションが苦手であると聞いていますので・・・」
「それもまた根拠としては弱い気がしますけどね。でも何にせよ、創作時に他人の意見に頼っていたとしてもそれほど問題はないと思うんです。他力本願が問題になるとしたらむしろ完成した作品を展示したり販売したりする局面を迎えなければならなくなるプロの画家になった段階での話だと思います」
「えっと・・・あの、またちょっと話が変わってきちゃいましたか・・・?」
ヒカルは涼が新たに次々と展開させていく主張について行けずに振り回され始めていた。
「分かり易く言うと画廊からのサポートをどの程度受けているのかというのが問題になると思います。少し言い換えると画廊の力をどのくらい頼りにしてしまっているのかということですね」
「いやそれは・・・画廊としては作家の方々に頼りにしていただいてなんぼと言いますか、むしろ頼っていただいてどれだけサポートをさせていただけるのか、それがメインの仕事みたいなもんだと思ってるんですけどね・・・」
経験が浅い画廊スタッフのヒカルであったが、勢いでというか皆の手前そのように言うしかなかったからか、いっちょまえに画廊スタッフとしての心意気みたいなものを語ってしまっていた。
「ていうか、そういう話でもないんですけどね・・・」
「え?ではどういうお話なのでしょうか・・・?」
ヒカルの見せた心意気は空回りというかすぐさま空振りに終わったらしかった。
「こちらの画廊では多くの作家の作品を扱っているように見えますけど、その中でどうして川上さんだけをそこまで優遇なさっているのでしょうか?」
「ゆ、優遇・・・ですか?いえ、そんな別にねぇ・・・私は川上先生の担当ですし、しかも私が担当させてもらっているのは川上先生だけということもあって先生に全力を注いでいるのでそう思われてしまうのかもしれませんが・・・しかし、それは私個人の話であって、画廊としては全ての作家さんに平等に同じようにサポートさせてもらっております。勿論、作家さんの人気と申しますか、現時点での売れ方に応じてサポートの仕方も自ずと変わってくるのですが、最終的には全ての作家さんに人気の売れっ子画家になっていただけるためにサポートさせていただいていることに変わりはありません。それが作家さんにとっても画廊にとってもメリットになって、いわばウィンウィンの関係が構築できるわけですからね」
「図らずもいまヒカルさんの口から作家に応じてサポートの仕方は違うというお話が出ましたが・・・ではお聞きします、この画廊で作品を扱っている作家の中でまだ人気画家ではない人が何人かいるのですよね?」
「はい、まだそういう段階の方は当然何人かいらっしゃいますね・・・」
「それではその中でなぜ川上さんのことをこれほどプッシュされているのでしょうか?」
「なぜ、ですか・・・?先ほどから申しておりますが、川上先生だけを特別にプッシュしているわけではありません。でもまあ、しいて言えば才能といいますか、勝男さんがこれは売れると見込んだ作品は他より目立つ場所に展示されるので、なぜかと聞かれたらそういう理由だとしかお答えの仕様がないですね・・・」
「では、この画廊でまだ人気画家になってない他の作家はみんな川上さんより才能が劣っているという判断をされているということですか?」
「え?いや、別にそういうわけでもないのですけどね・・・そもそもこの画廊では勝男さんが才能ありだと認めた作家さんの作品しか扱わせてもらっていませんし、まだ人気画家とまではいってない他の作家さん達がみんな川上先生に劣っているだなんて、そんなことは勝男さんをはじめとした画廊のスタッフ全員誰も思っていませんよ!」
「それだとさっき言われてたなぜ川上さんの作品を良い場所に展示して売れるようにプッシュする作家に選んでいるのかという理由の説明がつかなくなりませんか?」
「そ、それは・・・そんなことを言われましても・・・どの作品をどの展示スペースにどのように展示してお客様にアピールするのかという最終的な判断や決定は勝男さんがやりますから、私に聞かれましてもね・・・」
そもそも画廊の業務や経営などについてそれほど詳しい知識があるわけでもないヒカルが答えるには限界がある踏み込んだ話になってきたので、ヒカルとしてはとりあえず代表である勝男の判断なのでと言い逃れするしかなくなったのであった。
「じゃあ、とてもシンプルに言ってしまいますけど勝男さんが川上先生のことを気に入って贔屓しているのかもしれないけど、真相のほどはヒカルさんにも分からないという、そういう結論になるのですね?」
「いや、勝男さんは特定の作家さんを贔屓したりとかいうことはありませんよ。画廊の経営に関してはとても合理的な判断をされる人ですから、贔屓なんて不合理なことはなさらないと思いますね」
「ご本人を前にして失礼なのでしょうが、率直に言わせてもらうとこの画廊で作品が扱われている作家さんの中で川上さんの技術やセンスやトータルの才能が飛びぬけているのかといえば、そこまでではないように私には思えるのですけど、それでも既に人気も実績もある作家さんと同等に近い扱いをされていることを優遇や贔屓だと思うのはおかしいことですか?」
「いやぁ・・・まあ、何をもって他の作家さんより優れていると言えるのかなんて、それ自体なかなかに難しい話ですのではっきりとした基準も申し上げようがありませんが・・・そういえば以前勝男さんが、画廊がどの作家さんを売り出しにかかるのかはタイミングが重要だと言ってましたから、きっとそれもあるのだと思います」
「タイミングですか・・・それはあるかもしれませんけど、でも普通画廊としてプッシュする場合他の作家と比べて飛びぬけた才能が見られたり、もしくは何らかの実績があったりする作家を優先的に選んでプッシュするもんじゃないですか?それこそ経営において合理的な判断をされるのであればねぇ・・・」
「ま、まあ、当然そういうのも基準にはなると思いますが・・・勝男さんは合理的でありながら尚且つ状況によっては直感的に判断して動かれたりもしますのでねえ・・・」
「センスや技術などの才能は他の作家と比べて飛びぬけていなくても、勝男さんが直感で川上さんの絵は売れそうだと判断してプッシュしてるということですか?」
「そうですね・・・まあ、多少はそういう面もあるのかなとは思いますね・・・」
自らは有名なコンクールで金賞を取った実績もあって間違いなく才能がある涼の意見はなかなか痛烈であり、特に通にとっては相当手厳しいと思われるものであった。
アカリとの会話でも通の絵を見て「技術の方は画家としては普通」と言い放っていたので通の作品自体も深みがあって良い作品だと位置づけてはいるが、それはプロの画家として到達すべき最低限のレベルにはあるという意味に過ぎないらしい。
涼は画家・川上通については名だたる有名画家たちはもちろんギャラリーオーシャンで作品を扱われている他の画家と比べてみても別にそこまで才能が突出しているわけではなくて、プロの画家の中では凡庸なほうだと
思っているようである。
ヒカルも多くは無い経験や知識を駆使して通のことをフォローしようとしたが、ほとんど力になることは出来ずに終わってしまいそうであった。
そして今度はまた通本人が二人の前に出て来た。どうやらヒカルとバトンタッチするようである。
