10、命の果て

「じゃあ、僕と一緒に死んでくれる?」

 彼女は息をのんだ。

「やっぱり君はそっちを選ぶんだね」

「ああ、これしか道がないからな」

「わかったよ。でも少し待って。少し時間を頂戴。私は好きな人には笑っていてほしい。だから、君の本当の笑顔が見れるまで時間がほしい。それくらいなら許してくれるでしょ?」

 縋るような目で、真剣に彼女は言った。その願いを断ることは、彼女をこちら側に引き込んだ僕にはできなかった。僕は頷いて返した。

「ありがとう。それじゃあさ、今週末一緒に出掛けよう? いわゆるデートってやつ? しようよ」

「ああ、でも僕にはどこに行けばいいのかもわからない。全部君に任せることになると思うけど、それでもいい?」

「勿論」

 そこから二人でカフェを出た。カフェを出てから彼女は僕の右手の形を確かめるように繋いできた。

「君の手、冷たいね。でも私の手はあったかいから丁度よかった」

 僕は何も答えなかった。そのまま彼女を駅まで送り、手を放すと彼女は僕のことを抱きしめた。力強く、けれど優しく。

「じゃあ、週末ね。約束だよ?」

「ああ、また」

「またね。おやすみ」

 そうして彼女と別れた。彼女と別れてから、僕は右手や全身に残る彼女の体温を確かめていた。

 どうして僕は彼女の誘いに乗ってしまったのだろう? どうして彼女をこちらに引きずり込んでしまったのだろう? 僕には僕の本心がわからなかった。

 週末になった。僕は普段の軽い服装ではなく、ちゃんとした服装に着替え、家を出た。待ち合わせはいつも彼女を送っていく駅だった。タバコを吸いながら歩く。今日はいったいどこへ連れていかれるのだろう? まあどうでもいいか。

 駅に着くと彼女はまだ来ていなかった。僕は駅から出てタバコを吸って中の様子を眺めていた。駅から出てくる人達は、駅の出入り口近くで堂々とタバコを吸っては吐いてを繰り返している僕に露骨に嫌そうな態度を見せたが、僕はそれをすべて無視した。

 丁度三本吸い終わったところで彼女は来た。

「ごめん、準備に時間掛かっちゃって、電車一本乗り遅れちゃった。待たせたかな?」

「うん。待ったよ」

「もう、そこは今来たとこって言うところだよ? とにかく遅れてごめんね」

 僕は気にしていないと首を横に振った。

「じゃあ行こっか。今日は私の好きなところに連れて行きます」

「それはどんな所?」

「ついてからのお楽しみ。さ、行こ」

 そう言って彼女は当たり前のように僕の手を握って歩き出した。これじゃあタバコが吸えないじゃないか。

 彼女に連れられて最初に着いたのは僕もよく見慣れている場所だった。

「デートで本屋?」

「いいでしょ? 二人でそれぞれ気になった本とか好きな本選んで買って、それを見せ合うの。一回やってみたかったんだあ」

 彼女はうっとりとそう言った。まあ、中々楽しそうだ。

「それじゃあ、制限時間と予算決めようか。そうだなあ、一時間で五千円まででやろう。一時間後にここで待ち合せね」

僕はわかったと頷いて先に本屋の中に進んでいった。どんな本を選ぼうか。久しぶりに本屋の中を探索することを今になって思い出した。一時期は狂ったように毎日本屋に通っていたことを思い出してどこか懐かしくなった。

僕が選ぶ本のジャンルは最初から決まっていた。不幸の上に成り立つ幸せを描いているようなものを僕は探した。逆にそれ以外には興味がなかった。適当に本のタイトルと表紙を見て中を見る。軽く見てからまた棚に戻す。懐かしい作業だ。僕は一時間それを繰り返した。

