第2話イバは飢えている
町は廃れている。
野良犬すらいない掘っ立て小屋の並ぶ異臭のする土の道に座り込み、オーガのイバは左手で自分の腹を撫でた。
「はらへった」
野良犬がいないのは住民が食ったからだ。生きているものは、食えるものは全て食われる。なんだったら飢えて死んだ者の死体も食われる、それがこの貧民街の常識だ。
道にはイバ以外のオーガやゴブリン、オークたちが座り込み、寝ころび、体のエネルギーを生きることのみに集中させている。
オーガのイバは子どもだ、体が小さい、ガリガリに痩せていて、右腕がない。
ボロ布を腰に巻き、それ以外服を着ていない、この道にいるほとんどの者は同じような格好なのだが。
頭には二本の角、オーガの証だ、オーガはこの貧民街に多く存在している、オーガは体が頑丈で寿命も長く美しい肌と髪を持っているが知能が低く、戦争がもう百年もおきず、蒸気機関が発展したこの国では労働力として無用の者たちとなった。
文明が成熟すれば、労働は知能的になる。
学習し、考え、新しいものを生み出すことが苦手な者たちは、貧民街に追いやられ、生きるためのエネルギーにすら枯渇する。
それがゴブリンであり、オークであり、イバ達オーガだったのだ。
イバは生まれて十二年目になる。
イバに父はいない、母親は娼婦で、イバの父親は誰だか分からない。
イバの体は細く、オーガにしては腕力も弱いので父親はヒューマンかエルフであるのではないかと母親は言っていた。
イバは生まれた時から右腕がない。
そのせいで美しい子ではあるのだが、売られることはなかった。そもそもイバのことを愛してやまない母親が、イバを売るはずもないのだが。
イバのかんばせに今、美しさはない、脂身が無さ過ぎて目の大きさが際立ちすぎ、一種異様な、虫のような風貌になってしまっている。
「はらへったな~」
イバはもう一度左手で腹を撫でる。
イバは転生した茨木童子である。生まれた時から記憶がある。最初は釈迦を恨み、自分を鬼にした恋文を送った女を恨んだが、その恨みも飢えに上書きされ、何も考えられなくなっていた。
貧民街の異臭溢れる道に、鐘が鳴り響く。
ノソノソと道に座り込んでいた者たちが立ちあがり、一斉にある場所に向かい歩き出した。
夕方、六の鐘がなる、救護院の貧困者に向けて行われる配給は朝の六の鐘と夕方の六の鐘、日に二回ある。貧民街の動ける者たちはエネルギーのほとんどをそれに頼っている。イバもそれに頼り切っている。
木でできた汚い椀を左手で掴み、ふらふらと立ち上がり、救護院に向けて、亡者のように歩き出すイバ。道にいた貧民街の人たちもゆらゆらと救護院に向け歩き出していた。
救護院は真っ白で、この壁を磨く仕事も貧民街の者たちで行っている。
真っ白な壁を保つには危険な薬剤が使われている。その薬剤を素手で布に染み込ませ一日中拭いている者たちは肘まで皮膚がただれ、ただれた場所から菌が入りひどい痛みの中死んでいく。
それでもその仕事は貧民街では人気で、イバのような片手がない子どもにはつくことができない。
真っ白な壁沿いに並び、椀を持ち、イバは配給を待っている。
日差しが強い、イバの垢で汚れた皮膚を焼き、ほとんど残っていないエネルギーを蒸気のように体から染み出させる。奪っていく。
列は長い。
イバは何度も意識を失いそうになりながら、両足で大地を握りしめていた。
数十分後、イバが列の先頭になると、真っ白な着物を着て、口に真っ白なマスクをした太ったヒューマンの女性が、ひしゃくで粥を椀にビシャッとひと掬いし、硬く焼しめられたパンを椀の中に投げ込む。
救護院の女はひしゃくでイバをこ突き、横にずれるよう眉間にしわを寄せる。
イバは頭を下げ、よろよろと列から外れ、歩き出す。
家に帰るのだ、家では母がイバが持って帰る粥を待っているのだ。
◇◇◇◇
イバの家は角材とトタンを紐で結んでできている。入り口はすだれで、それだけだ。すだれを頭であげ、家に入る。家の中は灯はないが、天井が隙間だらけなのでさほど暗くは感じない。
「おかあ、ままじゃ」
三畳ほどの家は床は土で、その上にゴザがひかれ、その上に大柄な女が寝ている。布が女の上にかけられているが、女の体から出る膿で布は黄色く汚れているし、家の中は女が垂れ流す糞尿と腐った肉の臭いが満ちている。
「う、う、」
女が小さく呻き声をあげ、寝たままイバのほうに顔を向ける。
鼻がもげ落ちている、目は真っ白に濁り見えていないだろう。
二本の角は根元から切られていて、切り株のような跡が残っている。
イバの母である。
母は娼婦だった。
生まれたのは農村地帯で、口減らしで売られ、この町で娼婦として働き、とある商人に見初められ水揚げし、商人に飽きられ捨てられ娼婦に戻り、イバを生み、性病で今死の淵をさまよっている。
美しい女だった。美しいオーガだった。
だがあまりにオーガで、頭があまりに弱かった。
だからいつも損をして、いつの間にか死の淵に立っていた。
