第3話イバは選んだ



 イバが目を覚ますと、まだ暗闇の中で、いつもの土に茣蓙を敷いてある床の上だった。


 体を起こすと頭の上の土の上、そこには青磁のお猪口、その中になみなみと神酒がつがれていた。


 右手と交換した酒である。


 イバは母の頭を膝枕で支え、口に神酒を注ぐ。


「イバ、いたい、」


 母は嫌がり、口をつぐむが、無理やり口を押し開け神酒を注ぐ。


 母の体が暗闇を切り裂き、鈍く光り出す。


「イバ! イバ!」


 叫ぶ母、暴れるその体を左手で押さえつけ、イバは目を閉じて祈る。


 助かってくれ! 生きてくれ! と。





 翌朝、イバと母は二人手をつなぎ救護院の配給に並んでいた。


 ニコニコと美しい顔でイバの左手を引く母の額には、見事な二本の角がそびえ立っていた。





 オーガの角は真っ白であるはずだが、母の角は真っ赤に染まっていた。


 角の大きさはオーガの強さを表す。


 今貧民街に母より大きな角を持つオーガはおらず、誰も母に逆らえない。


 貧民街の人々は母の角を見て、道を開け、恐れ目を伏せた。


 イバと母はそれぞれ一杯ずつ粥と硬いパンを受け取り、イバはかなり久しぶりに粥を食べた。


 イバは神酒を母のために使った。


 後悔はない。と言えばウソかもしれないが、母を失うことは今のイバには考えられなかった。


 二人並び、道に座り込み、粥を食っていると、母がイバに、


「今日からおかあは、お客を取るね! 晩御飯は御馳走だよ!」


 と、イバににぱっと音がなりそうなほど無邪気な笑顔を見せる。


 今の母は神酒を飲み、体は二メートルを超え、力がみなぎっている。


 そして美しさは病気に倒れる前よりも磨きがかかっており、まるで天女のようだ。これほど美しい人は、全盛期の自分以外知らないとイバは思った。


「おかあ、きゃくとるの、やめれ」


 イバはそういう。


「なんでー! お客取ればご馳走食べられるよ!」


 母が少女のようにぷんぷん怒る。


 イバはため息をつく。


「おかあ、きゃくとると、また病気になる、死ぬぞ」


 母の眉間にしわが寄り、目を伏せる。


 母も病気のつらさを思い出したらしい。


「でも……、お金……」


 そうつぶやく母親に、イバは立ちあがり頭を撫でる。


「ワシに考えがある」


 そう言って母の手を引き、貧民街の外に向かい歩き出す。






◇◇◇◇






 イバと母は貧民街の外、麦畑を超え、山の中に入っていく。


 イバは母が病気で寝込む前、よく山に入り山菜を取り、木の実を取り、獣を狩っていた。

 

 母が床に臥せってからは、看病のために山に来れなくなっていたが。


 イバは右腕がないため狩りはできない。そのため罠猟をして野兎や野犬などを狩り、そこそこの小遣いを稼いでいた。


「おかあ、その実は食べられる」


「おかあ、それ、薬草じゃ、買ってもらえる」


 イバは山のことを熟知していた。


 母はイバに言われたとおりに木の実を捥ぎ、薬草を引き抜いた。


「すごいねイバ! でもこの草、いくらで売れるの?」


「銅貨五枚じゃ」


「え!? 私が一晩銅貨二十枚なのに!?」


「おかあは、安売りしすぎじゃ」


 母は自分の手の中にある十束の薬草が、もう、自分が体を売って稼ぐ二日分の金より多くなっていることに驚いた。


 イバは山で稼ぎ、その稼いだ金を全て母の薬代に変えていた。


 母を看病し、山に入り金を稼ぎ、少しの食べ物を母に捧げ、イバは生きてきた。


 イバも体を壊し山に入れなくなってからは地獄だったが、今は母の体が健康になった。イバにとって高額な薬代さえなければ、金を稼ぎ、貧民街を抜け脱すことは難しいことではなかったのだ。


