9、殺意の果て

 寒気で目を覚ました。暖房はつけっぱなしにしていたはずなのに、なぜだ? 答えは血塗れになった床とベッドが教えてくれた。血を流しすぎたようだった。赤を通り越して黒く染まったベッドの上から起き上がり、今もなお少し流れ出ていく血を止めるように傷口を抑えた。

 深夜の三時だった。貧血でフラフラとする身体でタバコを吸うために換気扇の下まで時間を掛けて歩いた。タバコに火をつけ一口吸うと喉が焼けるように痛んだ。恐らく意識を飛ばす前に一箱以上吸ったのだろう。これはそういう痛みだ。

 タバコを吸い終えるとシャワーを浴び、寒気が引くまでお湯を浴び続けた。傷口にかなり染みて痛みに顔を歪めた。シャワーを浴び終えると傷の手当もろくにせずに、汚れてもいい服に着替え、コンビニに行った。

 何かを胃に入れなければならないと思ったが、食欲なんてものは死んでいる。僕は当たり前のように鉄分が多く含まれているゼリー飲料を五個手に取りレジに向かった。

 コンビニの店員はなぜだか不審物を見たかのような顔をしていた。どうしたのだろうかと思って店員の視線を追って自分の手元を見てみるとまだ止まっていなかった左腕から流れる血が滴り、指先からぽたぽたと零れ落ちていた。

「あ、すみません。汚しちゃって」

 正直どうでもよかった。僕は一応謝ってすぐに会計を済ませてコンビニを後にした。腕からの出血が相当であるのと同様に足からの出血も相当だった。スウェットは早くも血に染まっていた。このまま手当てをしないで血を垂れ流していれば死ねるのだろうか? そんなことを考えはしたが、その死に方は望んでいなかった。

 家に着くと血塗れになった服を脱ぎ、傷口に消毒液を掛けて包帯をきつく巻き付けた。これで出血の方は大丈夫だろう。あとは今買って来たばかりのゼリー飲料をすべて胃に流し込めばいい。

 今更気づいたが換気扇の下には血の水溜りができており、それは表面だけが乾き、内側はぶよぶよと凝固していた。僕はそれを拭き取ろうと、タオルを持ってその場にかがむとそのまま倒れそうになった。貧血のせいか、それとも気持ちの悪いものを見たことによる身体の拒絶反応か、まあ、どちらでもいい。

 僕は新しい服に着替え、ベッドに横になってもう一度眠ろうとした。しかし、変に覚醒した意識は中々手放せず、眠るのを諦め、デスクの前に座った。

 パソコンを開き、完成した小説を最初から見返した。よくこんなものを書き上げたなと我ながら不思議に思った。

 誤字や、不自然な表現を時間を掛けて修正し、作業が一段落着いた頃には太陽が高く昇っていた。

 今日は何をして過ごそうか。そんなことを考えていると、自然と水上のことを考えていた。彼女は人の心が見える。それならきっと僕が隠していたいものもすべて彼女には筒抜けなのだ。幸福も、楽しさも、嬉しさも、恐怖も、不安も、怯えも、憎悪も、絶望も、嫉妬も、殺意も、何もかもばれているのだろう。きっと僕がこれからしようとしていることも彼女にはばれている。だがそれでいいとすら思った。

 遺書代わりの小説が完成した今、やることは、残っていることは一つだった。すべてを捨てること。もうそれしか残っていない。

 僕はスマホを開いた。最後くらい甘えてもいいだろう。完成した小説のファイルを水上に送った。

『今日、夕方くらいに行く』

 それだけ送ると睡眠薬を飲んで夕方まで無理やり寝ることにした。


 爆音で鳴り響くアラームが心地の悪い寝覚めを提供してくれた。僕はシャワーを浴びて傷の手当てをし、綺麗な服装に着替えた。

 タバコとスマホと財布だけを持って家を出て、タバコを吸いながら歩いていく。いつも見慣れている道ですら、今の僕には新鮮に映った。死を目前とした景色というものはこういうものなのだろう。

 カフェに着くと彼女はもう来ていた。いつものように向かい側の席に座り、コーヒーを頼む。彼女は何も言葉を発さなかった。いや、発せなかったのだろう。心の見える彼女のことだ。僕は自分が今何を感じているのかはわからないが、彼女の目に映っているものの予想くらいなら簡単につく。

