第2話 カチューシャ
2年目にしてメタバース随一の人気を誇る、クラウド型VRMMORPG『エリュシウムフロンティアス』
その成功を支える最大の特徴の一つが、究極的なクオリティを誇るグラフィック表現だ。
それはもう、素晴らしいの一言に尽きるのだが、そこにモンスターが出るとなると話は別だ。
あんなリアルすぎるモンスターと戦うなんて正気の沙汰とは思えない。
だから、僕は登山系冒険者の道を選んだんだ。
◆◇◆
同日23時過ぎ……
今日も深夜まで働き、自宅の1LDKアパートへ戻った。
実は今日、会社で辞令を受け、部長に昇進した。まだ30歳にも満たないのに、である。
うちのソフトハウスは小さくて、リーダーの次が部長なもんだから、こんな事になる。
給料は変わらないのに、責任だけが重くなる。それに正直、人をまとめるのは苦手だ。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
今はとにかくディスティニーピークの状況が気になる。
プレイヤーSNSで情報を集めて、気になるところをチェックしてはいるが、今時の話題は『サイバネティック城塞』のことばかりだ。
シャワーを浴びてから薄緑のパジャマに着替え、部屋を薄暗くし、いつものキャスター付き事務椅子に腰を下ろした。
事務机の下段の引き出しから缶ビールを取り出し、ストローを差して半分ほど飲む。
僕は常温のビールが好きだ。だから、引き出しに缶ビールをストックしている。
まあ、今飲んでいるのはノンアルコールのやつだけど。
VRゴーグルを装着して、
グリップを握りしめて両コントローラーについているトリガーの感触を確かめる。
事務椅子に座ったまま部屋の真ん中に移動して、メニューを選択。エリュシウムフロンティアスを起動した。
サラウンドヘッドフォンから、この2年間聞き慣れたテーマ曲が高らかに流れ出す。同時に、VRゴーグルの視界いっぱいにエリュシウムフロンティアスのタイトルロゴが現れた。
ミギコンを操作してログインを選択。やっとエリュシウムに戻れる……
◆◇◆
エリュシウムにログインしてセレスとなった時には、既に日付が変わっていた。
前回と同じ場所、シェルターの壁際に横たわっている。
隣では、フローラが僕を見守るように静かに座っていた。
プレイヤーがログアウトした時、アバターはゲーム内のその場に放置される。だからエーテルであるフローラが休みなく見守ってくれるのは本当に助かる。
「やっぱり、またこんな時間にログインしたのね」
と、フローラが軽く肩をすくめて言った。
「あのねぇ、エーテルについているプレイヤーログオフ機能は気軽に使う物じゃないんだよ。プレイヤーが違法行為を行ったとかじゃないと……」
と、僕は抗議した。
「ごめんなさい。でも、弘の事を思うと、ああするしかなかったの」
フローラは申し訳なさそうに言った。
ひとまず気持ちを切り替えて、重要な質問をする。
「『ディスティニーブレイカー』はもう誰かが取った? まだ取ることは出来るの?」
霊山を踏破し山頂まで登り切ると、その証としてプラチナ称号「ディスティニーブレイカー」を獲得できる。これは、モンスターを倒さずに得られる初のプラチナ称号だ。
フローラは真剣な表情で答えた。
「まだ誰も頂上には到達していないわ。あいかわらず酷い天候なの」
よかった。まだチャンスはありそうだ。
「プレイヤーズSNSを見たんだけど、もうフェアウェイの情報が出回っているみたいだ。それでもまだ攻略されていないんだね?」
「ここまでたどり着いたのは私たちを含めて17パーティよ。そのうち7パーティが山頂を目指したけど音信不通になってしまったわ。4パーティがリタイアして、私たちと疾風旅団を含む6パーティがここで天候の回復を待っているの」
僕は周囲を見渡した。
シェルターの中には新参の2パーティが別の壁際に間借りしていて、談笑したり、ログアウトしていたりしている。
外は低酸素で凍える吹雪が吹き荒れているが、ここにいないパーティは外で自前のキャンプを張っているのだろう。
待てよ……僕はドーム内を見渡し、慌ててフローラに尋ねた。
「疾風旅団の人数が倍くらいに増えていないか?」
フローラは頷いた。
「ついさっき、グラビティ団長が増員を連れてきたところよ」
「グラビティがいるのか?!」
僕は疾風旅団がいる方向を見た。
グラビティは、部屋の中央で団員たちに囲まれてジュノーと立ち話をしていた。大柄な体格に、疾風旅団統一のエンジ色マントを羽織ったメカニアンだ。
赤と銀色のボディは、ごついパーツで構成されていた。
メカニアンに性別はないが、グラビティは特に男性的な容姿をしている。
疾風旅団団長グラビティ——彼は疾風旅団を導くだけでなく、他のプレイヤーからも尊敬を集めるハイレベルプレイヤーだ。
「とにかく、まだ間に合うなら今すぐ出発するよ。危険は承知の上だ」
そう言ったが、フローラが返事をしない。どうしたんだろう?
