6、愛の果て

『助けてほしい』

 昨日春香君は確かにそう言った。その言葉が本当であれ偽りであれ、私は彼の力になってみせる。今度は礼香のときのようには絶対にさせない。換気扇の下でタバコを吸いながら私は小さな覚悟を決めた。

 私はどうしたら彼の力に、支えに、味方になれるのだろうか? これまで通りに接するのがいいのか、それともこれまでとは何か違ったことをした方がいいのか、私にはわからなかった。心が見えると言っても、その特性を活かして何かをしたことは、できたことは一度だってないのだ。

 そもそも、私なんかが彼のためにできることなどあるのだろうか? 親友を死なせて、ただ泣くことしかできなかった私にできることなどありはしないのではないだろうか? いけない。そんなこと考えていてはいけない。私は首を横に振り、たった今疑問に思ったことを振り払った。

 まずは彼のことについてもっと知る必要がある。彼の現状について、彼の過去について、彼の心について。

 私はタバコを吸い終えると、彼から送ってもらった物語のファイルを開いた。彼の記憶の原液とも呼べる物語を私は改めて読み返すことにした。

 十万字以上にもわたって書かれている彼の物語の内容は、お世辞にも明るいものとは呼べなかった。とても、とても暗く、深く、読んでいるこちらですら精神が崩壊してしまうのではないかというほど絶望に溢れていた。

 物語は彼が高校一年生のときから始まる。華やかであるはずの期待と希望に満ちた高校生活の始まりはあっけなく崩れ去り、それは地獄が始まる合図でもあった。指導者から受ける壮絶な精神的ないじめ。それに反発し、標的にされ殺された尊敬する先輩、壊れた先輩。何とかして見返そうと足掻く姿。仲間の損失。居場所を奪われること。他人と比較され続け、当てつけのように自身の不出来を自覚させられること。同じスタートラインに立っていたはずの他の人達が何不自由なく進み続ける中、自分一人だけが一歩たりとも進むことが許されないこと。一番の味方だと思っていた人からの手酷い裏切り。ようやく地獄から逃げ出せたと思ったら、その地獄が落とした影に蝕まれて苦しむこと。どれもこれも、この世の中のどうしようもない理不尽を凝縮させたようなものだった。ここまで人間とは残酷な生き物になれるのかと驚いたのが正直なところ初めてこの物語を読んだときに一番最初に思ったことだった。

 ここまでされてよく彼はまだ生きていられるなというのが読み終わって真っ先に思ったことだった。あそこまで酷い心の傷は見たことがなかった。あまり傷の深さを比較するのはよくないとは思うが、礼香ですらあそこまで深い傷は負っていなかった。

 私は今までいろんな人の心を見てきた。幸せな人の心、不幸な人の心、傷ついた人の心、泣いている人の心、他にもいろんな心の形を見てきた。そのどれもが時間が経てば元の正常なフラットな形に戻るのだ。しかし、彼は違った。初めてカフェで彼を見かけたときからずっと、彼は血の涙を流し、虚ろな目で笑い、泣き、怒り、すべてを諦めたような、今すぐにでもその場で死んでしまうのではないかと思うような、そんな心をしていた。

 一度も話したことのない相手に興味を抱くのも変な話だが、私は彼のことを知りたくなった。何が彼の心をあんな形にさせるのか、なぜ彼はあそこまで深い傷を負いながらも生き続けているのか、私は彼を始めて見かけたときからずっと知りたかった。

 彼と初めて話したときから思っていることがある。彼は心の動きが激しい人だった。少しのことで彼の心は揺れ動き、大きく変化し続けていた。しかし、それとは裏腹に、彼の言葉はすべて淡々としていた。心が見えていなければ、彼は感情が希薄な人だと錯覚してしまうほどに。それが余計に彼のことをわからなくさせた。

 色々考えているとスマホから着信音が鳴った。彼からだった。

『昨日は迷惑かけてごめん』

 迷惑だなんてこれっぽっちも思っていない。それにしても、昨日の彼はいつもより心の動きが激しかった。それに途中から変な動き方をしていた。それと同時に彼はまるで幼い子供の様に何かに怯えだした。