 彼女は無言のまま、僕の送った小説のファイルを読み始めた。そこから何かを得ようとしているかのような様子だった。必死さというのだろうか。それが彼女から感じて取れた。

 僕はコーヒーをゆっくりと時間を掛けて味わい、彼女のことを眺めていた。今彼女は何を感じているのだろうか? 僕の遺書を読んで何を思っているのだろうか? それだけを考えていた。僕は彼女がそれを読むのに合わせるように自分が書いた遺書に意識を飛ばした。


「何も怯えてなんかいないさ。何も怖くない。だから、その手を放して」

 そう言って僕は彼女の手を振り払い彼女を置いて店を出た。店を出てすぐにタバコに火をつけ、煙をくゆらせながら早足で歩く。少しでも早く彼女と距離を取るために。だけどそれを彼女は許してくれなかった。

「待って、行かないで!」

 彼女は走って僕に追いつき再び僕の腕を掴んだ。

「こんなの絶対に間違ってる! 悲しすぎるよ!」

「何も悲しくなんてない。すべて僕が選んで決めたことだ」

 彼女は首を大きく横に振った。

「他に、他に絶対にいい選択肢があるはずだよ。だからそれが見つかるまでは待って」

「いい加減にしてくれ! 他にいい選択肢がある? それが見つかるまで待て? ふざけるなよ! 僕は早くこの地獄からおさらばしたいんだ! それをあんたの勝手な自己満足のために邪魔されてたまるか!」

 彼女は驚いた顔をしていた。それ同時に彼女は目から涙を流した。

「そんなに泣いているのに、どうしてまだそれ以上に傷つこうとするの? どうして自分で自分を必要以上に追い込むの? 何か変わるかもしれないのに、どうして助けを求めてくれないの?」

「泣いてなんかいない。それに、助けを求めたところで何も変わらないことを僕は知っている」

「ううん、泣いてるよ。心もそうだけど、実際の君も泣いている」

 そのとき僕は初めて気づいた。自分の頬が濡れていることに。これは雪のせいではないことだけは確かだった。困惑している僕のことを彼女は抱きしめた。

「私が力になるから。私が側にいるから。だから、お願い。私を頼って?」

 僕はもう何もわからなくなってしまった。ただ嗚咽を漏らしながら泣き続ける僕を、雪の降る静寂の中で彼女はただ優しく抱きしめてくれていた。ここまで甘えてもなお、僕は彼女に頼る選択肢だけは取ろうとは思えなかった。涙が一旦落ち着いてきたのと同時に僕は彼女のことを突き放した。

「ごめん。君に頼ることだけはしたくない」

 僕は知っている。不用意に誰かに頼ってしまった場合、その相手にかなりの迷惑が掛かることを。だから僕は相手が大切な人であればるほど、その相手に頼ることだけはしたくなかった。

 彼女は悲しそうな目で僕を見ているが、今度こそ僕は彼女に背を向け、一人で歩き出した。涙だけが静寂を切り裂いていた。

 家に着くとすべての感情を発散させて無にしようと力一杯自分の身体に傷をつけ続けた。大量の血が溢れ出し、意識が遠のく。

「ああ、こんなの嫌だ……」

 弱音と共に意識は溶けた。


一旦意識を引き上げた。僕の目の前では相変わらず険しい顔で水上が僕の書いた遺書を読んでいた。他でもない当事者であるはずの僕はその様子を他人事かのように眺めながらコーヒーを飲み干し、すぐに新しいものを注文した。

ありえるかもしれなかった未来の話。ありえなかった未来の話。僕が夢見た未来の話。しかし、それは言葉を紡げば紡ぐほど僕のことを追い込み、さらには僕がこれからしようとしている選択のどうしようもなさをより一層際立たせた。

さあ、まだ彼女が僕の遺書を読み終わるのには時間が掛かるだろう。もう一度僕は意識を飛ばすことにした。


 彼女のことを突き放し、一人になってから一週間も過ぎた。すぐに死のう。今日死のう。明日死のう。そう思っているうちに時間だけが過ぎていった。

 このままでは僕は死ねないのではないか? 最後の僕の願いが叶わないのではないか? そう思えば思うほど、死は甘く輝き、それと相反するように生は僕に恐怖を与えた。

 改めて覚悟を決めるようにタバコを吸っていると、突然僕の右手に収まっていたスマホが着信音と共に震えだした。画面に表示されている名前を確認すると彼女からだった。僕はこれに出るべきではない。僕は無視することにした。