イバは母のくさっている頭を膝枕で支え、口に左手で椀を近づける。
「イバ、たべて」
「ワシはくった、おかあがくえ」
イバは左手しかない、椀を二つもてれば救護院で二杯の粥をもらえるが、イバは椀を一つしかもてない、だからいつもイバは硬く焼しめられたパンだけを食べ、粥は母に食べさせている。
母の口の中もくさっている、口に粥を入れると染みるのだろう辛くて涙をぽろぽろこぼす。
「ままくうてくれ、おかあ」
イバも母の涙を見てぽろぽろ涙をこぼす。
食わせれば母が泣く、だが食わせねば母は死ぬ。
泣かせてでも食わせなばならない、だからイバも泣く。
辛くて、一人になりたくなくて、母を失いたくなくて、イバも泣くのだ。
粥を食い終わると、母は眠りについた。
イバはじっと母の背に額と角をつけ、じっと動かない。
あと何日母が生きていてくれるのだろうか。
あと何日母を生かし、苦しめるのだろうか。
自分はあと何日生きていられるだろうか。
あと何日、あと何日、あと何日。
イバはそればかり考え、意識を失うように、眠りに落ちていく。
◇◇◇◇
イバは夢を見た。
真っ青に晴れ渡った青空の下、白波が岩を砕く海岸沿い、しゃれこうべで出来上がった小山の上に筋骨隆々の鬼が朱の大盃をもち、腰掛けていた。
イバはこの鬼を知っている。
イバの兄弟分であの夜首を刎ねられ絶命した鬼、酒呑童子である。
「よう、しけたなりじゃねえか兄弟」
酒呑童子はにやりと笑い、イバを見下ろしている。
「見てのとおりじゃ、兄弟」
イバも胡坐をかき、酒呑童子を見上げる。
「頼みがあってな、兄弟」
「なんじゃ、兄弟」
「お前の右腕、俺にくれないか、兄弟」
「やれん、ワシの腕じゃ、誰にもやれんぞ、兄弟」
イバと酒呑童子はにらみ合う。
イバは右腕の所在など知らない、今世で生まれ落ちたときには最初から右腕はなかった、だが、あの右腕はイバの一部で、今も一部だ。
カンタンにくれてやるわけにはいかない。
酒呑童子はにやりと笑い、口の中に手を入れると、ずるずるずると、口の中から真っ白な女と見まがうばかりの美しい腕を取り出した。
茨木童子の右腕だ、イバの右腕だ。
イバは腰を上げ、左腕を右腕に向かい突き出す。
「ワシの右腕じゃ! かえせ!」
ニヤニヤ笑う酒呑童子はイバに向かい右腕を投げてよこす。
イバは投げられた右腕を抱きとめ、必死に右肩につけようとする。
「なぜじゃ……、なぜじゃ……」
右腕はイバの右肩につかない、ずるりずるりと断面からずれ、地面に落ちる。
滑稽なイバの姿を見て、酒呑童子は大きく口を開け、銅鑼のように笑う。
「つかねえよ、お前の体には霊気が寸もねえ、それじゃ腕はつかねえ」
イバは右腕を抱いて泣いた。
さめざめと。
自分を鬼にした恋文の女へも復讐できなかった。源頼光と四人の家臣に討伐され、その復讐もできていない。釈迦にこの地獄のような世界に落とされて、その復讐もできていない。右腕もつかない。
何よりも母が死にそうなのだ。生きているだけで苦しみ、そして死にそうなのだ。母が死ぬ、そのことが一番つらかった。多くの鬼を従え、京すら襲おうとしていた大妖怪茨木童子が母の死を恐れ、体を震わし、涙を流していた。
酒呑童子はさめざめと泣く兄弟分、茨木童子を見下し、その姿に憐れみを感じていた。
茨木童子の右腕は、霊気の塊である。
渡辺綱の愛刀髭切丸に切られた茨木童子は、意識を体に、霊力を右手に別けられてしまっていた。
今の茨木童子は鬼でもない、霊力が皆無だからだ。
しかし大妖怪茨木童子の霊力は右手に純化され、凝固し、より強くなっている。
その腕を食らえば自分は大きく力を得て、現世で行われている釈迦との戦に勝機が見える。
茨木童子の右腕を求め世界を超え、この世界にやってきたのだ。
茨木童子の右腕は、つくこと叶わずとも、茨木童子の物である。
酒呑童子がそれを取り込むには、茨木童子の許可が必要になる。
糞面倒なことに。
眼下でさめざめと泣く茨木童子の抜け殻を見て、酒呑童子は考える。
この男は兄弟だった。
背中を預けられる相棒だった。
笑いあえる友だった。
ここで見捨てては夢見が悪いかもな、と。
「なあ兄弟、ここに蝦夷の山神がよこした神酒がある。これは死人でなけらば傷をいやし、病をいやす、どうだ? これとお前の右腕を交換しねえか?」
イバは顔を上げ、酒呑童子を見る。
「この神酒があれば、新しい右腕も生えるだろう、お前には霊力がなくとも、何やら変わった力が溢れてやがる。その力を使い生きやすくなる」
お猪口を一つイバの前に置く酒呑童子。
じっとそのお猪口を見るイバ。
「二つ、くれぬか?」
イバがそう言うと、酒呑童子は鼻で笑う。
「おかあが、やまいじゃ」
イバはお猪口から顔を上げ、酒呑童子を睨みつける。
酒呑童子は鼻で笑いながら、
「しらんぜ、お前か母親、自分で選べ」
そう言った。
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