その14 大した意味はないんだろうし

 ケージの前に屈みこむ先輩を、のんびりと見上げるかめきち。

 裏口の隙間から入りこんできた風の冷たさに身を震わせたら、先輩は「それにしても、寒くなったよね。もうすぐ十二月だもんなぁ」とぼやきながら扉を閉めなおしにいった。


「そうですね。自然界だったら、この子はもう冬眠している時期です」

「そっか。本来だったら、亀は冬眠するんだっけ?」

「ええ。ですが、飼育下で冬眠させるか否かは、賛否両論があるようです」


 おばあちゃんに教わった後、興味を持って、自分でも調べてみたんだ。


「亀は、外界の温度変化につられて自身の体温も変化する変温動物です。寒くなると、活動に必要な体温度を自力で保てない。そのため、代謝をできる限りおさえて、あたたかい春をじっと待つのが冬眠です」


 逆に考えると、活動するための体温度を保てる環境――例えば、人間の飼育下では、冬眠をする必要がないということになる。


「本来の意味を考えると、飼育下では冬眠する必要がないんです。ただ、冬眠をさせないことが原因で、健康状態が悪くなるという説もあるみたいで……」


 ぺらぺらと、普段は大人しい舌が、活発に動きだす。

 先輩が、「へぇ」「そうなんだ」「うんうん」と、ほしいタイミングで相槌を挟んでくれるのが、とても心地よくて。


「色々な説があるようですが、うちのかめきちは、やっぱり冬眠させない方針です。この子は生まれてから一度も冬眠をしたことはないそうですし」


 話しを締めくくった時、彼の瞳が、かめきちではなく私の顔に向けられていることに気がついた。

 食い入るように、じいいいっと見つめられている。


 あれ?

 よく考えたら、先輩に対してなにを語っているんだろう。メガネくんのように同じ生物オタク相手ならともかく、大抵の人にとってはどうでもいいような話を長々と……。

 冷静に思い返すほど、恥ずかしさが募っていく。

 先輩は、形の良い唇をニッとつりあげた。


「こんなに饒舌な羽鳥さん、初めて見た」

「ご、ごめんなさい! つ、つまらなかったですよね」


 顔が熱い。

 鏡で見たら、赤くなっていそうだ。

 いたたまれなくなってうつむいたら、隣から、「どうして?」というあたたかい声が聞こえてきて。


「僕は嬉しかったよ」


 嬉しかった?

 予想外の言葉に、恐々と顔をあげる。


「ふふっ。やっと、自分からたくさん話してくれたね。もっともっと、羽鳥さんの話を聞きたいなぁ」


 にこりと笑った先輩は、お世辞を言っているようではなくて。それが先輩の本心だと思ったら、なぜだか余計に恥ずかしくなった。


「あ、あんなつまらない話を聞きたいだなんて、先輩は、やっぱり変わっていますね」

「そう? 羽鳥さんには、どんな風に僕が映っているのかわからないけど――少なくとも、僕は君といる時間が好きだよ」


 先輩は、色んな女の子に、このとろけるような笑顔を向けているのかな。

 何気なく浮かんできた疑問を、急いでかき消す。

 彼はといえば、再び目の前のかめきちに夢中になっていた。


「ねえ。この子はいま何歳ぐらいなの?」

「……もうすぐ、四十歳近くになりますかね」

「ええっ!? まさかの、めちゃめちゃ年上!」

「そーですよ。かめきちからしたら、先輩なんてお子ちゃまです」

「む。それをいうなら、羽鳥さんもでしょ?」

「まぁ、そうですけど」


 そんな、くだらない言い合いをしていたら。

 突然、窓の外が、ピカーンと真っ白に光った。


 ――ゴロゴロドッカーン!


「いやあっっ!」


 鋭い雷鳴音に、つんのめるほどビックリして。

 とっさに、先輩の制服の裾を掴んでいた。


「わっ」


 腕を引かれてバランスを崩した彼が、ものすごく近づいてきて。

 ひゃあっ。先輩が、めちゃくちゃ近い!

 とんでもない近距離になってしまい、今度は別の意味でめちゃくちゃ動揺。

 うわあああ! 慌てるあまり、大変なことをしてしまった!


「ご、ごめんなさいっ! わ、わ、私……雷、苦手で」


 早く離れなきゃ。

 そう思って、距離を取ろうとした矢先。


 ――ゴロゴロドッカーンピカーーーン!


