常闇の理髪師

野志浪

プロローグ

ロンドン怪奇譚

薄暗い森の中でギイギイと不愉快な音を立てていた馬車は、車輪が硬い石を踏みつけた衝撃で、いよいよ動かなくなった。


またですか、困ったものだ、と御者が小さく呟くと、荷台に座っていた二人の男は、尻を擦りながら降りて、退屈そうにアヘンを吸い始める。


御者が車輪の調子を確かめていると、荷台で眠っていたもう一人の客が目を覚まし、片目を薄く開けていた。


「お客さんもどうぞ、降りて一服なさってください。この具合だと、30分はかかります。」


だが、その男は黙ったまま唇に手を当てると、再びそのまま目を瞑ってしまった。


男は木々の葉が擦れるざわめきの中で、先に降りた二人組の会話に耳を傾けていた。



「…全くよ、片道中で三度も故障なんて、流石に怪談都市ロンドンってわけだな。」

「旅客用の馬車じゃないから、単に整備してなかっただけだろう。別に俺たちが呪われてるからってわけじゃない。…物好きどもに怪談のネタを提供してるのは、間違いなく俺たちだけどな。」


男の一人がフッと煙を吐いた。


「だが最近、こんな話もある。例の教団の連中が熱心に崇めてる”神託者”とやらが、死人しびとの声を聞いたそうだ。夜になると、身体のパーツを求めて、悪霊が街中を彷徨い歩くらしい。そうすれば生きて再び甦れると信じてな。」

「…最後の審判ってやつか。どうにも、俺たちのような職業には理解ができん話だ。それも結局、尾ヒレのついたゴシップだろうよ。そんな悪霊がいるのなら、真っ先に呪い殺されるのは、やはり俺たちだな。」



馬車で寝たフリをしていた方の男は、再び片目を開けて、荷台の上に残されている麻袋に視線を送った。彼らが運んでいたものだ。



…この二人、やはり同業者だったか。

まずいことになった。



男がそう思って、首から下げた十字架のペンダントを握りしめた途端、馬車馬が急に甲高い声を上げて暴れだした。


その衝撃で荷台がドンと一つ跳ねると、男は地面に投げ出され、同時に麻袋の中身が飛び出して馬と御者の間に転がり落ちた。



「ヒッ……!」



それを見た御者は車輪の修理を止め、一目散に手綱をとる。


馬は御者を乗せて、壊れた馬車を強引に引きずりながら、三人の客たちをそこに置いて、一目散に走り去ってしまった。




あっという間の出来事に、残された三人は呆然とする。




「……おい、どうすんだこれ…。」


二人組は転がった自分たちの荷物…つまりと、十字架の男を交互に見やった。


「…私は驚いていない。それよりあんたたち、早くその荷物を持って去ってくれ。あいつが来てしまう前に。」

「…何?」


その瞬間、ヒュオッと音を立てて、強く冷たい風が通り抜けた。


背中に携えていたシャベルをつるぎのごとく静かに構えた彼は、傍らに広がる森の暗闇を血眼で凝視している。そのただならぬ様相を見て、二人の男たちは顔を見合わせ、アヘンを吸っていたパイプを草むらに投げ捨てた。


転がった生首を急いで拾い上げ、麻袋に詰め直すと、幾度か後ろを振り返りながら、馬車の向かった方角へ逃げるように同じく走り去る。




人が消えて一層に静けさを増した空気が明らかに冷たくなっていくのを肌で感じたその男は、シャベルを握りしめる両手の握力を強めた。


……来た。


彼の見つめる暗闇が木々の輪郭とともに少しずつ歪み、それはやがて女性のものと思われる血塗れの人影へと形を為した。


首から上が失われている。


「…探しているのか、お前の頭を…。」


彼がそう呟いた途端、女は凄まじい勢いで風を切り、空中を駆けながら白い両手を伸ばしてきた。


男はシャベルの柄でそれを防いだが、右腕に強烈な悪寒を催して怯むと、その隙に凍りつくような冷たい指で喉元を締め上げられる。


呼吸もままならない状態で地面に押し倒された彼はなんとか両脚を折りたたみ、女の腹部を蹴り突き飛ばして、嗚咽を漏らしながら再び立ち上がった。


「ぅぁあああ!!」


高々と振り上げたシャベルを、這いつくばる女の胴体に勢いよく叩きつける。


何度も、何度も。


生々しい感触に支配されていた男は、眼に入った返り血を拭ったところでようやく我に帰り、相手が既に動かなくなっていることに気がつく。


ヒューヒューと乱れる自分の呼吸を自覚した彼は間もなく、別の視線を感じてハッと顔を上げた。



森の茂みに黒い影。


その瞳はただ、こちらをじっと見つめているだけだった。



「…いつまで…お前はいつまで俺を追ってくる?俺が地獄に堕ちるのを待っているというのか!」


叫び声を聞いた影は、ゆっくりと瞼を閉じる。


そうして真っ黒に沈んでいく影は、いつの間にか森の暗闇と同化して消えていた。


いつも通り、なぶった女の姿も、浴びたはずの返り血もない。


残っているのは、激しい目眩と、この右腕の痛みだけだ。



彼は大きく震えながらため息をつき、木の根本に座り込んで祈った。


「ああ、神よ…。」


縋るように握りしめられた十字架のペンダントは、月光を浴びて鈍く煌めいていた。

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