『全然気にしないで。明日会える? また飲み行きたいな』

 返信して五分もしないうちに彼からの返事が来た。

『ありがとう。会えるよ。いつものカフェで待ち合わせしよう』

 これで明日も彼に会える。彼は今どうしているのだろうか? 何をして、何を感じているのだろうか? 物語の続きを書いているのだろうか? 私は彼の物語の完成したところを見たい。けれど、彼にとってはきっと言葉を紡ぐことはある種の自傷行為と同じくらい、精神的には辛いものだろうとも思う。それと、一つ気になることがある。彼は小説を書いていることに対して記憶の整理と言った。そして彼は、地獄のような日々を形にしている。なぜ自らそんなことをするのか私にはわからなかった。整理するような記憶ではないと思うのだ。むしろ、一番離れたところに遠ざけて見ないようにするのが一番いいと思う。しかし、彼はその記憶を一番近くに置き、味わい続けている。

 私には正解がわからない。だから私は何かを頼る。礼香が自殺した後、悲しみのどん底にいた私を引き上げてくれた小説に私は手を伸ばした。それは『愛がない』だった。

 この小説には相手のためにできうる最大の選択肢がたくさん綴られている。それはどれも愛に溢れ、けれども根底にあるのは深い絶望感だった。私は不幸の中にある小さな幸せを見るのが好きだった。私と過ごす彼の時間がそういうものであればいいと私は心から思う。

 小説を読み終える頃には夜は更けており、シャワーを浴びて眠りについた。明日は彼に会える。


 春香君より先にカフェに着いた。店員さんに待ち合わせだと伝え、広いテーブル席を案内してもらい、紅茶を頼んで彼の物語を読みながら彼のことを待つ。三十分ほど経った頃に彼は来た。

「ごめん、待たせちゃったかな?」

「気にしないで、君と過ごす時間も好きだけど、私一人でゆっくりするのも好きだから」

「ならよかった」

 そう言いながら彼は席に座ってコーヒーを頼み、リュックの中からパソコンを取り出して開いた。一分ほど沈黙が続くと、私のスマホが震えた。見てみると彼からだった。続きが書けたのだろう。新しいファイルが送られてきていた。

「ありがとう。読ませてもらうね」

「ああ、そうしてくれ」

 そこから互いに無言でそれぞれの世界に入り込んだ。恐らく彼は自身の記憶に、私は彼の物語に。

 彼から送られてきた続きは、一昨日の私との出来事が書かれていた。そこで初めて、彼がそのとき何を考えていたのか、何を感じていたのかを詳しく知れた。そして、彼が本当は何を言おうとしていたのかも知った。彼は実際には口にしなかったが、物語の中では口にし、女性を、私のことを突き放していた。

 彼は自身の身に実際に起こったことしか書けないと言っていた。何か変化があったのだろうか? 彼は実際に起こらなかったことについて書いている。些細なことかもしれないが、何か特別なことのようにも感じる。

