5、憎悪の果て

「私ね、人の心が見えるの」

 真剣な顔で彼女はそう言った。人の心が見える? 何かの比喩のように聞こえなくもないが、そんな雰囲気を全くと言っていいほど感じない。

「どういうこと?」

「そのままの意味だよ。私には人の心が見える。感情にその動き、とにかく心のすべてが見えているの。私の親友が自殺した話、さっきしたでしょ? 私はそのときから人の心が見えていたの。でも私はそれが何なのかそのときは気づけなかった」

「僕には君が嘘を言っているようには感じない。それに今君が話してくれたことがとても悲しいことなのもわかる」

 にわかには信じがたい話だったが僕はそれをなぜかすんなりと受け入れることができた。これまでの彼女の発言が僕にそれを信じさせたのだ。

「私ね、人の心の傷が見えるの」

 そう言った彼女は僕の顔を見ながら複雑そうな顔をしていた。

「君は不思議な人。怒っているのに泣いている。泣いているのに笑っている。笑っているのに怒っている。ねえ、君は今何を感じているの?」

 様々な形の理不尽に曝され続けた僕の心は面白い形をしているらしい。自分でもその感情の処理が追い付いていない。

「どうなんだろうね。何か感じているのかもしれないし、何も感じていないのかもしれない。君が心が見えるって言うんなら、きっと僕が今感じていることは見えているんだろうね。それは君には泣いているようにも、怒っているようにも、笑っているようにも映っているんだろうね。僕にはわからない。自分が何を感じているのか。何に泣いているのかも、何に怒っているのかも、何に笑っているのかも。どうしようもない現実に泣いているのかもしれないし、身に降りかかった理不尽に怒っているのかもしれないし、もう何もかもどうでもよくなって笑っているのかもしれない」

「どうでもいい。今の君が何を感じていようと私はどうでもいい。それでも一つだけ言わせて。今君が話してくれたことはどれも悲しいことだよ。それに、それを話している君はとても辛そうで苦しそうだった。どうか殺さないで。本当の自分を。君を救えるのは君だけだから」

 僕にはその言葉の意味がわからなかった。彼女が抱えるものが僕にはわからなかった。

「君は私の親友と似た心の形をしている。似た色をしている。そして、親友以上に心の傷が深いの。言葉を、自分を殺さないで。それ以上追い詰めないで」

「不思議な話だ。まるで僕が自殺しようとしているみたいな言い方だな」

「そう、私にはそう見える。それくらい深い傷を君は抱えているから。君はいつも泣いている。乾いた笑顔の裏で血の涙を流し続けている。何がそんなに今の君を傷つけているの? 何がそんなに君を怯えさせて怖がらせているの? どうして君は笑っているの? 私には何もわからない。ねえ、本当の君を私に見せて。力になれるかはわからないけど、味方にならなれるからさ」

 どうして彼女はここまで必死そうに訴えかけてくるのだろうか。何がそこまで彼女を駆り立てるのだろうか。やはり僕にはわからなかった。彼女が抱えていることも、彼女が見ているものも。

「味方なんて必要ないさ。僕は一人で生きていける。それに僕は怯えてなんかいないし、泣いてもいない。いたって正常だ」

「そんなことない。私にはちゃんと見えているもの。君の心が、その傷が、感情が、痛みが、私には見えてる」

 僕は首を横に振った。そして新しいタバコに火をつけゆっくりとその煙を吸い込んだ。

「ねえ、春香君、少し私の話を聞いてくれないかな? 私と自殺した私の親友の話を」

「ああ、気が済むまで話すといい。僕はその話に興味がある」

 彼女は酒を飲み干してからゆっくりと話し始めた。


 蝉の鳴き声が辺りに響き渡る夏、夏休みまであと三日となり、暑い日差しを浴びながら、私と私の親友の灰(はい)島(じま)礼(れい)香(か)は二人で並んで学校の門を出た。

