7、優しさの果て

 約束の日になった。私は朝からシャワーを浴びてタイツを履き、黒のスカートを履き、白のニットを着た。そして化粧をいつも以上に念入りにし、髪を気持ち強めに巻いた。ショルダーバッグの中にスマホと財布、タバコとモバイルバッテリーと数点の化粧道具を入れ、黒のコートに身を包み、水色のマフラーを首に巻いて家を出ようとした。

 外は少し強めに雪が降っており、それを見て私は一度部屋の中に戻った。黒のニット帽を浅くかぶり、改めて家を出た。

 春香君の真似をして路上喫煙をすることには何の抵抗もなかった。むしろなぜ今まで自分がそれをしてこなかったのか不思議に思うほどだった。

 駅に着くと丁度来ていた電車に乗り込んで空いていた座席に座り、三十分ほど電車に揺られた。彼は今どんな気持ちで、どんな心で待ち合わせ場所に向かっているのだろう? そんなことを考えていると時間はあっという間に過ぎていった。

 駅に着き、電車を降りて改札を抜けるとそこにはすでに彼の姿があった。長い髪の毛を後ろで縛り、白のニットに黒いコート、黒いスキニーパンツといった格好だった。色味が私と似ている。彼のもとまで駆け寄っていくと彼はすぐに私に気づいた。

「おはよう。お待たせ。来るの早いね」

「おはよう。丁度今来たとこだから早くはない」

「よかった。それじゃあ早速行こうか」

 そこからまずは駅ビルの中に入っているカフェに入った。いつも言っているカフェとは違い、若い子が多く、にぎやかな店内だった。席に案内されメニューを二人でのぞき込んでいるとスイーツの種類の多さに二人して驚いていた。

「ここだけで食べ歩きが完結させられそうだ」

「それ私も同じこと思ったよ」

 二人で五分ほどメニューを眺め、あれもいい、これもいい、と優柔不断に迷っていた。

「今のところの候補どれ?」

 私はメニューの写真を指差した。

「このパフェか、こっちのパンケーキで迷ってる。君は? もう決まったの?」

「僕はパンケーキにするよ。半分あげるからそっちのパフェ頼むといい」

「え、いいの?」

 彼はもちろんだと頷いた。

「ありがとう」

 私は微笑みながらそう言って店員さんを呼んだ。

「えーと、このパンケーキと、このパフェお願いします。あと、紅茶をホットで。君は? 何か飲む?」

「コーヒーをブラックでお願いします」

「かしこまりました。取り皿はお使いになりますか?」

 私は彼にどうするか目で聞くと彼が代わりに答えてくれた。

「いいえ、大丈夫です」

「かしこまりました。すぐお持ちいたしますのでもう少々お待ちください」

 店員さんがカウンターの方へと帰っていくのを見送り、私は口を開いた。

「取り皿無くてよかったの?」

「んー、いらないかなと思ったんだけど、ほしかった? テーブル狭いから置く場所もないかなと思って」

「確かに、いつも行ってる所よりテーブル狭いよね。それに若い子が多い」

 そこで初めて彼は店内を見回した。普段からあまり周りのことを気にしないタイプなのだろう。

「本当だ。だからにぎやかだったのか」

 納得したようにそういう彼の姿がどこか可笑しくて笑ってしまった。

「なんで笑ってんの? てか、今日この後のルートってどんな感じ? 僕何も調べてないけど大丈夫?」

「ごめんごめん、ちょっと可笑しくて。この後はねー、ロールアイス食べて、ティラミス食べて、いつものカフェに戻ってワッフルを食べる予定です!」

「想像しただけでお腹が一杯になりそうだ。でもいいね、楽しそう」

「楽しそうじゃなくて楽しいんだよ」

 それもそうかと彼は笑った。彼の笑みの裏には血の涙は流れていなかった。だが乾いた笑みを浮かべているのも確かだった。

「そういえば、今日がくるまでの間で完成したよ」

「本当? 早く送ってよ。ずっと気になってるんだから」

「もう少し待ってほしい。あと、一週間くらいで勢いで書いたから誤字とかがひどいんだ。ゆっくり見直させてほしい」

 私はわかったと頷いた。それと同時に早く続きが読める日が来ることを祈った。なんて言ったって私は彼のファン第一号なのだから。

 先に紅茶とコーヒーが運ばれ、その後に私のパフェが二本のスプーンと共に運ばれてきた。パンケーキはもう少し時間が掛かるらしい。私が目をキラキラさせながらパフェの写真を撮り、さらに、こっそり彼にばれないように彼の写真も撮ると、その様子を見ていた彼は言った。