 続きをすべて読み終わり、顔をあげると、彼もそれに気づいて顔をあげた。

「読み終わったよ。なんか、不思議な気持ちになった。それより、聞きたいんだけど、どうして最後の部分この書き方にしたの?」

「ただの気まぐれだよ。現実とは違うことを書きたくなっただけさ」

 本当にそれだけだろうか? だけどこれ以上聞いても彼は答えてくれない気がした。だから私は話題を少しずらした。

「続きどれくらいかけた?」

「まあまあって感じかな。ここから先は僕の身に起こったことじゃない。起こるかもしれなかったもしもの話だ」

「それは楽しみだなあ。ねえ、どんな感じにするのかとか聞いてもいい?」

 彼は首を横に振った。

「ネタバレになるよ。だから教えてあげない」

「そっかあ、残念。でもいいか。この先読ませてもらえるしね」

「そういうこと」

 そう言って彼は微笑んだ。しかし依然として彼の目からは血の涙が流れていた。

「さ、そろそろいい時間だし、酒飲みに行こ」

 わかったと頷き、彼と共にカフェを出た。

 外は軽く雪が降っていた。それは太陽の代わりに出た月の明かりに照らされて輝いていた。

「私、冬の夜って好きなんだよね」

「僕もだ。寒さの中に僕を絶対に一人にしないっていうあたたかさがある。それに寒ければ寒いほどタバコが美味くなる」

 彼はタバコを咥えながら言い、慣れた手つきで火をつけ、その煙を深く吸い込み、吐き出した。

「路上喫煙禁止ってあそこにポスター貼られてるけど……」

「僕には読めない文字だな」

 私は一応注意はした。それにしてもタバコの煙にも影は落ちるのだなと、彼が吐きだした煙に街灯の明かりが落とした影を見て新しい発見をした。そう思っているともう一本目を吸い終えたらしく、彼は少し前にタバコの吸い殻を投げ捨て、そしてその火を踏み消した。

「ちょっと、ポイ捨ても禁止だよ?」

「知らない単語だな」

 私はそのやり取りがなんだか可笑しくて笑ってしまった。彼もそれを見て笑っていた。このとき一瞬だけ、彼の目から流れる血の涙が止まって見えた。

 店に着くとそれぞれお酒を注文し、運ばれてくるまでの間に二人でタバコを吸ってゆっくりとしていた。

「君の吸ってるタバコ、どんな味するの?」

「ん、これ? タバコの味の表現は難しいな」

 私は自分の持っているタバコのソフトケースから一本抜き取り、彼に差し出した。

「私の一本あげるから君のタバコ一本頂戴。交換しよ?」

 彼はテーブルに置かれていたソフトケースから私と同じように一本抜き取り私に差し出した。

「タールもニコチンもそれより重たいから、大丈夫だとは思うけど一応注意して吸ってね」

「わかった。ありがとう」

 私は今吸っているものがなくなるとすぐに彼から貰ったものに火をつけた。確かに重たかった。喉に引っ掛かる感じがいつもより強い。そんなことを思っているとお酒が運ばれてきた。乾杯し一口飲むと彼は口を開いた。

「どう? 重たいでしょ?」

「うん。重い。でもこれ美味しいね」

 彼はもちろんだと頷いた。そこから何か食べ物を頼もうということになり、私はカツオのお刺身を、彼は舞茸の天ぷらを頼んだ。彼はいつも舞茸の天ぷらを頼んでいる。

「いつも舞茸だね。そんなに好きなの?」

「ああ、あれが一番美味い」

 なぜか彼らしいなと思った。そこからまた会話はなく無言だった。でも重く苦しい沈黙ではい。優しく包み込むような沈黙だった。

 私は彼について聞きたいことや知りたいことがたくさんあった。昨日まではそれについて今日聞こうと思っていた。しかし、こうして彼と一緒にいると、それについて聞くのは野暮だと思った。彼と一緒に沈黙を味わうだけで十分なような気がしたのだ。

