その9 二人だけの秘密

「王子、先輩」


 メガネくんの堪忍袋の緒が切れたあの日から、ぱったりと生物室に顔を見せなくなったので、会うのは数週間ぶりだ。

 久し振りに目の当たりにする先輩は、相変わらずかっこいい。

 だけど、なぜか、ジャージではなく見慣れた制服姿だ。

 不意打ちの再会に言葉も出せずにいたら、王子先輩は私の膝をじっと見つめながら、しょんぼりと眉尻を下げた。


「ねえ、立っているのも辛そうだよ。早く、ここに座って」


 彼はやさしく私の腕を引くと、ベッドの上に座らせてくれた。


「傷口は洗ってきたようだね」


 うなずくと、先輩は救急箱からガーゼを取り出して、痛々しく血を流している患部をそっと包んだ。


「まだ、痛むよね?」

「……はい。リレーで、派手に転んだんです。自業自得ですよ」

「そんなことないよ。羽鳥さんは、偉いと思う」

「どこがですか? クラスに迷惑をかけて、このざまなのに」


 ブツブツと、つい情けない文句を垂れてしまったら。


「だって、それも、ちゃんと参加したからこそじゃないか。逃げ出した僕からしたら眩しいぐらいだよ」


 へ? 

 いま、幻聴でなければ、逃げ出したと聞こえたような……。


「止血はできたかな。消毒液、染みるかもしれないけど、すこしの間だけ我慢して」


 次の瞬間、ヒリリとした鋭い痛みが膝中に走った。消毒液が傷に染みる!


「ごめんね。痛いと思うけど、ちゃんと消毒しておかないと」

「っっ。……あのっ」

「ん?」

「さっきの……逃げ出したって、どういうことですか」


 聞き流せなくて、つい尋ねると。

 王子先輩は、「あー……」とうめきながら、気まずそうに視線を逸らした。


「そのまんまの意味だよ。つまり……仮病でバックレたってこと」

「はぁ。なぜ?」


 この学校で一番輝いているといっても過言ではない先輩こそ、体育祭を誰よりも楽しみにしていそうなのに。


 本気でわからなくて首を傾げると、今度は傷口に大量の消毒液を吹きかけられて、あまりの刺激にのけぞった。


「痛いですっっ! なにするんですか!?」

「……体育祭を楽しめるのは、足が速いやつだけだよ」

「は?」


 爽やかな先輩から出たとは思えぬ低い声に、痛みでしかめた顔を上げると。

 彼はうつむいたまま、地獄から悪魔でも召喚しそうな勢いでまくしたてた。


「……そーだよ、僕はどーせ足が遅いよ。それなのにさ、なんだか知らないけど、みんなが王子は足が速そうだって勝手な勘違いをしてるんだ。ホンッッット良い迷惑だよ! 走るのが嫌すぎて、今日はバックれてやったんだ」


 ぽかーん。

 びっくりしすぎて、膝の痛みすら忘れて口が半開きになってしまった。

 お腹に溜まっていたらしい鬱憤を吐きちらした彼は、唖然とする私を見上げて、ハッと我にかえった。


「あっ……えと、その。ははっ……君も、幻滅した? 王子だなんて名前のくせに、足が遅いなんてダサいよね」


 慌てた先輩が取り繕った笑顔は、完璧だけれど、どこか悲しそうで。

 笑っているのに、自分の言葉に傷ついているように思えた。


「たしかに驚きましたけど、べつに、幻滅とかはしていないですよ」

「えっ」

「それどころか、むしろ、親近感がわいたかも」


 王子先輩は、信じられないというように、ゆっくりと瞬きをしている。

 だけど、これは私の飾らない本心だった。


「私も、体育祭なんてなくなってしまえば良いと思っています。だけど、先輩のようにいかにも運動ができそうな人には、絶対にわかってもらえない気持ちだと思ってた。ふふっ。先輩にも、実は人間らしいところがあるんですね」


 こんなにかっこいい先輩が、実は運動音痴で、しかもそのことをこんなに気にしていたなんて。

 かなり、意外だ。

 ちょっと、かわいいかも。

 思いがけない発見に、くすくすと笑ってしまう。なんだか胸がくすぐったい。


「人間らしいところがあるって……君は、僕のことを一体なんだと思っていたの?」


 瞳を丸くした先輩も、つられるようにして笑っていた。


 消毒を終えると、彼は傷口に大きめの絆創膏を貼ってくれた。

 なりゆきとはいえ、王子先輩に怪我の手当てまでしてもらっちゃった。これは、誰にも言わない方がよさそうな案件だ。主に身の安全を守る意味で。余計なトラブルには巻きこまれたくないしね。


「ありがとうございます。助かりました」

「どういたしまして。ねえ、羽鳥さん」

「はい?」

「僕がここでサボってること、二人だけの秘密にしてくれる?」


 先輩の、長い指を唇にあてる仕草は様になる。

 頼まれるまでもなく、もちろん、そのつもりだった。私に自滅願望はない。


「安心してください。そのつもりでしたから」

「ありがとう。ところでさ、ちゃんと謝れていなかったけど、この前はごめんね。君たち生物部員に、迷惑をかけてしまった」


 彼が、さびしそうに笑った時、あの日に抱えた胸の中のモヤモヤがまたうずきだした。


「僕、昔から、いつもあーゆー感じなんだよね。だから、あえて高校では部活に入らなかった。まぁ僕自身にも非はあるのかもしれないけど」

「謝らないでください」


 うつむいていた先輩が、ハッとしたように顔をあげる。


 彼は、自分にも非があるというけれど。

 少なくとも、あの日の彼は、なにも悪いことをしていなかった。


「別に、先輩は悪くないです。悪いことをしていないのに謝られるのは、なんだかモヤモヤします。だから、謝らないでください」


 やっと、言いたかったことを言えた。

 ちゃんと伝えられたら、胸の中のわだかまりがほどけたように思えた。


「メガネくんの言う通り、生物室が女子でひしめきあうのは私も困りますが……たまに、こっそりとかめきちに会いに来るぐらいなら、彼も文句は言わないと思います」


 先輩は、こんなに辛そうな顔をするぐらい、かめきちに会いたいんだものね。それなのに、女子にモテすぎるからダメだなんて考えてみれば酷な話だ。


「それって、また、生物室に行っても良いってこと?」

「ええ。放課後直後ではなく時間をずらして、裏口から入っていただければ、恐らくみなさんにもバレないでしょうし」


 きょとんとした顔をした先輩は、なんだか幼く思えた。


「亀好きに悪い人はいないですから」

「ふふっ。ありがとう、羽鳥さん」


 先輩は、無邪気な少年のように、本当に嬉しそうに笑った。


「やっぱり、いつもそうやって笑っていた方が良いと思います」


 自然にこぼれでた本心に、彼はやさしく瞳をほそめた。


「そっか。羽鳥さんの前では、自然と笑えるみたい」


 もしも私が感情豊かだったなら、恋に落ちていたかもしれない。

 そんな考えが頭をよぎるぐらい、その自然な笑顔は魅力的だった。

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