「ねえ、礼香、もう少しで夏休みでしょ? 二人でどこか旅行でも行こうよ」

「いいね、楽しそう。だけど、夏休みはちょっと厳しいかな、多分塾とか家の用事で忙しくなるから」

「えー、それ夏休みって言わないじゃん」

 それもそうだと二人で笑いあっていた。でも何かがおかしかった。礼香は笑っているはずなのに、その顔に映っていたのは、笑顔とは程遠い悲しそうな表情だった。

「礼香、なんだか悲しそう」

「何? 急に。確かに旅行いけないのは残念過ぎるけど、私そんなにショックそうな顔してた?」

 そう言う礼香はさっきまでの悲しそうな表情が嘘かのように不思議そうな表情を浮かべていた。

「ううん、気のせいみたい。でも旅行、行きたかったなあ」

「愛梨って本当に感情が表に出やすいね。すごく残念そう。多分冬休みならいけると思うからさ、そのときに行こうよ」

「絶対だよ! 約束!」

 そうして指切りを交わし、また笑いあった。

 駅につくまでの間、今日学校であったことについてや、気になっている男子の話などで盛り上がり、徒歩で二十分位の時間があっという間に過ぎた。

「じゃあ、愛梨、また明日。ばいばい」

「うん、また明日」

 私は改札を抜け、礼香は振り返って駅を出た。そのときだった。別れ際の礼香の表情が一瞬曇って見えた。今にも泣きだしてしまいそうに見えたのだ。

「礼香、大丈夫かな?」

 私は不思議に思いつつも、多分大丈夫だろうと気にせずにいた。

 次の日、礼香は学校を休んだ。先生が言うには体調不良らしい。昨日までは元気そうだったのに、大丈夫だろうか? 帰りに家によってお見舞いに行こう。

 親友のいない学校は普段の日常とは遠くかけ離れ、一時間が三時間にも感じられるほど長く、退屈だった。やっとのことで授業がすべて終わり、帰りのホームルームが終わると、担任の先生から礼香の分のプリントを預かり、足早に学校を出た。

 礼香の家は学校の最寄り駅の近くにあり、テスト期間になるとよく礼香と一緒にそこでテスト勉強をしていた。

 礼香の家に着くと、すぐにインターホンを押して返事を待った。鳴らしてから五秒ほどして返事が来た。

『はい、灰島です』

 出たのは礼香のお母さんだった。

「あ、水上です。礼香のお見舞いと、今日学校で貰ったプリントを持ってきました」

『ああ、少し待っていてね』

 そこで切れ、少し待っていると礼香が出てきた。涙を流しながら。

「愛梨、来てくれてありがとう。上っていって」

 そう言って振り返る礼香の腕を私は無意識に掴んだ。

「待って、礼香、なんで泣いてるの?」

「え? 泣いてなんかないよ?」

 私の方を向いた礼香の顔には涙は流れていなかった。驚いたように、不思議そうにしている礼香の顔がそこにはあった。

「あれ? おかしいな。気のせいみたい。気にしないで」

 戸惑いながらも笑ってごまかし、礼香の家に上がった。

「ちょっと散らかってて部屋汚いから覚悟しといて」

 恥ずかしそうに礼香は言った。私はわかったと笑って返し、礼香の部屋に入るとそこに広がっていた光景は、前回礼香の部屋に入ったときとは全く違っていた。何から説明すればいいのかわからないほどに一から十まで変わっていた。

「なんか、すごい変わったね」

 圧倒されながらそう言った私を礼香は申し訳なさそうに笑いながら見ていた。

「ちょっと、片付けるのめんどくさいなって思ってたらこうなっちゃった」

 礼香の部屋は元々はとても綺麗だった。物は整理され、洋服はすべてクローゼットに収納されていた。しかし、今の礼香の部屋はそれとは全く違っていた。荒れていたのだ。部屋中をひっくり返したのかと思うくらいものが溢れ、そこら中に物や洋服が散乱し、礼香が気に入っていたアニメのフィギュアは首が折れた状態で床に転がっていた。その中で一際異彩を放っていたのが、机の周りだった。そこだけが整えられ、机の上には教科書や問題集がたくさん広げられていた。