 彼は今何を感じているのだろう? 私と同じようなことを感じているのだろうか? 気になったが彼の心は血の涙に隠れて何も見えてこなかった。

 料理が運ばれてくるまでその沈黙は続いた。運ばれてきた料理に早速箸をつけ、それを味わった。

「うん、美味しい。私、美味しいもの食べてる時が一番幸せかもしれない」

「僕もそう思うよ。原始的な欲を満たせる瞬間はそれが何であれ幸せだ」

 面白い言い回しだ。私は微笑んだ。

「ねえ、他に幸せを感じる瞬間ってある?」

「どうなんだろう。あるのかもしれないし、ないのかもしれない。僕にはそこら辺はよくわからないな」

「じゃあさ、こうして私と飲みに来るのは? 楽しい? 幸せ?」

 彼は考え込むように黙り込んだ。困惑しているようだった。

「ああ、少なくともこうして君と一緒に過ごしている時間は楽しいし、幸せだと思うよ」

 やっぱり、どこか他人事のように聞こえる。淡々とし過ぎているのだ。当事者意識が薄いというべきか、彼の言葉は重たいはずなのに軽く感じてしまう。

「他の人と一緒にいるときは?」

「他にこうして会うような相手は今はいないよ。普段は独りぼっちだからね」

「今はってことは少し前まではいたってこと?」

「いたよ。一人だけね。小学校から付き合いのある奴が一人いたんだ。もう友達なんて呼ぶ資格は僕にはないけどね」

 初めて聞く話だった。私はそれについて知りたくなった。

「その人ってどんな人だった? どうして友達って呼べなくなったの?」

「面白い奴だったよ。僕なんかと違ってクラスの人気者って感じの奴だった。人の間合いに入るのがとにかく上手いんだ。だから、僕ともずっと仲良くしてくれてた」

「何かあったの?」

「関係が変わったんだ。僕が精神科に通っていることを打ち明けた瞬間から、はっきりと線引きがされた。友達から心配するべき相手に変わったんだ。今でも『生きてる?』って生存確認の連絡が来る。僕はそれを迷惑だとしか思わない。折角の数少ない友人の心配を無下にしているんだ。そんな僕がそいつのことを友達なんて呼ぶ資格はないよ」

 そう話す彼の心は悲しみが溢れていた。きっととても大事な友達だったのだろう。それを他でもない自分の手で突き放さなくてはいけなくなったのだ。そんなの普通の人じゃ耐えられることじゃない。

「私は変わらないよ。君のよき友人であり続けるよ」

 彼は首を横に振った。

「駄目だよ。こんなのと付き合い続けちゃ。身体に毒だ」

「そんなことない。私は君とこうして過ごせている時間が好きだもの。それに私は君に興味しかない」

 彼はそうかとだけ言って酒を飲み干して新しいものを注文し、タバコに火をつけた。その姿はどこか危うく見えた。少し触れただけで崩れ落ちてしまいそうな、そんな危うさだった。

「それに、その友達も多分だけど何も変わっていないと思うよ。友達だから心配になるの。仲がいいから気に掛けるの」

「わかっているつもりだよ。それでも僕はそれに耐えられなかった。結局は全部僕の問題なんだよ」

 やっぱりだ。礼香もそうだったが、彼も他人に決して弱さを見せようとしない。それが自分の首を絞めるだけだと他でもない本人が気づいているはずなのに。

「何がそんなに怖いの?」

「何も怖くないさ。いや、こんなこと言っても無駄なのか。全部だ。僕はこの世のすべてが怖い。何より自分が傷つくことが一番怖い。他人に触れすぎると必ず僕は傷つくことになる。僕はそれが嫌だ」

 彼がそんなことを言うのは、日常的に人の悪意に触れ続けてきたからだろう。彼との会話が面会室のガラス越しのように聞こえるのは、彼が自分が傷つかないよう壁を立てて距離を置いているからなのだろう。

「私のことも怖い?」

 彼はゆっくりと頷いた。

「ああ、怖いさ。ゆっくりと、でも確実に僕の中に入り込んできているんだ。怖いに決まっている」

「私は君に約束する。私は君を傷つけるようなことはしない」

「そんなに気を使ってもらわなくてもいいよ」

 そう言って彼は微笑みながらタバコの火を消した。

「あまり気を使われ過ぎると、ただでさえ惨めな自分がより一層惨めに感じられるんだ。だから、あまり気を使ってくれなくていい」

「わかった」

 それを聞いた彼の心は一瞬だがどこか安心したように見えた。

「ありがとう」

 運ばれてきたお酒に口をつけ、新しいタバコに火をつけると彼はどこか満足そうにしていた。

「もう少しで完成するんだ」

 突然変わった話題に私はついていけなかった。

「何が完成するの?」

「僕の書いてる駄作だよ。ようやく終わりが見えてきたんだ」

「それは楽しみだなあ。早く続きが読みたくてうずうずしてるよ」

「そんなにいいものじゃない。それで少し提案なんだけど、完成するまでしばらくは続きが書けてもファイルを送らないで溜めさせてほしいんだ」

 どうしてそんな提案をしてきたのか私にはわからなかったが、きっと彼なりの意図があるのだろう。私はわかったと頷いてみせた。

「早く完成させてね。楽しみにしてるから」

「善処するよ」

 笑いあっていると今日で一番穏やかな表情を彼はみせた。そして、今日の終わりの時間も近づいてきていた。

「さあ、今日はこのくらいで十分だろう。お会計貰おう」

「わかった」

 私は少し寂しかった。もう今日が終わってしまうのか。今日が終わってしまえば、小説を直接読ませてもらっている今のこの関係ではしばらく彼に会えなくなってしまうのではないだろうか? そんな疑問が私の頭の中に浮かんだ。