「ヒカルさん、私のことを庇っていただいて申し訳ありません。そしてありがとうございます。涼さんが何か私に対して不信感を抱いてしまっているのは、ひとえに私自身の不徳の致すところなのです」
「別に私だって不信感を抱くところまでいってません。ただ、ご自分の作品に自信がおありでしたら、自分を卑しめたりせずに堂々とすればよいのに、そうされてないことが不自然であると、ずっとそう主張し続けているだけですよ」
「しかし、私としても偽ることなく本心を打ち明けたまでのことですからね・・・どうしましょうか・・・?どうすれば分かっていただけるのでしょうか・・・」
「さあ、どうしましょうかねぇ・・・」
涼も若干呆れたようにそう答えた。
そして、通は少し考えた後にこう言い放った。
「それでは・・・・・・こうしましょう!」
「おい、海野くん、あの裸足の親分さんは・・・どちらへ行かれたんだ?」
「え?ああ、駐在さん・・・一緒にいるのは村役場の人か・・・二人とも何をそんなに慌てているんだろうか・・・?」
「どちらに行かれたのかと聞いておるのだよ!」
「ああ・・・はい、今日この村を出てまた違う場所に旅に出ると言って、ほんのちょっと前に出て行かれるところをお見送りしましたよ」
「な、何だって!海野くん、なぜお引き留めしなかったんだ!」
「え?いや、なぜと言われても・・・」
「いいか、よく聞きなさい!あの方はな、あの有名な画家の川上通さんであらせられるのだぞ!」
「えっ!あの人が、あの有名な流浪の画家の・・・!?」
「そうなんだよ!ほんのちょっと前に見送ったならまだそう遠くには行ってないだろう!」
「向こうの方に小さく見える人影がそうですよ」
「ああっ、あんなところに!かぁわかみしぇんしぇえええ~いっ、ま、待ってくぅだせぇえええいいいっ!」
「何をやってるんだ、君も一緒に追いかけるんだよっ!」
「え?あ、はい・・・か、川上しぇんせぇええええ~いい!」
皆が追いかけて来るのに気づくと、流浪の画家・川上通は小走りで逃げていった・・・
「ピピピピッピピピピッ・・・・・・」
「はっ!なんだ・・・?ああ、夢だったのか・・・」
ヒカルは目覚まし時計の音で目を覚ました。
「もう時間か、今日はちょっと早く出ないといけないからな・・・それにしても、なんだかなぁ・・・よくわからん夢だったな・・・通さんが旅の画家なのはわかるけど・・・何だよ、駐在さんって?誰なんだよ、村役場の人って・・・・・・?」
ヒカルは何だか設定が自分でもよく分からない感じの夢を見ていた途中で目を覚まされてちょっと戸惑っていたのだが、その日の朝は素早く身支度を整えるといつもより早い時間に家から出掛けて行った。
「ああ、なんだかなぁ・・・思ってもいなかった展開になったな・・・」
ヒカルは各駅停車の電車に揺られながら独り言でそうぼやいていた。そして、とある待ち合わせ場所まで電車で向かいながら先日の通の発言を思い返した。
「それでは・・・こうしましょう!ここにいる皆さんで一緒に絵を描く旅に行くのです!」
「旅?皆で旅に・・・行くのですか・・・?」
通の唐突な申し出にヒカルは戸惑ってしまった。ヒカルだけでなく他の皆も通が思ってもいなかったようなことを発案したので同じような反応になっていた。
「ええ、実は私、次の日曜日に少々遠征をして、そこで景色を見ながら絵を描くという感じの小旅行のようなものを計画しているのですが、その小旅行に、皆さんもご一緒に行きませんかということなのですよ」
「旅行ですか・・・それはまた、急なお話しですね・・・」
「小旅行のようなものといっても勿論日帰りでして、それほど遠くへは行きません。ですから、よろしければ皆さんお気軽にご参加してみてはどうでしょうかと思ったまでなのですがね・・・」
「しかし、なぜみんなで小旅行に行けばいいと思われたのですか?」
「それはですね、一緒に行って私が絵を描いているところを見れば一目瞭然なわけですから、それなら私の絵はちゃんと私が描いていることが分かっていただけると思ったからであります」
「なるほど・・・それは、まあ・・・そうでしょうね。しかし、そこまでしなくてもねぇ・・・今あそこに展示させていただいている絵に関しては描いているところを見て無いというだけであって、私や姫乃さんは実際に通さんが絵を描かれているところを見てはいますから、変な言い方ですけど完全に証人になれますからね。通さんが素晴らしい作品を描いている画家であることは私たちが保証できます」
「ありがとうございます。確かにお二人には見ていただいたことがありますので信じていただけるものと思っております。しかし、涼さんやよろしければアカリさんにも一度私が絵を描いているところ見ていただけたらと思うのです。そうすれば分かっていただけると思うのであります!」
「私は・・・別に何も疑ってはいないですよ。でも、こちらこそもしよければプロの画家の方が創作されている様子を見てみたいと思います!」
涼の手前なんとなく涼に話を合わせていたアカリであったが、通から名指しされてしまったので誤解を解かねばと思いそう答えた。ちょっと涼を裏切ったみたいで心苦しい部分もあったが、実際アカリは暴走気味だった涼のことを止めようとしていたので別に手のひら返しをしたわけではなかった。
「そうなのか?じゃあ、アカリ・・・お前はその旅行に一緒に行きたいのか?」
「うん、せっかくお誘いいただいたわけだし、お兄ちゃんと違って画廊のスタッフじゃない私からしたらめったにない機会だと思うもの」
「そうか、ちょっと意外だな・・・」
まさか突然通が募った小旅行の同行者に真っ先に妹のアカリが名乗りを上げるなどと、兄である自分でもまったく予想できなかったのであった。
「それでは、涼さんはどうなのでしょう?同行してみたいと思いますか?」
「私も凄く興味があるのでぜひ行きたいですね。アカリさんが一緒ならなおさらですし、当然ヒカルさんも行かれるんですよね?」
「私は・・・二人が行くのであれば同行しようと思いますよ」
通の担当スタッフでありアカリの兄であるヒカルとしては同行しないという選択肢は無いというか、むしろ皆を引率しなければいけない立場のように思えたので涼に聞かれてそう即答してしまった。
「あの・・・トーリくん、それは私も行っていいのかな?」
自分だけ蚊帳の外みたいになるのが嫌だったのか単純に楽しそうだと思ったのか、姫乃も参加を申し出た。
「もちろんだよ。皆で行けば楽しいじゃないか!」
そういうわけで結局その場にいた全員が通の計画していた小旅行に行くことになったのだ。
「まあ、一応仕事ではあるけど、ちょっと楽しいイベントになりそうではあるよな・・・」
ヒカルはそんな感じで割と呑気に構えていた。最初は少し面倒なことになったかもしれないと思ったのだが、よくよく考えると通が言ったように実際に通が創作活動に勤しんでいる現場に涼に立ち会ってもらえれば誤解は全て解けて一件落着することは間違いないので別に何も厄介なことなどはないし、どちらかといえば最も手っ取り早い上にイージーな感じの展開になったではないかと思えてきて途端に気が楽になったのである。
しかも勝男から、これは仕事の一環とも言えるので休日出勤扱いにしてもいいとまで言ってもらえたのだ。なので、一日分の給料プラス休日出勤手当まである「おいしい旅行」となったこともあって少々ウキウキ気分にすらなっていた。
