4、絶望の果て
冬はいい。日が出ている時間が短いから。冷たく澄んだ空気で満たされた冬の夜は心地がいい。
完全に日が落ちた頃、僕はタバコを吸いながら最寄り駅へと向かっていた。先生に会うために。僕にとっての大事なたった一人の味方だった人。
最寄り駅に着くと、今吸っていたタバコを雪山に投げつけた。ジュっという音と共にタバコの火は消え、それを確認してから僕は駅の中に入った。
改札を抜け、丁度来た電車に乗り込むと帰宅ラッシュとはちあってしまい、座ることはおろか、つり革や手すりを掴むことも叶わずスーツ姿のサラリーマンたちの波に揉まれた。
ずっとタバコを吸っていたおかげでタバコの匂いを全身から放つ僕も大概だが、他の乗客たちの様々な種類の体臭が入り混じった狭い空間に吐き気を堪えるのに必死だった。それに、これからのことに対しての極度の緊張感から僕の気分と体調は最悪だった。こんなことなら薬を多く飲んでおくんだったと後悔しながら、目的の駅に早く着くことを願う。
三十分ほど電車に揺られたところで限界が来てしまった。目的の駅に着く二駅手前というところで僕は電車から降りた。口に手を抑えながら、込み上げてくる吐き気をどうにかして堪え、トイレへと駆け込み、何もものが入っていない胃の中から胃液を吐き出した。タバコの熱で焼けるのとは違う種類の痛みが喉を走り、胃はわずかに震えていた。
トイレから出ると自販機で水を買って、非常用にと普段から持ち歩いている薬を飲んで次の電車が来るのを待った。待ち合わせ時間丁度に着くように家を出たのもあって遅刻が確定していた。
僕はポケットからスマホを取り出して先生に電話を掛けた。遅れることを伝えなくてはならない。数コールで先生は電話に出た。
『もしもし? どうした?』
『もしもし、お疲れ様です。すみません、降りる駅間違えちゃって着くのが少し遅れそうです』
わかりやすい嘘だ。降りる駅を間違えるなんてことあるわけがない。なにせ待ち合わせの駅は僕が通っていた高校の最寄り駅なのだから。しかし、先生はそこに関して詮索は一切してこなかった。
『わかった。どんくらい遅れそうだ?』
『三十分くらい遅れそうです。忙しい中時間合わせてもらったのにすみません』
『気にすんな。店には連絡しておくから、気をつけて来いよ』
そうして電話が切られた。スマホをポケットにしまい、少しでも体調が回復すように、駅のホームで十分すぎるくらいに冷えた空気を目一杯肺に送り込み、そして吐き出し続けた。
次に来た電車はさっきのよりも人は少なかったがそれでも席には座れなかった。二駅分の時間、およそ十五分くらいの時間をつり革につかまってやり過ごし、駅について電車を降りた瞬間に解放感に包まれながら外の空気をゆっくりと吸った。
改札を出ると待ち合わせなので当たり前だがそこには先生がいた。駆け寄ると先生は僕に気づいたようで片手をあげてきた。
「すみません、遅刻しちゃって。お待たせしました」
「おう、店には連絡しといたから気にすんな」
それから先生の後に続いてあらかじめ予約を入れてもらっていた店へと向かった。無性にタバコが吸いたくなったが、遅刻してきた分際で堂々と路上喫煙をするわけにもいかず、我慢した。
店に着くと個室に案内され、とりあえず二人ともビールを頼んだ。注文をしてすぐに酒は運ばれてきて乾杯してから一口ずつ飲んだ。
「久しぶりだなあ、四年ぶりか?」
「はい、高校卒業して以来なのでそうなります」
「どうだ? 元気にしてたか?」
困った問いだ。元気にしてた以外の回答は許されていないようなものじゃないか。
「ええ、それはもうとても。萩原(はぎわら)先生は? お仕事どうですか?」
「ああ、前より大分やりやすくなったよ。徳野(とくの)さんが転勤でいなくなったからな」
徳野、僕に地獄をプレゼントしてくれたそれはもう素敵な悪魔のことだ。
「それはよかったですね。あの人がいないだけで生徒の自由と目標の達成が確立されたようなものですしね。先生方としても衝突が減ってやりやすいでしょう」
僕は今のその生徒たちのことを羨ましく思う。あいつがいない環境のことを。夢や目標を壊されることのないことを。『絶望』の二文字を味わわなくて済むことを。そして、それと同時に同情する。あいつの転勤先の生徒に対して。