 会計を済ませてお店を出て駅まで彼に送ってもらう。その間、今までは基本無言だった。しかし、今日は何かを話したいという思いが溢れていた。けれど話題なんて何も思いつかなかった。

 彼が当たり前のようにタバコに火をつけているのを見ていると私も同じことがしたくなった。鞄からソフトケースを取り出してタバコを取り出して咥え、火をつける。その一連の動作を彼はじっと見ていた。

「誰だっけ? さっき僕に路上喫煙注意してきた人は」

「何のこと? 記憶にないなあ。それに君も吸ってるから共犯だよ?」

「はは、それはいい」

 彼は実に愉快そうに笑った。実際にそう感じていたのだろう。彼の心はそう見えた。

「そうだ、明日も時間ある?」

 彼は突然聞いてきた。

「あるよ。どうかした?」

「いや、もしよければなんだけど、一緒に作業できないかなと思って」

 私は嬉しかった。私は何度も頷いてみせた。

「勿論だよ」

「あと、欲を言うなら飲みまでセットがいいんだけどどう?」

「いいに決まってる」

「それはよかった」

 そう言って彼がタバコを捨てたのを見て、私も同じように吸い終わったタバコを捨てた。

「誰だっけ? ポイ捨て禁止って言ってたの」

「何それ、初めて聞いたなあ」

 そんなくだらないやり取りをしていると駅に着いた。

「送ってくれてありがとう。それじゃあ、おやすみ。また明日」

「ああ、また明日」

 私は彼に手を振ってから改札を抜けた。また明日も彼に会える。それだけで十分すぎるくらい明日が楽しみだった。そして彼も同じことを思ってくれていれば嬉しいとも思う。


カーテンから零れた陽射しで目を覚ました。どうやら今日は晴れらしい。私の嫌いな天気だった。どうしても礼香と最後に過ごした日のことを思い出してしまうのだ。私の好きな天気は雨や雪みたいな、どこか薄暗い空気のものだった。

 起きてしばらくの間ベッドの中でスマホをいじって過ごし、二時間ほど経ってから出かける準備をし始めた。服を着替え、化粧をし、髪の毛をセットする。そしてリュックの中に必要な物をいくつか入れて家を出た。

 今日はカフェに行く前に大学に用事があった。研究室に置きっぱなしにしていた荷物を取りに行かねばならなかったのだ。大学に着くと研究室が入っている建物ではなく、真っ先に喫煙所に向かった。しかし、喫煙所の扉には張り紙がされ、扉は開かなかった。

『年内をもって学内の喫煙所を廃止します』

 迷惑な話だった。私が大学に来ない間に喫煙所が潰されるとは、喫煙者の肩身が狭すぎるではないか。

 タバコを諦め、研究室に寄って荷物をまとめ、同じ研究室の人達と軽く世間話をしてから研究室を出て、大学を後にした。次に来るのはいつになるだろうか? 特別用事がなければもう来る気はなかった。

 電車に乗ろうかとも思ったが、カフェが隣駅なのもあって歩いて行ける距離だったため、タバコを吸いながら歩いて行くことにした。

 そうして五分ほど歩いたとき路地から私と同じようなタバコを片手に歩いている男性が現れた。春香君だった。彼は驚いたような顔をしていた。

「わ、偶然。君、住んでるところこの辺りなの?」

「ああ、すぐそこのアパートだ。そっちも?」

「ううん、大学がこの近くなの。今日ちょっと大学に用事あったから大学寄ってから行こうと思ったんだ」

 彼はそうかと言って煙を空に向かって吐き出した。

「ここら辺の大学ってことは、僕が辞めた大学と同じ所か。学部は?」

「え、そうなの? 学部はね、私は文学部だよ。君は?」

「僕は理学部だった」

 まさか同じ大学とは思ってもいなかった。きっと巡り合わせというやつなのだろう。

 しばらく無言で彼の隣を歩いていたが、今日の彼はタバコの吸い方が荒かった。すぐに吸い終え、間髪入れずに次の物を咥えていた。どこか苛立っているような、けれども不安そうに見えた。