時間になり本屋の入り口に戻ると彼女は丁度会計を追えたようで袋を片手に歩いてきた。

「さあ、いつものカフェに行って見せ合いっこしよ」

 そうしていつものカフェに入り向かい合わせに座った。

「じゃあ私からね。私が選んだのはこの三冊」

 そう言って彼女が出したのは単行本が二冊と文庫本が一冊だった。そのうちの一冊は僕も読んだことがある『愛がない』だった。

「こっちの二冊はね、私が好きな小説家の人の新刊で、こっちは言わずもがな私の一番お気に入りの本。君は何を選んだの?」

 そう言われて僕はしばらく黙り込んだ。なんて言ったって僕は一冊も買えていなかったのだ。

「僕は、気になる本もなければ、好きな本もなかったんだ。だから何も買えていない」

「ええ、それはルール違反だよ? 罰ゲームが必要だね。今日のカフェ代君の奢りね」

「ああ、そうしよう」

 そう言ったタイミングで飲み物が運ばれてきた。彼女は紅茶、僕はコーヒー、いつものだ。

「でも、本当に何も見つからなかったの? 少しでも気になるやつとかなかった?」

「少し気になるやつはあった。だけど中身を見たらどうやら僕の求めているものについては書いてくれていなさそうだったから諦めたんだ」

「君が本に求めていることってどんなこと?」

「僕は不幸について色濃く描いてくれているものが読みたい。幸せだけを描いた物語は読みたくないんだ。いわゆるハッピーエンドっていうやつが嫌いなんだ。僕は幸せの陰に隠れた不幸が読みたい。さらに言えば、その不幸の中で笑っているようなものが読みたい」

「君らしいね。じゃあ、そんな君にはこれはぴったりだね」

 微笑みながら彼女は手元に置いてあった『愛がない』を僕に差し出した。

「ああ、これは僕が求めているものに限りなく近い。本当にいい小説だと思うよ」

「でしょでしょ? でもそっかあ、作戦失敗だ。本当はこの後それぞれ読みながらお互いに感想を言いあうっていうのをやりたかったんだけど、これじゃあできないね」

「ごめん」

 彼女は気にしていないと首を横に振った。

「気にしないで。今日の予定はこれだけじゃないからね。これ飲み終わったらお店出よ。次の場所に移動します」

「わかった」

 お互いに残っていた飲み物を一口で飲み干すと、すぐに会計をして店を出た。

「次はどこに行くの?」

 手を繋いできた彼女に向かって僕は聞いた。

「次はねえ、実は決めてないんだ」

 思わずえ? と間抜けな声が出てしまった。

「だってしょうがないじゃん。さっきの予定で一日潰そうと思ってたんだもん」

「あまりにも適当すぎやしないか?」

「誰のせいだと思ってるの?」

 そのやり取りが可笑しくて僕は笑った。それを見て彼女も微笑んだ。

「ということで次の行き先を決めましょう。君はどこか行きたいところある?」

 僕は正直どこでもよかった特に行きたいと思うところもなければ、何かしたいことがあるわけでもない。黙り込んだ僕を見かねて彼女は口を開いた。

「決めました。昼飲みをします」

 結局酒か。まあ、いい提案だ。昼から飲む酒は美味い。

「名案だね早速店調べよっか」

「調べる必要はないよ? いつものお店もうやってるから」

 意外だった。個人経営の店で昼過ぎからやってる店があるなんて思いもしていなかった。軽く驚いている僕の手を引っ張って彼女は早く行こうと歩き始めた。

「個人経営でこんなに早くから店やってるなんて珍しいね」

「それ私も初めて知ったとき同じこと思ったよ。なんかお昼は定食屋さん兼居酒屋って感じらしいんだよね」

 それなら納得だ。昼からやってても何もおかしくない。

 手を繋いで雪の中を適当に雑談をしながら歩いていると店に着いた。店の中は意外と人がいた。席が空いているか店内を見回していると丁度カウンターが並んで二席空いていた。そこに座り、酒を頼むと二人同時にタバコに火をつけた。

「私、昼飲みって初めてする。なんか悪いことしてる気分」

「その背徳感が酒をより一層美味くするんだよ」

 話していると早速酒が運ばれてきた。

「じゃあ、乾杯」

 彼女がそう言うと僕もそれに返した。

「乾杯」

 互いに一口飲み、何を食べるかメニューを見ていた。昼なのもあって定食なんかもあるみたいだった。だけど酒に定食はなんか違う気がして僕はいつもと同じものを頼もうと思った。彼女も同じことを思ったらしく、定食には見向きもしていなかった。