「愛梨、驚きすぎ。床、座るところないからベッド座って」

「う、うん。それより礼香、体調は大丈夫なの?」

「もう大丈夫。朝、頭痛がひどくて動けなかったんだ。少し寝たら治ったからもう平気。昼頃から勉強してたくらいだもん」

 おかしい話だった。礼香が自分から勉強をするはずがないのだ。礼香は頭のいい子だったが、勉強は嫌いだった。テスト期間になって嫌々勉強をするような子だったのだ。それなのに自分から勉強をするなんておかしい。

「珍しいね、礼香が自分から勉強するなんて。やっぱり熱あるんじゃない?」

「本当はしたくないんだけどね。親がさ、勉強しろ勉強しろってうるさくて。無理やりやらされてるの。嫌になっちゃう」

 礼香は微笑みながらそう言ったはずだった。しかし、その微笑みはどこか裏に隠れ、表に出ていたのはすべてを諦めたような無気力な表情だった。それは怒っているようにも、泣いているようにも見えた。

「あ、そうだ。これ、はい。今日学校で貰ったプリント。進路希望調査入ってるから、夏休みの間に考えろって先生言ってた」

「ありがとう。進路希望調査って、私たちまだ高二だよ? 早すぎるって。そんなのわかるわけないじゃんね」

「私もそう思う。とりあえず適当に近くの大学でも書いとこうかなって思ってる」

「私もそうしよ」

 そう言ってプリントを机の上に置いた礼香の目線の先には国立の難関大学の名前が入った赤本が置いてあった。礼香はそれを憎々し気に見ていた。

「さ、来てもらったばかりであれだけど、こんな部屋にあんま長居させたくないからそろそろ切り上げよ」

「わかった。部屋ちゃんと片付けなよ? また明日ね」

 玄関まで送ってもらい、私が礼香の家を出るときに見えた礼香は幼い子供が泣いているような表情を浮かべていた。

 夏休み前日、礼香は体調がちゃんと治ったらしく、学校に来た。でもその表情は暗かった。

「礼香、おはよう。体調どう? まだ具合悪い?」

「おはよ。大丈夫。また頭痛が出てきちゃっただけだから。でも授業は受けれそうだから来たんだ。偉いでしょ」

「それ大丈夫って言わないよ。無理しないでね」

 礼香はわかったと頷き、席に座ると丁度先生が来た。

「ホームルーム始めるぞー」

 そこから今日の連絡事項が話された。そして最後に先生は進路希望調査について話した。

「あと、昨日配った進路希望調査だけど、もう持ってきてる奴いたらこの後出してくれ。まだ書けてない奴は夏休み中によく考えろよー」

 ホームルームが終わると数名、進路希望調査を出しに先生のもとに行く人がいた。私はそれに驚いた。もう決まっているのかと。しかし、それ以上に驚いたのが、その数人の中に礼香がいたのだ。

 席に戻ってきた礼香のもとに私は歩いて行き、今感じたばかりの驚きを話した。

「礼香、もう進路希望調査書いたの? 早いね」

「うん、親に見せた瞬間ここにしろって言われたから、とりあえずそこの名前書いといた。本当は行きたくないんだけどね」

「それ、親に言わなかったの?」

「言おうと思ったけど、どうせ言っても無駄だから言わなかった」

「どうして? 礼香のお父さんもお母さんも礼香の考え受け入れてくれそうだけど」

 礼香は間違いを指摘するかのように首を横に振った。

「あの人たちに話は通じないよ。多分愛梨にはわからないと思う」

 どうしてか、私はその突き放したような言葉が悲しかった。でもそれ以上にそれを言った礼香が泣いているように見えた。

「礼香……」

 言いかけたところでチャイムが鳴った。間の悪いことだ。私は言葉を飲み込み、自分の席に戻った。

 授業と授業の合間や昼休みに私が礼香のもとへ行こうとすると、礼香はそれを避けるかのように授業での質問をしに毎回先生の所へと行った。辛そうな顔で。私はそれを気にしながらも見送ることしかできなかった。

 放課後になり、ようやく礼香と話せると思っていたら、担任の先生が礼香を呼び出した。

「灰島、少し話あるんだけど、この後時間大丈夫か?」

「はい、大丈夫です。愛梨ごめん。先帰ってて」

 私は首を横に振った。

「気にしないで、教室で待ってるから」

 礼香は頷くと先生と共に教室から出ていった。いったい何の話だろう? 

