第7話 見放された者

鋭く冷めた石壁が、鉄番てつつがいの静かに軋む鈍い音響をはね返す。


暗がりの中で片膝を立てながら壁に寄りかかり座っていた男は、垂れていたこうべをやや上げ、獄内へ入ってきた何者かの会話に耳を傾けた。



「モロー神父、お間違いなきよう。本来であれば囚人への説教は禁じられておりますゆえ。」

「…もちろんですとも。説教ではありません。私はただ、彼らの真心を知りたいだけなのです。」



コツコツと床を叩く靴の音が徐々にこちらへ近づいてくることが分かると、男は首の骨を鳴らして薄く長い息を吐いた。



「…こいつが死刑囚ダリル・ジョーンズです。」



名を呼ばれて鋭い眼光で視線を上げると、鉄格子の向こう側では2人の男がこちらを見下ろしている。


一人はいつもの看守。もう一方は庶民的な服装に身を包んだ知らない顔だったが、話を聞いていれば何者かすぐに分かることだった。



「…獄中まで来て布教活動か?熱心だな、見習いてえもんだ。」

「黙れジョーンズ。神父様のお心遣いが分からないか?」

「いえ、よろしいのです看守さん。無理をして赴いたのは私の方ですから。」


神父と呼ばれたその男は、躊躇いもなく石の床に膝をついてダリルと目を合わせた。



「あなたは何故、人を殺しますか。」



彼の瞳は幼子のように曇りなく、それでいて成熟した女性のように落ち着いている。


「…自分の利益になるからだ。」

「こうして囚われ首を吊られることが、でしょうか?」

「フン、英国殺人法は国民の不景気を浮き彫りにしただけだったな。死刑という脅しすらも通用しないほど、犯罪でしか生きられない人間がどれほど国栄の陰に蠢いているか知ってるか?」

「そしてあなたは人の命を損得で計ることができるというのですか。」


ダリルは心の底から呆れたようにクツクツと乾いた笑いをこぼし、この宗教家を侮蔑した。


「他に何があるって仰るんだ?まさかあんたらの使い古したに、『人は皆平等』とでも書かれていたか?」

「…聖書には常に人の過ちを正す真実が記されています。」


今度は獄内に囚人の高笑いがこだまする。


モロー神父はその様子を、ただ哀しげに見つめているだけだった。


「…いいか、暗黒時代の文盲ども。おまえらが赤子のように縋り付いているその教典は、人間が書き、人間が翻訳し、人間が政に利用した歴史上の資産に過ぎない。お前はただ、その上で踊らされているだけなんだよ。」

「いかにも。私はイエスという人間…すなわち神の御子に付き従う、一匹の羊に他なりません。」

「話にならねえ。失せろ。」


様子を見ていた看守が神父の前に腕を差し入れて一歩下がらせたが、彼は看守の肩越しに再び言葉を投げかける。


「…セドリックはそのように考えてはおりません。貴方もまた、正しく光ある方へ導かれることを望んでいました。」

「……!!」


その名を聞いたダリルは、途端に薄笑みの浮かんだ口角を引き締め、瞳孔を開いた。


「…あのせがれは……戦争で気が触れただけだ。死人しびとの声が聴こえるだと?正気の沙汰じゃない。お前ら教団があいつを”信託者”などと祀り上げたおかげで、このロンドンじゃ馬鹿馬鹿しい怪談が囁かれるようになった。」

「いいえ、怪談ではありません。人は死してなお魂は死なず、我々生者に正当なる裁きを求め訴えます。」

「死人に口はない。」

「いいえ。」


ダリルの攻撃的な様子がやや落ち着いてくるのを悟ったモローは、再びダリルの瞳を穏やかに見つめた。


「あなたも見たことがあるのでしょう?喪った妻の黒い影を。魂の存在する証を。」

「…セドリックにその話をした覚えはないが?」


モローが黙ったまま何も言わないのを察し、ダリルは立てていた膝を伸ばして独房の天井を仰いだ。


「…そうか、カーラも教団側に付いたか……。」


沈黙が広がる。


ダリルの脱力した両腕に諦観の意を見て取ると、モロー神父はゆっくりと立ち上がって胸の前で十字を切った。


「死に絶望することはありません。たとえ貴方が地獄に堕ちても、貴方の愛する息子と娘は、きっと神の御下に辿り着くでしょう。」

「…分かるまい、実の子供に売られた惨めな男の死に様など。」


「アーメン。」


神父は最後にそう呟き、質素な羽織りを翻して看守とともに去った。





……魂だと?神の御下だと?


ならば、俺の魂はなぜ救われないのか。


俺の信仰を裏切り手を血に染めさせたのは、一体誰だというのだ。


愛と真実に生きようとした俺の道程を十字架で塞いだのは、一体……。




監獄のドアが再びバタンと閉まったそのとき、もうそこにあるはずのない人影が彼の瞳の光を陰らせた。


鉄格子の外に、真っ黒な女性が立っている。


ダリルが息を呑んで後ろの石壁に手をつくと、女性の影は膨らんだ自分の腹部を愛おしそうに撫ではじめた。


「…やめろ…。」


女性の背後から、また別の影が現れる。


しかし今度のそれは顔形がハッキリと窺え、ダリル自身と全く風貌をしていた。


…手にナイフを持っている。



「やめろ!!」



ダリルは鋭く叫ぶと、ナイフを振りかぶる自分の幻影から目を背けた。




……だが、何も聞こえない。




再びそっと瞼を開いたときには、もう二人はそこにいなくなっていた。


彼は壁に自身の体重を預けたまま、力の入らない右手でシャツの胸元を広げ、刻まれた逆十字の入墨を爪で引き掻いた。





「…神よ……。」

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