 刺身と天ぷらを頼み、新しいタバコに火をつけていると、ふとなんでもない日常の中に僕以外の人がいるということに今更になって気がついた。それがなんだかあたたかく感じられたが、きっと気のせいだろう。

「君は普段も昼からお酒飲んだりするの?」

 彼女が聞いてきた。僕は頷いて返した。

「ああ、最近はあまりしなくなったけど、フリーターだった頃は休みの日は毎回やってたよ」

「いい生活してたんだね。本当にいつもよりお酒が美味しく感じるよ。これを思いついた私を褒めてあげたい」

「結局何も思いつかなくて酒にいきついただけでしょ」

「それでもいいんですー」

 そう言って彼女は笑った。彼女とこうして酒を飲むのは純粋に楽しい。今までの僕では考えられなかった経験だった。それが僕を幸せに誘う。大切な誰かと同じ時間を共有しているという幸せは今の僕にとっては最大限の贅沢に思えた。

 一人で無言で幸福に浸っていると彼女はそんな僕を見て微笑んでいた。

「君、今とても幸せそうな顔してる」

 表に出ていたのかどうかはわからないが彼女がそう言うのであればそうなのだろう。僕は今幸せだ。

「ああ、僕にはこうして誰かと一緒の空間で一緒の時間を共有するなんて幸せなこと今まで一度もなかったからな。これが幸せに感じないはずがない」

「これからもずっと続くよ。私が側にいる限りずっと」

 そう言う彼女はどこか儚く見えた。それを見ていると僕は胸が苦しくなった。彼女をこちらに引きずり込んだことへの後悔がいまさらのように押し寄せてくる。僕の地獄を彼女に味わわせてしまった後悔が。

 僕はこのときに一つ心に決めた。彼女を道連れにすることだけはしないと。それだけはしてはいけないと。彼女にはこの先僕と出会うことなんかよりもずっとずっと幸せな出会いがあり、時間がたくさん存在するのだ。僕なんかのためにそれを潰させるのは絶対にしてはいけない。そう思って僕は口にした。

