言葉の幻


「この子、私の気持ち、全部わかってるの」

彼女はそう言って、膝の上の猫を撫でた。


猫は目を細め、静かに喉を鳴らしている。


俺は頷いた。否定する理由もない。
むしろその言葉に、少し嫉妬したくらいだ。


「あなたは私の気持ちが分からないのね」

近頃、俺たちはすれ違うことが増えていたのだ。


その夜も、俺たちは言い争いになった。


言葉を尽くしても伝わらず、話せば話すほどすれ違う。


「どうして、そんなふうにしか受け取れないの?」

その一言が、決定打だった。


沈黙の部屋に、猫の喉の音だけが響いていた。


「ミミは、ちゃんとわかってくれるのに……」

彼女はそうつぶやいて、猫を抱きしめた。


俺は猫を見た。


丸くなって、何も語らず、何も理解せず、ただそこにいる。


——猫は、彼女の言葉を理解してなどいない。


ただ、わかってほしい彼女の心が、猫に意味を与えていただけだ。

言葉が通じない相手には、誤解という逃げ場がある。


だから人は、優しくなれる。

でも人間にはそれがない。
言葉があるせいで、言葉通りにしか伝わらない。
逃げ場のない正しさが、人をぶつけ合う。


猫は何もわかっていない。
けれど、何もわからないからこそ、
人はそこに「わかってくれる誰か」を見てしまう。


——本当は誰に、わかってほしかったのか。
けれど、その答えを伝える言葉もまた、すれ違うのだろう。


俺は無言で、分かり合う彼女と猫の傍を離れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る