「先に食べてていいよ。アイス溶けちゃうだろうし」

 ならばお言葉に甘えよう。私はテーブルの真ん中にパフェを移動させ、彼にもスプーンを渡した。

「ん? 一人で食べないの?」

「食べれるけど、一緒に食べたほうが美味しいかなと思って、だから君さえよければ一緒に食べよ」

「ありがとう。いただくとするよ」

 パンケーキが来るまではさらに五分ほどかかったが、その間に私達は二人で一つのパフェをたいらげていた。互いに飲み物を飲み、一息ついたところでパンケーキがきた。

「すみません、やっぱり取り皿貰えますか?」

 申し訳なさそうにそういう彼の姿がなんだかいつもの雰囲気とかけ離れていて新鮮だった。

「まさか、パンケーキ来るまでの間にパフェなくなるなんて思ってなかった」

「二人ともすごい勢いで食べたもんね。それにしても美味しかったなあ。パンケーキも美味しそう」

 見るからにふわふわで美味しそうなパンケーキが二枚、皿の上に並べられていた。彼は取り皿を受け取ると、綺麗に一枚だけ持ち上げて取り皿に移した。

「これ、シロップ? 好きなだけかけちゃって」

「わかった」

 私は半分ほどの量のシロップを自分の分にかけて残りは彼の分にかけた。その後にナイフとフォークを持って一口大にパンケーキを切り、口に運ぶ。美味しい。口に入れた瞬間とろけるような甘みが口いっぱいに広がって幸せだった。

 両方のほっぺたを手で押さえて身体を揺すり、全身で美味しさを表現する私のことを彼は笑いながら見ていた。ああ、幸せだ。この時間が一生続けばいいのにとすら思う。

 食べ終わってからも、しばらく味の余韻に浸っていた。本当に美味しかった。

「美味しかったね」

 彼はコーヒーを飲みながら頷いた。彼はとても和んだ表情を浮かべている。飲み物を飲み終えた頃、そろそろ次に行こうとなり会計を済ませて店を出た。

「次の所まで十五分くらい歩くんだけど平気?」

「ああ、それくらいの距離なら全然平気だ」

「よかった。それじゃあ出発といきたいところなんだけど、そこに喫煙所あるから一本吸ってから行かない?」

 彼は頷いて喫煙所に向かって歩き出した。私もその後を追うようにしてついていき喫煙所の中に入った。

角の方が空いていたので二人でそこに陣取ってタバコを咥えた。甘い物を食べた後のタバコは美味い。格別と言って差し支えないだろう。ゆっくりとタバコ一本分の時間を互いに無言で過ごした。

 タバコを吸い終え、喫煙所を出ると、今度こそ次の目的地に向かって歩き出した。次はロールアイスだ。

 店は割と人が並んでいた。どうやら何かのアニメとのコラボをやっているらしい。

「どうしよう。こんなに混んでると思わなかった。ロールアイス食べたことなかったから食べたかったなあ……」

 きっと彼は並ぶという選択肢は取らないだろう。楽しみにしてただけに私はショックが隠せなかった。

「並べばいいんだよ。二人で話しながら待てばきっとすぐだよ」

 意外だった。絶対に諦めることになると思っていただけに驚きが隠せなかった。

「いいの? 並ぶの嫌じゃない?」

「いいに決まってる。別に並ぶのも嫌じゃないし」

 そう言いながら彼は鞄の中から水を取り出し、財布から薬を取り出して飲んでいた。

「それ何の薬? 具合悪い? 大丈夫?」

「ん? これ? 幸せになる薬かな。体調とかは大丈夫だから心配いらないよ」

「お、さては、危ない薬だなあ?」

 私の冗談にそうかもしれないと言って彼は笑った。きっとあまり触れられたくないことであることには気づいていた。だから冗談を言ったのだ。彼が無理をしていなければいいのだが、今日の彼はいつもより心の波が穏やかだった。だから大丈夫だと思ってしまった。