 一分ほどでスマホは黙り込んだ。かと思えば間髪入れずにまたスマホは音を鳴らした。また彼女からだった。まさか僕が出るまでかけてくるつもりじゃないだろうか? とにかく無視し続けていれば彼女も諦めるだろう。

 それから二十分に渡り、僕のスマホは鳴き続けた。僕は我慢できずに彼女に連絡をした。

『うるさい』

 返信はすぐにきた。

『よかった。生きてた。元気にしてた?』

 ああ、結局この人も同じなのか。僕は失望した。彼女の連絡を無視し、スマホをベッドに投げ捨てると、また彼女から着信があった。

『電話、出てくれるまでかけ続けるから』

 何のつもりかはわからないが、我慢比べといこうじゃないか。僕は彼女に関わる気はなかった。きっとまた関わってしまえば彼女を僕の中に引きずり込んでしまう。それだけは避けるべきことだった。

 ノイローゼになりそうなほどスマホの着信音が部屋中に響き続けた。いい加減にしてほしい。

『もうやめてくれ』

『やめてほしかったら電話に出て』

 無駄な押し問答だった。彼女はきっと折れないだろう。これは僕がどれだけ耐えられるか、始まる前から勝敗が決まっている勝負だった。だがこちらにも譲れない理由がある。

『その自己満足のために聞いてくる言葉を、その行動を偽善って言うんだよ。』

 救うまでの価値もない人間だということをアピールすれば、もしかしたら彼女はこのくだらない勝負を諦めてくれるかもしれない。しかし、現実はそうではなかった。

『自己満足でも、偽善でも何でもいい。私は君とまた話がしたいだけだから』

 僕は早くも揺れていた。駄目だ。このまま流されたら、彼女を傷つけてしまう。そう思っていたのに、僕は次の着信音が鳴った瞬間に電話に出た。

『……』

 精一杯の足搔きだった。何も喋らず、何も答えず、無視しようと思った。けどそれも多分無理だということに僕は気づいている。

『あ、やっと出た。君って意外と我慢比べ強いね。まあ、私ほどじゃないけどね』

『何の用?』

『今日、いつものカフェで待ってるから』

 それだけ言って彼女は電話を切った。完全な言い逃げだ。拒否権など与えてもくれない。

 僕は重い腰をあげて久しぶりに外に出る準備をした。久しぶりに鏡で自分の顔を見たが、前よりも痩せているように見えた。

 タバコを吸いながら歩いて行く。カフェに着くと彼女はもう来ていた。

「あ、やっと来た。待ってたよ」

 微笑みながら彼女は言う。僕は何も答えなかった。

「無視しなくたっていいじゃんね。まあ、でもそうか。君の今のその状態じゃそうなるか」

 すべて筒抜けなのだ。どれだけ僕が虚勢を張ってそれを隠そうと、すべて無駄だった。

「何がしたいんだ? 僕の邪魔をして何が楽しい?」

「うーん、邪魔をした覚えはないよ。君がまだ生きてるのは君がそれを本心で望んでいるから。そして、私は君に生きててほしいとも思ってる。だから、少しでも君のためになることならなんだってするし、私はそれを諦めない」

