その28 初めて、知りました
お昼休みになった瞬間、いてもたってもいられなくなって、真っ先に二年生の教室に向かった。
身体が、芯から燃えているみたいに熱い。
ものすごく大胆なことをしようとしているはずなのに、不思議と怖くはなかった。明日あたりに、冷静になった自分が、今の私の行動を思い返して穴に埋まりたくなっている可能性はあるけれど。
「もしかして、あの子って、王子くんと一瞬だけ噂になってた子じゃ」
「王子くんに用があって、ここまで来たのかな」
「うわ。めげないなー」
二年の先輩たちのひそひそ声も、さほど気にならなかった。
今の私を衝き動かすものは、王子先輩に会いたい。
周りも目に入らなくなるほど、ただ、その一心だったから。
「羽鳥さん!」
がたりと席を立ちあがった彼が、迷いもせず私をめがけて走ってきた時、心がふわりと浮かび上がった。
「えっと……その。このクラスの誰かに用だった?」
「はい。先輩に用事があって、来ちゃいました」
王子先輩は、驚いたというように瞳をまるくしたあと。
「ちょうど良かった。僕も、君に伝えたいことがあったから」
まるで春が訪れたみたいなあたたかさで、やさしく笑ったんだ。
*
「ふう。やっぱり、ここは落ち着くね」
「先輩、すっかり生物室に馴染んじゃいましたからね」
「たしかに、そうだね。数か月前までは、こんなに居心地の良い場所があるってことも知らなかったから」
私たちが落ち着いて話をするために向かった先は、生物室だった。
久し振りに王子先輩がやってきたからなのか、生き物たちもみんな、心なしか嬉しそう。
向かい合うようにして生物室の椅子に腰かけたら、無性にドキドキとしてきた。
「それで。僕になにか用だった?」
「はい」
今までに味わったことのない、緊張感。
呼吸が、浅くなる。逃げ出したくなりそうなほどだ。
少し前までの私なら、本当にそうしていたかもしれない。
だけど――もう逃げないって、決めたから。
深く、息を吸う。
「私、恋がわかったんです」
ハッと息を呑んだ先輩が、瞳を大きく見開いた。
「先輩が、好きです」
互いの息遣いさえも聞こえそうなほどの静寂が訪れる。
まるで、時が止まってしまったかのようだった。
そのぐらい王子先輩が、カチコチに固まっているから。
ええと……大丈夫、かな?
たしかにびっくりさせるようなことを言ってしまったかもしれないけれど、まさか、動きを止めるほどのショックを与えてしまうなんて。
「あの……先輩? 生きてますか」
微動だにしないから、さすがに心配になって、彼の顔色をうかがうように身を乗り出したら。
腕を掴まれて、強く身体を引き寄せられた。
!?
「……君は、本当にずるいなぁ。あーっ、もう……。僕の方から、言うつもりだったのに」
ひゃあっ! 先輩に抱きしめられてる……!?
鼓動の音が交じり合ってしまいそうなほど、先輩が近くにいる。距離の近さを意識すればするほど、顔がゆだるように熱くなっていく。
「というか、先輩、いまなんて言いました!?」
私の聞き間違いでなければ、『僕の方から言うつもりだったのに』と聞こえたような。
彼は、私を抱きしめる力をゆるめて、今度は間近で顔をのぞきこんできた。
その瞳は、うるんでいて。頬も、朱く上気していた。
先輩が、私しか目に入っていない、というような顔をしている。ただでさえ跳ね上がっていた鼓動が、どんどん追い立てられていく。
「僕も、羽鳥さんのことが好き。君に、恋をしている。もう、けっこう前からずっと」
今度は、私が瞳を見開く番。
「僕はさ、ずっと、笑いたくもないのに愛想を振りまいてた。人の好意を無下にして悲しい顔をされると、自分が悪者になったような気がしたんだ……」
彼が、身体を小刻みに震わせながら、熱い吐息を漏らす。
恐れているのだろう。
誰だって、弱い自分をさらけだすのには、とてつもなく勇気がいる。
「先輩、震えてますよ。落ち着いてください」
あなたが、私の弱さを広い心で受け止めてくれたように。
今度は、私が受け止めるから。
「……ふふっ、ありがとう。うん。つまるところ、僕は、人に優しいようで本当は誰のこともどうでもいいと思っていたんだ。自分が、一番かわいかったから」
そう思っていたくせに、それが災いして同姓からは疎まれるなんて情けないことこの上ないね、と先輩は自嘲気味に笑った。
「だけどね、羽鳥さん。やっと、たった一人だけを特別にしたいって気持ちがわかったんだ。君が、気づかせてくれたんだよ」
王子先輩は、誰もが見惚れるような、きらきらとした笑顔を浮かべていて。
この笑顔が、他でもない私に向けられているものなのだと思ったら、痛いほどに胸が高鳴った。
「羽鳥さんの、そばにいたい。もっと笑顔を見たい。君だけを大事にしたい。そっか、これが恋なんだなって自然に思ったんだ」
まさか、先輩も同じ気持ちだったなんて。
夢みたいだ。
目頭がどんどん熱くなる。
感極まって、瞳からつるりと涙がこぼれた。
「えっ……。は、羽鳥さん!?」
あれ。
私、泣いている?
次から次へと、熱い涙が顔にぼろぼろと落ちていく。
そっかぁ。
そういうことだったんだ。
「……ふふっ」
涙を流しながら、笑い声を漏らした私を、先輩が戸惑ったように見つめかえす。
「初めて、知りました。私の涙は、嬉しくて仕方がない時に流れるみたいです」
自分でも、知らなかったな。
泣けなくて苦しんでいた昔の私に、教えてあげたい。
大丈夫。
あなたはいつか、胸を震わせるほどの幸せな涙を流すからって。
「羽鳥さん」
「なんですか?」
首を傾げたら。
唇に、やわらかいものが触れた。
「いきなり、ごめんね。君があまりにもかわいくて、つい」
羽根のように軽いキス。
だけど、その威力は充分すぎるほどで、心臓がバクバクと鳴りやまない。
瞳をそらした先輩が耳まで真っ赤にしているのに負けないぐらい、私の顔も真っ赤になっていたと思う。
「あの……今さらですが、羽鳥さん。僕と、お付き合いしてもらえますか?」
そんなの、答えは一つしかないよ。
「もちろんです。よろしくお願いします、王子先輩」
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