しかし、これで完全にヒカルだけは仕事として参加することになってしまったわけであるので本来ならウキウキ気分になるなど不謹慎であり、もっと気を引き締めていかねばならないのであろう。
とはいえ、日帰りではあるがどこかに旅行に行くことが出来ることには変わらないし、通が創作活動を進めるサポートをしつつ涼の誤解を解いてもめ事を終結させるという結果さえ残せれば仕事としては十分成功であるわけなので、最初に通と交渉をした仕事と比べたらかなり気楽でプレッシャーなども無かったのだ。そういうわけで、どうしても気分が盛り上がってきてウキウキしてしまうのである。
「まあ、別に気負う必要はなさそうだし多少楽しむくらい余裕をもっていてもいいだろう。きっとそのくらいが丁度いいはずさ・・・」
かなり自分にとって都合のいい解釈をしてしまっているがヒカルの性格的にはあまり入れ込み過ぎてしまうよりは適度にリラックスして仕事にあたったほうが、結果的に事が上手く運ぶのかもしれない。実際、最初の通との交渉も一旦失敗してほぼ諦めた状態で気負わずに通の作品を鑑賞していた時に通の心を動かすことが出来たということもあるのだから。
一方、ヒカルの妹の海野アカリとその友人の山下涼はヒカルが乗車した電車の何本か前に出た電車で待ち合わせ場所に向かっていた。アカリもヒカル同様に実家住まいであるので当然ヒカルと同居しているのだが、涼と落ち合ってから集合場所まで行くことになっていたのでヒカルより先に自宅を出て別々に向かっているわけである。二人は車内でなにやら神妙な面持ちで会話していた。
「涼さん、間違ってたらごめんなさい・・・でも、この間画廊で川上さんと話した時に涼さんの当たりが結構強かったのは、二人に対しての勝男さんの態度というか対応の違いに納得がいかなかったからなのかなぁ・・・?」
「そう思われても仕方ないわよね・・・勝男さんからの評価が影響したのは確かよ」
実は、アカリは涼と知り合って彼女が有名なコンクールで金賞をとったことを知った時に自分の伯父は画廊を経営していて画商としてもベテランであるので涼の作品の画像を見せてどう思うか聞いてみたいのだが大丈夫だろうか?という話を持ちかけてみたのだ。
そして涼のほうも自分の作品が画商にどのような評価をされるのかとても興味があったので、こちらこそ是非お願いしたいと快諾したのである。そして奇しくも姫乃が通の作品を売り込んだようにアカリが涼の作品をどのように思うか勝男に聞いてみるという他薦という意味で共通しているよく似たような出来事があったことになるわけである。
そして、通の方はご存知の通りの結果になったわけだが、涼の作品について勝男が述べた評価というのはこのようなものであった。
「コンクールで金賞を受賞したのは伊達ではないようで、確かに相当実力はあるようだな。コンクールの総評を見ても審査員がこぞって高く評価していたし、現在も美大に通っているだけあって基礎もしっかりしている優秀な画家だと思うよ」
そこまで聞いて、アカリは勝男が涼の作品を画廊で扱いたいと言うのではというところまで期待してしまった。しかし、勝男はこう続けた。
「将来が期待できる有望な画家だ。この先、彼女が自分でも納得出来るような作品を描き上げたらまた是非見てみたいので、その時は教えてくれ・・・」
このようにアカリに告げて、結局はアカリが期待していたような結果にまではならなかったわけである。
「勝男さんが私の作品や才能をどう評価したのかを最初アカリさんから聞かされた時は、それが妥当な評価なのだろうと納得は出来たわ。でもね・・・」
自身がベテランの画商である画廊の代表からこのようなことを言われた場合、学生である若い画家であれば普通は嬉しく感じるものなのであろう。最初は涼もそのように思っていたのだ。川上通という特に何の実績もない無名な画家が鮮烈なデビューを果たしたという話を聞くまでは・・・
「私が川上さんのことを言っちゃったから複雑な気持ちになったんだよね・・・勝男さんに紹介したことといい、やっぱり私が出しゃばったり、余計なことをしちゃったかなぁ・・・」
涼の気持ちを考えたり、先日画廊でひと悶着あったことなどを思い出したりしてアカリは少々落ち込んでしまっていた
「アカリさんは何も悪くないわ。当然勝男さんも、ついでにヒカルさんも・・・」
「そうなの・・・かなぁ・・・?」
ヒカルがついでだというのが面白くて一瞬ちょっと笑いそうになったアカリであったが、それはいかんと思いなおしてまた神妙な表情で涼にそのように答えた。
「もちろんよ。私が勝手に川上通さんに対して嫉妬や敗北感を覚えてしまっただけの話よ。あの姫乃さんが川上通さんを売り込んだのとアカリさんが私を推薦してくれたのと、本人ではなく第三者が勝男さんに働きかけたところまで同じだと知ってしまったから、なんか、余計に結果というか評価の差についてどうしても納得がいかなかった。だから川上さんにあんな態度をとってしまったのよね・・・」
「そんな・・・涼さんに対する勝男さんの評価は低くなんかないし、むしろかなり高いと思うわよ、だからそんな風に敗北感とか考えないほうがいいし、嫉妬だってむしろコンクールの受賞歴がない川上さんのほうが感じてそうだったよ・・・?」
そうはいっても、やはりプロの画家としてデビューを果たして実際に二枚絵が売れているという実績も作った通の状況を考えると、相対的に涼がどうしても自分の評価を低く見積もってしまう感じになるのは仕方ないことなのかもしれない。
「彼が自分自身のことをどういう風に考えていたとしても、実際に今は画廊で絵が売られているプロの画家になれているわけで、その事実は動かしようがないわ」
「まあね・・・でも、そこはアレよ、それこそベテランでやり手の画商である勝男さんが上手くプロデュースしてプロの画家に仕立てたみたいなところはあると思うの。そういうのをお兄ちゃんとか他の画廊のスタッフさん達が「勝男マジック」みたいに言ってるのを聞いたことがあるわ」
「勝男マジックねぇ・・・」
「そう、マジックよ!もちろん、どんな画家でも一人前にできるというわけではないでしょうけど、もしかしたら川上通さんはそのマジックが使いやすいタイプの画家だから気に入ってプッシュしてるのかもしれないわ」
「そうだとしたら、川上さんを担当しているヒカルさんの技量も優れているということなのかしらね?」
「いや、お兄ちゃんはアレよ、はっきり言って勝男さんと違って全然やり手とかではないわよ。まあ、兄のことをあんまり悪く言いたくはないけど、勝男さんとお兄ちゃんじゃあ全然比べ物にならないわね」
「そうなの?まあ、それだけ勝男さんが凄いってことかしら・・・?」
「それもそうなんだけど・・・お兄ちゃんはそんなに経験豊富なスタッフじゃないし、担当している画家の絵が立て続けに売れてるのがむしろ出来過ぎなくらいかもしれないレベルよ」
「アカリさんて、お兄さんであるヒカルさん対しては随分厳しいのね」
涼は思わず笑顔になってそう言った。二人のことがなんだかとても微笑ましい兄妹に思えたわけである。
「まあ、今日お兄ちゃんのことをよく見てたらわかると思うけど、でもそんなことより川上さんが絵を描く様子をよく見たほうがいいわよね。そうすれば気持ちをモヤモヤさせていた疑問の部分も解明できそうだし。それに、せっかくだから少しくらいは旅行としても楽しみましょうよ」
涼の笑顔を見てアカリも少し気持ちが楽になってきた。