「僕が本心で生きることを望んでいる? 笑える話だ。生きていたって何一ついいことなんてないのに僕がそれを望むわけがないだろう?」

 彼女は間違いを指摘するように首を横に振った。

「そんなことないよ。それに、いいことが起きる必要はない。こうして君と私がいる。それだけで十分なんだよ」

「それはそっちの都合だろ」

「そう、私の都合。だけどね、君が見えていない君のことも私は見えている。だから、私がそれに気づかせてあげないといけない」

 僕は怖かった。僕の選択を間違いだと知るのが何より怖かった。

「でもね、私にはそれが上手くできないの。辛いと泣く君に私がしてあげられることは二つだけ。黙って側にいてあげるか、一緒に死んであげるか。私って無能ね」

 そう言って彼女は微笑んだ。どうして、どうしてそこまで僕なんかのためにするのか理解ができなかった。

「どうして、僕なんかのためにそこまでしてしようと思うんだ?」

「私が君という一人の弱くて強い人間を知っちゃったから」

「答えになってない。そんなことをするメリットが君にはないだろう?」

彼女は少し考え込むように黙り込んだ。そして、紅茶を一口飲んでからまた話始めた。

「私が後悔したくないからだよ。私はこのまま君を一人にしてそのまま死なせることだけはしたくない。私と君は少しの間しか一緒にいなかった。だけど、私はその間に君のことをたくさん知った。そして、君のことを好きになった。好きな人に幸せになってほしいと思うのは当たり前のことでしょ? それに、君はすべて奪われたって言った。それなら奪われたもの、すべて取り返したうえで幸せにならないと採算が合わないでしょ? 私はそのためならなんだってするよ。たとえ君がそれを望まなくても。それが叶わないんだったら、一緒に死んであげる。絶対に君を独りぼっちにはさせない」

 ここまで言われて、僕は何も言い返せなくなった。そして、言葉の代わりに僕の頬には涙が伝った。


 今彼女はどこまで読んでいるのだろう? 声を掛けたくなったが、邪魔しては悪いと思ったし、何より今のこの場で言葉を発する必要はないと思った。

 冷めたコーヒーを飲み干し、これからのことを考える。僕は今日、彼女と別れた後にすべてを捨てる。くだらない自問自答も終わりだ。この惨めな人生も終わりだ。心残りがあるとするならば、彼女に傷を負わせてしまうことだけだった。僕の選択は確実に彼女を傷つけ、悲しませる。だけどしょうがないじゃないか。それしか道がないんだから。

 彼女が僕にくれるささやかなやすらぎを手放すのは惜しい。だけどわかっている。僕にはそれを味わう資格もなければ、時間もない。

 しばらくぼうっと彼女のことを眺めていると、彼女が僕の遺書を読み始めてから二時間ほど経った頃に彼女は顔をあげた。

「読み終わったよ」

「で、感想は?」

 彼女は黙り込んでしまった。当然だ。それだけの内容なのだから。

「嫌だよ。私こんなの嫌だ」

「意外な感想だな。それが最善の終わり方だよ」

「何もよくない。君がこんなのを望んでいるなんて私には思えない」

 彼女はしばらく黙り込んだ。何を喋るべきか考えているのだろう。きっと彼女のことだ。僕の今の感情も見えているし、これからしようとしていることも容易に想像がついているのだろう。

「どうして……、君はこれでいいの?」

「ああ、いいさ。これが僕の望んだ形だ」

「そんなのあんまりだよ。こんなんじゃ、現実の君も、物語の君も報われない」

「報われるさ。すべての呪いから解放されるんだ。それほど望ましいことはないよ」

 彼女は今にも泣きだしてしまいそうな顔をしていた。ここまで必死に他人のことを考えられる人に僕は今まで出会ったことがない。もう少し、彼女と出会うのが早ければ僕も変わっていたのだろうか?

「諦めることを選んだのは僕。捨てることを選んだのも僕。でもしょうがないじゃないか。それしか選択肢がなかったんだから。先が見えないから、今が壊れているから、過去が地獄だから、だから、しょうがないんだよ」

「そんなの悲しすぎるよ」

 すべて遅すぎたのだ。タイミングが何もかも合わなかった。それだけのことだ。僕は立ち上がろうとした。その腕を彼女は力強く掴んだ。こんなことが前にもあったな。

「待って、お願いだから、まだ行かないで……」

 消え入りそうな声で、縋るような目で彼女は僕を引き留めた。やめてくれ、そんな目で見ないでくれ。揺らいでしまう。

「きっと、君の目には僕の姿が自殺した親友に重なっているんだろうね。だから君は僕を必死で繋ぎ止めようとする。でもわかっているはずだ。僕は君の親友でも何でもない。仮に僕を救ったところで、君の親友を救ったことにはならないんだよ。だからその手を放してくれ」

「嫌だ。私は君のことが大切なの。礼香と重ねているんじゃない。私はちゃんと春香君のことを見ている。それに君は言った。『助けてほしい』って。私はあの言葉だけが嘘偽りなく君の本音だと思ってる」