それからは萩原先生が引き継いで受けもっている部活の話をされた。僕がいた部活。だが、僕がいた頃とは大きく違うもの。僕はその話を全て適当に相槌を打って軽く聞き流した。まともに話を聞いていたら嫉妬で頭が狂いそうになるからだ。そうして一時間ほどの楽しくない会話が終わった頃、話題は僕のことに移った。
「そういえばお前、今年で大学卒業だろ? 就職先とか決まったのか?」
僕はここで上手く嘘をつくべきだったのだろう。だけど、僕にはそれができなかった。長々と自慢話のようにされた部活の話の腹いせか、それともまだ目の前の裏切り者への期待が捨てきれていないのか、定かではないが僕には嘘をつくことができなかった。
「決まってません」
「それ本当か? お前大学卒業したらどうすんだ?」
「大学は二年前に辞めました。だから、卒業もしません」
先生は、え? と驚いたような反応をした。当たり前の反応だ。
「辞めたんですよ。そこから二年近くフリーターして、三か月前にそれも辞めました。なので今は無職のニートです。どうです? 面白いでしょう?」
「なんで大学辞めたんだ? それに今無職って、この先どうするつもりだ?」
僕にはその問いに対する模範解答が半分だけ用意されている。そしてもう半分はまだ確定していない未来の話になる。確定する可能性が色濃い未来の話。だが、未来の話はここでは必要ない。だから、僕は模範解答だけを返す。
「うつ病になったんです。それで大学に通い続けるのが厳しくなったんですよ。どっかの馬鹿のせいで僕のメンタルは鍛えられてたはずなんですけどね。気づいたら夢も希望ももてなくなってこのざまです」
先生は深刻そうな顔をした。おいおい、やめてくれよ。その馬鹿の中にはあんたも入っているんだから。そんな顔されたら責められないじゃないか。
「この先はどうするんだ? 復学するのか? それとも就職か?」
僕は首を横に振った。どちらも、今の僕の中では選択肢にない。
「このまましばらくは適当に生きようと思ってます。その先は、まあ、よくてまたフリーターですかね。もう学校という機関に関わりたくもないですし、学歴もスキルもないので就職も目指してません」
「それはもったいないだろ。お前ほどの奴がよくてフリーターなんて」
言っていることの意味はわかる。僕の通っていた大学は国立の中でも頭のいい方の大学だった。卒業するだけでネームバリューを得られるような大学だったのだ。だが、僕はそこの大学を卒業することは叶わない。現実にあるのはただのうつ病もちの高卒だ。
「いいんですよ、これで。もう諦めることにも惨めに生きることにも慣れてますから」
一気に会話の空気が重たくなった中で先生は悲しそうな顔をしていた。そして真剣に先の短い僕の将来について考えているようだった。
「徳野さんが僕に落とした影は深くて暗すぎるんですよ。再起できて大学に入れたのが奇跡なんです。普通なら平岡(ひらおか)先輩や橋本(はしもと)先輩みたいになる。時間はかかりましたけど僕も先輩たちと同じになっただけです」
先生は眉間にしわを寄せた。こうして当事者だった僕の言葉に加えて、僕が尊敬していた先輩たちの成れの果てを知っているからなおさらだろう。
「それでも俺はお前に諦めてほしいとは思わないな」
よく言われてきた言葉だ。そしてそれは呪いのように僕を蝕み続けた。守る気も、救う気もないその無責任な言葉のおかげで、どれだけ僕が傷ついてきたか、隣でそれを見てきたあなたは同じ言葉を僕に掛ける。
「無責任ですね。もうどうしようもないんですよ。それくらいわかるでしょう?」
その問いに対して先生は黙り込んでしまった。僕はもう止めどころがわからなかった。
「覚えてますか? 僕があの馬鹿を殴ったときのこと」
「ああ、忘れるわけがない。あのときのお前は確実に間違いを犯した」
「何が間違いなんですか? どう考えても正解でしょう? ただの報復ですよ? それなのにあなたは、あなたたちは、目に見えるちっぽけな傷一つを過大評価して僕一人を責め立てた」