「今が一生続けばいいのにな」

「続くよ。今だけじゃない。これからもずっと」

 僕は首を横に振った。

「それじゃ駄目なんだ。僕にとっては今しかないから」

「それじゃあ、今をずっと続けよう? 何時間も、何日も、何か月も、何年も。そうすればずっと今のままだよ」

「それも駄目だ。君を今に縛り付けることは僕には許されない」

 彼女は言っている意味がわからないと首を傾げていた。

「君は先を生きるんだ。僕のいる今から離れて生きていくんだ。もう僕はここまでだから」

 彼女は悲しそうな顔をした。

「そんなこと言わないで。私は君とずっと一緒にいるから」

 僕は黙り込んだ。重たくけれどもあたたかい沈黙が僕らの間を満たした。僕はタバコに火をつけた。

「君と生きるのも悪くないのかもしれないね」

 彼女の表情が明るくなった。

「そうでしょ? 私と一緒にいたらきっと楽しすぎて頭おかしくなっちゃうよ」

「それは嬉しくないな」

 そう言って僕は笑った。彼女と共に過ごせる時間が永遠に続けばいいのに。だけど僕にはその器がない。彼女を僕に縛り付けることは許されない。

 二時間ほどダラダラと酒を飲みタバコを吸っていると彼女は少し酔ってきた様子だった。

「ねえ、君は今幸せ?」

「ああ、幸せだよ。君のおかげだ。だから、ありがとう」

「えへへ、どういたしまして」

 ああ、幸せだ。この幸せの中で僕は死にたい。今この瞬間に死にたい。僕の中の死の誘惑はその色を濃くし甘く香ってきていた。

「さあ、今日はここまでにしよう。楽しかったよ。そろそろ帰ろうか」

「わかったあ」

 会計を済ませて店を出て、彼女と腕を組んで歩き、彼女を駅へと送る。

「今日は楽しかったよ。ありがとう」

僕はそう言って彼女に背を向けようとした。しかし、それを彼女は許さなかった。

「ねえ、どうしてそんな表情をしているの? 君は泣きながら笑ってる。どうして?」

「これが最後だからだよ。僕は君との別れが惜しいんだ」

「どういうこと? またこれからがあるよ。これでお別れなんて絶対に嫌」

 彼女は今にも泣きだしそうだった。でも僕はもう止まらない。たとえそれが彼女を傷つけることになろうとも、僕は彼女を突き放す。

「憎しみはね、大事に大事に育てるんだ」

 急な僕の言葉に彼女は今がわからないと首を傾げていた。

「どういうこと?」

「憎しみを育てることはね、相手に対する最も大きい愛を育てることなんだ」

 僕は彼女に別れを告げる。精一杯の愛をこめて。

「ねえ、僕、君のこと愛しているよ。さようなら」

 そう言って僕は彼女の手を振りほどき、彼女から離れていった。

 僕は彼女のことを愛してしまっていた。けれどそれと同時に彼女のことが憎かった。僕をどうしようもない生に縛り付ける呪いのような彼女が。だけどこれで僕は呪いから解放される。清々しい気分だった。

 僕は家に帰るとカッターを手に持ちベッドに座った。綺麗に楽に死のうなんて思っていない。ギリギリまで痛みに苦しみながら、迫りくる死をじっくり感じながら死ぬ気だった。

 カチカチカチと部屋にカッターの刃を出す不穏な音が響く。僕は早くなる鼓動を抑えるように深呼吸し胸に左手を当てる。カッターを持つ右手は震えていた。僕は首筋にカッターの刃を強く押し当てる。これでいい。これでいいんだ。僕は一思いに力一杯カッターの刃を引いた。勢いよく鮮血が噴水のように溢れ、体内の血が外へと消えていく。部屋は早くも血で真っ赤に染まり、元が白い壁だったことを僕に忘れさせた。痛みを通り越して不快感しかなかった。だがそれすらも僕はゆっくりと味わった。ゆっくりと確実に死がこちらに歩みを進めてくる。意識が薄れだした。ああ、幸せだった。

「ありがとう。さようなら。おやすみ」

 そう呟いた声が血塗れの部屋に溶けていくのと同時に僕は意識を失った。


 私の目の前で、春香君は電車に轢かれて死んだ。その瞬間の彼の顔には血の涙なんて流れておらず、幸せでしょうがないといった表情を浮かべていた。私は彼を救えなかった。

 彼の死を目の当たりにしてから、私は部屋に引きこもるようになった。部屋の中で何もできなかった自分を責め続け、死んでいく彼の姿の記憶を永遠と辿っていた。

 何より、目の前で大切な人が死ぬという経験が私の心を壊した。それくらいショックだった。礼香の死を知らされたときよりも私は大きなショックを受けた。

 結局、形は違えど彼の物語の通りになってしまった。彼は私と出会って関わってしまったことで苦しんでいたのだ。でもそれと同じくらい人間的な幸福を得ていたことも確かだった。

 私は人の心が見えるという自分の特性を恨んだ。こんな思いをするくらいなら人の心など見えない方がましだ。

 私も彼のもとへ行こうと考えつくのに時間はかからなかった。親友と愛する人、この二人の命を救えなかった私に生きている価値などないではないか。

 私は今日を最後の日にしようと決めた。最後にできるだけの思い出を振り返ってそれを味わいながら死のう。

 私はまず礼香の遺書を読んだ。一度も礼香のことを忘れたことなどない。それくらい彼女は私にとって大切な親友だった。彼女のお墓に行けたらよかったのだが、生憎私はその場所を知らない。

次に私は彼が書いた小説を読んだ。これは彼の遺書のようなものなのだと私は知っている。長く、苦しい文章を読み終える頃には日が暮れだしていた。

私はタバコとスマホと財布だけを持って家を出た。目的地はすでに決まっていた。電車に乗り、一度彼と共に行ったバーへと向かう。少し道に迷いはしたが、何とかたどり着いた。

扉を開くと開店直後だったらしい。他に客は一人もいなかった。

「いらっしゃい。お、愛梨さんか。今日は一人か? 春香は?」

「こんばんは。今日は一人です。彼とはもう会えないので」

 カウンターの端の席に座るとビールを頼んだ。マスターはどこか心配そうな顔をしていた。何かあったのだろうか?