「そうね、とにかく、今日は川上通という画家の実際の力量がどのくらいのものなのかをこの目で見て判断させていただくわ。何せ、自分が絵を描いているところを包み隠さず見せて下さるらしいから・・・」
「そうだよね、自分の目で見て判断するのが一番だよね。私もしっかり見ておかなきゃね・・・」
のんびり旅行気分などを味わおうとしているヒカルをよそに、むしろこちらの二人のほうが真剣勝負に挑むかのように気を引き締めていたのであった。
「えっ?ここですか・・・?」
皆が集合したその待ち合わせ場所が実はもう小旅行の目的地の目の前であることを知らされると、ヒカルは驚いたというか、もはや呆気に取られてしまった。
「そうなんです!今日はここらへんの風景を描こうかと思ってます~」
複雑に思っていそうなヒカルの反応など気にすることなく、通は楽しそうに答えた。
「そうなんですね・・・何かちょっと思ってたのと違ったなぁ・・・」
「そうですね・・・まさか私もここが目的地だったとは・・・」
「そうよね・・・ここで集合して今からいよいよ目的地に向かうものだとばっかり思ってたけど、まさかここがその目的地だとは思ってなかったよね・・・」
ヒカルだけではなく涼とアカリも同じように複雑そうな反応をしていた。
「確かに今思えばこの駅で待ち合わせるのがちょっと不思議だったんだよなぁ・・・違う線に乗り換えられる駅でもないし、一旦この駅で降りて次はどうするのかが疑問だったけど、まさかここがもう目的地だったとは・・・」
五人が集合した駅を出てすぐのその場所はいわゆる「河川敷」であった。要するにヒカルと通が最初に出会ったような大きい堤防のある河原なのである。
ヒカルからすれば普段よく行っているところと同じような場所ではないかと思ったわけであるし、通がよく近所の河川敷に行っていることを知らない涼やアカリからしても何の変哲もない河川敷が旅行の目的地であったことが意外だったというか、正直信じられなかったのである。
「まあ、いつもの河川敷よりはだいぶ広いですけどね・・・」
目の前にあるその川は通が普段よく行っている川が流れ込んでいく川であり支流と本流の関係になる。最終的にはこの本流が海に流れ込んで行くわけであるが、この場所は通の住む町に比べるとだいぶ海に近くて、いくつかの支流が流れ込んで大きくなった本流の河口に近い下流の部分であるのでかなり太くなっていてその分堤防もかなり広くなっている。
そんなわけでこの河川敷には野球のグラウンドなどがあったりするのだが、グラウンドが一面まるまる余裕でとれるほどの広さであるので、他にもバーベキュー場や割と本格的なモトクロスのコースまであって、広大な土地が色々と有効利用されていた。
「私は待ち合わせ場所の駅名を聞いた時から、もしかしたらここが目的地かもってちょっと予想出来てたんですけどね・・・」
通とはいとこであり付き合いの長い姫乃だけは、通の言う「小旅行」がどのくらいのレベルの遠出までを指すのかを大体は把握できていたらしい。
「でもなんか、これだと小旅行というよりピクニックとか遠足って感じだよなぁ・・・まあ日帰りだから絵を描く時間も確保しないといけない事とかを考えたら、それほど遠くへは行けないわけだし、別にここが目的地でも全然構わないのだけど・・・」
「まあ、私も川上さんが絵を描いている様子さえ見せていただけたら場所はもうどこでも構いませんけどね」
通本人と涼さえ良ければ残りの三人がどうこう言うことでも無いので、ここが最終目的地でも問題ないことにはなる。
「わかりました・・・出来るだけ長く絵を描く時間をとれたほうがいいでしょうから、さっそく川の方まで行きましょうかね?」
「はいな、それではレッツラゴーなのです!」
一応旅としても楽しもうかと思っていたヒカルとアカリと涼の三人としては本音を言えば予想外というか正直期待はずれですらあったのだが、今さら行き先を変えようとも言えないので、もうここで通が絵を描く様子を見せてもらうしかないのだ。そうと決まったからにはとにかくまずは全員で川の近くへと向かうしかないわけであった。
一行は堤防までやってくると土手の一番上の方にある道を歩きつつ景色の良さそうな場所を探した。結局ほとんど普段近所の河川敷でするのとほぼ変わらないような行動になっているのであった。
「ああ、この辺が良さそうなのです。私はここで景色を描かせていただきますー」
「え?もう場所が決まったんですか・・・?」
堤防に着いてからまだ三分ほどしか歩いていないくらいのタイミングで唐突に通が絵を描くポイントを決定したので皆はまた驚いてしまった。
この雄大な河川敷はどこかのどかな感じがしてのんびりできそうな良い場所であった。だから通が選んだポイントも確かになかなか景色は良いのであるが、それを言い出したら良さそうな場所は他にもいっぱいあるのだ。色々見てまわった結果やはりここが良いと戻って来たとかならまだ理解出来るのだが、これほど早く描くポイントを決めてしまうのはある意味かなり決断力があって凄いことなのかもしれない。
もしかしたら以前ここに来た時に既にこのポイントに目をつけていたのかもしれないが、しかしわざわざそれを確認する意味も無いのでここで通が絵を描く様子を見学させてもらうことになった。
通は土手の斜面に荷物を置くと結構手早く画用紙や画板などの絵を描くための道具を取り出して自分の周りにセッティングした。すると、今度はこれまた唐突な宣言をしてきた。
「絵を描く前にちょっと腹ごしらえさせていただきます~」
ここまでは流れるような見事な動作ですぐに絵が描ける準備をしたにも関わらず、まずは食事をとるらしいのだ。
すぐに描き始めるのではなくて急にこのタイミングで一旦ブレイクを入れるあたりはいよいよマイペースな彼らしいところが出てきたと言えるのかもしれないが、彼の考えとしては腹が減っては戦はできぬといったところなのであろう。
「それではいただきます~」
通は鞄からサンドイッチと紙パックの牛乳を取り出すと美味しそうにむしゃむしゃと食べ始めた。
「サンドイッチってとこがちょっとイメージと違って意外なんだよな。どっちかというとおにぎりの方が似合いそうなのにな・・・」
少し離れたところで通のことを見ながらヒカルがボソッと小声で呟いた。
「お兄ちゃんもそう思った?実は私もあの人はなんかおにぎりが大好きそうな感じがしたのよねぇ・・・」
「全部俺の勝手なイメージなんだけどさ・・・そのおにぎりもこだわりがありそうで、具は入ってなくていいからたっぷり塩を利かせてあるおにぎりが大好きなんだな!とか言いそうなイメージなんだよな」
「そうそう、そんな感じだよね!だからサンドイッチと牛乳って何かイメージと違うなぁって思ったわ」
アカリは通のことを見て楽しそうに笑いながらそう答えた。
兄妹だから気が合うというか似たようなことを考えてしまうのだろうか?これに関しては二人の意見は見事に一致していた。
「おにぎりがどうかしましたか?」
「あ、いや・・・こういう場所で食べるとしたら何となくおにぎりかな?と個人的にはそう思うんですけど、通さんっておにぎりはそんなに好きではないのですかね?」
どうやら姫乃にも少し聞こえていたようであったが、自分たち兄妹の勝手な妄想をそのまま言うのは気が引けたのでヒカルはちょっと話をごまかした。