「それでもあの選択だけは取っちゃいけなかったと俺は今でも思う」
笑える話だ。結局あんたもそっち側だ。
「そんなに目に見える傷が大事ですか? 目に見えるわかりやすい怪我が大事ですか? 見せてあげますよ。僕の心の傷を。あなたたちに今までつけられてきた決して癒えることのない深い傷を。目に見える形で見せてあげますよ。これでもまだあのちっぽけな傷一つを過大評価するんですか?」
そう言って僕は着ていた服の袖を勢いよく捲って見せた。それを見た先生の表情は驚きと悲しみが入り混じり、かすかに恐怖心を抱いているようにも見えた。
「お前、それ、どうして……」
「醜いでしょう? 汚いでしょう? 僕はこうすることでしか僕を守れなかった。頭がおかしくなりそうなくらい繰り返されたあの地獄の果てがこれです」
「それだけは、してほしくなかった」
綺麗事だ。もうそろそろ、この人との時間も終わりでいいだろう。僕は財布からいくらか千円札を出してテーブルに置いて立ち上がった。
「あなたは僕の力になってはくれた。でもどうして、一度たりとも僕のことを守ってくれなかったんですか? 何度も、何度も、何度も、あなたに助けを求めたのに。あなたは一度も僕のことを守ろうとはしてくれなかった。力になってくれたところで守られなかった心は壊れて、気づいたら再起不能になってました。今日はありがとうございました。さようなら」
先生が後ろから何かを言っていたが、すべて無視して僕は店を出た。もうあの人と会うことはないだろう。
店を出た瞬間にタバコに火をつけようとしたが、風が強い上に雪がかなり降っていてライターの火はつかなかった。雪に視界を奪われ、強風に煽られながら駅まで歩き続けた。
「さようなら。たった一人の大事な裏切り者」
一人呟く震えた声は雪に溶けて消えていった。風と降る雪は僕の涙を攫っていった。
帰りの電車に乗るまでの間にはどうにか僕の昂った精神は落ち着きを取り戻していた。電車に乗り、端の席に座ると、目を閉じて意識を僕の過去の記憶に飛ばした。
『何が間違いだった? 僕が何か悪いことをしたのか? なあ、誰か教えてくれよ。僕の何がいけなかった? ただ強くなりたいと願っただけじゃないか。ただ変わりたいと願っただけじゃないか。それの何がいけなかった? 何がお前らをそこまで苛立たせた? どうして僕は邪魔され続けなければならなかった? 教えてくれよ。僕が納得できるくらいの理由を』
それらの問いに答えなどなかった。僕が納得できるほどの理由なんて存在しなかった。ただ一つだけわかることがある。僕は被害者ではなかった。何も間違えていない。何も悪いことをしていない。だけど虐げられ続けてきた。それでも僕は被害者ではなかった。
僕は異分子だった。異質物だった。僕がいたせいで周りの人間たちにまで害が及んだ。僕は加害者だった。
徳野の悪意を引き出し、際立たせ、輝かせてしまったのは紛れもなく僕のせいだった。もしかしたら僕がいなければあの地獄は始まらなかったのかもしれない。いや、この言い方は違う。あの地獄が悪化することはなかったのかもしれない。こっちの方が正しいだろう。
夢が決して叶わないものになる瞬間の感覚、壊れる瞬間の感覚、その壊れた残骸に縋るしかなかったこと、すべて鮮明に思い出せる。思い出すというのも違うかもしれない。その感覚は一生消えることなく僕の後を付いて回る。
ひどいものだった。何をするにも過去の失敗した自分が足を引っ張るのだ。『お前は必ず失敗する』『お前じゃ無理だ』身体の内側から聞こえ続ける声は止まることを知らず、僕の思考をかき乱し、壊していく。
僕はずっと否定するための努力をしてきた。僕の世界に蔓延っていた悪意を否定するための努力。僕自身に植え付けられた無能感を否定するための努力。だが、そんな空しいことをしても得られるものなど何一つとしてなかった。
気づいたら失っていた反骨心は僕の胸に深く抉るように突き刺さっていた。その瞬間から僕は本当の意味で何もできなくなった。
肉体的な暴力でできる怪我や傷はある程度の限度はあるが時間が経てば癒えていく。だが精神的な暴力による怪我や傷は、心を抉るような痛みは、どれだけ時間が経っても癒えることはなかった。