「イバ……」


 母はイバを後ろから抱きしめる。


 母は気がついたのだ、イバは自分を捨てればいくらでも生きていける状態だったが、それでも捨てなかったことに。


「おかあ、うざい」


 イバは母の腕から抜け出し、山道を進む。


 母も、ニコニコ笑いながら息子の後を歩いて行った。






◇◇◇◇






 夕方まで二人で山を歩き、その後、貧民街の端で商業地区の入り口にいある薬屋に入っていく。


 薬屋の中は暗く、ランプの光が薄っすらカウンターの中だけを照らしていた。


「やぁ、久しぶりじゃないかいイバ坊」


 カウンター越しに、歯が抜け落ち、前歯を失った栗鼠の獣人の老婆がランプの光に浮かび上がる。


「おかあの病気で、手が離せなんだのじゃ」


 イバはそう答え、母に薬草が入っている袋をカウンターに置くように指示する。


 栗鼠の老婆は袋の中から薬草を出し、鼻先がつくほど薬草に顔を近づけ、品質をチェックする。


「さすがイバ坊だねぇ、これなら一束銅貨四枚でいいよぅ」


 イバの眉間にしわが寄る。


「五枚のはずじゃ」


「値崩れさ、薬草は今、畑でも採れるようになったからねぇ」


 栗鼠の老婆が薬草から顔を上げ、前歯がない口でにたりと笑う。


 イバはチッと舌打ちをし、左手を開き、栗鼠の老婆に向かい差し出した。商談成立だ。


 老婆は二十束の薬草の代金銅貨八十枚を袋に入れ、差し出されたイバの手のひらの上に置いた。


「それでイバ坊、そちらの別嬪さんはどちらさんだぃ?」


 栗鼠の老婆は、イバの後ろでボケっと立っていた母に目線を向ける。


「おかあじゃ」


「へぇ、こりゃ別嬪さんだぁ、貴族様でもこんなきれいどころ見たことないねぇ」


 ニヤニヤといやらしい目で母を見るリスの老婆。


 イバの眉間により深く皺が寄る。


「おばあ、変な気をおこすな、おばあくらい、この左手でも、」


 イバは左手の人差し指で自分の顎の下をひっかく。


「ベロが顎から出るのじゃ」


 暗い薬屋の中、青白くイバの目だけが光っていた。


 栗鼠の老婆は左腕しかないガリガリに痩せたオーガの子ども一人怖くはない。


 腕力は自分以上にあるだろう、素早く動けるだろう、だが獣人である自分は魔法がある。


 オーガやゴブリン、オークなどは頭が悪く魔法が使えない。


 この世界では腕力より魔法が強い。


 だからまるでイバのことは怖くなかった。


 しかし体が震える。


 少しだけ残った歯がガチガチ音を立てる。


 イバの後ろに立っている母親の額に光る二本の角。


 真っ赤に染まった立派なその角から、ほのかに光が漏れているのだ。


 栗鼠の老婆はその光の存在を知っている。


 魔法だ。


 それも放たれる寸前の魔法が持つ光だ。


 あのオーガの女は、あり得ないことだが、魔法が使える。


 それも強い魔法だ。


 自分の魔法よりも、何段階も高等で、威力のある魔法だ。


 あの魔法が放たれれば自分は死ぬ。


 それが分かった。


「いやだねぇイバ坊、本気にならないでよぅ」


 背中に滝のように流れる汗を感じながら、栗鼠の老婆はこびるようにヘラりと笑った。


 イバは舌打ちをし、母の手を引き、店から出る。


 イバに手を引かれている母は、手を引かれながら、じっと栗鼠の老婆を見ていた。


 その夜、イバと母は、山に戻り、火を焚き罠にかかっていた野兎を絞めて焼き、銅貨十枚で山ほど買ったパンを火で炙り、銅貨十枚で買ったワインを飲んでいた。


 二人で腹が千切れるほど食べ、腹が千切れるほど飲んだ。


 昼のうちに掘っておいた穴に草を敷いて、大きな葉、数十枚で蓋をして、その中で母にギュッと抱かれイバは眠りについた。



 夢は見なかった。



 ただ深く、ただただ深く、母のぬくもりに包まれながら、泥のように眠った。

 幸せに包まれながら、泥のようにイバは眠った。



 翌朝、


 薬屋の栗鼠の獣人、


 薬師の老婆が下顎が切り裂かれ、


 舌がネクタイのようにべろりとたれ下げながら、死んでいるのが見つかった。


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