 グラスを私の前に差し出したマスターに私は聞いた。

「何がそんなに心配なんですか?」

 マスターは驚いていた。だけどすぐにその心は戻り、口を開いた。

「まさか、表に出ててるとは思わなかった。よく気づいたな」

「すみません。信じられないかもしれないですけど、私、人の心が見えるんです。だから、マスターが何か心配そうにしているのに気づいたんです」

「ほう、心が見える、か。正直信じられないけど、嘘をついてるとも思えない。とりあえずは受け止めておくよ」

 前に来た時も思ったが、物わかりがいい人のようだった。

「それで、何がそんなに心配なんですか?」

「愛梨さんのことと春香のことだ。さっき言ったな。『春香とはもう会えない』って。それに、愛梨さん、昔の春香と同じ顔をしている。いったい何があった?」

 ああ、そういうことか。きっともうすべて答えは出ているのだろう。でもそれでもあえて聞いてくるのは確認の意味があるのだろう。

「この間そこの電車が人身事故で止まったの知っていますか?」

「ああ、なにせ俺はその電車に乗ってたからな」

「その当事者が彼なんです」

 マスターが息をのんだ。そして狼狽えている。無理もない。身近な人の死を急に知らされたのだから。

「私は彼を止められなかった。彼は私の目の前で電車に轢かれて死にました」

「そうか、春香が、愛梨さんでも駄目だったか」

「彼は不思議な表情を浮かべていました。死ぬ直前の彼の心は幸福で満ちていた。私にはあれが何なのか意味がわかりません」

 マスターは考え込むようにして黙り込んだ。そしてタバコに火をつけると口を開いた。

「きっと、独りじゃなくなったからだ」

「どういう意味ですか?」

「春香はよく言っていたんだ。自分の周りには誰もいないって。孤独を嘆いていた。それを愛梨さんが春香と知り合って春香の孤独を埋めたから、きっと春香は幸せだったんだ」

 意味がわからなかった。

「それじゃあ、なんで彼は死ななきゃいけなかったんですか? どうしてその幸せを私と一緒に味わってくれなかったんですか?」

「幸せっていうのはな、多かれ少なかれ反動があるんだ。春香はあって当たり前の幸せを味わえずに生きてきた。そんな奴がある日突然大きすぎる幸せを知っちまったら、その裏にある反動に耐えられるわけがねえんだよ。多分、春香がしたのはそういうことだ」

 そんな、それじゃあ、彼にとどめを刺したのは他でもない私ということになるではないか。私は彼の支えになって彼を救うつもりが、逆に彼を追い込んでいたのだ。だけどそんなのあまりにも悲しすぎる。彼を孤独のままにしておくのが彼が生き延びる方法だったなんて。

「私は間違っていたんですね。私のせいで彼は傷ついて、私のせいで彼は自分を追い込んだ。私なんかと出会ったから、彼は死んでしまった」

「それは違う。壊れていた春香を直してくれたのは他でもない愛梨さんだ。愛梨さんがいなけりゃ、春香は独りで誰にも見つけられずに死んでいた。孤独の中で絶望して死ぬのと、幸せの中で死ぬのとじゃあ、春香にとっては意味が大きく違っただけだ」

「それでも、独りでも、彼が生き続けられたかもしれないじゃないですか」

 マスターはタバコを一本目の前に立てた。

「愛梨さんは孤独の中で傷つき続けながら生きながらえるのと、幸福の絶頂で死ぬの、どっちの方がいいと思う?」

 私は答えられなかった。答える資格がなかった。

「春香にとっては後者だったんだ。そしてその選択肢を与えてくれたのは他でもない愛梨さんだ。だから、春香が死んだことに対して自分を責めるのはやめろ。そんなこと春香は望んじゃいない」

『諦めることを選んだのは僕。捨てることを選んだのも僕。でもしょうがないじゃないか。それしか選択肢がなかったんだから。先が見えないから、今が壊れているから、過去が地獄だから、だから、しょうがないんだよ』

 彼の言葉が蘇る。

「でも、そんなの、悲しすぎる……」

 しばらく重たい沈黙が続いた。

「ずっと春香のことは気がかりだった。いつか突然いなくなるんじゃないかと思っていたんだ。そして、本当にいなくなっちまった。しかも、今俺の目の前には昔の春香にそっくりな人が立っている」

