4章 ある寒い冬の日のこと

その15 消えてしまいたい

 肌を震わせる、寒い風が吹きすさぶようになった十二月初旬。


 事は、あまりにも唐突に起こった。

 放課後になって、意気揚々と生物室に向かったまでは良かった。

 だけど、私は、愛しのかめきちのケージの前で立ち尽くすことになる。


「佳奈? どうかしたの~?」


 背後から声をかけてきたるりに、返答する余裕もなかった。

 だって……かめきちが、まったく動いてくれないのだ。

 餌をあげても。

 頭をつついても、持ち上げてみても、だらりと伸びているばかり。

 ぴくりとも、反応しない。

 こんなの、まるで……。

 足元から這いのぼってくる黒い霧のような不安に、息がつまる。


「愛しのかめきちが、どうかしたの~?」


 るりが、背後から近づいてくる。

 お願いだよ、かめきち。るりの前では、いつもみたいに元気に振舞って。

 ほら。

 るりがかわいがってくれることなんて、滅多にないでしょう? お願いだから、これは私をびっくりさせるための冗談なんだって、わからせてよ……。


「ん……?」


 ひりひりと、焦げつきそうなほどに、そう願ったけれど。


「えっ」


 恐々とかめきちに触れたるりの顔から、どんどん血の気が引いていく。


「坂本くん?」

「何かあったの?」


 別の子たちに餌をやっていたメガネくんと、裏口から顔をのぞかせた王子先輩が、異変を察知して集まってくる。


「…………待って。ねえ、佳奈。かめきち、もしかしてさ――」


 ――死んでいる……よね?


 るりが瞳を揺らがせながら、幽霊のように頼りない声で、そう告げた時。

 私の心は、びくとも揺れ動かなかった。

 目の前で、現実味もなく、脱力しているかめきちみたいに。


「かめきちが!?」

「ウソだろ! 坂本くんっ、そこをどいて!!」


 王子先輩とメガネくんが、必死の形相でかめきちの生死をうかがっているのが、遠い世界の出来事のようだ。

 巻き戻しをしたように、心が、あの春に舞い戻っていく。


『千代さんは、ずいぶんとあのお孫さんを気にかけていたみたいだけど……』

『冷たい子だねぇ』


 ああ。

 私は、性懲りもなく、また同じことを繰り返してしまうのかな。



「……突然、だったな」


 原先生の取り計らいで、かめきちのご遺体は、学校の敷地内に土葬させていただけることになった。


 体育館隣の、小さな池がある緑の広場。

 かめきちを埋めるための穴を掘る間、なにも感じ取れなかった。

 今まさに、この子を土に還すための穴を掘っているだなんて。そんなことは信じたくなかったんだ。


 駆けつけてくれた原先生をあわせて五人。

 その全員が、沈痛な面持ち。

 深く掘った穴の中に石灰を撒き、タオルにくるんだかめきちのご遺体をそっと横たえる。そのうえに再び石灰を撒いて、今度は掘り返した穴をふさぐように埋めていく。

 みんなに見守られながら、ロボットになったように粛々と。

 冬の凍える風が、集まった私たちの間を通り抜けていく。


「信じられないね……。ちょっと前まで、あんなに元気そうだったのに」

「っっ。かめきちぃ……嫌だ。こんなの、信じたくないぃ」


 ぐずぐずと鼻をすすったり、瞳に涙をためこんでいたり。みんなが顔をゆがめて、かめきちの死を悼んでいた。


 いまこの場で、無表情を晒しているのは、私だけ。

 ここにいる誰よりも、かめきちと長く過ごしてきたはずなのに。

 みんな以上に、この突然の別れを、驚き悲しんでいるはずなのに。

 私一人だけが、また、一滴の涙も流せない。


 ――私には、やっぱり、心というものがないんだ。


 いくら、わかろうと頑張ってみても、無駄だった。

 だって、最初から持っていないんだもの。

 土を盛り終えたところで、身体の至るところから、どっと冷や汗が噴き出てきた。


「っ」

「羽鳥さんっ!?」


 ふらりと倒れそうになった瞬間、王子先輩が駆けつけてくるのが見えて。


「嫌っ!」


 半狂乱状態になり、わけもわからず逃げだした。

 足がもつれても、肺が苦しくなっても、ただただ走り続ける。


 ――大切な相手をうしなってすら、こんな、人形のようにとりすました顔しかできないでいる自分が嫌で嫌で嫌で仕方がなくて。


 遠くへ行きたい。

 誰の視界にも映らないような、遠い場所に。

 このまま、透明人間になって消えてしまいたいよ。


 夢中で走ってたどりついたのは、屋上前の踊り場。

 一度足を止めたら、どっと疲れが襲ってきて、電池が切れたように座りこんだ。

 さっき、この手で、かめきちを土の中に埋めたんだ。

 信じられないけれど、手に付着した砂埃が残酷にも証明している。


「……はぁ、はぁ」


 遠くから、誰かの息を切らした声。


「……やっと、見つけた!」


 階段下から響いてきたよく通る声が、この耳にはいつの間にか馴染んでしまった。明らかにこちらへと向かって大きくなっていく足音に、顔を上げる気にもなれない。


「羽鳥さん」


 無視を決めこんで膝に顔をうずめたら、王子先輩は私の隣へとやってきた。


「みんな、心配しているよ」

「……一人に、させてください。今は、誰かと話す気力もないんです」

「うん……。とても、辛いよね。君は、物心ついた時からかめきちと一緒だったんだもの」


 彼の言葉が、胸にざわざわと波紋を呼び起こす。

 辛い。

 そう、辛いはずなんだ。

 それなのに、どうして、私の心は震えないんだろう。

 荒野のように、ただ虚しいばかり。

 私の心が、欠陥品だから?


「……私は、悲しいのかな。それなら、どうして涙の一つも出てこないんですかね」

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