その11 恋は嵐のようだ

 もちろん、なんとも思っていなかったわけじゃない。

 むしろ、私はおばあちゃん子だった。

 小学生の頃は頻繁に、近所に住んでいたおばあちゃんの家に預けられていた。


『かめきち。佳奈ちゃんが、遊びにきてくれたよ』


 おばあちゃんは、私をかめきちと出逢わせてくれ恩人でもある。黒目がちの愛くるしい瞳ときれいな色の甲羅に、私はすぐに夢中になった。


『ふふっ。かめきちも、すっかり、佳奈ちゃんに懐いたねぇ』


 年季の入った木造戸建で過ごす、ゆったりとした時間が好きだった。

 夏は、縁側に腰掛けながら、みずみずしいスイカにかぶりついて。

 冬は、こたつに入ってぬくぬくとしながら、甘いみかんを食べた。


『近頃は、ずいぶんと寒くなったねぇ。野生の亀さんは、本当はこの時期になると冬眠をするんだよ』

『ふーん。かめきちは冬眠しなくても良いの?』

『良いかい、佳奈ちゃん。冬眠っていうのは、そんなに生易しいもんじゃあないんだよ。厳しい環境を、なんとか生き抜くための知恵なのさ。眠りについたからといって、必ず目覚められるわけでもない。厳しい冬を乗り越えた者だけが、再び春を謳歌できる。命がけなんだ』

『命がけ……』

『うん。うちのかめきちは、なにも自然の中に生きているわけじゃあないからね。冬眠はあえてさせないんだ』


 初めてこの話を聞いた時、生きるということは、想像している以上に大変で、尊いことなのだとぼんやり感じていた。


 中学生になってからは、自宅に一人で留守番することも多くなって、小学生の時よりはおばあちゃんの家にお世話になる機会が減ったけれど。

 おばあちゃんと、かめきち。

 二人と一匹で過ごすあの時間は、私にとってかけがえのないものだった。

 本当に、本当に――大好きだったんだ。

 あんなに慕っていた人をうしなって、悲しくなかったはずがない。


 それなのに、私は泣けなかった。

 そのせいで、親戚から、お父さんとお母さんまで陰口をたたかれているとわかってさえも。

 心は、ただ虚しいばかりで。

 私の瞳は、干上がっていた。


『千代さんは、ずいぶんとあのお孫さんを気にかけていたみたいだけど……』

『冷たい子だねぇ』


 昔から、るりや周りの子と比べて冷めている自覚はあったけれど、あの瞬間に徹底的に思い知らされた。

 私には、人らしい感性がないのだと。

 生まれてくる時に、お母さんの胎内に心を置き忘れてしまったのかもしれない。

 たまに、自分は人間のフリをしているだけの得体の知れない『化け物』なんじゃないかって、恐ろしくなる。



 身体中にまとわりついた汗の気持ち悪さで、目が覚めた。

 嫌な夢を、見たものだ。


 おばあちゃんが亡くなってから、もう半年になる。かめきちの住処が、あの家から星燐高校の生物室に移って、それだけの日が経つということだ。

 かめきちを高校の生物室で飼わせてもらえないかと、原先生に頼みこんだのも懐かしい記憶。当初は、私の家で引き取ろうとしたのだけれど、両親から却下されてしまったからとにかく必死だった。


『一生徒のペットを、学校で引き取るわけにはいかない』


 最初は面倒そうな顔で追いはらわれたものの、どうしてもあきらめきれずに土下座をした。


 そうしたら原先生は『はぁ……仕方ねぇな。あくまでも場所を貸すだけだぞ。誰にも迷惑をかけず、お前が責任をもって面倒を見ろよ』と渋々ながら了承してくれた。


 後から、るりに聞いた話によれば、『大人しそうな羽鳥が、まさか土下座までするとは思わなかったからなぁ。あれには度肝を抜かれたわ。なんつーかさ、生徒がそこまで必死になってるのに、それすら叶えられない大人なんてみっともねーじゃん』と苦笑していたそうだ。

 原先生は、生物に詳しいわけでも、愛着があるわけでもない。数ある部活の中でも生物部の顧問が一番楽そうだから、という身も蓋もない理由で生物部を選んだような人だ。

 だけど、彼には感謝してもしきれないと思っている。

 先生は私とかめきちの恩人だ。


 感傷に浸りながら、教室に足を踏み入れる。


「おはよう、るり……って、どうしたの」

「……あっ、佳奈だぁ。おはよ~……」


 るりの机の前まで行くと、このままキノコでも栽培しはじめそうな暗い返事が返ってきた。上半身を、だらりと机の上に投げ出している。

 異常事態だ。

 いつも元気いっぱいのるりが、こんなにしおれているなんて。


「今日の坂本さん、珍しく元気ない感じだね」

「体調でも悪いのかなぁ」


 他のクラスメイトにまで心配されている始末。


「なにがあったの」

「……実は」


 手招きをされて、口元に耳を近づけると。

 るりは、魂までこぼしてしまいそうなほどの、重いため息を吐いた。


「……真ちゃんが、数学科の早乙女先生と良い感じだって噂になっているの」


 なるほど。

 数学科の早乙女先生といえば、うちの高校きっての美人教師。歳も若く、たしか原先生と同世代だったような気がする。


「よりにもよって早乙女先生とか……。なにそれ聞いてない強敵すぎる。なんなの、そんなに大人の色気が良かったわけ? ふんっ。どーせ、真ちゃんから見たら、あたしはお子様だよ~」


 呪詛のように低い声でうなりつづけた後、るりは再び、机の上につっぷしてした。


「ううっ……もし、噂がホントだったら、どーしよ……。あたしの長年の想いが……こんな形で終わるなんて……そんなの嫌だぁっ」


 なんて声をかけてあげたら良いんだろう。

 まだ噂が本当だって決まったわけじゃないよ、と口にするのは簡単だけど。そんな軽い言葉では、なんの慰めにもならないよね。もしも噂が事実だとしたら、尚のこと。

 だけど。

 こんな時、私は親友の気持ちに寄り添ってあげることもできない。

 わかってもあげられないんだ。


「辛いんだね……。美味しいものでも食べて、元気を出そうよ」


 ない頭を振りしぼってようやく出てきたのは、当たり障りのない言葉。

 こんな自分が情けない。


「……はは。ありがとう、佳奈」


 恋は嵐のようだ。

 うまくいかない。たったそれだけの理由で、それまで身体中にみなぎっていた生気すらも根こそぎさらってしまうなんて。

 やっぱり、私に、恋は到底わかりそうにない。

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