その8 生物室に落ちた雷
「ねえ、王子くん。この子の名前はなんていうの?」
「ねえ、王子くん。この子の好きな餌はなぁに?」
「ねえ、王子くん。王子くんの好きな食べ物はなに?」
「どさくさにまぎれて、生物じゃなくて王子くんのこと聞いちゃってるし~」
いつになく人口密度が高く、桃色の空気が蔓延している異色の生物室。
私が空気に徹しながら餌やりをしていると、これまで飼育ケースの掃除をしながら始終無言だったメガネくんがついにブチぎれた。
「ええい! 王子王子うるせえわボケナスッ!!」
!?
「さっきから、ピーチクパーチクうるさいんだよ! 君たちはこの神聖な部室をなんだと思っているんだ! 生き物たちが怖がっているのが目に入らないのか! 迷惑だ! おしゃべりをしたいのなら他でやってくれ!!」
メガネくんの魂の叫び声が、生物室に重たい沈黙を落とす。
まさか、ひょろい彼から、こんなにも大きな声が出たとは。
私ですら驚いた。
王子先輩目当てで押しかけてきた女子たちは、みんなバツが悪そうに口を閉じている。真剣に怒っているメガネくんを前にして、軽口もたたけない。
だけど、謝ろうとする人は、一人もいないんだな。
落胆の気持ちがにじみでてきた、その時。
「……申し訳ない」
誰よりも早く謝罪の言葉を口にしたのは、王子先輩だった。
「君の言う通りだよ。生き物たちも、怯えきってしまっている。謝ってすむような話でもないけど、本当にゴメン」
メガネくんの前に立ち、深く深く、頭を下げる。
それまで額に青筋を立てていたメガネくんも、先輩のひたむきな謝罪に毒気を抜かれたようで、返す言葉をうしなっていた。
「迷惑、だったよね」
顔をあげた先輩は、頬をかきながら困ったように笑ったけれど。
今にも泣きそうに見えたのは、私の気のせい?
「じゃあね。怒ってくれて、ありがとう」
メガネくんの返答を待つこともなく、王子先輩は生物室を出ていった。
「……ええと。ごめんなさい?」
他の女子たちも、彼を追いかけるようにしてぞろぞろと生物室を飛び出していく。
その様を見届けたメガネくんは、大きく息を吐きだした。
「久しぶりに大きな声を出したから、今日はもう疲れたよ」
「うん」
「やっと、生物室に平和が戻ってきたなぁ。ようやくまともに活動ができるよ」
「……うん、そうだね」
そう。
この静けさこそが、私の求めていた平穏だ。
そのはずなのに、このもやもやとした気持ちはなんなのだろう。
「羽鳥くん、どうかした?」
「ううん。ただ、ちょっとね」
「ん?」
「いや、なんでもない」
「歯切れが悪い羽鳥くんなんて珍しい」
喉に魚の骨がつかえているみたいな違和感。
あぁ、そうか。
私は、王子先輩が悪いことをしたわけではないのになぁって思ったんだ。
*
今日は秋晴れ。雲一つない青空が目に沁みる。
「続きまして、プログラムナンバー三番。一年生によるクラス対抗リレーです」
ついこの前まで十月で文化祭をやったばかりなのに、気がつけば十一月に入っていて今度は体育祭だ。この高校の秋はイベントで忙しい。
それにしても、もう自分の出番か。
憂鬱だなぁ……。
「いつにも増して無表情になってるよ、佳奈」
今日のるりは、ツインテール姿。
髪を結ぶゴム飾りを、三組のクラスカラーの青色に合わせているのが粋だ。ジャージ姿になってもかわいい親友は、私と正反対で、やる気満々。
「てるてる坊主を逆さ吊りにしていたのに、雨ひとつ降らないんだもん」
「むしろ、『わらわを逆さ吊りにするとは何事じゃー!』って怒っちゃったんじゃない?」
「ありえるなぁ」
体育祭を楽しみにしているのは、るりのような運動強者だけだと思う。私のような運動音痴にとっては、面倒なイベントでしかないもの。
「位置について、よーい……どん!」
スタートの合図とともに、第一走者が走りだす。ちなみに、うちのクラスのトップバッターはるりだ。足が速くて羨ましい。
私の順番は、ちょうど全体の真ん中くらい。
要は、なんの期待もされていない順序だ。
「一組ファイトーーっ」
「坂本さん、がんばれー!!」
ランナーを眺めながら、応援したり、冷やかしたりとみんな忙しそう。こんなにつまらなそうな顔で佇んでいるのは私ぐらいだ。
ぼーっと待っていたら、いつの間にか自分の出番がやってきた。
「はい!」
六組中の二位という中々のプレッシャーを感じるバトンを受けて、走り出す。抜かれても仕方がない。私の足の遅さは、練習で知られているわけだし。
気楽に、気楽に。
そう思ってはみても、クラス全員の視線が突き刺さってくるようで。三位の人に追い抜かされた時、鼓動が嫌な風に跳ねあがった。
できる限り、迷惑はかけたくないな。
そんな弱気な思考がよぎって、つい、全身が余計に力んでしまった。
「あっ」
バランスを崩した身体が、宙に浮く。
次の瞬間、膝に焼けるような痛みが走った。
痛っ!
「おいおい、転んでんじゃねーよ」
「あーー、良い順位だったのにぃ」
「佳奈! 大丈夫!?」
遠くで、私の転倒が物議をかもしている。
やってしまった……。
無理をしなければ、ここまでの醜態はさらさなかっただろうに。
擦りむいてじくじくと痛む膝を抱えながら、どうにか立ち上がる。
それまで最下位だったクラスにも抜かされたけれど、痛みが酷くてもうそれどころではなかった。
力を振り絞ってなんとかバトンを繋いだら「お疲れさま。膝、お大事にね」と次のランナーが気遣ってくれたので、すこしだけ報われた気がした。
「うわぁ、大丈夫? めっちゃ痛そう……」
うずくまっていたら、血相を変えたるりが水場まで連れていってくれた。染みるのをこらえながら傷口を洗い流して、今度は保健室の前へ。
「ごめん、佳奈! このまま付き添ってあげたいんだけど、あたし、この次の種目も出番なんだ」
「良いよ、気にしないで。むしろ、忙しいのにありがとうね」
「ううー、心配だよ。傷口深そうだから、ちゃんと手当てしてもらってね」
るりは何度もこちらを振り返りながら、校庭の方へと戻っていった。
ひりひりと痛みつづける膝を見下ろせば、気が滅入るような赤い血が流れている。
はぁ……。やっぱり、体育祭なんて嫌いだ。
うつむきながら、保健室の扉をノックする。
しーん。
返事がない。
もしかして、誰もいないのかな?
「あのー。失礼します」
疑問に思いながら戸を開けば、薬品の独特な匂いが鼻をツンと刺激した。洗いたてのような真っ白のカーテンが、ひらひらと揺れている。
いつもなら、保健室の先生が出迎えてくれるんだけど、ちょうど席を外しているのかな。
それなら、仕方がない。
救急箱をお借りして、適当に処置しておこう。
「うわっ! ひどい怪我じゃないか!」
「へっ」
驚いた。
だって、誰もいないと思っていたのに、急にベッドの方から声がしたから。
「大丈夫? いや、どう見ても大丈夫ではないよね」
ベッドから飛び降りてきて、目の前に現れた人物は――
「転んだの? すっごく痛そう」
――さえぎるもののないお日さまのように、美しい彼だった。
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