「パニックになったときの言葉が本音か。とんだ皮肉だな。そんなときに出た言葉が本音なわけがないだろう?」

 彼女は首を横に振った。

「何度でも言う。私には人の心が見えるの。だから私の前では嘘は通用しない。何が本心かがわかるから。だから、ようやく見えた君の本音を私は掬い取りたい」

「仮に僕の本心がそれだとしても、もう手遅れなんだよ。僕は昔から一歩前のその選択肢に片足を突っ込んで仲良く手を繋いでる。そんな状態で助かるわけがないだろう?」

「じゃあどうして、今までそれに耐え続けてきたの? どうして、今まで戦い続けてきたの? いつか救われると思ってたからじゃないの? 報われる日が来ると思っていたからじゃないの?」

「そんな日が来ないことくらい僕は知っている。そんなもの望み続けたら、本当に僕は僕じゃなくなる」

「それは君の味方が、君の支えになってくれる人が誰もいなかったから。これからは私がいる。私が君の側で支えになる。だから、本当の君を見せて。血塗れの乾いた笑顔の裏にある君の本当の姿を」

 僕の本当の姿、そんなものとうの昔に見えなくなっている。自分で自分のことがまったくわからないところまで壊れているんだ。そんなもの見せられるわけがない。仮に見せられたとしても、そのときは確実にスイッチが切れる。

「私は君を傷つけないから、君を守ってみせるから、だからお願い、少しでいいから本当の君を見せて」

「無理な話だな。これが僕の本当の姿だ。それ以上でもそれ以下でもない。仮に君が言うように本当の姿があるんだとしたら、それこそとっくの昔に死んでいる」

「そんなことない。どれだけ傷だらけでも君がこうして生きている限り、まだ本当の君は死んでない。お願い。自分で自分を殺さないで」

「僕の中にある殺意はすべて僕に向かっているんだ。真っ先に自分を殺すのは当然だろう? それにこの殺意が外に溢れでもしたら、僕は幸せそうな奴全員を殺して回る殺人鬼になる」

 憎しみの果てに抱いた殺意は初めはすべて他人に向いていた。僕を壊した悪魔に、僕を捨てた素敵な裏切り者に、何も知らずに幸せそうにしている名前も知らない他人に。だがその殺意の矢印はすべて内側を向いてしまった。すべて僕に突き刺さり、一本たりともそこから抜けることはなかった。

「僕はすべてが憎い。楽しそうに笑っている奴が憎い。嬉しそうにしている奴が憎い。幸せの真ん中にいる奴が憎い。だけどそれ以上に憎いのは僕自身だ。何もできず、他人の不幸しか望めない醜い化け物になった僕自身が一番憎い」

「それは全部君のせいじゃない。君をそこまで追い込んだ周りのせい。今ここには君を追い込んだり傷つけたりするものは何もない。私は君を受け止める。だから、自分を責めないで。君は何も悪いことなんてしていないんだから」

 僕はずっと揺らぎ続けていた。このまま彼女と共に生きていけるのではないかという欲すら湧いてきてしまっていた。でもそんなこと望んではいけない。一度壊れたものはもう元には戻らないのだ。

「もう君と話すことは何もないよ。だから、これでお別れだ。短い間だったけど、君と過ごした時間だけは幸せだったよ」

 そう言って僕は彼女の手を振り払い、金を置いてカフェを出た。

建物を出て、家までの道をタバコを吸いながらゆっくりと歩いた。何度も降る雪にタバコの火種を消されそうになったが、それでも僕はゆっくりと歩き続けた。まるで僕を引き留める何かが、誰かが、現れるのを待つかのように。とてもゆっくりと歩いた。

しかし、誰も現れることはなかった。誰の足音も聞こえなかった。誰の息遣いも感じられなかった。代わりに踏切の甲高い音が聞こえる。僕は迷うことなくそこに入り込む。

「ああ、最後の最後まで独りだ……」

 呟いた途端、後ろの方から踏切の音に紛れて人が走ってくる音が聞こえる。僕の名前を叫ぶ声が聞こえる。ああ、よかった。最後だけは、独りじゃない。

「春香君! 待って! 早くそこから出て!」

「ありがとう。ごめんね。さような……」

 涙が頬伝い、手から零れ落ちたタバコが地面に着いた瞬間、電車の急ブレーキの音が辺りに響き、その直後、強い衝撃があった。

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