第4話

 母は宿主を失った家の片づけを拒み続けた。

 あの葬儀の日より私は一度も八幡の地を踏んだことは無く、母の口から八幡の話題を聞いたこともない。テレビの話題やYouTubeなどで八幡の話題となればチャンネルを意図的に切り替えた。

 母を慮ってくれて、どうやら八幡の親族会において酒屋を営む親戚が管理を申し出てくれたと父から聞いたことがある。帰りがけに恰幅の良いおばさんが母の肩を優しく摩って抱きしめていた人だとも教えてくれた。


 事件から十数年の月日が過ぎた。

 今年まで管理をしてくれていたが、年老いたことを理由に難しくなったことと今後どうするのか相談をしてほしいと記された手紙が届いた。

 ありがたかったのは宛先が母ではなく、気を使って私に連絡をくれたことだ。結びにはお母さんの折りを見て話してみてくださいと記されていた。


 何度か電話を交えたことがある、めったに使わない電話番号をスマホから探し出し、通話ボタンを押した。


「はい、旭酒店です」


 ハキハキとした物言いが聞こえる。いつ聞いても変わらない声だ。


「こんばんは、おばさん、あずさです、お電話してしまってすみません。手紙が届いたのでお電話しました。今、大丈夫ですか?」


「あ、あずさちゃん。届いてよかったわ、いきなりお手紙してごめんなさいね……。」


 言葉が詰まったのを制するように私は構わずに話を進めることにした。何年も続けてくれた善意なのだ。


「いえ。こちらこそ長いことすみません…、勝手を言ってすみませんが、よければ明日、一度、伺ってもいいでしょうか?」

「あら、急がなくて大丈夫よ、ゆっくりでいいから」

「いえ、ちょうど大学が夏休みに入っていて、私は院に進む予定なので就職面接もないから忙しくないんです。一度も行ったことがないので、現状がどうなっているか見に行ってみたいと思うのです」

「あ、聞いていないのね、でも、院に進むなんて凄いわねぇ、そう言えば……うちのも三年生だけど……何も言っていないわ」


 そういえばこの親戚には同い年の子供がいた。朧気ながらも姿は思い浮かび、そして懐かしい名前もふんわりとだが思い出せた。


「康太くんでしたっけ」

「覚えててくれたの?嬉しいわぁ」

「小さい頃によく遊んでくれましたから」

「ふふ、そうね、お店のジュースを持ってよく出かけていたわね」


 離れた土地で遊び相手のいない私を誘って連れ出しに来てくれた。精一杯に伸ばされて差し出された小さな手を握り二人して出かけたのだ。朧気の霧は振り払われてしっかりと脳裏に思い浮かんだ。

 川辺で遊び、山で遊び、小さな悪戯をしては互いの両親に怒られ、そして郡上おどりを教えてくれた丸刈りの男の子。八幡にいる間は私が寂しくないように気にかけてくれ、ずっと一緒にいてくれた優しい子だ。


「それなら、うちの子をこき使ってやってよ」

「え?」

「夏休みでごろごろしているだけだもの、家の手伝いとアルバイトだけしか動いてないのよ。もし、しっかりとした片付けをするなら男手も必要でしょ、召使のように使ってやって、今もね、配達に出てから全然帰って来やしないのよ」

「は、はぁ」


 あまりにも唐突な話に戸惑っていると来客を告げる声がスピーカーから聞こえてきた。


「あ、お客さんだわ、じゃあ、Rainで息子の連絡先を送っておくわね。お母さんによろしく伝えてね」

「伝えておきます。いつもすみません。失礼します」

「では、明日ね、気を付けて来てね」


 電話は慌ただしく途切れた。脳裏の優しい笑顔に思わず笑みが零れる、ほんの少しだけ気持ちが晴れた。

 けれど夕焼けに染まる空を見上げていると深いため息が口をついて出た。

 辺りをキョロキョロと見渡して不審な人影はないことを確認する。弛んだ気を張り直して私は歩き始める。

 親戚全員に母の状態を詳しくは知らせていない。

 いや伏せているに等しかった。曾祖父母の葬儀から年月を経て、再び心を痛ませて心配させることを避けたかった。

 バス停から近くの建物へと足を向けてあるいてゆく。

 緩やかな坂と階段を慣れてしまった足取りは登り切る。毎度の如く全身から汗が噴きだし、慌てて鞄にあるフェイスタオルで汗を拭う、水筒に入った水を飲み気持ちを整えて一息つき、そして再び、一歩一歩を踏み、あたりを伺いながら建物の自動扉を潜った。受付で手続きを済ませ渡された許可証を首から下げてからエレベーターで目的の階へと降り立った。


『外科・心療内科病棟』


 何度となく見た病院の案内板だ。

 最新の設備と清潔感溢れる明るい廊下の病棟は最近建てられたものだ。しっかりと清掃の行き届いた院内の床を歩く度にスニーカーの靴底がキュッキュと音を立てた。

ナースステーションの前を通ると顔見知りとなった担当の看護師さんがいたので軽く頭を下げて挨拶をする。連絡事項があれば呼び止められるが、今日は内容で互いに微笑むだけで済んだ。

 そのまま母がいる病室へと向かい、やがて506号室と書かれた扉の前に立つ。胸がギュッと締め付けられ呼吸が少し苦しくなる、深呼吸を数度してからドア脇にある後付けの電子錠の蓋を開いた。

 それは警察のシンボルマークのついた電子錠だ。蓋を開けて指を翳すと指紋認証が動いて鍵が開かれた。見上げれば真上には監視カメラも取り付けられている。

 ドアを開けると室内から規則正しい機械音が鳴っていた。

 母が生きているという証拠の音だった。

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