 一時間ほどで礼香は教室に戻ってきた。その目は赤く、頬には涙を流した跡のようなものがついていた。

「礼香、大丈夫? 先生になんか言われたの?」

「大丈夫。進路のことでちょっと話しただけだから」

 そう言う礼香の顔は今まで見たことがないくらい暗く、辛そうだった。

「礼香……」

「さ、帰ろっか。待たせてごめんね」

 私の言葉を遮るように礼香は言った。きっとこれ以上触れてほしくないのだろう。私は頷いて鞄を手に持った。

 学校を出ても、私達の間に会話はなかった。重く苦しい沈黙がそこにはあった。辺りにはそれを助長するかのように蝉の耳障りな鳴き声が響き渡り、太陽の陽射しは私達の身体を射抜き続けた。

 無言のまま歩き続け、駅に着き、隣にいる礼香に向き直ったとき、私は絶句してしまった。礼香の目から血の涙が零れていた。それは頬を伝い、ぽたぽたと顎から零れ落ち、溢れ続けていた。しかし、礼香は笑っていた。何が起こっているのか、意味がわからなかった。

「礼香、大丈夫?」

 礼香がその問いに答えることはなかった。その代わりに私の耳に届いたのは私を突き放すような礼香の言葉だった。

「愛梨、愛梨はいいよね。気楽そうで」

「何? 急に。どういうこと?」

「そのままの意味だよ。じゃあね。ばいばい」

 そのまま手を振って礼香は振り返って駅から出ていった。血の涙を流し、笑いながら。私はもう何が何だかわからなくなり、礼香のその腕を掴むこともできなかった。

 礼香の後ろ姿を見送り、私も帰ろうと改札を抜け、電車に乗り、家まで帰る間、礼香の最後の言葉の意味と礼香の浮かべていた表情について考えていた。しかし、何もわからなかった。とりあえずしばらくは会えなくなってしまう。連絡だけでも入れておこうと思い、スマホを開いた。

『礼香、無理しないでね。暇な時間できたら会おう』

 私はそれだけ送り、礼香からの返信を待った。また笑いあいながら話せる日が来るのを待った。

 夏休みの間、私が何度連絡を送ろうと、礼香から返信が来ることは一切なかった。

 夏休みが明け、ようやく礼香に会えると思い、学校に行くと礼香は教室にはいなかった。私が先に来ただけで、すぐに来るだろうと思っていたが、チャイムが鳴っても礼香は現れなかった。

 教室のドアを開け、入ってきた担任の先生は重苦しい雰囲気を漂わせていた。そして、その口から語られたことは、嘘だと思いたいような内容だった。

「落ち着いて聞いてほしい。詳しいことは言えないが、夏休みの間に、灰島が亡くなった」

 は? この人は、こいつは、何を言い出すのだろう? 礼香が死んだ? 何かの聞き間違いか? しかし、私の耳に入ってくる教室の中のざわめきはその可能性を否定した。

私はあまりのショックに言葉も涙も出ず、ただ信じられないと首を横に振ることしかできなかった。そこでぷつりと意識が途切れた。

気がつくと保健室のベッドの上にいた。どうやら気を失っていたらしい。きっとさっきの出来事は夢だ。礼香が死ぬなんてありえない。そう思いこませていると、深刻そうな顔をして担任の先生が保健室に入ってきた。

「水上、気がついたか。お前は灰島と特に仲が良かったもんな。受けるショックもでかいだろう。ゆっくりでいいから、現実を受け入れて前を向いていこう。俺も支えになるから」