「いえ、トーリくんはおにぎりも好きですよ。でも、そうですねぇ・・・どちらかというとサンドイッチとかパンを食べることのほうが多いように思います」
姫乃はヒカルがごまかすために言った適当な質問に真面目に答えてくれた。
「サンドイッチでもおにぎりでもハンバーガーでも何でもいいから早く食べ終わって絵を描いてくれないものかしらねぇ・・・」
涼は少々呆れた様子でそうぼやいた。
通はサンドイッチペロッと平らげるとパンパンっと両方の手のひらを打ち鳴らしてパンなどのかすを払い落した。そして今度はこう宣言した。
「さあっ、それでは絵を描き始めようかと思います~」
いよいよ皆が待ちに待っていた通が絵を描くところを見ることが出来るのだ。
「よいしょっ、よいしょっ・・・」
やっと絵を描くことを高らかに宣言した通であったが、おもむろに靴と靴下を脱ぎだした。
涼とアカリは何事が始まるのかと驚いていたが、姫乃とヒカルは事情が分かっているので「ああ、例のあれだな・・・」と思いながら見守っていた。
通は靴と丸めた靴下を脇に置くと、一度立ち上がって足を肩幅くらいに開いて土手の草を踏みしめながら今から自分が絵に描こうとしている景色を目に焼き付けるように眺め出した。
「あれは、一体何なのかしら・・・」
涼とアカリが目を丸くして見ていたのでヒカルが少し解説した。
「ああ、あれは通さんが絵を描く時のルーティーンというか、お決まりのスタイルらしいんんだ」
「絵を描く時に裸足になるのが決まりなの?」
「そうなんだ・・・だから、あの姿をよく見ている通さんの近所の知り合いの人たちなどからは「裸足の親分」と呼ばれているんだよ」
「裸足の、親分・・・ですか・・・?」
「それは・・・なかなかのパワーワードだね・・・」
やはりこの光景を初めて見る二人にとっては相当インパクトがあるようだ。二人ともアマチュアではあるが画家であるので他人が絵を描くところを学校などで見る機会は多いのであろうが、それでもおそらくこういう画家はあまり見たことがないものと思われる。
「ふぅ~っ・・・」
通は深呼吸するとまたその場に腰かけた。そして素早く画板を自分の太もも辺りに乗せて画用紙にスケッチらしきものを描き始めた。ヒカルたちは川上通画伯が絵を描く様子をしばし見守っていた。
「絵を描いている様子はわりと普通だけど、描き始めたら休んだりせずに夢中で続けているわね。他のことに気を取られたりとか絵とは関係ないことを考えてしまったりとか、そういうことはなくて没頭するタイプなのかもね」
「うん、集中力はかなりあるよね。それに描き始めたら迷いがないというか、自信を持って描いてる感じもするよね。私なんか途中で、これで大丈夫かな?とかもっとこうした方がいいのかな?とか色々考えちゃったり、迷ったりしちゃうのよねぇ・・・」
「確かにね・・・単に何も考えてないだけかもしれないけど。それでも無心で描けるっていうのはある意味凄いことなのかもしれないわ」
絵を描き出してから十五分くらいたったのだが、通は一心不乱に描き続けていた。絵を描く態勢に入ったのかと思えばそこから腹ごしらえをしたり裸足になって景色を見つめたりと色々と準備に時間がかかっていたのだが、一たび絵を描き始めたらもう止まらないといった感じであった。
「通さん、我々の目は気にせずに、ほんとに普段通りに描くことが出来ているようなので良かったです」
「そうですね。トーリくん、普段通りにやれてると思います」
「この様子を見て涼さんの誤解は解けそうかな・・・?」
ヒカルは通が絵を描く様子は少し見慣れてきていたこともあって進捗状況などは多少気にはなったが基本的には通を信用していて順調に絵を描くことが出来るかどうかは正直あまり心配していなかった。
むしろそれよりも今日は他のことが気になっていた。通が絵を描くところを今日初めて実際に目の当たりにした涼が一体どのような感想を持ったのかが気になって通を見ている彼女のほうを見つめている時間のほうがむしろ長くてそちらの様子を伺うことの方がメインになってしまっていたのだ。
「もしかしたら、あの裸足の親分状態で絵を描いている姿を見られるのも良し悪しなのかもなぁ・・・常人とは一味違っていてさすが天才画家だと思ってくれたらいいが、あれはちょっとふざけてるのかなんて思われて余計に不信感が高まってしまう危険性もありそうだよな・・・」
涼は終始真剣な眼差しで見つめているのであるが、ヒカルには厳しい目でみているようにも感じられたのだ。
それからさらに十五分ほど皆で静かに通の様子を見つめていたが、涼が口を開いたことで沈黙が破られた。
「あの人は・・・とても自然体なのね・・・」
「え?川上さんが・・・?」
「そう、あの人が絵を描く時の姿勢とか絵に対しての向かい合い方とかがね」
「自然体かぁ・・・そう言われたらそんな感じにも見えるかなぁ・・・」
ヒカルは涼とアカリの会話が少しだけ聞こえたのだが、詳しい内容が気になって二人のもとに近づいていった。
「通さんはいつもあんな感じで描かれているんだ。描き出したらまるでもう子供のように夢中になって描き続けるんだよ。まあ、子供の場合は二時間とか三時間とか続けて絵を描き続けられる子はあまりいないのだろうけど、姫乃さん曰く通さんは放っておいたら一日中でも描き続けてしまうらしいからさ・・・」
「丸一日絵だけを描き続けるってすごいね・・・私はそこまでずっと描いていられる体力はないし集中力だって続かないよ」
「涼さんは通さんが描いているところを実際に見てどう思いましたか?」
「そうですね・・・とても自然体で描かれていますし、あそこまで迷いなく描き続けられるのは、おそらく無駄な煩悩や歪んだ作意が無いのでしょうね」
「作意ですか・・・」
「そうです。誰かに評価してもらえるような作品にしたいと思って、その対象者にうけそうなものに仕上げようという作意です。作品を鑑賞したり買ってくれたりする美術ファンにうけたいと思うのはまだいい方で、それこそコンクールの審査員だとか、美大の教授や講師だとかに評価してもらえそうな作品にしようというあざとい作意はむしろ作品の質を悪くするだけだと、私個人としてはそう思っています。私も出来るだけそういう余計なことは考えないで描くことを心掛けていますけど、あの人の場合、そういった余計な野心や邪心を持たずに描くことが自然に出来るみたいですね」
涼の言わんとしていることは何となくは理解できたのだが、ヒカルとしては「煩悩やら野心やら邪心やら、そういう難しいことはそもそも通の頭の中には無さそうなのだけどな」と思って涼の話を聞いていた。
彼に煩悩があるのか無いのかなどと言い出したら、通の夢である個展を開いて多くの人に作品を見てもらいたいとかいうのも厳密にいうとそれに当たってしまいそうなのだが、そういう余計なことを言うとまた話がややこしくなりかねないのでとりあえず通への疑惑がもう無くなったのかどうかということだけ確認しようと思った。
「では、通さんに対する誤解とか不満とかわだかまりのようなものはもう解消されたということですかね?」
「そうですね・・・色々と失礼なことを言ってこういう機会まで作らせて、とてもご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした。後から川上さんご本人にも謝罪させていただきます」