「ひっっ」


 まるで空気を読めない雷が、教室の床をびりびりと震わせる。

 怖くて仕方がなくて、もうそれ以外のことはなんにも考えられなくて。

 気がつけば、先輩に助けを求めるようにしがみついていた。


「雷、怖いの?」


 答える代わりに震えながらうなずくと、先輩は、そっと私の肩を抱いた。


「そっか。離れようとしないで大丈夫だから、落ちつこう? ほら、もう少し僕のそばに寄って」


 伸びてきた腕の中へ、素直におさまった。

 もたらされる温もりに安心して、身体の震えが、少しずつおさまっていく。

 雷を契機に、雨がざあああっと激しく降りはじめた。


「急だったね。今日は、こんな予報じゃなかったのに」


 先輩が、気遣うように背中をさすってくれるたび、身体中を満たしていた恐怖と焦りが消えていく。

 まるで、魔法みたいだ。


「困ったな……傘、持ってきてないや。もう少ししたら、止むのかなぁ」


 怯える私を安心させるためだけに紡がれる言葉は、すごく心地が良くて。


 ――どうしよう。


 窓ガラスを叩きつけるような激しい雨が、次第に、カーテンのような雨に変わっていく。

 さああっと。

 世界を包みこむようなその音に、それまで混乱しっぱなしだった頭も少しずつ冷やされて……。


 ――私、先輩に、抱きしめられてる?

 あたたかくて、ポカポカとして、全身をやさしさで包まれているような感じ。


『恋人ができたら、すっごく大事にしたくなっちゃうと思う』


 待って。関係ないのに、なんで今、よりにもよってさっきの言葉を思い出すの……? 


 それまでふやかされていた現実を鮮明に認識した瞬間、なんかもうダメだった。


「っ! ご、ごめんなさいっ!」

「わっ!?」


 やばい。慌てすぎた反動で、先輩を突き飛ばしてしまった。


「ちょ、急に突き飛ばさないでよ」

「だ、だってっ。あ、あんな態勢ではいられないじゃないですかっ」


 気まずい沈黙が落ちる。


「……そう? 嫌だったなら、ごめん」


 先輩が、さびしさを押しこめたような顔で、笑おうとするから。

 たまらないような気持ちに、なったんだ。


「あ、謝らないでくださいよ! どうして先輩が謝るんですか!」


 急に怒りだした私に、先輩は大きな瞳をぱちくりとさせた。


「は?」

「だって、先輩はなんにも悪くないじゃないですかっ! わ、私が、てんぱって子供じみたことを言っているだけなんだから、そういう時は、ちゃんと怒ってくださいよ! あなたはもっと、自分のことを大切にするべきだと思います。理不尽なことをされたら、自分のために怒って良いんですよ!」


 ああ、もう。

 どんな逆ギレだよ……自分で自分にあきれてくる。

 何を主張したいのかもよくわからなくなってきて、すねた子供のように唇を尖らせる。

 先輩は、そんな私を、まだ呆気にとられたように見つめていて。


「……そ、それに、別に嫌ではなかったです。私が、男の人とあんなに近くで触れ合うのは初めてだったから、ビックリしてしまっただけで……。でもっ、雷の音から守っていただいてありがとうございました! 正直、すごく助かりました」


 どうにか誤解を解きたくて、必死に頭を下げたら。

 なぜか、くすくすと鈴を鳴らしたような笑い声が転がってきた。


「ふふっ」

「な、なにがおかしいんですか!?」

「だって。こんな時でも真面目な羽鳥さんが、おかしくて。それに……、嫌じゃなかったんだ?」

「ま、まぁ……。なんで確認するんです?」

「ううん。ただ、羽鳥さんって本当にかわいいなぁと思って」


 …………。

 か、かわいい!?

 いや。今のは、あえて聞こえなかったことにしておこう。

 王子先輩は言い慣れていて、どうせ大した意味もないんだろうし。


「軽口言ってないで、そろそろ帰りますよ! もうすぐ完全下校時間です」

「はあーい。ふふっ」


 それからも、なにがツボに入ったのか先輩は愉快そうに笑いつづけていた。

 いつの間にか空模様も、彼の上機嫌を祝福でもするように、雨があがっていた。

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