「嘘、ですよね? 礼香が死んだなんて、嘘に決まってる。だって、だって……」

 先生は悲しそうに、憐れむように私を見た。それが残酷にも私に現実を叩きつけた。

 ああ、礼香が、死んじゃった……

 そこから私がどうなったのかは覚えていない。また気を失ったのかもしれないし、そのまま荷物をまとめて学校を出たのかもしれない。気がつくと私は礼香の家の前に立っていた。

 私には知る権利がある。礼香の親友として。礼香の死について知る権利がある。

 私は意を決してインターホンを押した。

『はい、灰島です』

「水上です。聞きたいことがあってきました」

『少し待っててください』

 他人行儀な言葉だった。本当に今出たのは礼香のお母さんなのだろうか? 疑問に思っていると玄関の扉が開いた。

「こんにちは。聞きたいことがあってきました。礼香のことについて教えてください」

「……上がってください」

 重い空気の中リビングに通された。礼香のお母さんと向かい合わせにテーブル席に座ると、五分ほど居心地の悪い沈黙が続いた。その沈黙を破ったのは私だった。

「どうして礼香は死んだんですか? 事故ですか?」

 礼香のお母さんは首を横に振った。そしてその重い口を開いた。

「自殺です」

 え? と声に出てしまった。礼香が自殺? なぜ? 意味がわからなかった。

「どうしてですか?」

 その問いに答える代わりに礼香のお母さんは手紙を私に渡してきた。これが答えだといわんばかりの表情で。『愛梨へ』と書かれた手紙だった。

 私はそれを受け取った瞬間に広げた。そこには短い文章が書かれていた。


愛梨へ

 どうして死んだのか疑問に思っているでしょう? でもその答えは知らなくていい。私はあの重荷には耐えられなかった。

私は愛梨に謝らなければいけない。最後の日、酷いこと言ってごめん。連絡ずっと無視してごめん。頼れなくてごめん。どうか私のことは忘れてください。

 愛梨と一緒にいた時間、私にとってはとても楽しかったし、幸せだったよ。

                                      礼香より


 意味がわからなかった。私は睨むように礼香のお母さんを見て聞いた。

「どうして礼香は自殺なんかしたんですか?」

 礼香のお母さんは何も答えなかった。意地でも沈黙を貫こうとするその態度が、私は気に食わなかった。

「礼香が自殺した理由、知っているんですよね? どうして教えてくれないんですか? 私にはそれを知る権利がある。お願いです。教えてください」

「……せいよ」

 何かを小声で言った。

「え?」

「あなたのせいよ!」

 意味がわからなかった。私のせい? 何を言っているんだ? 現状を飲み込めずに狼狽える私に畳みかけるように、礼香のお母さんは激昂しながら怒声をあげた。

「あなたのせいよ! あなたみたいな出来の悪い子とつるんでたから、あの子まで出来の悪い子になったのよ! 私達の娘を返してちょうだい!」

 より一層意味がわからなかった。だが、目の前にいる礼香のお母さんは私に対して憎しみの感情を向けていることは確かだった。

「意味がわかりません。一体どういうことですか?」

「あの子には決められた未来があったのに、あなたなんかに出会ったからあの子は決められた未来を拒んだのよ! そんなの許されるわけがないじゃない!」

 ますます意味がわからなかった。だけどわかることが一つだけあった。礼香が自殺した理由はこの人達だと。決められた未来と言った。それは恐らく礼香の進路のことだろう。そのことで礼香は親と衝突し、否定され、そして追い込まれて死んだのだ。

「礼香は、礼香の人生はあなた達のものじゃない」

「私達のものに決まっているでしょう? 私達の娘なのよ? それをあなたみたいな馬鹿な子に邪魔されて踏みにじられて、そのせいでうちの子は死んだのよ! あなたはそれに対して何も思わないの?」