「私が彼に似ているってどういうことですか?」

「雰囲気が一緒なんだ。危うさとか儚さとか、すぐに消えてなくなってしまいそうなくらいに生気が感じられない虚ろな目をしている。もしかしてだけど愛梨さん、あんたも春香と同じことしようとしてるんじゃないのか?」

 やはり経験というものはすごい。少し話しただけなのにすべて筒抜けだった。私はタバコに火をつけながら軽く笑ってみせた。

「私にはそんな度胸ありませんよ。きっと怖くなって死ねないっていうのがおちです。大切な人を支えるどころか追い込むことしかできなかった私に生きる価値なんてないのに」

「いいか? 愛梨さん、春香が一番望んでいないことは何だと思う? そして、春香が一番望んでいることは何だと思う?」

 そんなことわかるわけがなかった。わかっていたら私は彼のことを救えたはずなのだから。私はわからないと首を横に振った。

「春香が一番望んでいないことは愛梨さんが春香の後を追うことだ。春香が愛梨さんに望んでいるのは愛梨さんが笑っていることだ。春香はよく言っていた。自分にとって大切な人ができたときはその人には笑っていてほしいって。だけど、自分じゃその相手を傷つけることしかできないって。だから、愛梨さん、春香のためにも笑ってやってくれないか? そんなに自分を追い込まないでやってくれ。きっとどこかにあるはずだ。春香から愛梨さんへ向けた想いが。それを見つけてやってくれないか? それが今愛梨さんがするべきことだと俺は思う」

 彼が私に残した想い。一つだけある。私だけが持っている彼の遺書。彼が紡いだ十数万の言葉達。私はそれを掬い取らなければならない。

「私でいいんでしょうか? 彼を追い込んでしまった私なんかがそれをしていいんでしょうか?」

 マスターは力強く頷いた。

「当たり前だ。それに何度でも言うぞ。春香は愛梨さんが自分を責めることを望んでいない」

 私は小さな覚悟を決めた。

「私にできること、探してみます」

 そう言って私はバーを出た。

 家に帰ると私は彼の残した物語をもう一度読んだ。彼の記憶の原液を。何度も読めば読むほど、それは彼の人生の救えなさを感じさせ、彼を襲った数々の不幸が光っていた。

 彼はこれをどうするつもりだったのだろう? 確か彼はこれを書き始めたきっかけは記憶の整理をするためだと言っていたはずだ。それはきっと最初から遺書代わりにすることを決めていたからだろう。

 私は目の前にある彼の小説のタイトルを見ながらこれがどんなものなのかを考えていた。例えばこれを私でも彼でもない他の人が読んだらどんな感情を抱くのだろうか? この物語の主人公ともいえる彼への同情だろうか? それともこの世の理不尽に対する怒りだろうか? はたまたこれが誰かの救いになることもあり得るのだろうか? 

 私は柊春香という一人の人間の人生とも呼べるこの物語を一人でも多くの人に読ませるべきだと思った。ただの思いつきだった。私はネットで締め切りが近い公募を探し、そしてそこに彼の作品を送ろうとした。しかし、このままでいいのかとどこか引っ掛かった。結局彼としては幸せの中で死ねたのだろうが、物語の中でくらい、私と幸せに生きていてほしかった。彼の真っ暗な人生が報われてほしかった。このまま終わりなんてあまりにも悲しすぎる。

 私は不自然にならない程度に彼の小説に手を加えた。と言っても最後を少し変えただけだ。そして作業を終えると私は今度こそ公募に作品を送った。柊春香として。


 柊春香として作品を公募に出してから、私は彼と過ごした短い時間をベースにして起こりえたかもしれないもしもの話を書き続けた。そこに少しでも彼の姿を反映させて、記憶の中の彼と対話をするように。同じようにして礼香との日々も書いた。私の世界はもしもの話で埋め尽くされていった。

 大学を卒業し、働きながら物語を書き続け、彼の作品の公募の結果が出るのを待った。彼の命の残滓がどんな結果をもたらすのか私は楽しみだった。

 公募の結果が発表された。私は仕事が終わり家に帰るとすぐにパソコンを開き、出版社のホームページを見た。そこには大賞として私が応募したのとは違う作品の名前が載っていた。

