第5話 十字架の少年

「エリオット、いるだろう?一緒に出かけよう。」


名を呼ばれた少年は、手に持っていた血塗れのメスを急いで懐にしまい込んだ。


「今日は顧問の許しをもらってるから、夕方まで遊べるよ。」

「…言ったろう、ヴィクター。君はここへ来るべきじゃない。」


友人は素知らぬ顔で、入ってきたドアを内側からそっと閉めた。

下町に下りてくるときはいつも庶民的な服装に身を包んでいるが、その立ち振舞いの端々からは、教養の高さが隠しきれずに滲み出している。


「…今日は床屋さん?それとも……。」


エリオットは深く溜め息をついて、木桶に張っていた水でバシャバシャと手を洗いはじめた。


「こんな血なまぐさい場所へ、君のように高尚な人間が入ってきてはダメだ。どうかそのまま、俺の代わりに真当まっとうな人生を歩んでくれ。」

「人を治すお医者さんが、真当な職業じゃないっていうのかい?君たちはもっと尊敬され、讃えられるべきだ。主もきっと、そのように仰る。」


エリオットは動きを止めて一旦顔を上げたが、ヴィクターの胸に光る十字のペンダントが目に入り、またすぐに下を向いた。


「…治らないこともある。それどころか、処置したせいで長く患者が苦しんだり、死んだりもする。うちの親父はそうやって散々人を殺した挙げ句、いざ自分に死神の鎌が振りかかると、手術を拒んでのうのうと最期の二ヶ月を生き延びた。」


「つまり、人は死ぬよ、エリオット。何かをしても、しなくても。」


ヴィクターは落ち着いた足取りで桶の前までやってきて、隣にしゃがみ込んだ。


エリオットの手に付着していた血痕は薄く線を為してほどけ、透明な水に色を付けていく。


「人は皆、苦しみながら死んでいく。だから祈るんだ。せめて死んだ後、その苦しみが報われるように。人生という長い旅路には一体何の意味があったのか、それを知ることができるように…。」


ヴィクターは薄赤に染まった桶水を右手で掬い取り、それをまた意味もなく注ぎ直した。


「処刑場に行こう、エリオット。僕は人が死ぬところを見てみたい。神の与えたもうた平等な命が終わりを迎えるとき、その結末は果たして平等だろうか?国のために死んだ父さんと、罪を犯して刑に処される罪人は、同じところで死後の魂を癒すだろうか?」


エリオットはその言葉を聞いて、無意識のうちに懐から血のついたメスを出し、それを見つめていた。


「…彼らは…いや、俺たちは決して、同じ場所へは辿り着けない。」


「どうして?」



「死後の魂は神の御下で裁かれる。…最後の審判によって…。」



そう呟いたとき、エリオットは桶の底から何か小さな金属片がゆっくりと浮かび上がってきたのに気がついた。それは水の表面にゆらゆらと漂いながら、波紋の中心で鈍く光をはね返している。



……指輪だ。




「…大丈夫だよ、エリオット。僕らは死んだら、同じ場所へゆくだろう。僕が地獄に堕ちた今、それを捌いた、君自身も同じように…。」




ハッとして見ると、ヴィクターの体がいびつに大きく膨れ上がっている。

…いや、その腹部だけが、まるで妊婦のように肥大化しはじめているのだ。


エリオットが息を呑んで硬直していると、自重に耐えかねたヴィクターの身体が前のめりに倒れ、その衝撃で彼の頭部は桶の中にボトンと外れ落ち、飛沫を上げる。


真赤まっかに染まった水とも血潮とも分からない液体がエリオットの顔面に撥ねて、彼は咄嗟に退き、持っていたメスを倒れたヴィクターの胴体に向けて突きつけた。



「そう、メスを執れ、エリオット。それが君の役割なのだから。」



水に落ちた頭部がぐるりと回転して、その眼差しをエリオットに返すと、彼の右腕は強烈に痛みだした。



「ここで君を待っているよ、その身が朽ちて果てるまで…。」









……その瞬間、木桶は何者かによって蹴り飛ばされた。





「おっと、すまねえ!」


足下を水浸しにされたイーサンは、ゆっくりと目を閉じて怒れる神経を鎮めた。


「……解剖室で騒ぎ立てるというのは、荒くれ者に許された特権でしょうか?」

「…そもそも解剖室じゃねえんだよ。そっちこそ玄関でやったらどうなんだ?ここじゃ、ひっきりなしに俺が通るぞ。」


エリオットは血に染まったメスを握りしめたまま、遺体倉庫で固まっていた。


「まあいいでしょう。我々も丁度終わりましたから。…解剖学的な新発見こそありませんでしたが、彼の腕前はよく分かりました。」


床を拭きはじめるダニーをよそに、イーサンは濡れた靴を脱いで裸足になる。


「どうして右手だったのですか?」


エリオットは声をかけられて我に返り、寝台の上で解体されたその物体の存在を思い出した。


「…腕に繋がる神経構造を確認するためだ。」

「では、腕ごと墓から持ってくれば良かったのでは?」

「腕そのものの研究は、もうハンターに散々説明された。だがそれでも…原因が判らないんだ…。」


彼がズキズキと痛みの残る自身の右腕を抑えると、イーサンはそれに食指を動かされたようだ。


「あなた自身が患者だったのですか。非常に興味があります。教授が匙を投げる程の病とは如何ほどのものでしょう?私にも見せていただけますか?」


それを聞いたダニーは、雑巾を絞る手を止めて顔を上げた。


「いや、待て。患者にもプライバシーがある。」

「医師に向かってプライバシーを振りかざされては、治療もできませんが?」

「…ハンターの担当だ。やつが匙を投げることはあり得ない。自分の師からをひったくるつもりか?」

「……それもそうですね。」


イーサンは引き下がり、改めてエリオットの方を見据えた。


「ひとまず、ここで手持ちの遺体解剖を終わらせたことは賢明だったでしょう。この程度の部位を持ち帰ったところで、教授も施しようがない……いや、彼ならそれでも血の一滴まで搾り出すでしょうが……それよりも私の依頼報酬で、この盗掘屋から他の土産を買って帰ることをお勧めします。組合の同僚たちは皆、陰ながらその品質と運営体制には一目置いているのですよ。」

「なんだ、荒くれ者呼ばわりのままだったら、今後お前を出禁にするところだったよ。」


ダニーは桶と雑巾を片付けると、寝台の空いていたスペースに腰をかけた。


「死体での支払いは、もともとエリオットと約束済みだ。金は貸切の馬車代に使うといい。そうすれば丸々一体持って帰れるだろう。」

「…手付け金に半分、残りは商品と代金引き換えですよ?」


2人は揃ってエリオットの方を確認した。


「…本当にお前も現場に行くんだな?」

「ああ。何が行われるかは知ってる。」

「見たことがあるのか?」

「子供の頃に一度だけ…友人に連れられて見に行った。」


ダニーは寝台に広げられた生々しい解剖の跡を眺めながら、複雑な表情を浮かべる。


「…俺には分からんよ。お前が何処へ向かおうというのか、何者になろうとしているのか……。」

「私にも…。ただ、あの光景に目を背けたまま、真実に辿り着くことはできない…そんな気がするんだ。」





翌日の段取りを計画したダニーとエリオットは、出発の夕方前までアジトで睡眠を取ることにした。


夜闇に紛れて死体を漁り、太陽から逃げるようにして床へ就く。彼らの歩く道は、いつも光から遠ざかっていた。

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