8、光の果て
春香君の行きつけのバーは駅から歩いて十分くらいの所にあった。路地の中でひっそりとそのバーはやっていた。
彼の後ろについてバーの中に入ると落ち着いた雰囲気の小さい空間がそこには広がっていた。
「おう、春香、久しぶりだな。お、後ろの人は彼女か?」
マスターが彼に声を掛けた。きっと仲がいいのだろう。
「こんばんは。お久しぶりです」
彼はマスターの質問を無視した。それがなぜか肯定と否定を混ぜ合わせたような無視に感じられた。
「ビール二つお願いします」
「あいよ」
お通しのスナック菓子を出してからマスターはビールを注ぎ始めた。
「それにしても、春香が人を連れてくるなんてなあ。しかも、女の人。俺驚いたよ」
「最近知り合ってよく飲みに行くようになったんです。それで今日はここに来ました」
「よく飲みに行ってんならもっと早くうち来いよ」
「完全に忘れてました」
マスターはその返答を受けて声をあげて笑った。そしてグラスを二つ私達の前に置いた。
「彼女さん、名前なんていうんだい?」
「水上愛梨って言います。初めまして。よろしくお願いします」
「おう、よろしくな。それと、そんなにかしこまらなくていい。リラックスしてくれ」
気さくな方なんだなと思った。マスターの心は晴れていた。
「今日も飲んだ後に来たのか?」
「いや、今日は二人で一日中出かけてたんです。それで最後に少しだけと思ってここに来ました。軽く飲むのにはここはうってつけだから」
「狂ったように酒飲んでた奴がよく言うぜ。まあいいや、どこ行ってたんだ?」
彼は私の方を見た。代わりに答えてほしいということなのだろう。
「スイーツの食べ歩きをしてきたんです。実はもうかなりお腹一杯なんですけど、春香君に誘われて来ました」
「つまりはデートか。いいねえ。青春だねえ」
そう言ってマスターは笑った。私と彼もそれにつられて笑った。
そこからしばらくゆっくりと時間を掛けながら一杯のビールを飲み、三人で当たり障りのない会話をしながら過ごした。
一時間ほど経った頃だった。彼の様子が少し変わった。以前彼がパニックを起こしたときと同じ心の動き方をしていた。
「春香君、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。少しお手洗い行ってくる」
彼は脈を測るかのように首元に手を当て、トイレへと入っていった。その様子を見たマスターは少し心配そうな顔をしていた。
「調整に入ったな。しばらくは出てこないぞ」
「調整?」
「首に手当ててトイレ入っていったろ? あれすると春香は最低でも十五分はトイレから出てこない。長い時は一時間くらいだな」
私には少し心当たりがあった。初めて彼とお酒を飲んだ時と同じようなことだろう。とすれば、その時間は彼にとっては地獄とも呼べるほど苦しい時間のはずだ。
私は立ち上がって彼のもとへ行こうとしたが、それをマスターが止めた。
「一人にしておいてやってくれ。これは俺の頼みじゃない。春香の頼みだ」
「どういうことですか?」
「そうだな、しばらく春香は出てこないだろうし、少し春香の話でもするか」
私の知らない彼の話。私はそれに興味しかなかった。私は頷いて先を促すとマスターは喋り始めた。
「春香が初めてうちに来たのは二年前だ。今よりも死にそうな顔で店に入ってきたのが今でも印象的だった」
そこからマスターから少し昔の彼の話を聞いた。
店の扉が開く音が聞こえた。
「いらっしゃい」
扉の方を見るとどこか虚ろな顔をした生気を全く感じさせない若い男が立っていた。
「兄ちゃん初めてだな。席好きなとこ座ってくれ」
彼は無言で頷くと一番端の席に座った。
「最初何飲む?」
お通し代わりのお菓子を出しながら聞くと、消えそうなくらい小さな声で彼は答えた。
「ウイスキーストレートでお願いします」
「ウイスキーの種類は何がいい?」
「マッカランってありますか?」
「あるよ。ちょっと待ってな」
この若さでマッカランを頼むのは珍しいと思った。
「はいよ。お待たせ。ところで兄ちゃん名前は?」
彼はマッカランを一気に飲み干してから答えた。
「柊、春香、です」
「春香か、良い名前だな。それよりあんた飲み方がちと荒すぎやしねえか?」
彼は空になったロックグラスをぼんやりと眺めて黙り込んだ。
「別に、いつも通りです。だから気にしないでください。それと、おかわりをお願いします」
「そうか? それにしてもそのペースでウイスキー煽り続けたらすぐ潰れるから気をつけろよ?」
「わかってます」
マッカランを再びストレートで出すと彼はそれも一気飲みした。
「春香って言ったか? その飲み方やめろ。急性アル中でぶっ倒れるぞ」
「そうなったらそのときです」
「答えになってない。何もよくないし、店に迷惑かかるからやめろ」