 本気で言っているらしい。私はその言動が信じられなかった。そして、目の前にいる女に私は軽い憎しみすら覚えた。礼香を殺した本人である女に。

「礼香を殺したのはあなた達でしょう? それなのにすべて私のせい? ふざけないでくださいよ! 礼香を、私の親友を返してください!」

「黙りなさい! あの子を殺したのはあなたよ! もうあなたと同じ空間にいたくもないわ! 帰って頂戴! そして二度と私達の前に、あの子の前に現れないで頂戴!」

 私は家から追い出された。私は悔しかった。礼香に寄り添ってあげられなかったことが。力になってあげられなかったことが。

 私の礼香からの最後の手紙を握りしめる手は震えていた。そして、そこには涙が零れていった。


「これが私と自殺した私の親友の礼香の話」

 彼女から聞かされた話は、要するにひどい教育虐待を受けて親友が追い込まれて自殺したというものだった。やはりどこに行っても、間違った考えを押し付けて他人を壊す素敵な馬鹿は存在するらしい。

「それは自殺って言わないよ。殺人って言うんだ。相手が身内だろうと、身内じゃなかろうと、相手が壊れるまで追い込んだらそれはもう殺人と同じだ」

 僕はタバコに火をつけてゆっくりとそれを吸った。

「僕にも徳野っていう馬鹿に壊された大事な先輩がいたよ。最後に会ったのは死体になった姿だった。殺されたんだ。すべて否定されて追い込まれて死んだんだ」

「やっぱり、君もなんだね。君も残された側の気持ちを知っているんだね」

 僕は違うと首を横に振った。

「残された側の気持ちなんてものは僕にはわからない。僕の中にあったのは深い憎しみだけだ」

「それを残された側の気持ちって言うんだよ。私だって礼香の親のことが憎かった。ううん、今でも憎い。でも私はそれ以上に悔しかった。礼香の支えになれなかったことが」

「その悔しさってやつは僕にとっては知らない感情だな」

 彼女は憐れむように僕を見てタバコを吸っていた。

「君は気づいていないだけだよ。さっきも言ったでしょ? 私、人の心が見えるって」

 どうやら彼女は僕の知らない僕が見えているらしい。悔しさだと? そんな感情とっくの昔に捨てた。だから僕にはそれが何かわからない。それに先輩が死んだときに僕が感じたのは、徳野に対する憎悪と、ああ、やっぱりかというどこか納得に近いものだった。

 僕はタバコの火を消してすぐに新しいものに火をつけた。

「何も特別な感情じゃない。だから僕には残された側の気持ちなんてものはやっぱりわからない」

「君はそう思い込ませているだけ。だって今の君の心はとても揺れているもの。きっとそれは当時の感情を思い出したから」

「どっちにしろ、今更そんなもの知っても意味がない」

 彼女は煙を吐き出しながら心配そうな、悲しそうな顔をしていた。

「どうして?」

「僕も先輩たちや君の親友と同じだからだ。決して治ることのない欠陥があるんだよ」

「欠陥って?」

「いろんなものを奪われているんだ。人としての尊厳や感情、生きる意味とか。だからすべては意味のないことだし、無駄なんだよ」

 すべて奪い尽くされた果てにあるもの、その感情の果てにあるもの、僕にはそれが見えている。だから僕は言葉を紡いでいる。奪われたものを少しでも奪い返すために。

 残された側の気持ち、それしか知らない彼女にとっては理解できないものだろう。だから僕は彼女を突き放さなければならない。また彼女に残された側の気持ちを味わわせないためにも。

「ねえ、愛梨さん、今日でもう終わりにしよう」

 彼女は驚いた顔をしていた。

「終わりって、どういうこと?」

「そのままの意味だよ。今日みたいに会うのも、僕の書いている駄文を読ませるのも、こうして飲みに来るのも全部終わりにしよう」

「嫌だ。君が何と言おうと私はその選択だけは間違ってると思う。これは私のためじゃない。君のため。それをして一番傷つくのは君だもの」

 違う。これは彼女のためだ。僕はタバコの火を消しながら首を横に振った。

「どうしてそんな悲しいことを言うの? 礼香のときもそうだった。血の涙を流して笑いながら突き放してくる。勝手に自分一人で抱え込んで、追い込まれて、どうして頼ってくれないの? どうして言葉を殺すの?」