結果として僕に落とされた深く暗く黒い影は、僕の中にあった僅かな希望すらも吸い尽くし、その裏に隠れていた大きすぎる絶望をもたらした。
僕には叶えたい夢があった。誰かの側で支えになれるような人になりたいという夢が、僕にはあった。でもそれは叶わないものに姿を変えた。気づけば僕には他人の幸せを願えるだけの余裕はなくなり、他人の不幸しか望めなくなった。僕にはその夢をもつ資格がなくなった。
その事実に僕は耐えられなかった。その結果、僕は自傷行為に走った。心の傷を目に見える形にするためなどという陳腐な理由ではない。もっと別の理由で。
僕はすべてが憎かった。僕の知っている狭い世界のことも、僕に地獄を味わわせた奴等のことも、だけど何より一番憎かったのは僕自身だった。僕は僕が大嫌いだった。無能で惨めで生きている価値などどこにもない僕自身が。だから僕は自分を傷つけ続けた。絶望の奥にあった憎しみが顔を出す度に僕は深く、太く、自分の身体に線を増やし続けた。
次第に痛みは快楽へと姿を変えた。腕や太腿を切ったときに走る痛みは、僕に一時的に人間に戻ることを許し、傷口から流れ出ていく血は優しくあたたかく僕の身体を伝うのだった。僕が感じられる温もりはそれだけだった。
やっていることとしては、小さな子供が蟻を踏み潰して殺しているような感覚に近いのだろう。僕は僕という弱い自我を殺すために自分の身体を傷つけ、そこから無邪気に快楽を得ていた。
どこまでいっても、僕を守るものは存在しなかった。
電車のアナウンスが僕の最寄り駅の名前を告げたことで意識が過去から戻ってきた。最悪で最低の気分だったが、今なら言葉が溢れていることも確かだった。僕はいち早く家に帰り、この言葉達を紡ぐ必要がある。
電車を降り、改札を抜けると、風は止んでおり、雪がゆっくりと降り続けていた。僕はその中でタバコに火をつけ、雪の匂いと共にその煙を吸い込みながら足早に家へと向かった。
家に着くと頭と肩に積もった雪を振り払い、少し濡れた髪の毛をかきあげながら玄関の扉を開いた。そのままデスクの前に座り、パソコンの電源を入れて体感では二十分、実際には五時間ほどの時間言葉を紡ぎ続け、ワードファイルで十五ページほどの続きが書けた。そして、もうそろそろこの暗い物語にも終わりが見えてきていた。
続きを書き終えると僕はそのままの勢いで水上にファイルを送った。
『続きかけたから、先に送っておく。明日夕方くらいにカフェいくから時間が合えば会おう』
それだけ送ると、部屋の暖房をつけ、冷えた空気が温まるのを待ちながらウイスキーを飲み、タバコを吸った。
部屋が暖まり、酔いも程よく回ってきた頃に水上からの返信があった。
『ありがとう。明日の夕方に行くね』
それを見てからスマホをベッドの上に投げ捨て、いつもより熱いシャワーを浴びて意識を失うようにして眠りについた。
外から聞こえてくる風の音で目を覚ました。確認するまでもなく吹雪だろう。それにしても自分がその微かに聞こえてくる音で目覚めるとは意外だった。
寝ぼけた頭でパソコンを開き、昨日の進捗を確認する。うん、大丈夫そうだ。そこからノートを開いて、終わりに向けて構成を見返していく。これが終わったとき、それは僕の終わりでもある。
記憶の整理としてはやりすぎかもしれないが、よくこの方法を思いついたものだ。
「そろそろ、タイトルも考えないとな」
僕の書く物語にはまだタイトルがなかった。着ける必要がなかったというのもあるが、何も思い浮かばなかったのだ。
そこからは夕方になるまでひたすらタイトルについて考えていた。タバコを吸い、雪が舞う外を窓から眺め、ひたすらにぼうっとしながら。けれど、何も思いつかなかった。
約束の時間が近づいてくると、シャワーを浴びて着替え、髪の毛を縛ってから部屋の中でタバコに火をつけて家を出た。
吹雪の中でタバコを吸うのは不思議な感じだ。冷たい空気と凍えるような強い風でタバコを持つ手は一瞬にして動きが鈍くなり、視界を奪う雪はタバコの火種を消そうとしているかのように映った。
