第1部 常闇の理髪師
第1話 墓荒らしのエリオット
ロンドン郊外に位置する、とある大きな墓地。
この一帯では、生前身分の低かった者たちが、半ばゴミでも埋め隠すかのように、簡単な仕事で土の下に眠らされている。
エリオットは目眩の後に残った頭痛で疲弊しながら、シャベルを杖代わりにして歩を進め、墓石に記された名前を一つひとつ確認していく。
暫く徘徊した後、今回の目当てだった名の石を見つけると、その隣で一度腰を下ろし、浅くなっていた呼吸を整える。
続いて胸の前で十字を切り、再び立ち上がると、シャベルを構えてザクザクと土を掘り返しはじめた。
通常の人間にとって、これは大した労力ではない。
品位の高い遺体であれば厳重に固められた棺が数メートル地下まで納められており、掘り起こすのも埋め直すのも骨が折れるが、そういったものに手を出す同業者は少ない。
エリオットもまたそれを心得ていたが、彼にとってこの仕事は、単なる墓暴きではないのだ。
問題は、解体した後なのだから。
ガッ、とシャベルの先端が硬い感触に音を立てると、エリオットはしゃがみ込んで柄を短く持ち直し、細かい土をどかしていく。
現れた棺の蓋を慎重に外すと、中には中年男性の遺体が寝かされていた。
頭部には打撲の跡があり一部陥没しているが、それ以外の部位は比較的きれいだ。しかし左手には指輪が付いているため、こちらに触れることは憚られる。
エリオットは腰に巻きつけた小さな鞄からメスを取り出し、遺体の右手首に刃を当てた。
「…おい、そこで何してる?」
神経が立っていた状態で不意に背後から声をかけられ、息を詰まらせた。
片膝をつきながら振り返ると、同じくシャベルを担いだ男が、眉間に皺を寄せながらこちらを見下している。
…人間か……。
頭痛のせいで周囲への警戒を怠ってしまったらしい。本来ならここで焦りだすべきだろうが、彼にとっては「ただの人間」、それも同業者となれば、むしろ心を鎮めてくれるものだった。
「何って、あんたと同じさ。墓を起こしてる。」
「見りゃ分かる。ここが誰のナワバリか分かってんのかって聞いてるんだ。」
「ナワバリ…?」
エリオットは落ち着き払って立ち上がった。
「この広い墓地、全てがあんたの取り分だっていうのか?少し横暴すぎないか?」
「当たり前だろ。こっちは外科組合
「勘弁してくれ。私もイカれたスポンサーの手前、組合より遥かに多くの死体が必要なんだ。」
「……まさか、ジョン=ハンターか…?」
男は複雑な表情を浮かべてシャベルを下ろした。
「…そうか…。必要なのは全身か?」
「いや、今回は手足の首から先だけ欲しい。」
「脚はダメだ。手の方なら、両方腕ごと持っていけ。ノコが要るなら貸してやる。」
「…大丈夫だ。後で運ぶのも大変だし、ノコは仰々しくて良心に障る。」
エリオットはそう言うと、再び遺体の前に膝を折って、その右手首にメスを入れた。
切れ込みから覗く筋肉の繊維を無駄なく丁寧に引き剥がし、最小限の執刀であっという間に組織を分断する。
最後に繋がった手首の骨を軽くへし折ると、その断面すらギロチンで割ったように真っ直ぐだった。
「…お前、ただの墓荒らしじゃないな?ハンターから学んだのか?」
「いや、ほとんど独学だ。私は元々、墓荒らしなんかじゃない。」
男はその手際に心底感心した様子で、腕を組みながら何かを考えていた。
「解剖ができるのか?どの程度学がある?」
「学といえば称号こそないが、私はベル=イル占領で外科医として乗船していた。」
「…そうか、なるほど…。」
エリオットは切り取った右手を麻袋に包んで鞄にしまうと、ズキズキと痛みだす自分の右腕を擦った。
「次はあんたの番だ。私はもうこれでいい。早くこの場を離れなければ…。」
「…いや、ちょっと待ってくれ。お前、ハンターの下に帰る前に、少し俺たちの仕事を手伝ってくれないか?今、解剖の知識が必要な案件が一つあるんだ。」
「それは私が必要か?外科組合にはいくらでも解剖医がいるだろう。」
「…ちょっと事情があってな。やつらには頼れないんだよ。報酬は出すし、今後この墓地には融通が利くよう手配もしてやる。他に必要な死体があれば、少し分けてやってもいい。」
エリオットはまたも痛みだす頭を抑え、焦燥感に駆られて簡単に答えを出した。
「…いいだろう。とにかく今はこの墓地を出させてくれ。話は後で聞く。」
男は満足そうに顔を緩め、手を差し出してきた。
「俺は墓荒らしのダニーだ。」
「…理髪師のエリオット。」
エリオットが曖昧に手を握り返すと、ダニーは怪訝な声で「理髪師?」と尋ねてきた。
「…ああ、そういう意味か。『良心』と言ったな。お前にもプライドがあるんだろう。もう法律は変わってる。あとはお前が変われば、きっと元の世界に戻れるさ。」
ダニーはそう言った後、棺の蓋を閉め直し、上からシャベルで土をかけはじめた。
「…そっちはやらなくていいのか?」
「今日の収穫はお前で十分だよエリオット。俺もこいつを運びながら仕事の交渉はしたくない。」
エリオットが手伝うと、一分とかからずに墓は元の姿に戻った。
「さて、行くか。アジトに戻る前に、どこかの酒場で話をしよう。そこで断ってくれてもいいが、悪いようにはしないぜ。」
「それは私の台詞でもあるな。後で揉め事にならないように、こちらの状況も説明させてもらう。あんたが信じる気になるかどうかは分からないが…。」
エリオットがそう言って、先を歩きだすダニーに追従しようとした瞬間、突然何者かに足首を掴まれた。
ゾッとして足下を確認すると、薬指に指輪の付いた左手が、弱々しく彼を引き止めている。
「クソッ!寄るな!俺のせいじゃない!!」
エリオットがもう一方の脚で何度もそれを踏みつけると、左手は痙攣しながら、やはり闇に溶けて消えた。
「…な…どうした急に…?」
「…いや……何でもない…。」
こちらを振り返ったダニーは、先ほどの態度とは違うエリオットの癇癪に戸惑った様子だったが、彼が声色を持ち直すのを聞いて、再び先を歩きはじめる。
……『墓荒らしのエリオット』。
彼自身がそう名乗ることは一度もなかった。
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