「いや、私個人や画廊サイドとしては全く気にしていませんので大丈夫です。一応通さんには今のようなことを言っていただいた方が良いとは思いますが、あの方もそれほど気にされてはいないと思うのでもう涼さんもあまり気になさらなくてもいいと思いますよ」
「お気遣いいただいてありがとうございます。それと、川上さんへの誤解が解けたと同時に、あの人の事を見ていて私自身の問題点が分かったような気がします」
「問題点ですか?」
「勝男さんは川上さんのことをすぐにプロの画家としてデビューさせたい逸材だと感じたのに、私のことは将来に期待したいレベルだという程度の評価しかしなかった。その理由となる問題点です」
「そうなんですか?しかし・・・それについては、涼さんはまだお若いということもありますし、それに勝男さんはお世辞など言う人ではない上に画家への評価は甘いどころかむしろ厳しいくらいなので、涼さんへの評価はかなり高いほうだと思いますよ」
「そうだよ、涼さんの才能だって凄いんだから変に気にすることないと思うわ」
アカリも通が才能豊かな特別な画家であることは理解できたのだが、それでも涼の才能も決して負けてはいないと信じていた。
「ありがとう。でも、ほんとに私自身の問題点は見えてきたの」
「それは、一体何なのでしょう・・・?」
「さっきお話しした野心や邪心からくるあざとい作意のようなものが、まだ私にもあったみたいなんですよ」
「涼さんが?そうなんですかねぇ・・・これは勝男さんの受け売りなんですけど、コンクールなどで審査員のうけを狙ったような作品を出しても、賞などまず取れないらしいです。そういうあざとい計算みたいなのは、大抵は見透かされて結局良い評価は得られないのだとか。絵画などの美術コンクールにおいてはそういう傾向と対策みたいな事を考えると逆効果になることが多いらしいのですが、それでいうと実際にコンクールで金賞を受賞している涼さんにはそういう変な作意は無いということになると思うのですけどね・・・」
涼の作品にあざとい作意があるのかどうかは正直自分自身には正確に判断出来ないことなのだが勝男の言っていたことなら確かだろうという自信はあったので、そこから理屈が合うように結論を導き出すとヒカルにも涼の作品がいかにも審査員にうけそうなところを狙ったようないやらしい作品ではないことくらいは分かったのだ。
「勝男さんがおっしゃった事は確かにその通りなのでしょうけど、でもやっぱり審査員のうけを狙っているようなところはまだあったのだと思います。私自身は気をつけていたつもりなので無意識なのかもしれませんが、無意識でやってしまう方がある意味たちが悪いかもしれませんね」
「私は涼さんの作品を見てもそんな変なあざとさは感じないんだけどなぁ・・・」
「でも、そういう計算がみられるような作意が全く無いのとほんの少しでもあるのと、その違いが川上さんと私の差であって、勝男さんもそこを見て私たち二人の評価に差をつけているのだと思うの」
「そうかぁ・・・しかし、仮にそうだとしてもその差はとても小さいものだと思うので、涼さんならすぐにそれを埋められて、近い将来通さんのようにプロの画家になれると思いますよ!」
「そうだといいですね・・・でも、私はあの人と同じタイプの画家にはなれないと思いますし、またなろうとも思っていません。私は川上さんとはまた別のアプローチで絵画と向き合って良い作品を作っていきたいと思います」
自分と通との差や自分に足りないものがあることなどを知ってしまっても腐ったり落ち込んだりなどはせずに、とても前向きで気持ちのいい発言をする山下涼という若い画家にとても好感が持てたヒカルであった。
「やっぱり、他人が描いているところを見ているだけじゃだめね・・・私も描こう!せっかくいい場所に来てるのだから私もどこか良さそうな景色のところを探して描きます」
涼もちゃんと絵を描く道具を用意していた。彼女も通と同じで「描かずにはいられない人間」であるらしい。
「私も、ちゃんと道具を持ってきてるからね。どこか二人と違う景色の場所を探して描こぉっと!」
三人の画家たちは思い思いの場所でそれぞれの絵を描きだした。
「とりあえず、めでたしめでたしという感じになって良かったです」
「そうですねぇ、みんなが分かり合えたみたいでほんとに良かったと思います」
ヒカルと姫乃はほっと安堵の胸を撫で下ろしてリラックスした状態で広い河川敷に散らばって絵を描き出した三人を離れた場所から眺めていた。
「しかしこういうの、何かいいですねぇ・・・とてものどかだし、微笑ましい光景だな・・・」
「三人とも楽しそうだし生き生きしてますよねぇ」
「通さんもあの裸足の親分状態になっている時は本当に生き生きとして見えます」
「ヒカルさん、その裸足の親分と呼ばれていることですけど・・・」
「はい、そのことがどうかされましたか?」
「私もそのニックネームのことはこの間ヒカルさんとトーリくんのことを探し回っていた時に初めて聞かされて知ったんですよ」
「え?そうだったんですか?」
「そうですよ、裸足で絵を描くのは知ってましたけど、あのニックネームには実はビックリしてたんですよ」
二人は思わず顔を見合わせて吹き出してしまった。
「あの三人を見ていて思いますけど・・・絵が描けるって、いいですよね」
「私もそう思います。絵が上手に描けるは羨ましいです」
「アカリはともかくとして、通さんはプロですし、涼さんもプロ級ですからねぇ。凄いですよ・・・」
「トーリくんは昔から私の憧れなんですよ」
「憧れ、ですか・・・?それは絵が描けるからですか?」
「はい、私は子供の頃、絵を描くのが好きだったんですけど才能がないので上手く描けなくて・・・だから絵が上手なトーリくんに憧れていました!」
「そうなんですか・・・通さんは姫乃さんにとってヒーローみたいなものなんですね。そうか、それであんなことを・・・」
通にはちょっと申し訳ないが、正直彼が姫乃の憧れの対象だというのはかなり違和感があったのだが、これこそが姫乃が画廊に通の絵を猛烈に売り込んできた理由なのであろうなと理解することは出来たヒカルであった。
「私も姫乃さんと同じですね。私も子供の頃はよく絵を描いて遊んでいました。たぶんよくギャラリーオーシャンに遊びに行っていろんな絵を見せてもらっていた影響が大きいと思います。しかし、絵はそれほど上手くなりませんでした。才能もないし何か絵が上手くなるための努力とかもしなかったので当然なのですけどね。でもアカリは違った・・・」
「そうかぁ、アカリさんも絵がとてもお上手なんですもんね・・・」
「ええ、アカリは幼い頃から私なんかよりずっと絵が上手でしたし、中学生になると美術部に入っていたこともあってかなりの技術を身に着けていました。既にもうその頃には相当上手い写真のようにリアルな絵を描けるようになっていましたが、高校に入っても美術部に入って学生向けのコンクールで何か賞を貰うくらいになっていました。私の場合は憧れというよりも、どちらかというと妹のことを羨ましいと嫉妬してたんですけどね・・・」
ヒカルは少し照れ笑いをしながら姫乃と共通点について語った。
「でも、あの三人を見ていて、なんだか僕も久しぶりに絵を描いてみたくなりましたよ」
「へぇ、いいじゃないですか、ぜひ描きましょうよ!今日は絵を描く道具を用意してないけど、その時は私も一緒に描きたいです!」
「姫乃さんも、一緒にですか?」
「そうです、またトーリくんについて行って皆で絵を描けたら、きっと楽しいですもんね!」