 三十分ほど彼と寒い寒いと言いながらお店の外で並んで待っていると、ようやく店内に通された。コールドプレートと呼ばれる鉄板の上で様々なお菓子や果物が液体状になったクリームと共にカチャカチャと混ぜられ薄く延ばされ、そして巻き上げられている。ネットでしか見たことがなかった光景を生で見て私は喜びが隠せなかった。

「ねえ、見て、あれ。凄くない?」

 一人興奮している私が可笑しかったのか彼は優しい笑みを浮かべていた。

「ああ、今まであんなの見たことない」

 店に通されてからも待ち時間が少し続き、待っている間にとメニューを店員さんから渡された。どれもどんな味がするのか想像がつかなかったが、全部美味しそうだった。

「うーん、迷うなあ……」

「僕はもう決めた。これにする」

 そう言って彼が指差したのは私が迷っているもののうちの片方だった。オレオが入っているやつらしい。それなら私はこっちにしよう。私はイチゴが入っているものに決めた。

 丁度何を頼むかを決めたところで順番が回ってきた。

「このオレオのやつと、イチゴのやつ一つずつください」

 まとめて頼み、財布を鞄から出そうとしていると彼が先に二人分の料金を支払った。

「あ、ありがとう。あとでお金払うね」

「それなら次の店で奢ってもらうことにするよ」

 彼らしい提案だなと思った。そうこうしているうちに私達の頼んだロールアイスが作られ始めた。私はそれを動画で撮りながら、凄いと小さく歓声をあげていた。

 完成したロールアイスを受け取りカウンターで二人並んで食べ始めた。今まで食べたことがない味がしたし、不思議な食感だった。でもとても美味しい。来てよかったし、彼が並ぶという選択肢を取ってくれて本当によかった。

「ねえ、君の一口くれないかな?」

「いいよ、好きなだけ食べるといい」

 彼に差し出されたカップから一口分スプーンで掬い取り、口に運ぶと、当然ながら全然違う味がしてとても美味しかった。

「美味しい。君もこっち食べてみて」

 私の分を差し出すと彼は迷うことなくそれを食べた。とても美味しそうに目を細める彼の姿が印象的だった。幸せだった。

 二人ともすぐに食べ終え、その味の余韻に浸っているときにロールアイスの写真を撮るのを忘れていたことに気づいた。そしてそれと同時に一個の欲が湧いてきた。彼と一緒に写真が撮りたかった。

「そうだ、丁度こうして横に並んでることだし、一緒に写真撮ろうよ」

 彼は無言で頷いた。私はスマホを縦に持ち、彼に寄り掛かるように彼との距離を縮めた。

「なんか近くない?」

「これくらいが普通だよ」

「そういうものなのか」

「そういうものなんだよ。ほら笑顔笑顔」

 そうしてシャッターを何回か切った。傍から見たらカップルのように映るだろう。彼の笑顔はどこかぎこちなかったが、それでもそこからは幸せそうな感情が伝わってきた。

「さ、ゆっくりしたいところだけど次のお店に移動しようか。次はティラミスだよ」

 最初に言ったカフェがあった駅まで戻り、そこから電車に乗る。そしていつものカフェの最寄り駅で降りた。

「次行くところティラミスの専門店らしいんだけど、私、調べるまでこんなに近くにあるなんて知らなかったんだ」

「近いところの方が気付きにくいことはよくあるよ。僕も知らなかったし」

 駅から徒歩五分くらいの所にそのお店はあった。店内は少し混んでいたが、丁度空いている席が一席あり、待ち時間もなくすぐに通された。

「ラッキーだね。それよりティラミス楽しみだなあ。私、ティラミス大好きなんだ」

「僕も好きだ」

 なぜか私はその言葉にドキッとしてしまった。私に向けられてはいないはずの言葉が、私に向いているような気がしてしまったのだ。内心ドキドキして照れている私のことを彼は不思議そうに見ていた。