フローラの視線を追うと、そこは緑の髪をゆるく三つ編みにし、黒いメイド服を着た小柄なテラリアンの女の子が立っていた。
メイド服? まあどんなアバターでここに来ようと問題はないのだが、場にそぐわないのは間違いない。
突然、その少女が僕に向かって懇願してきた。
「あぁ! ログインしたのですね! お願いします、助けてほしいのです!」
何だ? どういうことだ? とにかく急いでボイスチェンジャーをオンにする。
「え、えーっと……あなたは、どなたですか?」
そう、我ながらたどたどしく言ったが、その言葉は見事に変換されて……
「ん? お前は誰なんだ?」
とセレスのイケメンボイスになった。
少女のステータスを見るとその名前はカチューシャだった。大きめの白いカチューシャを付けたキャラクターなので、そのままの名前をつけたんだろうな。
「わたしたち、遭難してしまったんです。エーテルキャラと一緒だったのに、そのキャラをその場に置いてきてしまいました。どうしてもそのエーテルキャラを回収したいのです」
と、彼女は言う。どうやらメインキャラを失った彼女が、サブキャラでこの地に戻ってきたようだ。
「それなら、旅団に頼んでみたらどうだ?」
「実は……あの方たちが親切にもここまで連れてきてくださったのですが、『これ以上は無理だ』と言われ、もう取り合ってくださらないのです」
カチューシャはそう言いながら、疾風旅団の方を見た。
「それは困ったな」
疾風旅団が断るということは、それだけ危険だということだ。
「セレス、そんな話に乗ってはダメよ」
とフローラが遮って言った。
確かにこれは厄介な予感がする。
「どこで遭難したんだ?」
「ディスティニーピークの七合目です」
「お前とエーテルキャラの二人だけで登ったのか?」
「はい。わたしのアバター・ゼノンと、エーテルのタマサブローは一気に山頂まで行くつもりでした。でも、吹雪のせいで予定より遅れて、七合目に着いたのは昨日の16時だったのです」
カチューシャの表情もプレイヤーの表情をそのまま映しているようだ。その必死さが痛いほど伝わってくる。
「わたしはその時間にリアルで用事がありましたので、そこでテントを張ってログアウトしました」
ゲーム内時間は日本時間と同じで、リアルタイムで進行している。
「それで? 問題はいつ発生したんだ?」
「夜になってメインメニューからゲームの状況を確認したところ、ゼノンが消滅していたのです! タマサブローはスタン状態になっていました。ゼノンが消えたのは19時でした!」
「うーん、5時間前か……」
◆◇◆
エリュシウムフロンティアスは厳しいデスペナルティを採用している。
キャラクターが死亡すると、そのデータは完全に消去される。レベルやステータスも失われ、復活は不可能だ。
所持していた装備やアイテムは、その場に散乱する。エーテルキャラの場合、エーテル自体がアイテムとなってその場に残される。
これらのアイテムは6時間以内に回収しないと永久に消滅してしまう。
ただし、よほどの大ダメージでない限り、大抵は
スタン状態のキャラクターは動けなくなり、周囲を見るか
そのため、このような動けない状態をしばしば『遭難』と呼ぶ。
◆◇◆
「わたしはすぐにログインして、メインキャラをこのカチューシャに変更し、マイハウスがあるクロノシティからここまで急いで戻ってきたのです」
そう、メインキャラを別のキャラクターに変更するにはマイハウスに戻る必要がある。
メインキャラが消滅した場合は、マイハウスにある別のキャラクターをすぐにメインキャラにできる。
それにしても、クロノシティからここまで5時間とは信じられない速さだ。途中で疾風旅団と合流できたからだろうか?
「とりあえず、タマサブローというエーテルキャラはまだ生きているんだね?」
「はい、メインメニューではまだスタン状態だとわかります。でも、パーティから離脱になってしまったので、チャットはできないのです……」
と、カチューシャは心配そうに答えた。
スタン状態は72時間続く。だけど、その時間が過ぎるとキャラクターは消滅してしまう。
さらに、このカウントダウンは環境によって急激に早まる。現在のディスティニーピークの過酷な状況は、まさにそれだ。
「そのタマサブローの種族は?」
「メカニアンです」
「ロボットか……少なくとも酸欠の心配はないな」
その時、大柄なメカニアンが会話に割り込んできた。
「そいつらは雪崩に巻き込まれたのだろう。行っても無駄かもしれんぞ、ミスター」
疾風旅団団長のグラビティ、その人だった。
「う、うわっ。グ、グラビティ団長。お久しぶりです!」
情けないことに、思わず気後れした声が出てしまった。しかし、それは同時変換されて……
「やあ、グラビティ団長。久しぶりだな」
セレスがそう言い直してくれた。
僕は姿勢アイコンを選択し、座っていたセレスを立ち上がらせた。
それでもグラビティの方がセレスよりもずっと背が高かった。
彼こそが疾風旅団団長グラビティ。そのカリスマ性は僕にとっては眩しすぎる。
『疾風旅団』はエリュシウムフロンティアスで最も有力なチームの一つだ。