彼は渋々といった感じで頷いた。第一印象は最悪だった。早く追い出そうかとも思った。しかし、彼の放っている雰囲気に俺は少し興味があった。
「なんかあったのか?」
彼はまた黙り込んだ。答えることを迷っているというよりかは、何を話そうか迷っている感じだった。どうやら答えが決まったらしい。彼は重い口を開いた。
「別に、何も、ありません」
歯切れ悪くそう答えた。そして、答え終わった瞬間、彼は突然首元に手を抑え、そして浅い呼吸を繰り返し、立ち上がった。
「すみません、お手洗い借ります」
きっと今飲んだばかりのマッカランを吐き出すのだろうと思った。もったいないことをする奴だ。しかし、吐いているにしては長すぎる時間彼はトイレに籠った。きっと倒れているのだろう。迷惑な客だ。
「兄ちゃん、大丈夫か?」
返事がない。これは本格的に倒れているやつかもしれない。
「悪いけど、入るぞ」
外側から無理やりトイレのカギを開けて中に入ると、そこにはしゃがみこみ、震えている彼の姿があった。幼い子供が親に怒られた後に怯えて震えるような様子だった。
「大丈夫か? とりあえず水飲め」
水の入ったグラスを渡すと彼はそのグラスを上手く掴むことができずに落とした。グラスの割れる音が店内に鈍く響き、床は水浸しになる。
「ごめ、なさい」
俺じゃない何かにひどく怯えた様子だった。事情は知らないが、迷惑客でしかなかった。
「兄ちゃん、お代はいらないから今日はもう帰ってくれ」
彼は泣きそうだった。だがそんなこと俺の知ったことではない。店から追い出すようにして彼を帰らせ、汚れた床の掃除を俺はした。
次の日、開店と同時に昨日の彼はやってきた。
「いらっしゃ……なんだ、あんたか。何しに来たんだ?」
「すみません、昨日、迷惑かけちゃったから、謝りに来ました」
そう言って彼は紙袋を差し出して俺に謝った。紙袋の中身は昨日割られたのに似たグラスと一万円札だった。俺はわからなかった。彼はたまに現れるただの迷惑客ではないのか? 彼はいったい何をしたいんだ? 俺は少なからず彼に興味を抱いてしまっていた。
「まあ、とりあえず入れ。飲み物何飲む?」
「いいんですか? 僕昨日かなり迷惑かけたのに……」
「ここでは俺がルールだ。俺がよければそれでいいんだよ」
「ありがとうございます。ビールください」
ビールを注いで出すと、昨日とは違い彼はゆっくりとそれを飲んだ。
「今日は一気飲みしないんだな」
「今日は、それをする必要がないから」
「どういうことだ?」
「スイッチがあるんです。それが切れたら、昨日みたいな飲み方しないと元に戻せないんです」
スイッチ? 何の話だ? それに元に戻してそれが昨日のパニックみたいな状態なのか?
「そのスイッチってのはどういう意味だ?」
「そのままの意味です。僕の心と身体にはスイッチがあるんです。昨日はそれが外で切れちゃったから、どうにかして無理やり元に戻そうとして、目に入ったお店に入ったのがここだったんです」
「もう一個聞かせろ。そのスイッチとやらが元に戻った状態があのパニックみたいな状態なのか?」
彼は首を横に振った。
「一度スイッチが切れると、自然に戻るまで時間が掛かるんです。それを無理やり入れなおすから、調整が必要になる。それがあの状態なんです。早くても十五分くらい、長いと一時間はかかります」
ふむ、今まで見たことないタイプだが、なんとなく言っている意味は理解はできなくてもわかりはした。
「何か精神的な病気か何かなのか?」
「わかりません。病院には最近通い出して、とりあえず薬は貰って飲んではいるんですけど、それも効いてる気はしなくて」
「何か思い当たる原因とかはないのか?」
彼はわからないと首を横に振った。
「突然なったんです。スイッチが切れると、ただ漠然と怖くて、不安で、目の前が真っ暗になるような感じがして、意識が飛びそうになるんです」
「そうか、難しいんだな。俺にはよくわからないけど、それに対抗できる薬がアルコールってことか」
彼はそうだと頷いた。
「昨日みたいな飲み方しないんだったらここに来るといい。話くらいなら聞いてやれるからな」
「ありがとう、ございます」
その日から春香は週に一回多い時で三回くらいのペースでうちの店に来るようになった。荒い酒の飲み方はするが、基本的には大人しかった。時々調整が入ってトイレに長時間籠ることはあったがそれを除けば悪い客ではなかった。
春香が店に来るようになってからある程度して、春香は自分の過去について少しずつ話すようになった。高校のときに部活の顧問に虐められていたこと。それが尾を引いて大学に通えなくなったこと。病院でうつ病と診断されたこと。すべて自分を嘲るように笑いながら春香は話した。そして話の最後には必ずこういうのだ。『情けないですよね』と。
後半は私も知っている話だった。彼の過去に現在のこと。私は知らなかった彼の過去に触れられたことが嬉しく思った。