「どうしたの?」

「ううん、なんでもない。それより早く注文しよ。すみませーん」

 声を掛けると店員さんはすぐにきた。

「ティラミスを二つください」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 幼い子供の様にうきうきとしながら私はティラミスが運ばれてくるのを待っていた。彼はなぜか少しそわそわしていた。店内のおしゃれな雰囲気にのまれているのだろうか? 私はその様子を彼のことを観察するようにじっくりと眺めていた。今の彼の心はいつもと違い、穏やかで、優しくて、安心しているようだった。

 私はなんとなく店内を見回してみたら、女性二人組に次いでカップルが多いことに気づいた。まるで私達もそうみたいだ。不思議な気持ちになっているとティラミスが運ばれてきた。

「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」

 私は目をキラキラさせながら今度は忘れないようにティラミスの写真を撮り、すぐさまスプーンで掬って大きく頬張った。美味しさと幸せの心地の良い暴力を浴びているようだった。

「美味しいね」

「ああ、久しぶりに食べたけど、やっぱり美味い。最高だ」

 彼は嬉しそうだった。

「知ってる? ティラミスってお酒と相性良いんだよ」

「知らなかったな。今度やってみるよ」

「そのときは一緒に試そうね」

 彼は頷いた。

 ティラミスはすぐになくなった。少しゆっくりしたかったが、他のお客さんが並んでいるのを見て、それはやめた。

「ちょっと早いけど移動しようか。次はいつものカフェでワッフルを食べます。ちなみに私はお腹が一杯です」

 彼は声をあげて笑った。初めて彼のその姿を見た。こんな風に笑うのか。

「お腹一杯なのにまだ食べるのか。最高に頭悪いね」

「スイーツは別腹なんですー」

「じゃあ、今日はずっと別腹だ」

 そういうことと頷き、伝票を持ってカウンターに向かった。ここでのお会計は私の役目だ。

「お願いします」

「お会計、千円です」

 なぜかメニューに載っている値段よりも安かった。どうしてだろうか。

「なんか、安くないですか? 大丈夫ですか?」

「はい。ただ今カップル様限定で割引をやっているんです」

 そういうことか。本当は違うけど、なんだかカップルという響きが気に入ってそのままにしておくことにした。

「そうなんですね。丁度でお願いします。ご馳走様でした。美味しかったです」

 また彼とここに来よう。そう思った。

 店を出ると彼はすぐにタバコに火をつけようとした。私はその姿を見て自分もとタバコに火をつけた。二人並んでゆっくりとタバコを吸いながら最後の目的地へと歩いていた。丁度着いたところでタバコを吸い終え、二人仲良くポイ捨てをしてから建物の中へと入る。

 いつものカフェで顔馴染みの店員さんに挨拶をしてから席に案内された。広いテーブル席で彼と向かい合って座る。

「失礼します。お二人ともいつものでよろしいですか?」

「あ、今日はメニュー見させてもらってもいいですか? ワッフル食べたくて」

「かしこまりました。ご注文お決まりの頃お伺いします」

 メニューを受け取り、中を見ると、ワッフルの写真が載っていた。私は頼みたいものがすぐに決まったが、問題が一つあった。

「どうしよう。私全部食べ切れる気がしない」

「奇遇だね、僕もだよ。二人で一つ頼んで半分こしようか。どれ食べたい?」

「私これ食べたいんだけど、君は?」

「僕もそれが良いと思っていたところだよ。それにしよう」

 気を使ってくれているのか、それとも本当に意見が一致していたのかはわからない。でもわからないままでいいと思った。

「ご注文お決まりですか?」

「このワッフルと、紅茶ホットとコーヒーブラックでお願いします。あと、取り皿もください」

「かしこまりました」

 今日は色々回ったが、やはりいつも来ているここが一番落ち着くし安心感がある。彼も同じことを感じているのだろう。どこかリラックスした様子だった。

「そうだ、君の小説、どんな感じで完成したの?」

「内緒」

「ええ、それくらいいいじゃん」

 けれど彼は首を横に振った。

「知らない方がいいこともあるんだよ」

 意味深な言い方だった。何か他の意味が込められているような、そんな言い方。私はどこか彼が遠く感じてしまった。こんなにも近くにいるのになぜだか彼は突然遠くにいったように感じた。

