第6話 ハイウェイマン

ウェストミンスター。

その一画に位置するコヴェントガーデンと呼ばれた歓楽街では、怪しげにひしめく売春宿から鼻をつく精液の匂いが裏通りまで滲み出している。


その店の一つから出てきた男は、高級そうな羽織の襟を直しながら、控えていた馬車に乗り込むと、事後の微睡みの中で自身の恵まれた境遇を顧み、悦に浸っていた。



…あまりに順調すぎる。



工場の経営が軌道に乗ってからというもの、諦めかけていた四度目の結婚が成立し、金も世間体も余すところなく手に入れた。


うら若き新妻は実業家たる敏腕の夫を敬い尽くしながら、こうしてこの街で身売りする下賤な女たちにささやかな仕事の憂さ晴らしを求めても、それに口を出してくることはない。


ここで金を湯水のごとく使いまわしても、養った英気で再び稼ぎなおせばいいのだ。



だが思えば、これらは純真に自分の力で手に入れたというものでもなかった。


父親の後を継ぎ、倒れかけた会社を回復させたのは自身の代ではあったが、それは先代から続く社交の中に優れた助言者を見つけられたからでもあり、何よりも事業において父の試行錯誤を幼い時分からすぐ側で観察できた立場ゆえの功績である。


つまり人は、生まれながらにその行く末をほとんど決められているのだろう。


富を持つ者はそれを用いてまた富を増やし、何も持たない者はただ一つ神に与えられた肉体を少しずつ削り取って売り、その日の食糧に代えるしかない。


そうであるならば、きっと神とは、人に平等な死を与える前に、平等な生を与えてはいないのだ。





…そのとき、馬車の外で一つ、パン!という銃声が鳴り響いた。




突然停止した馬車がその衝撃で大きく揺れると、車室の壁に打ちつけられた男は完全に目を覚まし、窓を開けて外に顔を出す。


「おい、一体何が……。」


言い終えないうちに、男は窓越しに伸びてきた太い腕に襟首を掴まれ、そのまま外へ引きずり出された。


「持っているものを全て出せ、ブタ野郎。」


襲撃者が地面に男を捻じ伏せたまま顔面を近寄せると、その胸元から逆十字の入れ墨が覗いた。


「…ロンドンハウラース…!!」


男が顔を上げると、馬を操っていた御者が、犯人の仲間と思われるもう一人に銃を突きつけられていた。


「…ブタはお前たちの方だ…!富者から貪り食うことしかできない畜生どもめ!」

「なら、ブタに殺されるお前は虫か何かか?」


「止めろブラッド。今日は盗るだけだ。ダリルと一緒に邢台へ上がりたいか?」


顔を引きつらせた被害者を見て銃の男が声を上げたが、効果がない。


「…この国じゃ窃盗も殺人も変わりはしない。」



しかし、よく見渡すと周囲の人だかりは想定以上に賑わいはじめている。歓楽街から位置をズラすために少し泳がせたつもりだったが、消灯していたはずの建物の陰では、鬱屈した闇に紛れてゴキブリのように人が蠢いていた。


「……金は?」

「…車内に私の鞄が……。」


ブラッドはそれを確認すると、唇を噛んで這いつくばる男の身体を蹴り飛ばし、御者を恐喝して馬を走らせた。


「行くぞ。」


犯人の二人が動き出す馬車に足をかけて乗り込むと、人々はわっと歓声を上げる。


ガタガタと揺れる車室の中で、ブラッドは金の入った鞄に手を乗せたまま溜め息をついた。



「この国は終わってる。」

「ハイウェイマンは街のヒーローだ。金持ちが痛い目に遭う姿だけが、人々の栄養さ。」

「…聞いたか?エドガー。やつは俺たちの方がブタだと罵り返しやがった。体型を見ればどっちが浅ましく食い散らかしているか、火を見るより明らかだろうに。」

「……そうだな。」


エドガーはブラッドから鞄を受け取り、金貨を数えはじめる。


「だが気を付けろ。殺人法が制定されてから、解剖医どもはデカい面で囚人の遺体を捌けるようになった。このコヴェントガーデンには、俺たちの骸を解剖台の前で楽しみに待つ、頭のおかしな男が棲んでいる。」

「……ジョン=ハンターか…。」


ブラッドはカーテンを少し開け、窓から遠い目で外の景色を眺めた。


「…先日の妊婦だが、やつのところに引き渡した方が金になったんじゃないのか?」

「いや、何でもハンターは今、虫歯の研究に熱中しているらしい。戦争帰りで職を失ってから、ビジネスを立ち上げて一儲けを企んでいると聞いた。そうなれば、あいつも俺たちの標的になるだろう。…それに、取引した盗掘団は外科組合と繋がっている。高値で買い取ってもらえたが、やつら自身も中間マージンで潤っているはずだ。今後もいい付き合いになるかもしれない。」

「……あの遺体を、組合が受け入れればな。」


エドガーは顔をしかめた。


「…ダリルは少しやり過ぎた。確かに窃盗も殺人も死刑にはなるが、殺した場合はすぐに足が付く。あの過敏な教団は遺体を見るだけで飛んで駆けつけ、すぐに通報するからな。」

「エドガー、俺はその件に関して疑念がある。いつやつらが妊婦の遺体をというんだ?ダリルがあの妊婦を殺した後、骸はすぐに俺たちが回収して売り捌いた。」

「…それは、俺たちの中に教団の関係者が紛れ込んでいるという意味か?」


ブラッドはカーテンを閉め直し、椅子に深く腰を沈めた。


「…ダリルの処刑場はタイバーンだったな?誰を向かわせている?」

「カーラだ。女一人でには勝てないと伝えたが、現地で人手を調達すると言って聞かなかった。」

「あいつには人手を雇用できるような人件費は渡していない。俺たちの知らない無償の協力者がいる時点でダウトだ。」


馬車の揺れが落ち着いてきた。脅されていた御者が騒動から間を置き、冷静になってきたのだろう。彼は車室前方に施された小窓から顔を覗かせ、声をかけてきた。


「…路地を抜けましたが…どちらへ向かえばよろしいでしょう…?」


ブラッドは椅子の背もたれに両腕を預け、顎を上げながら言った。




「…タイバーンへ。俺達も処刑場へ向かう。」

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