「ああ、またこういう感じでってことですよね・・・」
ヒカルは一瞬、姫乃と二人で絵を描きに出掛ける想像をしてしまったが、どうやら姫乃はそういう事を言ってたわけではなかったらしい。
夕方を過ぎてそろそろあたりも暗くなり始めた。三人の画家も誰となく帰り支度をし始めた。ヒカルは少し話したくて通のところへと歩み寄っていった。
「お疲れ様です、通さん。絵の方は結構順調に描かれていたようですね?」
「はい、夢中になって描いていたらこんなに暗くなってきていましたー」
「通さんの遠征に同行して絵を描くところを間近で見ることが出来て、涼さんも色々と納得してくれたようでして、とりあえず良かったです。通さんの凄さもわかってくれたみたいですし、今自分のすべきことも見えてきたみたいで、とにかく諸々解決したと思います」
「いやぁ・・・私などぜんぜん凄くないですよ。しかし、あの山下涼さんが画家としてもう一歩高みに上るきっかけになる何かを掴めたというなら、素晴らしいことなのです!」
謙遜しているがまんざらでもないといった感じの表情をしている。言葉とは裏腹にこういう結果になったことが内心は結構嬉しいのであろう。
「今回のことであの涼さんがもう一歩高みに上るためのきっかけを掴んだことですし、通さんも一歩踏み出されるお気持ちは出てきませんか?」
「私がですか?それはどういうことでしょうか?」
「実は、勝男さんともたまにそういう話をするのですが、通さんは画家一本に集中してやられるというお気持ちがあったりはしないのでしょうか?」
「そういうことですか・・・」
「いえ、やはり私はしばらくこのまま兼業画家を続けさせていただきたいと思いますー今はこのままのスタイルでこのままのペースでやるのが性に合っていると思うのですよ」
「そうですか・・・まあ、通さんがその方が良いのであればそうされるべきなのだろうと私は思います」
通本人がこのように言っているわけであるし、下手に環境を変えさせたことで急に描けなくなってしまったみたいな、そんなリスクだって考えられるわけである。
それなら今まで通りのスタイルで続けたほうが無難だと思えた。彼が過去に描き溜めた作品もまだ大量にあのアトリエにあることだし、しばらくはこのままでいいだろうとヒカルは思った。
小旅行は学校の遠足のように流れ解散でそれぞれ帰宅することになったのだが、ヒカルは勝男に今日の報告をするためギャラリーオーシャンへと向かった。
「そうか、全て上手くいって丸く収まったわけだな?」
「はい、ご心配をおかけしましたが、もう大丈夫です」
「ふむ、ならいい」
ヒカルは今日の仕事につい報告したが勝男の反応は結構素っ気ない感じであった。
「一ついいニュースがある。川上先生の作品がまた一つ売れそうだ」
「そうなんですか!今度はどんなお客様がお買いになりたいと・・・?」
「ああ、聞いて驚くなよ、なんと今度はあの谷村団新氏がお求めになりたいということなのだよ」
「えっ!あの有名歌手の谷村団新さんがですか?」
「そうだ、実は谷村団新氏は今まで数回この画廊にお見えになっていてな。今日来店された際に過去の二枚と今日川上先生が持ち込まれる予定だった一枚の作品の画像をお見せしてお勧めしてみたら一目惚れされてな。すぐに購入を希望されたのだ」
「そうなんですか・・・やっぱり通さんの絵は凄いなぁ・・・」
「谷村団新氏も購入された絵画を転売されたりはしないコレクターなので、先生にもご了承いただけることだろう。谷村団新さんは絵の購入を公表される可能性もまあまあ高いしな」
「それはいいですね、今度はPRに使えるようになるかもなぁ・・・」
どうやら三枚目の絵の購入者は有名歌手の谷村団新で決まりのようであった。
「とても良いニュースでしたが、急に話を変えてもいいですか?いや話を戻すかな、この場合は・・・?」
「なんだ?」
「すぐにプロの画家になれた通さんとまだその段階ではない山下涼さんとの差ですけど、涼さんの問題点というか、課題は何なのでしょう?」
「それか・・・まあ、構想の段階での模倣のようなものが、まだ多少あるといったところかな?」
「それは、どういうことでしょう?」
正直ヒカルにはさっぱり分からない内容であった。
「分かりやすく言うとだな、実際に絵を描く手法というのは先人が築き上げたノウハウやセオリーがある。近い物を大きく、遠い物を小さく描く遠近法とかならお前にもわかるだろ?」
「はい、さすがにそれくらいは・・・」
「そういう手法やセオリーは現代の画家も普通に守る。それは別に先人の模倣ではない。もちろん抽象画などでそういったセオリーを外す場合もあるが、それはセオリーを踏まえたその上であえてやっていることだ。ここまではわかるか?」
「はい、なんとか・・・」
「先人のノウハウやセオリーを使っても画風やタッチは人それぞれの味が出せる。山下涼さんの作品のそれにもちゃんとオリジナリティがある。そこは模倣しているようなレベルの低さはない。だからこそコンクールで金賞を受賞出来たわけだ」
「ああ・・・ではさっき言っていた模倣とは何のことなのでしょう?」
「どういう絵を描くかという構想の練り方にも一応先人のノウハウのようなものがあるのだ。だが、それに関しては先人のノウハウを模倣していてはオリジナリティが無くなってありきたりな印象の作品になってしまう。まあ、これは完全に俺の個人的な見解だがな。わかったか?」
「何となくですが・・・それが涼さんの言ってた審査員とかにうけようとする作意につながるわけなのかなぁ・・・?」
「まあ、そんなところだな」
「あと一つ、勝男さんが通さんの絵は売れると見抜いた決め手のようなものはありますか?」
「基本的には直感だ。その直感には当然これまでの画商としての経験も入り込んでくるのだがな」
「やはりそこは直感なんですね・・・」
「直感でいえば、お前の直感からくる感想や意見も俺の直感に少なからず影響はしたぞ」
「僕の、直感や意見がですか・・!?」
「ああ、前にも少し言ったが甥のお前が子供の頃から風景画が好きだというのは伯父として知っているからな。今でも絵画の知識や情報に乏しいお前が良い作品だと判断するのはやはり直感だろう?その直感にも少し乗ってみようかと思ったのさ」
「そうですか・・・あと、もう一つ・・・通さんの作品っておいくらくらいで売れてるのでしょう?」
「それか・・・まあ、それは俺の口からは言わんことにしよう。どうしても知りたいならご本人に聞いてみたらどうだ?先生の担当者なのだからな」
「いや、それは・・・ちょっと、聞きづらいですね・・・」
「ははは、まだそこまでのくだけた関係になるまでには打ち解けていないか?」
「はい・・・それも含めてこれからも色々と精進いたします・・・」
やはり、この人には全く敵わないなと思ってしまったヒカルであった。
自宅に帰ったヒカルは自分の部屋に行こうとしていたアカリに声を掛けてつかまえた。
「なあ、アカリ・・・今日は色々あったけど涼さんとはこれからも友達として上手くやっていけそうなのか?」
「大丈夫よ、お兄ちゃんに心配してもらうまでもなく、これからも仲良くやっていくわよ」
「涼さんと通さんも和解できて良かったよなぁ」
「もともと涼さんも川上さんのことを嫌っていたとかいうことではないのよ。彼の絵には確かに何か光るものはあると思っていたけど、あんなに簡単にプロの画家としてデビューできたのには何か裏がありそうだと思っちゃっただけなのよ」