「お、きたみたいだよ」

 何のことかわからず、彼の視線の先を追うと店員さんがこちらの席に向かってきていた。

「お待たせしました。こちら紅茶のホットとコーヒーのブラックとイチゴとホワイトチョコのワッフルになります。ごゆっくりどうぞ」

 初めてこのお店に来てから私は紅茶しか頼んだことがなかった。だから存在は知っていても実物を間近で見るとこんなにも美味しそうなのかと感動していた。

「写真撮る?」

 彼はそう言いながら私の方に写真写りがいいように皿を回した。

「撮る! ありがとう」

 私が写真を撮り終えたのを見て彼は丁寧にワッフルを半分取り皿に移した。

「じゃ、食べよっか」

 私は頷き一口食べた。美味しかった。今日食べたどのスイーツよりも美味しかった。

「私、より一層このカフェ好きになりそう」

「わかる気がする。こんなに美味しいものがあるなんて思わなかった」

 そこからは互いに無言でワッフルを食べた。幸せそうに笑顔を零す彼の姿が印象的だった。

 食べ終わり、満腹になった身体を休めながらゆっくりとその余韻に浸り、彼と話をした。

「そういえば、私たちが出会ったのもこのカフェだったね」

「そうだね。一年くらい前かな? いつもこの人いるなって思ってた」

「そんな前からかあ。長いような短いような。君とこうして話すようになってからもそんなに時間経ってないのに、ずっと前から一緒にいる気がする」

「きっとずっと前から一緒にいたんだよ。互いのことを認識しだしたときからずっと」

 私はそれが嬉しかった。短くて濃い思い出が私と彼の間を満たし、意識する前からの記憶がそれを際立たせた。

「私、君に声かけてよかったなあ。こうして君に触れて、一緒に時間を過ごしているのがすごい幸せなの」

「それはよかった。僕も君に出会えてよかったと思っているよ」

『だからさ、よかったら私と付き合わない?』

 その言葉は発せられることもなく消えていった。彼の心が大きく揺らいでいた。それは泣いているようにも怯えているようにも見えた。どうして、どうして今その感情が出てくるのか、私には理解ができなかった。それと同時に彼の言葉を信じることもできなかった。しかし、それに触れることは私にはできなかった。触れてしまえばきっと、彼を傷つける気がしたのだ。だから私は彼の言葉を無理やり自分に信じ込ませた。

「ねえ、君は今、幸せ?」

 少し彼は考え込むように黙り込んだ。その沈黙はどこか重たかった。そしてその間、彼の心は揺らぎ続けていた。

「ああ、幸せだよ。こうして君といられる時間は僕にとってかけがえのないものだ。だから、ありがとう」

 はっきりとわかることがあった。その言葉は半分は本当で、もう半分は嘘だということが。彼は泣きながら笑っていた。私はその涙をどうにかして拭ってあげたかった。

「ふふ、私もだよ。こちらこそありがとう」

 私はそう答えることしかできなかった。彼に触れることが怖かったんじゃない。彼が壊れてしまうのが怖かった。きっと彼は今相当な無理をしている。それくらい心の揺らぎが大きいのだ。普通の人なら軽くパニックを起こしても不思議ではない。もう少し一緒にいたかったが、今日はここまでにしよう。

「そろそろいい時間だし、ここら辺で解散にしようか。本当はこの後飲みに行きたかったけど、お腹一杯だしね」

 彼はどこか寂しそうな顔で縋るような目で私を見ていた。

「もう少し、時間くれないかな? 行きつけのバーがあるんだ。一杯だけでいい、付き合ってくれないかな?」

 私にそれを断る理由などなかった。私は頷き、彼と共にカフェを出た。

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