茨木童子 異世界で 極貧オーガに 転生す
大間九郎
第1話前日談
夜、獣も寝静まる摂津の山奥で、老婆が蹲り右肩に、左手で持っている右腕を結合しようと必死に切断面を押し付けていた。
「なぜじゃ……、なぜじゃ……」
結合しない右腕に、老婆の目からぽとりぽとりと涙が落ちる。
老婆はその頭に二本の角を持つ鬼で、口から牙があふれ出ている。
その恐ろしい面も、涙で濡れ、目じりは下がり、哀れなものになっている。
老婆の名は茨木童子と言う。
茨木童子は大江山に巣くい、京の女をさらっては乱暴狼藉を繰り返した鬼、酒呑童子の一の子分で盟友であった。
茨木童子も酒呑童子もただむやみに京の女に乱暴狼藉をしていたわけではない、二人はもともと鬼ではなかった。二人はともに摂津の生まれで、乱暴者ではあったが、人間だった。
二人を鬼に変えたのは、ある日届けられた恋文であった。
酒呑童子は恋文を開くと真っ赤な煙が噴き出し、鬼となった。
茨木童子は恋文の血文字に触れ、鬼になった。
二人は鬼になったことにより故郷を追い出され、流浪の人となったのだ。
二人は恋文を出した、自分を鬼に変えた犯人を捜していた。
恋文の差出人が京の女であることは分かっていた。だから、京の女を襲っていたのだ。
鬼になり、湧き出るような怒りと暴力衝動、それを押さえながら、時には噴き出しながら、二人は自分を鬼に変えた女を探していた。
女の正体は分からない、一向に分からない、だから二人は京の女全てを殺そうと、あきらめにも似た殺戮を計画していたその時、源頼光と四人の家臣に討伐され、酒呑童子は討ち取られ、茨木童子は右手を失い、命からがら逃げだしたのだ。
右手を失った茨木童子は、その霊力を存分に使えず、生きる事さえ困難だった。
変化もできず、岩をも砕く怪力も、小枝一本折ることに息を切らせ、肩を弾ませるありさま、目は落ちくぼみ、唇は乾き、肌は皺のようにひび割れ、歯は抜け落ち、射干玉の黒髪は霜が落ちたように灰色になり縮れた。絶世の美女と間違われるほど美しかったかんばせは、みるみる老婆のように崩れていった。
「腕さえあれば、腕さえあれば」
茨木童子は自分の右腕を切り落とし、保管している、源頼光が家臣渡辺綱を恨んでいた。
呪い殺そうにも右腕がなく霊力が出ない。
捻り殺そうにも右腕がなく腕力が出ない。
なので、騙し、殺すことにした。
◇◇◇◇
月夜の晩、渡辺綱の家の前で、老婆に化けた、いや老婆そのものの茨木童子は門を叩く。
「綱や、綱や、母であるぞ、真柴であるぞ、門を開けてたもれ」
門の中から声がきこえる。
「母上、真柴の君、今、綱は陰陽師安倍晴明の言により、鬼を遠ざけるため、何人たりとも会うわけにはいきませぬ。どうか朝まで、お待ち下され」
茨木童子は歯噛みする、が、ここで帰るわけにはいかない。
「外は寒い、今日は風も強い、綱よ、綱よ、門を開けて母を入れてたもれ」
門の中から声はきこえない、だが男の、茨木童子の右腕を切り落とした渡辺綱の息をのむ空気のかすれだけがきこえた。
「母上、お帰りいただけなかろうか……」
「母はもう、歩き疲れて足が棒じゃ、帰る道すがら、犬に食われてしまうかもしれぬ、夜盗に殺されるかもしれぬ、…………鬼に食い殺されるかもしれぬよ」
もう一度門の中で、渡辺綱の息をのむ音がきこえる。
茨木童子はもう語らない。
じっと門を見て動かない。
門の中からは声はきこえない。
門はまんじりとして動かない。
カツン。
暗闇の中、風の音しかきこえない夜の中で、門の止め具を外す音が響いた。
その音をきいた茨木童子はにんまりとその口の端を吊り上げ、いけないと、頭の角ごと笑みをかぶる衣に隠した。
◇◇◇◇
丹波の山の中、暗闇の森の中、茨木童子は泣いていた。
右腕がつかぬからだ。
渡辺綱は殺せなんだ、だが右腕は奪い返せた。この右腕が体につけば、霊力も腕力も、絶世の美女と間違えられるほどの美貌も帰って来る。
しかし肝心な右腕がつかない。
このままでは老婆のような姿のまま、自分を鬼に変えた女への復讐もなしえぬまま、死ぬしかないのだ。
老婆のような風体で茨木童子は、右腕を抱えさめざめと泣いていた。
そこに、昼かのような、いや昼よりも明るく光が溢れた。
茨木童子は左腕で顔を隠し、まぶしさに耐え目を細め、光の出所が何か目を凝らす。
光は一体の人型から溢れていた。
光は一体の人型が背負っていた。
「釈迦である」
人型はそう言った。
「鬼よ、茨木童子よ、そなたは女を浚い、京の都に恐怖を振りまいた。その罪重し」
「鬼の身に落ち、その復讐すらも認めぬか、釈迦よ」
「鬼よ、茨木童子よ、復讐に無関係な女の恐怖と痛みは、罪よのう」
「釈迦よ、地を統べる者よ、統べるなら、なぜこの身を鬼に変えたのか!」
「知らぬよ、お前を鬼に変えたのは、恋文を送った女であろう? その罪と、お前らが京の平穏を乱した罪は別であろう?」
「女の罪は見逃し! 我の罪のみ裁くと言うか! 釈迦よ!」
釈迦の口元が冷笑に歪む。
「鬼ふぜいが」
釈迦の手のひらに紫色の煙がもくもくと立ち現れる。
その煙がもくもくと、老婆のように萎んだ茨木童子の体に蛇の様に巻きつき、締め付け始める。
「鬼よ、我が世にいらぬ蝗よ、お前が我の輪廻にとどまり、無垢なる命になること許せぬ。お前の業がその命にべったりとまとわりつき、我が世を汚く染めてしまうのが許せぬ。だから、いね、鬼よ」
体にまとわりついた紫色の煙が、茨木童子の皮膚を溶かし、肉を溶かし、骨を溶かし、魂を溶かしていく。
「殺すのか?」
茨木童子が釈迦に問うと、
「殺す? 違う、捨てるのよ」
茨木童子の目からは悔しさの涙が落ちる。
血の涙だ。
体は粒子となり、大気に溶けていく。
「我が恨み! 晴らさずにおくべきか!!」
釈迦は口音に冷笑を浮かべ、崩れていく茨木童子を見下げる。
「晴らせぬよ、お前は、この世界から消えるのだ」
崩れ落ち、ほろほろと消えていく茨木童子の体と魂を、塵一つ残さぬように釈迦の手のひらから立ち現れた紫色の煙が掬い取り、消していく。
最後の一片まで消し去った紫色の煙はその穢れを晴らすように、自らを食い合い、煙そのものも塵一つ残さず消滅していった。
摂津の森の暗闇の中、音はせず、ただ一人光を背負った釈迦のみが立っている。
釈迦は何もなくなった土の地面を見て、冷笑は消え、じっと茨木童子がいた空間を見つめる。
そこには何もない。
茨木童子が後生大事に抱えていた右腕も消え去っていた。
「しくじったわ」
そうつぶやき、釈迦もその背負った光に飲まれ、摂津の森には誰もいなくなった。
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