その18 先輩は罪な人

「大げさだよ。それに、助けられたのは、お互いさまでしょ」

「佳奈は口数も少なかったし、大人びて見えたから、みんな話しかけづらかったんだと思うよ。それにしても……あーあ、あの頃のあたしって、人を見る目がなかったなぁ」

「それは否定できないところだけど」

「だよねぇ。あっ。でもでも、好きになった人だけは別だから!」

「まーね。先生は、良い人だと思うよ」

「でしょー? あ、佳奈は好きになっちゃダメだからね!!」

「それはないから大丈夫」

「そんなにきっぱりと断言しなくても良いのに……」

「どっちなの? 乙女心って複雑」

「言っておくけど、佳奈も乙女だからね?」


 くすくすと笑いあう。


「あたしね、心の底から、佳奈には幸せになってほしいなぁって思うよ」

「それはどうも」

「クールだなぁ」


 クール、という言葉に、落ちついていた心臓がざわりと反応する。

 頭をかすめたのは、冷静とはほど遠い反応をしてしまった、先輩を見かけた時の自分だ。


 ねえ、るり。

 さっき、先輩がたくさんの女の子に笑いかけているのを目の当たりにした時にね、ほんの一瞬だけ、あの笑顔が私だけに向けられているものだったら良いのにって思ったんだ。

 らしく、ないよね。

 胸の内のもやもやを打ち明けるか悩んでいたら、昼休みの終わりを告げるチャイムの音が鳴り響き、五時間目の授業が始まった。



「あれ。今日は、羽鳥さん一人なの? メガネくんと坂本さんは?」


 水槽の掃除が一段落したところで、今日も王子先輩が裏口から生物室にやってきた。


「メガネくんは、以前見学に行った塾に入ることに決めたそうで、毎日は生物室に来られなくなると言っていましたよ。るりは、バイトの面接だって」

「へえ、塾かぁ。まだ一年生なのに勉強熱心なんだね」

「それはそうと、先輩の方こそ、勉強の調子はどうなんですか? 二年生は、そろそろ本格的に受験勉強が始まる頃でしょ。生物室で油を売っている時間もないのでは」

「はは……。羽鳥さんって、わりと辛らつだよね」

「これでも心配しているんじゃないですか」

「ありがとう。でも、こう見えて、勉強方面で困ったことはないんだ」

「えっ! 意外すぎるんですけど」

「ハッキリ言い過ぎだからね?」

「すみません、つい」

「まったくもう」


 王子先輩のことだから、ファンの女の子たちに甘やかされて、宿題を見せてもらったりしていてもおかしくないと思っていたけれど。


「羽鳥さん。今ろくでもないことを考えていなかった?」

「む……。先輩って、エスパーだったんですか?」

「ひどいな……。あのね、羽鳥さん。僕ほど、真面目で紳士的な人間は他にあまりいないよ?」

「それにしても、勉強が得意だったんですね」

「ねえ、つっこんでもくれないの? んー……勉強が得意といえば聞こえは良いけど、実際は、部活に入っていないから他人よりも勉強する時間があっただけかな。中学に入学したばかりの頃は、吹奏楽部に入っていたけど、それも一年生の途中で辞めちゃったしね」


 初耳だ。

 先輩って、吹奏楽部に入っていたんだ。


「なんの楽器をやっていたんですか?」

「トランペットだよ。あの透き通った華やかな音が好きだったんだ」


 王子先輩が、トランペットを優雅に奏でている姿。

 うん。頭の中で想像してみたら、ものすごくしっくりきた。

 先輩も楽器も、きらきらと輝いているみたいで、さぞかし絵になりそうだ。


「まぁ、辞めちゃってからは、全く楽器に触っていないんだけどね。今では、音が出るかも怪しいものだよ」


 彼は、なんでもないことのように、そう口にしたけれど。

 ふと、生物室に大勢の女子たちが押しかけてきて、メガネくんがぶちギレた秋の日のことが脳裏に蘇った。


『僕、昔から、いつもあーゆー感じなんだよね。だから、あえて高校では部活に入らなかったし……。まぁ、僕自身にも非はあるのかもしれないけど』


 もしかすると、先輩自身は、吹奏楽部を続けたかったのだけどやめざるをえなかったのかも。今だって、生物室に来るのですら、こそこそと隠れるように訪れている。


「今でも、本当は吹奏楽部に入りたかったと思っていますか?」

「うーん。少し前までは、そう思っていたかもなぁ」


 彼は、昔を懐かしむように瞳を細めてから、口元に笑みを載せた。


「だけど、今はもう大丈夫だよ。帰宅部になったからこそ、こうして羽鳥さんと過ごせる今があるのだと思うから」


 息を、呑んだ。

 先輩は罪な人だ。

 なんの気なしに、こんな人の心を揺さぶるようなことを言うなんて。


「それにしても、君が思ったより元気そうで良かったよ」

「えっ?」

「あー……もちろん、そう振る舞ってくれているだけかもしれないけど。実は、しばらく生物室に来れなくなるんじゃないかって心配だったんだ。ここに来るたびに、あの子のことを思い出して辛くはならない?」


 先輩も、私のことを心配してくれていたんだ。


「かめきちのこと、ですよね。ええと、その節はありがとうございました」

「ううん。大したことはしていないよ」

「そんなことはないです! その……、とても励まされました」


 詳細を思い出すと、またドキドキしてしまいそうだから、慌ててフラッシュバックしそうになった記憶に蓋をする。


「かめきちとは、一緒に過ごしてきた時間が長いし、まったくさびしくないといったら嘘になるんだと思います。だけど……想像していたよりかは、大丈夫そうです」


 このさびしさは、いつか、時の経過が溶かしてくれると信じられる。

 それは、他でもない先輩のおかげなのだと思う。

 彼が、教えてくれたからだ。

 悲しみ方は人それぞれで、泣くことだけが、悲しむ方法ではない。私は、かめきちのことも、おばあちゃんのこともちゃんと大切に思っていたのだと。

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