まだ半分しか吸っていなかったが、一際強い風に煽られたときに動きが鈍くなった指からタバコが攫われ、どこかに飛んでいってしまった。新しいものに火をつけたくなったが、この天気と、かじかんで動かなくなってきている手ではそれは不可能だった。
僕はポケットに手を突っ込んで、雪と共に深く息を吸いながらカフェまでの道を歩いていた。
カフェの中はあたたかかった。十分すぎるくらいに効いている暖房はじんわりと汗をかくほどだった。水上はもう来ており、その向かいの席に座ると顔をあげた。そして笑っていた。
「ふふ、前髪ぐちゃぐちゃになってる。外風強かったもんね」
「ああ、おかげでタバコが吸えなくて残念だったよ」
そう言いながら前髪を整え、店員にコーヒーを頼むと僕はパソコンを取り出した。
「今日は作業するんだね。それじゃあ早速読ませてもらうね。昨日の夜からずっと楽しみで眠れなかったんだから」
「ああ、タイトルを決めようと思ってね。そんなに楽しみにされるようなものじゃないとだけ言っておくよ」
コーヒーが運ばれてくると互いに無言になり、それぞれのしたいことをして過ごした。一時間ほどの時間だったが、やはりいいタイトルが思いつかなかった。
「読み終わったよ。また少し、君について知れた気がして私は嬉しいよ。それにしてもこの裏切り者って言ってる先生って実際にモデルいるの?」
「いるよ。というか、僕は想像力がないから僕の身に起こったことしか書けない」
「ということは君はこの裏切り者に会いに行ったわけだ。そしてそれは君にとってとても大きなことだった。違う?」
大きなことか、違うと言えば違うが、合っていると言えば合っている。萩原先生との再会は僕にとっては複雑なものだった。
「どうなんだろうね。正直自分でもよくわかっていない。失望したのも確かだし、期待していたのも確かだ。楽しく過ごしたかったのも確かだし、怒りをぶつけたかったのも確かだ」
「難しいことを言うんだね。でもそれは大きいことだよ。君の感情が、心がそれだけ動いているんだもん。それが大きなことじゃないわけがない」
「そういうものなのか、よくわかんないな」
彼女はそうだと首を大きく縦に振った。だが、突き付けられる理不尽と絶望に対して書けたことは確かに大きなことなのかもしれない。
「ねえ、絶望の先にあるものが希望ってどういう意味?」
「それは僕のただの願望だよ。そうあってほしかったっていう願望。実際はそんなことなかったんだけどね」
自分を嘲るように笑った僕のことを彼女は不思議そうに見ていた。
「今の君、いつも以上に悲しそう」
やはり彼女は変わっている。僕のどこを見て悲しそうだなどと思ったのだろうか。彼女は僕について知っていくが、僕は彼女について何も知らない。
「君の目にはいったい何が見えているんだ?」
純粋な疑問だった。そして今まではそれに触れることを恐れていたが、今となっては好奇心が勝ってしまい、それに触れようとしている。
「逆に、何が見えていると思う?」
その返し方は卑怯だ。わかるわけがない。今までまともな人間関係というものを築いてこれなかった僕にその問いは難しすぎる。
頭を抱えて真剣に悩んでいる僕のことを彼女は微笑みながら見ていた。
「まあ、いつかわかる日が来るよ。それより私、もうお酒が飲みたいんだけど、君はどう?」
「そのいつかが早く来ることを願うよ。丁度いいタイミングだし、そろそろ移動しようか」
そう言うと立ち上がり、会計を済ませてカフェを出た。
外は相変わらずの吹雪で、二人並んでがちがちと歯を鳴らしながら縮こまり、震えながら歩いた。
「私、吹雪って好きなんだよね」
彼女が突然口にした。
「どうして?」
「吹雪って冬の良いところを全部取ってるような感じがするの。空気の寒さに雪の冷たさ、それを引き立てるような強い風。私、そういう季節を色濃く感じられる瞬間が好きなんだ」
「わかる気がする」
それだけ返し、そこからはまた互いに無言だった。思えば寒さを分かち合うような相手すら、今までの僕にはいなかった。今のこの事実はどこか僕の胸の内側を温めるような気さえした。
いつもの居酒屋に着く頃には僕たちの着ていたコートは雪で真っ白になり、頭には大量の雪が積もっていた。彼女は濡れた前髪をどうにか整えながら溜息をついていた。