他の有力チームが数千人のメンバーを抱えるのに対し、旅団はわずか百人に絞り込み、新規団員の受け入れも行っていない。
彼らは10~30人程度の集団で行動し、シェルターを建設しながら着実に前進していく。
新しい拠点を見つけるたびにシェルターを設置し、前人未到の地域や危険な魔物が潜む巣窟に果敢に挑戦する。
他のプレイヤーやチームとの関係作りにも積極的で、特に彼らが建てたシェルターを誰でも使えるようにしている姿勢は、多くのプレイヤーから高く評価されている。
彼らは常に難しいエリアに挑戦し続け、その道を切り開くことで、後に続くプレイヤーたちが挑戦しやすい環境を作り上げているのだ。
だから、ここにいる団員は別働隊で、団長はサイバネティック城塞に向かっていると思っていたのだけど……
「何しに来たんだ? グラビティ団長」
僕はセレスの顔に『睨みつける』を表示した。疾風旅団に悪い奴はいないのだが、僕にとってはどうにも気に入らない連中だ。
「彼女をここに連れてきた以上、気になったのだよ、ミスター」
「お前がこの子をしかけたんだろう?」
「そうではない。この天候では、これ以上同行できないと言っただけだ」
「気になるなら最後まで責任を持てばいいじゃない」
フローラが会話に割り込んできた。
「面倒ごとをこちらに押し付けないでほしいわ」
グラビティは腕を組みながら言った。
「だが、君たちはすぐに出発するつもりだろう? ミスター。ならば、ついでに依頼を受けてもいいのではないか?」
「お願いします! 報酬はお支払いします」
カチューシャは深々と頭を下げた。
「どのくらい出すつもりだ?」
僕は渋々カチューシャに尋ねた。
「6万ネビュラドルお支払いします。成功報酬ですが」
6万か……なかなかの金額だな。
ネビュラドルはエリュシウム内で使えるゲーム内通貨だ。1ネビュラドルの価値がおよそ1円。直接換金はできないが、非公式なら可能だ。だから6万はかなりの額といえる。
ゲームをするだけで6万円か。悪くない仕事かもしれない。だが、こちらの目標の妨げになる危険性を考えると、安請け合いはできない。
僕はセレスに『軽い微笑み』を表示させ、こう言わせた。
「お前さん、一応七合目まで行ったんだよな?」
「あ、はい。まだ明るいうちでしたけど……」
「なら、そこまで俺たちを案内してくれ。エーテルを回収したら、そこで金と交換だ。これならわかりやすいだろう?」
ラッキーだ。案内人がタダで雇える。
さらに強がって付け加える。
「俺たちみたいな夜プレイヤーじゃなきゃ救出は無理だぜ」
実際、夜間登山の経験は何度もあるんだ。
「私が保証人になろう。それなら問題ないだろう?」
グラビティがそう言った。
カチューシャは決心したようだ。
「分かりました。ではお願いします」
ほっと息を吐く。交渉事は苦手だ。これがセレス経由でなければ、「タダでやります」なんて言っていたかもしれない。
グラビティが仲介に入ってくれたのも助かった。
「やっぱりこうなると思ったわ」
フローラが呆れたように言った。
「やっぱりって、どういう意味だ?」
「セレスは人の頼みを断れないのよ。いつも損してるじゃない」
「まあ、人助けなんだから、それでいいんじゃないか」
と、僕は言い訳がましく返した。
「フレンド登録だな。俺はセレス、プレイヤーIDは『BrainHI』だ」
僕はカチューシャにそう言って、IDカードを提出した。
フレンドになれば、互いの位置に関係なくフレンドチャットができるようになる。
ちなみに、エリュシウムフロンティアスのチャットは基本的にボイスチャットだ。
「はい、ありがとうございます。カチューシャ、『TomoW28』です」
カチューシャも対応した。そしてフローラに向かって言う。
「あなたも、IDカードを……」
しかし、フローラは微笑みを浮かべながら言った。
「ごめんなさい。わたし、受け取れないのよ。エーテルだから」
「えっ?! あなたエーテルなんですか?!」
カチューシャは目を見開いて驚愕の表情をした。つまり、カチューシャのプレイヤーも驚いているのだ。
リアル側で僕はニヤリと笑った。この瞬間を見るためにフローラを連れて回っていると言っても過言じゃない。
カチューシャはセレスのウォレットに手付金として6,000ネビュラドルを振り込んだ。
「グラビティ団長、大容量酸素ボンベはあるか? あれば売ってくれ」
と、僕はグラビティに依頼した。
通常の酸素ボンベは4時間しか持たないが、大容量ボンベなら6時間持つ。アイテムとしての重量は同じなので、資金に余裕があるなら使わない手はない。
「ああ。他に入り用な物があるなら言ってくれ。ただし、手早く頼む。我々はもうログアウトする時間だ」
「じゃあ、回復剤もくれると助かるな」
持ち歩けるアイテム数にも限度がある。リュックサックで上限数を増やしているとはいえ、ここへ来るだけでアイテムを消費している。その分は埋めておきたい。
「わたしにもアイテムを売ってください!」
と、カチューシャが手を挙げて言う。
「じゃあ、準備ができたら出発しよう。そんなに時間はない」
と、僕は言った。
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