「俺は本当は春香のこと出禁にするつもりだったんだ」
「どうしてそうしなかったんですか?」
「あいつの目を見ちまったからだな。今も変わらないが、あの若さで抱えきれないほどの何かを抱えている目をしていたんだ。俺はそれが気になった」
「わかる気がします」
きっと私が彼に興味をもったのと同じ理由だろう。彼には人を近寄らせない雰囲気の中に、すぐに壊れてしまいそうな危うさがある。私は心が見えるからそれに気がついたが、マスターがそれに気がついたのは長年の経験によるものだろう。
「今の春香は昔に比べれば穏やかだ。だけど、何かが解決したかといわれたらそれは絶対に違う。どこかすべてを諦めたような穏やかさなんだ。だから俺はあいつのことが心配になる」
「マスターは彼に何かしてあげようとは思わないんですか?」
マスターは首を横に振った。
「俺には何もできないよ。俺と春香の関係はマスターと客だ。その一線を俺達は越えちゃいけない。俺にできることはせいぜい春香が何かを話してくれたときにそれを聞いてやることくらいだ。俺はここで春香を待つことしかできない」
マスターの心からは悔しさが見て取れた。
「愛梨さん、春香のこと支えてやってくれねえかな? 誰か一人だけでも側にいる人がいるだけで人間救われるものなんだ。俺からのお願いだ。あの春香がこうしてここに愛梨さんを連れてきたんだ。春香の中で愛梨さんはきっと特別な存在なんだ。だから、愛梨さんができる範囲でいい。春香の側にいてやってくれ」
「勿論です。頼まれなくてもそのつもりでしたから」
私はそう言って笑って返した。
「ありがとう」
丁度私とマスターの会話が一段落着いたところで彼は戻ってきた。
「今日は早かったな」
「いつもすみません」
「気にすんな。春香がいない間にしかできない話もしたしな」
「いったい何を話したんですか?」
彼は笑っていた。だが彼の心は『調整』が終わっても揺らぎ続け、何かに怯え続けていた。そろそろ彼に無理をさせるのはやめようと思った。
「春香君、そろそろ行こう?」
「ん、ああ、そうしようか。マスターお会計ください」
「はいよ。千五百円だ」
当然のように彼は奢ってくれた。
「私もお金出すよ」
「いいんだよ。こういうときは男に華をもたせてやるもんだぜ。なあ、春香」
「そういうこと」
私はわかったと頷いて財布を鞄にしまった。
「それじゃあ、ありがとうございました。ご馳走様です。また来ます」
「おう、気をつけてな」
店を出ると彼と並んでタバコを吸いながら駅へと向かった。
「今日は楽しかったなあ。君はどうだった?」
「僕も楽しかったよ。久しぶりに充実した一日を過ごした気がする」
「それならよかった。また行こうね」
「ああ、行こう」
タバコの煙を吐き出して私はある提案をした。
「ねえ、春になって雪が溶けたらさ、どこかに旅行行こうよ。小説完成祝いも兼ねてさ」
「いい提案だ。楽しそうだな。行こう」
「約束だよ?」
「ああ、約束だ」
そこからはいつも通り互いに無言で澄んだ冷えた夜の空気とタバコの煙を吸い込みながら駅まで歩いた。
駅に着いたとき、彼に向き直って今日のお礼をした。
「今日は付き合ってくれてありがとう。楽しかった。またね」
「こちらこそありがとう」
そうして改札を抜け、彼の方を振り返ると、彼は泣いていた。血の涙を流しながら笑っていた。それに気づいて彼に声を掛けようと思ったが彼はすぐに振り返り、駅から出て行ってしまった。
「どうして……」
*
ゆらゆらとする視界の中で、ふわふわとする身体で歩いている。足元では一歩踏み出す度に血がぴちゃぴちゃと音を立て、腕と足からは血がぽたぽたと零れだしている。
血塗れになった部屋の中で一人、タバコの煙に包まれながら世界の終わりを願う。
「まだ、死にたくない……」
暗い部屋の中でぼくの声は小さく溶けて消えていった。
今日は幸せだった。楽しかった。でもそれももうおしまいにしよう。僕に限られた短い時間では、もうこれ以上を望んではいけない。
タバコの煙が優しく僕を包み込んでくれる。アルコールによる酔いが僕の理性を支配しくれる。自傷による痛みが僕に安寧の時間を与えてくれる。もう僕にはこれだけで十分だった。
きっと間違っているのはいつだって僕の方なんだ。これからすることも、これまでのこともすべて。
スイッチが切れるのと同時に僕はベッドに倒れ込み、そのまま意識を失った。
どんなに眩い光でもいつかは涸れ果て、真っ暗で深い闇に飲まれる。痛みだけを残して。それならいっそ光など望まない方がましだ。
もう、壊れたものは何一つとして元には戻らない。
もう、誰にも僕を救えない。
もう、彼女の笑顔は僕を救うだけの力をもたない。
もう、奪われたものは何一つとして取り戻せない。
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