「そうするしかないからだ」

 彼女が息をのんだのが聞こえた。

「そんなの悲しすぎるよ」

 そう言って彼女は涙を流した。僕にはその言葉の意味もその涙の意味もわからなかった。

 さあ、楽しかった彼女との時間もこれくらいでおしまいでいいだろう。そう思い立ち上がろうとした僕の腕を彼女は力強く掴んだ。

「待って! 行かないで! 君をこのまま一人になんて絶対にさせない! このまま君を一人にしたら、本当に君は礼香と同じになっちゃう。そんなの絶対に嫌!」

 涙ながらに必死に彼女は訴えてくる。どうして僕なんかのためにここまでするのか疑問でしかなかった。

「よく考えてみてほしい。僕は君のことを全く知らない。そんな君に責任なんて負わせられるわけがないだろう?」

「私は、私は君のことを知ってる。君以上に知ってる。だからお願い。そんなこと言わないで」

 スイッチが切れかかっていた。僕は焦りと彼女の言動への困惑の中でいつスイッチが切れるかに怯えていた。そんな僕の心が見えたのだろう。彼女は僕の隣に来た。

「どうしてそんなに怯えているの? さっきまでと違う感情が見える。何がそんなに怖いの?」

「何も怯えてなんかいないさ。何も怖くない。だから――」

『だからその手を放して』

 そう言おうとしたところで僕の中でプツンと音がした。スイッチが完全に切れてしまったのだ。こうなってしまえば僕は僕を守れない。

「春香君? どうしたの? ねえ、春香君!」

 彼女の声が聞こえる。近くにいるはずなのに遠くからその声は聞こえてくる。意識が飛びそうだった。だがここで倒れるわけにはいかない。首を横に大きく振り、どうにかして意識を保とうとするが、視界は歪みだし、音は遠くなり、脈は早く打ち、息は絶え絶えになっていく。ここまでひどいスイッチの切れ方は初めてだった。

 怖い、怖い、怖い……

 もう周りのことなんて見えていなかった。ただひたすらに、何かに対して怯えて恐怖していた。

「……君! ……香君! 春香君!」

 気づくと僕は誰かの腕の中にいた。その誰かは僕の名前を必死に呼びながら僕のことを抱きしめてくれていた。

「だ、れ……?」

 かろうじてでた声だった。

「春香君、もうそれ以上自分で自分を追い込まないで。ここにはもうあなたを苦しめるものはいないから。だから、お願い……」

 誰かは僕のために涙を流しているのだろうか? どうして僕なんかのために泣いているのだろう?

「いいんだ、もうすぐ、僕は死ぬから」

「よくない! 何もよくないよ! このまま死ぬなんてあまりにも悲しすぎるよ……」

「お姉さん、良い人なんだね。僕なんかのために泣いてくれる人なんて今まで一人もいなかったのに」

 段々と気分が落ち着き、現状が理解できてきた。僕が今お姉さんと呼んだのは水上で、僕を必死に抱きしめているのも水上で、僕のために涙を流しているのも水上だった。

「お願い、誰かを、私を頼ってよ……」

 きっと僕のことを死んだ親友と重ねて見ているのだろう。きっと彼女にとっては僕を救うことが親友を救うことになるのだろう。きっと今僕が死ねば彼女はさらに悲しみ、自分を責めるのだろう。けれど、僕には頷くことが、彼女に頼ることができなかった。もう今の僕は誰にも救えない。そう言って彼女を突き放そうと思っていたのに、僕の口から出たのは全く違う言葉だった。

「助けて、ほしい」

 彼女は驚いた顔をしていた。でもそれ以上に僕が驚いていた。

「私にできることなら何でもするから。私は君の味方だよ」

 力強い目で見つめられ彼女の腕の中で僕は頷くことしかできなかった。

 深い深い憎悪の果てには殺意しかないと思っていた。しかし、彼女は僕に愛をくれた。ぬくもりに包まれた憎悪は僕に愛を感じさせた。

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