「駄目だったか……」

 一瞬の落胆の後、私は再び画面を見直すと大賞の下に優秀賞が載っていることに気がついた。そしてそこには見覚えのあるタイトルと作者名が載っていた。


『奪われたもの』 柊春香


 私は思わず涙を流してしまった。これで、これでようやく彼の人生が報われる。彼の奪われたものが取り返せる。

「春香君、やったよ……」

 私はスマホの画面を開き、そこにある彼とのツーショットの写真を見つめて呟いた。物語の中で私と彼はずっと一緒に幸せに生きている。不幸だらけだった彼の人生はやっと報われた。


「待って! もう少し、もう少しだけ私に時間を頂戴!」

 後ろから彼女の声が聞こえる。だけど僕は止まることも振り返ることもしなかった。無視し続けこれで最後にしなくてはならないのだ。僕は雪と溢れてくる涙に視界を奪われながらもまっすぐに歩き続けた。不意に身体を衝撃が襲う。誰かに抱き着かれたようだった。確認するまでもなくそれは彼女だった。

「お願い、そんな状態で君を一人になんてできない。私と一緒にいて……」

「君をこれ以上こちら側に引きずり込む気はない。早くその腕を放して引き返すんだ」

「嫌、私は君に引きずり込まれる気なんてない。君を引っ張り上げてみせる。君が奪われたものを一緒に取り返して見せる。だからお願い。孤独に身を置こうとしないで。悲しみに自分から足を踏み入れないで。それ以上嫉妬も絶望も憎悪も殺意も抱かないで」

 僕は腰に回された彼女の腕をそっと掴んだ。きっとこの手を掴んでしまえば、僕は正気を保てなくなる。親とはぐれて泣く子供の様に幼く、切実に泣き続け、誰かの温もりを求めてしまうだろう。それに、これ以上の幸福に僕は耐えられない。それを許容するだけの器がない。夢に見ていた幸福がこんなにも際限のない恐怖に感じられるなんて思ってもいなかった。

 涙が頬を伝って零れ、彼女の手に落ちた。

「泣いてるの? ねえ、こっちを向いて。君の心を見せて?」

 僕はもう抵抗することができなかった。大人しく言うことを聞いて彼女の方へと向き直った。

「どうして? 君は今怖がっている。だけどそれ以上に幸せそう。何が君を怖がらせるの?」

「幸せなんてもの今まで手に入ったことは一度だってなかった。だから怖いんだ。これを失ってしまうのが。壊してしまうのが。だから僕は自分から手放そうとしたんだ。それなのに、僕は今、どうしようもなく幸せになりたい……」

 意味のわからないことを消え入りそうな声で言った。言っている本人ですら意味がわからないのだ。幸せが怖いなど矛盾しているではないか。だけど彼女は優しく微笑んで僕の手をそっと握った。

「それはね、君の奪われていたものが少しずつ取り戻せている証拠だよ。今はまだ怖いかもしれない。でもね、それは普通なら恐怖なんて感じなくてもいいことなの。失うことなんて考えなくていいことなの。私があげられる幸せならいくらでも君にあげる。だからさ、もう少し私と一緒にいようよ」

 彼女の優しさが身にしみるようだった。甘えてもいいのだろうか? このまま彼女に縋ってもいいのだろうか? ここまで言われても僕はまだ怯えていた。

「僕にはわからない。どうするべきなのか、どうあるべきなのか、何もわからない」

「大丈夫。私を信じて。私は君を裏切ったりしないし、傷つけもしない。ただずっと側にいるからさ。だから、泣かないで。私、好きな人には幸せそうに笑っていてほしいの」

 そう言って彼女は僕のことを抱きしめた。力強く、その体温で僕の心を溶かすかのように。僕はそのぬくもりの中で泣き続けた。

「ありがとう。本当に、ありがとう」

「いいんだよ。これくらいならいくらでもしてあげる。だからほら、笑ってみせて?」

 僕は涙でぐちゃぐちゃになった顔で今できる精一杯の笑顔を彼女に見せた。そして決めた。彼女と共に生きようと。今ある幸せを大事にしようと。僕は彼女を抱き返した。

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