「こんなに濡れるなら帽子被ってくるんだったなあ。失敗した」
「そんな日もあるよ」
それもそっかと彼女は微笑んだ。テーブル席に座り、ハイボールとビールを頼むと、他に客がいなかったため、すぐに酒は運ばれてきた。
お互いタバコに火をつけてから乾杯し、一口飲んだ。
「そうだ、タイトル、決まった?」
「いや、何も思いつかなかった。なんかいいのないかな?」
「そういうのは自分で見つけないと意味がないよ。だから私を頼らないで」
それもそうだと笑い、酒に口をつける。
「いっそのことタイトルなんていらないのかもしれない」
彼女はそれは違うとでも言いたげに首を大きく横に振った。
「タイトルをつけることは、作者がその物語にあげられる最大の愛なんだよ。だからちゃんと考えてあげて」
「それならなおさらタイトルはいらないだろう? あんなものに向ける愛なんてものは僕の中にはないよ」
「そんなこと言わないで。一番君があの物語を愛してあげないと駄目」
不思議なことを言うものだ。さすが読書家の言うことは違うな。
「まあ、考えておくよ」
「絶対だよ? お姉さんとの約束ね?」
幼い子供の様な扱いだなと思い、僕は思わず吹き出してしまった。
「ああ、約束するよ。それよりお姉さんに聞きたいんだけど、お姉さんにとっての絶望ってどんなもの? その奥には何がある?」
「急に話題変わるね。そうだなあ、少し重たくなってもいい?」
僕はもちろんだと頷いた。
「私にとっての絶望は、大事な人が死んじゃうことかな。その奥には何もない。ただただ真っ暗で何も見えなくなるの。私ね、高校の頃親友が自殺してるんだ。でも、私は何もしてあげられなかった。私にとっての絶望はそういうこと」
想像の三倍以上重たい話を彼女はこともなげにさらりと言ってみせた。そして、不謹慎だが僕と似た痛みを知っていることにどこか親近感がわいた。
「ねえ、私も聞きたいことあるんだけど聞いてもいいよね? 君は君にとっての大事な裏切り者に会ってきたんでしょ? どうだった? そこで何を感じたの? 物語からわかることもあるけど、君の言葉で直接聞きたいな」
僕も大概だが、彼女も中々に意地悪だ。わかっているであろうことを聞いてくるとは。
「一番大きかったのはやっぱり失望感かな。僕はまだどこかあの人に期待していたらしい。僕の味方になってくれるってね。でもそんなことはなかった。所詮当事者じゃなかったあの人からしたら、僕が抱えていたものなんて大したものじゃなかったのさ。正直、会ったことは失敗だったと思ってるよ。あの人との再会が僕の中の絶望をより深く輝かせたんだ」
「君はその人に救ってほしかったの?」
僕は首を横に振った。
「それは違う。救ってほしかったのは過去の僕だ。今の僕じゃない。僕はただわかってほしかった。僕という人間を、取ってきた選択を、そのときの痛みを。だけど、あの人はそれについてわかってくれることはなかった」
「そうなんだ。だから、君は今日いつもより悲しそうに見えたんだね。いろんな感情が揺れ動いてるように見えたんだ」
意味がわからなかった。悲しくもないし、そんな複雑な感情など抱いていない。
「どういう意味?」
「そのまんまの意味だよ。今日の君はわかりやすいほど感情がはっきりと見える」
「やっぱりわかんないな。君にはいったい何が見えているんだ?」
彼女は少し考えるように黙り込んだ。それは、これから何について話そうか考えているように見えた。彼女はタバコに火をつけ、意を決したように口を開いた。
「今から私の言うことは多分信じられないことだと思う。それでも話を聞いてくれるって言うんだったら話してもいいかな」
当然だ。興味しかないのだから。いつか来ると言われた日が、まさかその日に来るなんて思ってもなかったが。
「ああ、どんな話であれ信じると約束するよ。だから、聞かせてほしい」
彼女はわかったと頷いた。
「私ね、人の心が見えるの」
思わず、は? と声が出てしまった。彼女はいったい何を言っているんだ?
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