その23 まだ、なかったことにできる
ごめんね、アマガエルくん。こんなしょうもないことのために、下駄箱なんかに閉じこめられてかわいそうに。君も、災難だったね。
「怖かったね。よしよし、もう大丈夫だから」
下駄箱の中で大人しく佇んでいるカエルくんを、両手で保護。
「げっ。あの女、いま、素手で蛙を掴まなかった?」
「うっそ、ありえない! まさかのノーダメージ!?」
そのまま無事に外へと逃がしてあげて、深いため息をついた。
はぁ。
もうこんなに広まっているなんて、気が重たいなぁ。
「なんであの子なの?」
「さあ。もしかして、王子って地味専?」
「いや、本命なわけないっしょ! 気まぐれじゃない? かわいい女の子に見飽きたから、ちょっとした遊びの一環的な?」
「あー、リアル〜! 絶対それじゃん」
ただ廊下を歩いているだけなのに、針の筵を歩かされているような気分だ。
逃げこむように教室に入ろうとしたら、今度はるりが大勢のクラスメイトたちに詰め寄られていた。
「坂本さん! 羽鳥さんと王子先輩ってどういう関係なの?」
「羽鳥さんと仲良いんだし、坂本さんならなにか聞いているんでしょ!?」
「まさか、付き合ってるとかじゃないよね?」
うっわ……。
クラス中の女子から囲まれて困った顔をしたるりと、教室に足を踏み入れかけた私の視線とが交差する。
「佳奈! 顔色、悪すぎ!」
るりはクラスメイトたちを振りきるようにして、私の下へとダッシュで駆けつけてきた。
「えっ?」
「そんなに体調悪そうなのに、授業なんて受けられるわけがないでしょ!」
血相を変えて、強引に私の腕を掴む。そのままみんなから逃げるように教室を出て、階段を降り、廊下をつっきるように走った。
私のことを離すまいと固く握られた手に、それまで厚い雲が覆っていた心に光が差す。
るり、ありがとう。
事情もよくわかっていないのに、真っ先に助けようとしてくれて。
やってきたのは、生物室だ。
るりは、私を押しこむようにして部屋に入ると、そのまま鍵をしめてしまった。
「その鍵、どうしたの?」
「今朝、ここに餌やりをしにきてたメガネから借りたんだ。佳奈と落ち着いて話ができる場所を確保したかったから。今日は、一時間目の授業で使う予定もないみたいだし」
状況を察して、朝の内にそこまでしてくれたんだ。
感謝しかないなぁ。
「はぁー……。朝からどっと疲れたよ」
「るり。その、ごめんね。ありがとう」
「ううん、あたし自身はぜんぜん大丈夫。それよりも、佳奈こそどうなの? ひどいこととかされてない!?」
「ええっと、大丈夫だから落ちついて? あっ。強いて言えば、下駄箱に蛙を入れられたけど」
「げええっ、蛙!? それ、全然大丈夫じゃないじゃん!!」
「本当に、かわいそうなことするよね。でも、ちゃんと外にかえしてあげたから大丈夫だよ」
ぱちぱち、と。
きれいな弧を描いているまつげが、ゆっくり瞬きをする。
それから少しの間をあけて、盛大に噴き出した。
「さっすが、佳奈! そっかぁ、佳奈にその手の嫌がらせは通用しないよね」
「うん」
仕込んだ当人たちが期待していたような反応ではなかったに違いない。
だけど、ああいう行為は自然界の子たちに迷惑なので、純粋にやめてほしい。
二人一緒に、生物室の椅子に腰かける。
喧噪から離れた静かな空間に気がゆるんだら、よほど緊張していたのか、一気に疲労が襲ってきた。
「……迷惑をかけて、ごめんね」
「そんなに縮こまらないでよ。困った時は、お互い様でしょ」
「そっか」
「そーゆーこと! でも、あたしが知らない間に、まさか王子先輩とそんな進展があったとはねぇ。なにも話してくれなかったのは、ちょっとさびしかったな」
「うっ。ご、ごめんね? るりに話すほどのことではないと思っていたんだ」
るりは考えこむように腕組みをした。大きな瞳が、私の心をのぞきこむように、じいっと見つめてくる。
「単刀直入に聞くけど、佳奈は、王子先輩のことをどう思ってんの?」
「どう思っている、とは……?」
「先輩は、迷子のかめきちを拾ってくれたことをきっかけに、生物室に遊びに来るようになったじゃん? あたしは今まであ・え・てスルーしてきたんだけど、それって純粋に生物室の生き物と戯れるためだったのかな」
「うん。そうだと思うよ」
「うーん……。まぁ、この際、先輩が何を考えているのかは二の次で良いや。佳奈自身の気持ちを聞かせてよ」
「私?」
「そう、佳奈の気持ち。佳奈は、王子先輩のことが好き? 好きだとしたら、それは恋愛感情として? こうなった以上、今までみたいに曖昧なままにはしておけないでしょ」
私自身の気持ち。
考えようとしたら、脳裏に先輩のやさしい笑顔が浮かんできて、喉がきゅっと細まった。
息苦しい。心なしか、頭の奥がぐらぐらする。
だけど、まだ、大丈夫だ。
この胸に感じているかすかな痛みは、今ならまだ、なかったことにできる範囲内。
「べつに……特別な感情はないよ」
心を押し殺して述べた回答に、るりは、悲しそうに眉尻を下げた。
「本当に? あたしから見ている限り、恋愛感情があってもおかしくないように見えたけど」
るりの言う通りだ。
彼に対して特別な感情を抱いていないと言ったら、きっと嘘になる。
でも、この気持ちは、恋と呼ぶにはまだ淡く透明に近いものだから。
『いやぁ、ありえないわー。王子って、実は地味専?』
それ以上に私は、この想いをはっきりと自覚して、彼に迷惑をかけることの方がよほど怖い。
先輩は、お人好しでやさしい人だから、たとえ私の想いを受け入れることができなくても困ってしまうだろう。
それ以前の問題として、私は彼とは、悲しいほどに釣り合わない。
この想いは、彼に迷惑をかけるものでしかないんだ。
「先輩は……思っていたよりもずっと生き物に興味があって、話を聞くのも上手だから、こんな私でも話しやすかったけど……ただ、それだけだよ。前にも言ったよね? 私には、恋がわからない」
そう。
今なら、まだ引き返せる。
「……そっか。初恋ではなかったのかぁ」
るりのしんみりとした呟きに、胸がつきんと痛んだような気がした。
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