「いや、裏も何もないんだよ・・・昔からずっと絵を描かれてはいたけど、それが最近までほとんど知られていなくて作品も才能もただただ埋もれていただけのことだからな・・・」
「まあ、実際はそうだったみたいよね」
「アカリはさぁ、美術の専門学校に進学したわけだけど、将来は美術関係の仕事をやりたいのか?絵を続けて、あの二人みたいにプロの画家を目指すのか?」
「私はあの二人ほどの才能は無いからプロの画家は厳しいって自覚してるけど、でも何かしら絵を描く仕事を目指そうと思ってるわ。それもお兄ちゃんに心配してもらうまでもありませんけどね」
「そうか・・・」
ヒカルは以前、勝男にアカリがプロの画家になれそうか聞いてみたことがあるのだが、勝男も「あいつはどこまで画家としての才能を伸ばせるかは分からんが、しかし何か絵に関係した仕事には就くじゃないかとは思うがな」などと、今のアカリのようなことを言っていた。
確かに、アカリは画廊に作品を置いてもらえるような画家を目指しているかと思えば、イラストレーターをやってみたいだとか、本の挿絵を描いてみたいだとか、絵本作家になりたいだとか、ころころと夢や言うことが変わってきたので、通や涼のような画家にどうしてもなりたいのだというこだわりはなさそうなのだ。
「まあ、お前は昔っから絵が上手かったからなぁ・・・俺は絵の才能が無くて全然上手くなれなかったが・・・」
ヒカルは一応高校の芸術の授業も美術を専攻して、授業で油絵などを描いたりもしたが、
やはりアカリの絵とは全然比べ物にならないような低いクオリティであった。それでも成績としては3くらいであったので下手なわけでもなかった。
「お兄ちゃんは別に絵は下手ではないけど、はっきりいって全然上手くもなくて、普通過ぎて逆に凄いと思えるくらいだもんね!」
アカリは楽しそうに兄のことをからかった。
「まあ、本当に全部その通りなんだけど、改めて言われると腹立つな・・・」
「でも、お兄ちゃんも、画廊の仕事が上手くいきだしたみたいで、良かったじゃない」
そう言うとアカリは自分の部屋に行ってしまった。
「まあ、な・・・」
アカリから意外な言葉をもらって少々驚いたというか、戸惑ってしまったヒカルであった。
アカリとは結構年が離れていることもあり、彼女が幼い頃は世話をしてやったのでそれなりに懐かれていた。しかし彼女が中学生になるころには既にもうヒカルは今のようなちょっと冴えない感じの男になっていて、その頃から現在までずっと格好のいい兄ではなかった。そのため、ずっと長い間あまりアカリとは楽しくお喋りすることはなかったのだ。
だから、さっきのアカリの言葉を聞いてから少し時間がたってきて、会話の内容なども思い返したら段々と嬉しさが溢れ出てきた。
「何か・・・久しぶりに妹とちゃんとした会話をしたような気がするな・・・」
五人での小旅行から数日後、ヒカルと姫乃は小旅行で行った同じ河川敷へ向かう道を歩いていた。
「こんなにすぐにまた姫乃さんとここへ来るとは思ってなかったです・・・」
「私もです。でも、あの日と同じようないいお天気の気持ちのいい日ですからね・・・」
「まあ、あの日のあの感じだとこういう展開になることもありそうな予感は、ちょっとあったんですよ」
「予感、ですか・・・私も、ここへ来ることになるかもしれないとは思ってました。こんなにすぐにだというのはちょっと予想外でしたけどね」
「あの人は・・・絵のことになると周りのことが見えなくなるし、約束とかも忘れてしまうような人でしたものね・・・」
「トーリくん、あの時と同じでまた約束を忘れて絵を描きに出掛けちゃいましたね。この間来て描き始めた絵の続きを描くことに熱中してて、写真じゃなくてまた現地の同じ場所で実際の景色を見ながら描きたくなったんでしょうねぇ・・・」
「あの日と同じような天気で条件も近いので今日行こうと思い立ったのかな?今日の天気が雨ならこうはならなかったかもな・・・」
二人はここに絵の続きを描きに来ている通を探しに来ていたのだ。実は今日は次に展示する作品を画廊に持ち込んでもらう予定であったのだが、その約束を忘れて通はまたこの河川敷に来てしまったのである。
「持ち込んでいただく予定の作品はアトリエにあると思うけど、勝手に持ち出すわけにもいかないからなぁ・・・」
「ここに来ていることが分かっているのがせめてもの救いでした。前みたいにトーリくんの行きそうな場所をちゃんとした手掛かりもなく探すのは大変でしたもんね!」
「そうですね、通さんのご家族がたまたま行き先を聞いてくれていたので助かりましたね」
「ヒカルさん、トーリくんがいつもお仕事にご迷惑をおかけしてほんとに申し訳ありません」
「いえ、こういうのも画廊スタッフの仕事ですから、それに・・・」
「それに、何ですか?」
「ああ、いや・・・」
ここに一緒に通を探しに来てくれることになったので、また姫乃とのどかなこの河川敷をお喋りしながら歩くことが出来ているのだからと本当は思っていたのだが、さすがに立場的にそれを言うわけにはいかないと思って違うことを言うことにした。
「それに、最近画廊の仕事が前より楽しくなってきているのですよ、こういうのも含めて・・・」
これもまた嘘ではなくヒカルの本心であった。
「そうですか、それはいいことですね。何か理由があるのですか?」
「まず通さんの担当になれましたし、最近は画廊で色々な人と出会えてますからね。通さんだけでなく姫乃さんや涼さんや、通さんの作品の購入者もそうです。アカリとも画廊の仕事や絵についての話を前よりよくするようになりました」
「そうですか・・・充実してるんですね。私、ヒカルさんは画廊のお仕事がとても向いている人だと思います!」
「私がですか?そうですかねぇ・・・」
「はい、ヒカルさんは画家の才能についてちゃんと判断出来る人だと思いますし、画家の心に寄り添って活動を助けることが出来ているとも思いますからね」
「それはさすがに褒め過ぎだと思いますが、でも・・・それでいうと、姫乃さんだって画廊のスタッフに向いている人だということになりますね」
「えっ、私がですか?」
「ええ、通さんは姫乃さんのご尽力があったからこそ今あのように兼業とはいえプロの画家になれたのだと思いますからね」
「そうでしょうか?確かにギャラリーオーシャンに売り込みに行ったりしたのは私ですけど・・・」
「はい、今思えばあの売り込みが全ての始まりでしたから。もしあれがなければ、姫乃さんがいてくれなかったら通さんはまだプロの画家になれていないと思いますし、当然ながら私も通さんの担当になれていなかったと思います。通りさんも私も姫乃さんのおかげでとても助かっていますよ」
「えへへ、じゃあ、将来就職活動する時に画廊も就職先として考えちゃおうかな?」
「それ、ちょっといいな・・・姫乃さんならうちの画廊でも大歓迎ですよ!」
「ほんとに・・・ちょっと考えておこうかなぁ・・・」
「ぜひお願いします」
「あっ・・・トーリくん、あそこにいますね。やっぱりこの間と同じ場所だ」
「良かった、今日はすんなりと発見できた・・・」
二人は川上通の元へゆっくりと歩み寄って行った。
通のアート @yamashitamikihiro
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