間章その3 王子さまはご機嫌斜め②

 笑え。

 笑うんだ。

 今ここで泣きそうな顔をしてしまったら、坂本さんに、ひいては羽鳥さんにも余計な罪悪感を抱かせるかもしれない。


「もう、ここには来ないよ。坂本さんも、今までありがとうね」


 大丈夫。作り笑顔なんて、毎日のようにやってきたことだ。

 簡単じゃないか。

 そのはずなのに、今の自分が、いつものように笑顔を取り繕えている自信がまったくなくて。

 逃げるように、生物室を後にした。



「おい。そろそろ完全下校時刻だぞ」


 んんー……。まだ、起きたくない。

 いっそのこと、もうこのまま一生目覚めない方が楽かもしれない。


「王子、お前……ひっどい顔。イケメンが台無しになってるぞ。もしかして、泣いてた?」


 生物室を出てきて、下校する気力すらも失った僕がふらふらとした足取りでなんとかたどり着いた先は自分の教室だった。

 散々泣きまくったけれど、それでもすっきりとはしなかった。

 人は、思いきり泣くと、疲れるらしい。

 そのまま机につっぷして寝落ちしていたところを、巡回していた原先生に見つかったようだ。

 完全下校時刻だと急かされても、まったく動く気になれなくて。

 机に寝そべったまま、ぼそぼそと、やり場のない気持ちを吐き出す。


「……失恋、したんですよ」

「失恋? えっ。例の前に言っていた子に?」


 力なくうなずくと、原先生は「王子が失恋……? 待て待て、お前を振る女子なんて、この世に存在すんの? ウソだろ、信じらんねーんだけど」とぼやいていた。


 噂のことは、さすがに教師にまでは届いていなかったらしい。そんなことは、なんの慰めにもならないけれど。だって、噂が羽鳥さんを傷つけたかもしれないという残酷な事実はなにも変わりやしないんだ。


「……完膚なきまでに失恋しました。少しは同じように想っていてくれたら良いなぁなんて思っていたことが、バカみたいです。僕は、彼女に迷惑しかかけていなかったんですよ」

「それは、なんつーか……ご愁傷さま」


 原先生は気まずそうに立ち上がると、教室を出ていってしまった。


 ……先生にまで、見捨てられた。

 まぁ、失恋して愚痴っている男なんて、冷静に面倒くさいだけだよな。これが、かわいい女の子とかなら、ともかくさ。

 救いようもないほどに、酷い失恋だし。

 言葉のかけようすらなかったんだろう。

 鬱々とした思考回路にはまり、世界の全てを呪いたいような気持ちになってきたら、先生がいそいそと教室に戻ってきた。

 口からついて出るのは、煤けた悪態だ。


「……僕が帰らないと困るから、早く帰れと言いにきたんですか?」

「俺はそこまで鬼ではねーよ。とりあえず、これでも飲んで元気を出せ」


 机の上に置かれたのは、ホットココア。

 校内の自販機で買えるやつだ。


「あー……なんか、気を遣わせてしまって、すみません」

「大したことしてねーし。っつーか、お前はまだまだガキなんだから、こーゆー時ぐらいは素直に人に甘えてろ」

「ありがとうございます」


 口にしたココアは甘くて、どうしようもなく干上がった身体にしみわたるようだった。


「失恋か。なんにせよ、好きな相手に想いが届かないっつーのはキツいよな」


 窓の外。

 冬の校庭に視線をやりながら、先生はぽつりと呟いた。


「応えてやりたいのに、立場上それはまずくて。そのくせ、他の相手と幸せになるのはゆるせねー。……俺、最低なんだよな」


 返事を求めているわけではなさそうだと思ったから、黙っていた。


「まぁ、俺もおいそれと人には言えねーような、みっともない恋愛してるんだよ。これはひみつな」

「はぁ、そうですか」

「おい。せめて、もう少しぐらいは興味を示せよ……と言いたいところだけど、今のお前にそんな余裕はねーか。なんつーか、うまいことを言えなくてごめんな」


 しょんぼりと眉尻を下げた原先生を見ていたら、冷えきった心が少しだけあたたまった。


「いえ。先生なりに、元気づけようとしてくれているのは、伝わってきましたよ。ありがとうございます、もう帰りますね」


 もう一度、ホットココアに口をつける。

 今は、苦しくて仕方がないけれど、羽鳥さんの本心を知ってしまった以上、もう迷惑はかけていられない。

 人前で泣いて醜態をさらすのは、もう、これで終わりだ。

 腹をくくろう。

 男を見せるぞ、王子慧。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る