「タバコの吸い方、荒いね、何かあった?」

「何もない。晴れているのが嫌いなだけ」

「私と一緒だね」

 ただでさえ太陽の陽射しは鬱陶しいほど眩しいのに、真冬の雪が一面積もった状態だと、雪の白に太陽の陽射しが反射してより一層その鬱陶しさを増すのだ。

「どうして晴れてるのが嫌いなのか聞いてもいい?」

「単純な話だよ。日の光を浴びていると自分が惨めに感じるからだ」

「なんか、わかる気がする」

 私も礼香のために何もできなかったことへの負い目を感じるから、どこか共感できるところがあった。

 お互いにタバコに頼ってどうにか凶悪な陽射しに耐え抜いた。これで日が暮れるまでカフェにいればもう日差しを浴びずに済む。

「毎日雪が降ればいいのになあ」

「気持ちはわかるけど、雪かきが大変だよ」

 笑いあいながらカフェに入り、席について飲み物を頼んだ。彼がパソコンを取り出すのを見て、私もパソコンを取り出した。

「なんか作業するの?」

「うん。今度卒論の発表会あるからその準備しなきゃいけないんだ」

「楽しそうな作業だな」

 彼は意地悪そうに言った。私はそのやり取りが可笑しくてしょうがなかった。微笑む私を見て彼も微笑み返してくれた。

 そこから、互いに作業を進め、一段落着いた頃には三時間ほどが経っていた。

「ふう、やっと終わった。そっちは? 進捗の方はどんな感じ?」

「ぼちぼちってところかな。ようやくタイトルの候補が浮かんだところ」

「お、いいね! ちなみにどんなタイトル?」

「内緒」

 彼は悪戯っぽく笑った。

「タイトルくらい教えてくれてもいいじゃん」

「完成するまでのお楽しみってことで」

 彼はパソコンを閉じ、リュックにしまいながら言い、伝票を持って席を立った。

「ちょっと、置いてかないでよ」

「先に会計するだけだからゆっくりでいい」

 彼は財布を取り出しながら、私を置いてレジのあるカウンターの方へと向かっていった。私は急いでパソコンをリュックにしまい、財布を取り出してから席を立った。丁度彼が会計を終えたところだったらしく、自分の分を払おうとしていると、まだお金を払っていないのに店員さんには「ありがとうございました」と言われた。

「いつだったか飲み代奢ってもらった分のお返しだと思ってくれると嬉しいな」

 どうやら彼が奢ってくれたらしい。少し申し訳なさを感じつつも、お言葉に甘えることにした。

「ありがとう」

 いつも通り居酒屋へと向かう途中で私は彼にある提案をした。

「ねえねえ、君って甘い物好き?」

「好きだけど、急に何?」

「今週末さ、一緒にスイーツの食べ歩きでも行かない?」

 ふむと彼は頷いた。

「悪くない提案だね。行こう」

「やった。楽しみにしてる。約束だよ?」

「ああ、約束だ」

 それから居酒屋では他愛もない会話をして普段通り過ごした。

 店を出て駅まで送ってもらい、別れ際に私はもう一度言った。

「週末、約束だからね」

 彼はわかっていると頷いて手を振ってきた。私も手を振り返し、改札を抜けて家へと帰った。彼の心は少し和らいでいるように見えた。これでいい。私があげられるくらいのちっぽけな愛でよければすべて彼のために使おう。きっとそれが彼を救うために必要なのだ。ずっと彼の側にいよう。隣で一緒にタバコを吸って、一緒にお酒を飲んで、彼の記憶に寄り添おう。

「礼香、見てて」

 一人呟く声は部屋の中に残った。私が礼香に向けられなかった想いの分も彼に向けられればきっと彼を最大限の愛で包み込めるはずだ。

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